第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その4-受け継がれていく回復への意志 最初のダルクができてから22年。その間にダルクは全国各地に広がり、現在では全国に50のダルクが開設された。そのすべてのスタッフは元入寮者。ここにダルクならではの強みがある。[2007/7/30] vol.92
第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その3-民間初の薬物依存者のための回復施設・ダルク誕生 薬物依存者の回復施設の開設に対する強い反対に行き詰っていた近藤氏だったが、力を貸してくれたのは当初反対していたロイ神父だった。近藤氏は、ロイ神父に強引にお金を借りて、1985年7月、日暮里に1軒屋を借りた。ここに民間初の薬物依存者リハビリセンター・「ダルク」の第1号が誕生した。[2007/7/23] vol.91
第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その2-今日一日のためだけに 39歳のときに覚せい剤取締法違反で逮捕された近藤氏は、執行猶予付きの判決を言い渡された。出所後は妻、子供、親と離れ、月3万円のアパートでの一人暮らしを余儀なくされる。この先どうやって生きていこうか──。途方に暮れていたが、幸運にも回復への道に一筋の光明が差し込んだ。[2007/7/16] vol.90
第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その1-薬物依存者が回復支援者になるまで 現在、日本の薬物乱用者200万人以上。その数は、増加の一途をたどっており、若者を中心に広まり続けている。そんな薬物依存者と一緒に回復への道を歩き続けているのが、「日本ダルク」代表の近藤恒夫66歳。自身も元覚せい剤依存者でもある近藤氏に、仕事の意義を聞いた。[2007/7/9] vol.89
第23回 東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その4-今後も自分の味を守り続ける ラーメンの世界に入って五十数年。まともに歩けなくなっても、最愛の妻を失っても、なおかつ前に進み続けた山岸氏。60を過ぎるころには、足だけではなく体中がボロボロになっていたが、その後も70まで厨房に立ち続けた。そこまで山岸氏を駆り立てたものは何だったのか?[2007/7/2] vol.88
第23回 東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その3-最愛の妻の死 絶望と孤独に耐えたつらい日々 足の手術以降も妻のサポートや客の協力もあり、店は常に客で賑わった。しかし退院から12年後、さらなる悲劇が山岸氏を襲う。共に人生を懸けて店の暖簾を守り続けてきた最愛の人の死。今度ばかりは絶望のどん底に叩き落されたが、それでも山岸氏の心は完全に折れることはなかった。[2007/6/25] vol.87
第23回 東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その2-27歳で独立、初の行列店に つけ麺の元祖、新メニューのもりそばもヒットし、山岸氏が店長を務める大勝軒・中野店は繁盛した。そしてついに店長になって7年目の昭和36年、27歳で独立、店を東池袋に出す。前年に結婚した妻と山岸氏の妹の3人、身内だけでスタートした。それが伝説のラーメン屋・東池袋大勝軒の始まりだった。[2007/6/18] vol.86
第23回 東池袋大勝軒・初代店主 山岸一雄-その1-戦争の終結で消えた最初の夢 2007年3月20日、東池袋の一角に400~500人もの列。それは一軒の小さなラーメン屋、東池袋大勝軒からはじまっていた。この日は大勝軒の最後の日だった。46年の長きに渡り、大勢の人々に愛され続けた東池袋大勝軒のマスターであり、「ラーメンの神様」と呼ばれた男・山岸一雄氏に話を聞いた。[2007/6/11] vol.85
第22回 義肢装具士 臼井ニ美男-その5-ただ義足を待ってる人との約束を果たすために 25年で1000人以上に義足を作ってきた。一人ひとりと正面から向き合い、ベストな義足ができるまでとことん付き合ってきた。ときには人生まで背負い込むこともある。臼井氏の携帯電話が鳴り止むことはない。なぜそこまで患者と深く関わるのか、臼井氏にとっての義足を作るということとは、そして誰のために、何のために働くのか。[2007/6/4] vol.84
第22回 義肢装具士 臼井ニ美男-その4-理想とするは「血が通う義足」 義足でもう一度走る喜びを味わわせてあげたい─。臼井氏の熱い思いで始まった「ヘルス・エンジェルス」は年を追うごとにメンバーが増え、障害者の陸上競技大会に出場するまでに成長。日本人で初めてパラリンピックに出場する選手も現れる。ある選手用に作った、臼井さんが忘れられない義足がある。[2007/5/28] vol.83
第22回 義肢装具士 臼井ニ美男-その3-足を失った人に もう一度走る喜びを 義肢職人として働き始めてちょうど10年。義足製作にまつわるひととおりの技術は習得し、たいていの人に合わせられる義足を作ることが可能となっていた。そんなとき、たまたま見ていたある雑誌の記事に衝撃を受ける。そこには逞しく走る義足のアスリートがいた。新たな道が見えてきた。[2007/5/21] vol.82
第22回 義肢装具士 臼井ニ美男-その2-自分で選んだ仕事だから 不安はあったがつらくはなかった 8年間のフリーター生活を終え、28歳にして義肢職人として新たなスタート切った臼井さん。人一倍の努力を重ねた結果、めきめきと腕を上げ、5年後には国家資格の「義肢装具士」を取得した──。今回は臼井さんが修行時代をどう過ごし、職人としてどう成長していったのかに迫った。[2007/5/14] vol.81
第22回 義肢装具士 臼井ニ美男-その1-やりたいことがわからず さまよっていた20代 事故や病気などで手足を失った人のために「手足」を作る義肢装具士。中でもひときわ異彩を放っているのが臼井二美男51歳。彼の作る義足は障害者の生活だけでなく、心、人生までも変える。あくなき探究心と優しき心で依頼者に希望を与え続ける臼井氏に、これまでの歩みと仕事の意義を聞いた。[2007/5/7] vol.80
第21回 医療コーディネーター 岩本ゆり-その4-興味を追い続けたから今がある 婦人科で勤務し始めて4年が経ったころ、東大病院に特別室緩和ケア病室(ホスピス)が新設された。岩本氏は異動希望を提出、2001年から念願のホスピスで働くようになる。しかし、やはり病院内では気持ちは満たされなかった。そんなときに知ったのが医療コーディネーターという道だった。[2007/4/30] vol.79
第21回 医療コーディネーター 岩本ゆり-その3-ひとりの患者が仕事観を変えた 岩本氏は助産師として病院に3年間勤務した後、辞職。半ば逃げるようにして海外へ飛び出す。しかし、逃げた先には何もなかった。痛感したのは「やっぱり仕事がしたい」。帰国後は気持ちがブレることはなかった。[2007/4/23] vol.78
第21回 医療コーディネーター 岩本ゆり-その2-死への興味から、看護の道へ 医療コーディネーターとして、患者の意志を尊重し、自己決定をサポートしている岩本氏。彼女を頼ってくるのは、末期がんの患者がほとんど。中には最期まで付き合う場合もある。以前の岩本氏は病院に勤めるいち看護師だった。サポートした忘れられない患者のこと、そして看護師を目指した理由に迫った。[2007/4/16] vol.77
第21回 医療コーディネーター 岩本ゆり-その1-患者と社会をつなぐ仕事に 苦悩する患者のため、日々奔走している人がいる。医療コーディネーター・岩本ゆり。病院から見放された患者をサポートするのが彼女の仕事だ。患者と社会をつなぐNPO法人「楽患ねっと」の副理事長も務めている。いち看護師からなぜ現在のような道を選択したのか。その理由と仕事の意義を聞いた。[2007/4/9] vol.76
第20回 コオプコーディネーター 小島貴子-その四-頼ってくれる人を裏切りたくない 現在は大学の教員とキャリアカウンセラーのふたつの顔をもつ小島氏。全く違う立場で社会のため、個人のために仕事に取り組む毎日。最終回の今回は、小島氏にとって仕事とは、働くということはどういう事かを聞いた。[2007/4/2] vol.75
第20回 コオプコーディネーター 小島貴子-その三-キャリアカウンセリングの本質は「自分でOKを出せる人生」の支援 「外」=「世間」を認めさせることで「中」=「埼玉県庁」で新しい動きをはじめることに成功した小島氏。いよいよ県の中にキャリアカウンセリングという新しい方法論を取り入れ、自身もキャリアカウンセラーとして新たな一歩を踏み出した。しかしその道は平坦なものではなかった。これからが本当の戦いだった。[2007/3/26] vol.74
第20回 コオプコーディネーター 小島貴子-その二-銀行員時代につかんだセオリーで新しいキャリアの扉を開いた 小島氏は14年の間に、埼玉県庁の職業訓練指導員、そしてキャリアカウンセラーとして驚異的な実績を残した。しかし、埼玉県に就職する前の小島氏はごく普通の主婦、さらにその前は銀行員だった──。今回はキャリアカウンセラーに至るまで、何を思い、どう行動してきたのかを語っていただいた。[2007/3/19] vol.73