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第10回
小島貴子氏インタビュー(その2/全4回

小島貴子氏

普通の主婦からCC
銀行員時代につかんだセオリーで
新しいキャリアの扉を開いた

立教大学大学院ビジネスデザイン研究科・准教授/コオプ教育・コーディネーター/キャリアカウンセラー
小島 貴子

小島氏は14年の間に、埼玉県庁の職業訓練指導員、そしてキャリアカウンセラーとして驚異的な実績を残した。しかし、埼玉県に就職する前の小島氏はごく普通の主婦、さらにその前は銀行員だった──。今回はキャリアカウンセラーに至るまで、何を思い、どう行動してきたのかを語っていただいた。

こじま・たかこ

1958年、福岡県生まれ、48歳。立教大学大学院ビジネスデザイン研究科・准教授/コオプ教育・コーディネーター/キャリアカウンセラー。高校卒業後、三菱銀行(当時)に入行。7年間、窓口業務、社員教育などを担当した後、出産のため退社。7年間の専業主婦生活の後、32歳で職業訓練指導員として埼玉県庁に入庁。以後、県庁の中に初めてキャリアカウンセリングを取り入れたり、中高年を1000人以上再就職に導くなど、14年間で数多くの老若男女のキャリア支援において驚異的な実績を残す。2005年3月埼玉県庁退職。同年5月から大学と社会をつなぐコオプ・コーディネーターとして立教大学に着任。2007年4月からは立教大学大学院ビジネスデザイン研究科の教員として教鞭を執る予定。平行して人材育成プログラム開発・企業の定着支援から就職・セミナー講師や、キャリアカウンセラーとしても活躍中。『働く女の転機予報』、『我が子をニートから救う本』、『もう一度働く!55歳からの就職読本』など著書多数。

■主な実績
02年 緊急地域雇用創出交付金事業として、就職アドバイザー雇用と職業訓練生への就職支援プログラムを企画・運営
03年 「彩の国キャリア塾」として多方面のキャリアデザインの研究および講座の企画のほか、キャリアカウンセラーの養成に携わる
03年 日経ウーマン・オブ・ザ・イヤーキャリアクリエイト部門を受賞
05年 6月〜、厚生労働省「若者の人間力を高める国民運動」実行委員
05年 6月 埼玉県「ニート対策評議」委員
06年 11月〜、東京都「青少年問題協議会」委員・秩父市政策アドバイザー

適性検査どおりの職業遍歴

銀行員から職業訓指導員と、私のこれまでの職業選択って何の脈絡もないように見えますが、実はすごくオーソドックスなんです。ハローワークには職業興味検査っていうのがあるんですよ。私もやってみたことがあるんですが、向いている職業は、銀行員、職業訓練指導員、公務員って出たんですよ。

それって、私のこれまでの職業遍歴にピッタリ一致するんです。適性検査どおりの幸せな人間だとよく言われるんですけどね(笑)。でもそれは、後づけかもしれませんね。銀行員になったときは銀行員は好きじゃなかったし、その後の公務員もなりたいわけではなかった。自分でなりたくてなったのは現在の大学の教員だけで、銀行員や公務員はそのときの環境とか状況で選んだんですね。それぞれの職業で、自分が能力的なものや興味を獲得したかなんですよ。その獲得した能力とか興味とかを自分の価値観に合わせて、50歳を目前に大学の教員というものに出会った。そういうふうに、自分で納得してますね。

夢も希望もなかった子供時代

子供のころはけっこう家庭環境が複雑だったので、将来の夢も希望もなかったですね。今でも覚えているのは、小学校の5年生のときに、「21世紀の私」っていう作文を書かされたんですが、もう絶望的な気持ちになって、「21世紀の私なんて、きっとろくでもないだろう」というようなことを書いて、先生に呼ばれたことがあるんです。21世紀のカウントダウンの年越しで、家族で年越し蕎麦を食べてたときに、そのことをばーっと思い出したんですよ。小学5年生のときに考えてた21世紀の私よりも、けっこうまともな大人になれてよかったなと思いましたね(笑)。

小学生時代は変わった子供でしたね。協調性がなかった。周りに対する理解力がなかったんだと思います。あと、家庭環境が複雑だったので、学校に行かなかった日が多かったんです。すると、勉強だけじゃなくて、クラスのみんなとの話にもついていけないんですね。そういう面で、学校があまり好きじゃなかったです(笑)。

中学、高校では仲のよい友達もできてそれなりに楽しかったんですが、将来なりたい職業なんて全く考えてなかったですね。だから高校を出てから大学に行かずに銀行に就職しました。中途半端な成績で大学への推薦ももらえないし、浪人しても入れないなと思っていたので。周りの友達はみんな就職が決まっていて、中学校時代の友達はみんな大学へ行くって言ってたんです。どっちにしようかと揺れているときに、就職指導の先生に「おまえみたいなのは働いたほうがいい」って言われて、「ああ、そうかな」って(笑)。

当時、自分の好きな職業で生活していきたいとか、そんなこと考えている女子高校生なんて私の周りにはほとんどいなかったと思いますよ。それこそ、高校から企業っていうレールが完全にありましたからね。私の時代で四年生大学に進学した女性は全体の30%でした。私の通ってた高校では、ほとんどが高卒でも一部上場企業に就職できました。

私が高卒で入社したのは当時の三菱銀行だったんですが、三菱は私が入行した頃は支店には四大卒はもちろんいませんでした。18歳で入って、24か25歳までに結婚して退職っていうパターンが暗黙のうちにできあがってたわけですよ。だから就職っていうのは結婚するまでのつなぎっていう意識だったと思います。いい悪いという考えすらその当時の私にはなかったということです。30年も前で男女雇用機会均等法って影も形もない時代ですからね。

予定通りその「暗黙パターン」で、23歳で結婚した小島氏。その当時は結婚したら即退職という時代で、これまで行内には結婚後も仕事を続けた女子行員は数少なかった。本音を言えば、夫も大学を卒業したばかりで経済的な余裕がなく、できれば仕事を続けたかったが、支店長に辞意を伝えた。しかし支店長からは意外な答えが返ってきた。これが後の小島氏のキャリアを作る上での重要な転機となる。

「新しいことをやるときは結果を出せ」

支店長に「結婚するから辞めます」と伝えたら、「自分の部下の中で、男で結婚退職した者はいないんだけど、君はどう思う?」って聞かれたんです。支店長は「これからは女子行員も結婚しても残るべきだと思う。だから、辞める理由がなければ残りなさい。でもその代わり、これから世の中で新しいことをやるときは必ず、みんなからきつい目で見られるわけだから、結果を出しなさい。結果というのはどういうことかわかるか?」って。

その時私は窓口担当でした。今の銀行はATMが主流で窓口応対は少なくなりましたが、あの時代は窓口応対が多かったんです。その窓口の結果というのは、単純に言えば預金を獲得することだと勝手に解釈しました。

ですから支店長に「ある程度の数字を出して、周りから、あの人は結婚しても残れるんだと言われるように頑張ります」って宣言しました。

他人と同じことをやってちゃダメ

具体的にどうしたかというと、単純に言えば、お客様というのはその他大勢では嫌なんですよ。特別扱いしてもらえるとすごく喜ぶ。だから、お客様の名前とニーズを絶対覚えるというのと、お客様が何を求めているかというのを必死に考えて実践しました。

窓口にお客様が求めていることはすごくシンプルなんですよ。忙しい時に、「速く・正確に・愛想よく」、なんですよ。この3つを順番に徹底的にやって、自分の窓口を際立たせるわけです。速く正確にするために、暇なときに一生懸命、札束勘定の練習をしてました。同じ8時間ならば、ただ座ってるだけじゃなくて、楽しもうという気持ちもありましたね。

でも、これくらいなら他の行員もやります。さらに私は給料日の前くらいに若い奥さんがくると、そっとタオルとかサランラップをあげたりしました。でも上司に怒られました。昔は配布に規制がありましたから、そんなにお客様にバンバンものをあげちゃいけなかったんです。でもバンバンあげたんですよ(笑)。

もらった方も困るわけね、何も特別なことをしてないから。でも、いいからいいから、給料日前だから、どうぞ持っていって下さいって。そうするとやっぱりうれしいわけで、給料日前に何かもらうっていうのはね。そしたら、ボーナスシーズンのときに、ちょっとだけどうちの旦那がもらってきたからって、黙ってても向こうから私の窓口に定期預金用にとやって来てくれてたんです。やっぱり他の行員と同じことをやってちゃダメなんですよ。

そんなことをやってたら、私の取り扱う預金額が増え始め、最終的にはトップになりました。それもちょっとの差ではなくて、ダントツの結果でした。やっぱり新しいことを認めさせるための結果はダントツじゃなきゃダメだったんですね。

この経験を通してつかんだのは、「中で認められるためには、まず外で認められなきゃダメ」ってことです。お客さんからの「この子が感じいいからお金を預ける」っていう評価があって、初めて社内の評価が出たんです。この経験は後々まで生きましたね。

ダントツの結果を出した小島氏は、社内評価を得、結婚後も妊娠6カ月まで銀行に残って仕事を続けた。退職後は出産、子育て、家事と専業主婦としての生活を送った。しかし、退職から7年後、32歳のとき、再び社会で働くことを決意。動機は意外にも自分のためではなかった。

家族のために教員を目指した

専業主婦からもう一度働こうと思ったのは、生活のためですよ。30前くらい、下の子が生まれるころに、夫が、「あと10年もしたら両親が定年を迎えるから、自分一人で6人を養わなければならない。20年後には、私の両親も含め、4人の親を介護しなければならない状態が来るよね。おまえもそろそろ働く準備をした方がいいんじゃない?」って言われて。

でもまだそのときは子供が小さいし、私には学歴も経験もないのに、働くところなんてないよって言ったら、「じゃあ、昔から大学へ行きたいって言ってたんだから大学に行けば?」って。

そこで私が考えたのは、どうせ働くんだったら、どこへ行ってもちゃんと働ける仕事がいいなってこと。そのときの浅い知識では、女性が日本で自立してずっと働ける仕事って、3つしかないと思ったんですよ。教員と美容師と看護師。国家資格の免許を一枚持っていれば日本中どこにいっても仕事ができるだろうって。どうせ働くんだったら、この3つの資格の内のどれかを取ろうと思ったんですよ。

で、どれにしようか考えたんですが、美容師は手先が不器用だから無理、看護師は理数系ができないからダメだなと思って。じゃあ大学へ4年間通って教員の免許を取って、中学、高校の産休代替教員みたいになろうかなって。そこにフォーカスしたんですよ。

選択肢を広げたのが奏功

でも大学に行く道だけを考えるんじゃなくて、ちょっと就職活動もしてみようかと思いました。銀行では窓口の後、新人教育も担当してたし、いきなり公立の高校、中学の教員は難しいだろうから、専門学校でもいいかなと思って。自分のやりたいことをちょっと広げたんですよ。

それでいくつか専門学校のビジネススクールの採用試験を受けたら、合格したんです。そのとき専門学校の職員から、職業訓練指導員の免許を取ったら時給を上げるって言われたので、埼玉県庁へ電話して、職業訓練指導員って免許を取りたいんですけどって問い合わせたんです。その時たまたま埼玉県も何年かぶりに採用試験をやるから、職業訓練指導員の資格を取れたら県庁の採用試験も受けてみませんかって言われたんです。

その後勉強して職業訓練指導員の資格が取れたので、埼玉県庁も受けてみようと公務員試験の勉強をしたら、県庁の採用試験にも受かっちゃったんですよ。 結局大学は、県庁入庁後に行きました。仕事と家庭と学校ということになり、相当大変でしたけど、その時に色々なことが同時にやれると自信がつきました。

たぶん、進む道をひとつ、ピンポイントに絞らないで、そこから少し広げたのがよかったんだと思いますね。

32歳で職業訓練指導員として埼玉県庁に入庁した小島氏は、誰もが目を見張るような活躍をみせる。担当した若年者の7年連続就職率100%を達成。驚異的な数字だがしかし、小島氏にとっては「失敗」だった。

条件マッチングだけじゃダメ

最初、職業訓練校の指導員として担当したのは、年齢が決められていないクラスの担任です。それを4年やって、その後高卒の若年者のクラスを10年間担当しました。

確かに私が受け持った生徒を7年連続で全員就職させましたが、あの7年のうち4年は失敗の結果だったんです。生徒に仕事を紹介するときに勤務地や給料などの条件マッチングだけで選んだから、みんな就職ができたんですが、数名はすぐ辞めて戻ってきたんです。「先生、やっぱりあの仕事は私のやりたいことじゃない」って。

そのときに、条件が合うのに辞めるのはなぜなんだろう? 職業選択って条件だけじゃないよなと思って。じゃあみんな、どういうふうに職業選択してるのかなって、勉強しようと思っていろいろ探していた時に、アメリカに「キャリアカウンセラー」がいるって聞いたんです。それで、私もキャリアカウンセリングについて勉強しようと思ったんですね。

キャリアカウンセリングとの出会い

私が勉強し始めたときは、キャリアカウンセリングが日本に入ってきたばかりのころだったので、これはちょっと日本の現状と違うなと思ったのと同時に、その時すでに私は何年も指導員をやっていたので、先生根性丸出しだったんですよ。人に対して指示ばかりでした。キャリアカウンセリングを教えてくれた先生に、「あなたはキャリアカウンセリングに向いていない、勉強するのはいいけど向かないよ」って言われて、非常にショックを受けました。だけど逆に、そこまで向かないって言われたらちょっと悔しいというのもあって、どこが向かないのかを知るためにもっとちゃんと勉強しようと思ったんです。

今でこそ就職講座の講師やキャリアカウンセリングをやったり、キャリア関係の本を書いたりしてますが、当時一緒に勉強した仲間は、向かない私をよく知ってるので、よく、「ほんとにキャリアカウンセラーをやってるの?」みたいなことは言われますよ(笑)。

勉強していくうちにわかってきた

最初、キャリアカウンセリングにうまくなじめなかったのは、まず、日本人は価値観というものを強固に意識して育てられていないので、「あなたの価値観は?」って聞かれても、はっきり答えられない。また、職業興味に関しても、多くの人は非常に狭い範囲でしか選択できなかったので、様々な面で不都合があったと思うんですね。だからもう少し普通の人に分かりやすくやりたいなというのと、実はキャリアって自分のことなんだけど、他の人の話を聞いているうちに自分の進むべき方向性などが見えてくる場合が多い。だからグループワークをやった方がいいなとか、勉強しているうちにやり方がだんだん見えてきましたね。

キャリアカウンセリングを学んでいくうちに、社会にとって必要なものだということがわかってきた。これをなんとか自分の仕事の中でやっていきたい。しかし自分のやりたいことをやるには上司を含め、周囲の理解を得なければならない。そこで小島氏が実行したことは、銀行員時代に結果を出したあの方法だった。

戦略的に行動

キャリアカウンセリングを本気でやっていきたいけど、当時県の中にそれを実践できるポジションはなかった。だったら作ってしまおうと、上司にキャカウンセリングをやる部署を作りましょうと提案しました。でもやはり県の中で新しいポジションを理解してもらうことは非常に難しかった。

そのとき、銀行員時代に、結婚後も残るために実践したあのやり方を思い出しました。「中」で認められるためにはまず「外」、つまり県の中じゃなくて、世間的に私とキャリアカウンセリングを認めてもらおうと思ったんですね。それで上司からの勧めもあって、厚生労働省の論文のコンクールに応募しました。このコンクールで労働大臣賞を取れば何かが変わるかもしれないって頑張って書いたら、賞が取れたんです。そしたら「中」の人たちも私の声に耳を傾けてくれるようになりました。

また、その後に「社会的にキャリアカウンセリングが必要なんだよ」ということを世の中にアピールするために、『かんばる中高年実践就職塾』という本を書きました。こちらも幸い内外から評価を得ることができました。

時代のニーズも「キャリア」へいってましたし、厚生労働省もキャリアコンサルタント5万人養成施策を打ち出したので、県もキャリア支援という新しいポジションを作ることの必要性を理解し始めました。ただ、これは、私一人の力ではありませんし、県庁の中にもその時既に先進的に考えていた人もいたので、できたことでもありました。一番の協力者は上司・同僚でしたね。ただ私はやりたいことを実現させるために少々戦略的ではあったと思います。

再び、「外」=「世間」を協力者にすることで、「中」=「埼玉県庁」の理解を得た小島氏。いよいよ県の中にキャリアカウンセリングという新しい理論を取り入れ、自身もキャリアカウンセラーとして新たな一歩を踏み出した。しかしここからが本当の戦いだった──。
次回は突然小島氏の目の前に現れた大きな壁、それ乗り越えるために取った行動とは、そしてキャリアカウンセリングの「本質」に迫ります。

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