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第23回
山岸一雄氏インタビュー(その1/全4回

山岸一雄氏

戦争の終結で消えた最初の夢
中卒で上京、家族のために働く
17歳からラーメンの道へ

東池袋大勝軒・初代店主山岸 一雄

2007年3月20日、東池袋の一角には異様な光景が広がっていた。数百メートルにも及ぶ長蛇の列。並んだ人の数は徹夜組も含め400人とも500人とも言われ、さらに驚くべきことに、列は一軒の小さなラーメン屋から始まっていた。その店の名は東池袋大勝軒。店主は「つけ麺」を生み出した男、行列ができるラーメン屋の元祖など、数々の伝説をもつラーメン店である。この日は大勝軒の最後の日だった。なぜ小さなラーメン屋の閉店日に全国からこれだけの人が集まったのか。46年の長きに渡り、大勢の人々に愛され続けた東池袋大勝軒のマスターであり、「ラーメンの神様」と呼ばれた男・山岸一雄氏に話を聞いた。

やまぎし・かずお

1934年長野生まれ。東池袋大勝軒初代店主 1961年に独立して東池袋に「大勝軒」をオープン。以来、ラーメンの味と量、そして山岸氏の人柄を慕う大勢の客で常に行列の絶えない店となる。行列の元祖、「つけ麺(もりそば)」の元祖としてもつとに有名。
下肢静脈瘤、肺気腫などの病気や愛妻の死を乗り越え、40年以上店主として厨房に立ち続けた。2007年3月20日、東池袋の再開発により惜しまれながら閉店。閉店を発表後は連日全国各地から大勢の客が殺到。最終日には数百メートルの行列になるなどの賑わいを見せ、その模様は国内外の新聞、雑誌、テレビなどのメディアで報道された。大勝軒ののれんを分けた店は全国に100店以上ともいわれる。 現在は病気の療養をしつつ、近日開店予定の東池袋大勝軒の準備にも関わっている。

最初の夢は「海軍さん」

今年の3月で引退するまで55年間、ラーメンを作ってきましたが、小さいころの夢は海軍の軍人になることでした。私の親父が海軍の職業軍人でね。幼いころも父親に戦艦に乗せてもらったとき、艦長に抱っこされて喜んでたみたいなんです。覚えてないんですがね(笑)。それよりも親父が喜んじゃったみたいで。親父も私を軍人にさせたかったみたいですね。それも高等教育を受けさせて佐官級、将官級、最終的には大将という大きな夢を持ってた。自分は水兵から始めたから、私にはそんな苦労はさせたくなかったようです。  実家は長野の農村だったんですが、村から軍人になった人はあまりいなくて、小学生のころから「海軍さんの息子」って言われてました。当時、軍人は英雄だったからね。私自身もそんな親父を誇りに思ってた。だから大きくなったら親父みたいな海軍の軍人になろうと。

でも親父は昭和17日11月16日、戦争が始まって1年もたたないうちに戦死しちゃった。私が8歳のとき。運が悪かったんだね。遺体もなかったけど実家の長野の農村では村を挙げて葬式をしてくれたのを覚えてます。その3年後に戦争に負けたことで、軍人になりたいという最初の夢もなくなっちゃった。

家族を養うために上京・旋盤工に

それからは何になりたいというよりも、早く社会に出て働くことしか頭になかった。実家は、親父が死んじゃったし、母親も病弱だったから貧しかったからね。早く東京に行って働いて家族に仕送りしたいと思ってた。

それを8歳のとき、オヤジが死んだ時点で中学を出たら働いて家族を養うって心に決めてた。だから当時の自分の方が人間がしっかりしてたと思うね、今と違ってね(笑)。

それで昭和25年に中学を卒業すると同時に上京しました。最初に勤めたのは、墨田にあった印刷機の部品を削る旋盤の仕事でね。

仕事はおもしろかったよ。職人さんがたくさんいて、みんな優しく教えてくれた。モノをつくるのが楽しくて自分の腕を上げるために一生懸命やってたね。

当時の月給は3500円くらいだったんだけど、2500円くらいは実家に仕送りしてた。それが当然だと思ってたから。

毎日旋盤工場で汗にまみれながら仕事をしていたが、ある日親しい人が訪ねてくる。それは山岸氏の人生を大きく変える訪問だった。

「兄貴」からの誘いでラーメンの世界へ

東京には、私が小さいころからかわいがってくれた10歳年上の従兄弟がいてね。僕も「兄貴」と呼んで慕ってたんだけど、その兄貴は阿佐ヶ谷の「栄楽」というラーメン屋で働いてた。私もよく食べに行ってました。行くとワンタンとかをサービスしてくれてね。それがものすごくうまかった。今でも忘れられないくらいにね。  旋盤工として働き始めて1年くらい経ったある日、その兄貴が来て「近いうちに独立して自分の店を出すから手伝ってくれないか」って言われたんだよ。そりゃうれしかったね。大好きな兄貴が自分を頼ってくれてるんだと思ったらね。もちろん「うんわかった。手伝うよ」って即答したよ。  それですぐ旋盤工場の社長に「兄貴のラーメン屋を手伝いたいから辞めさせてほしい」って言った。そしたら、すごく怒られてね。

「ラーメン屋なんて若い男のやる仕事じゃねえ。おまえはエンジニアとして手に職をつけなきゃダメだ」なんてね。

それで結構悩んだんだけど、17歳くらいだとね、やっぱり飲食店って魅力なわけですよ。食べたいときに食べられるから。当時はあまりモノがない時代だったからね。エサに釣られるっていうんじゃないけどね(笑)。あと、私は幼い頃、親父が海軍の軍人だった関係で横須賀に住んでたことがあったんだけど、そのころラーメンが好きでよく食べてた。当時は「支那そば」って言ってたんだけどね。だからラーメンに馴染みというか親しみもあったんだね。

でもやっぱり一番大きかったのは、好きな兄貴に手伝ってくれって頼まれたことだよね。これは是が非でも応えなきゃならないと。兄貴も助かるし、私も兄貴と一緒に働けるからやっぱりラーメン屋に行こうと決心したわけ。

その後も社長にはずいぶん引き止められたけど、すいませんって言って、兄貴のラーメン屋に行くことにしたんです。

昭和26年4月、17歳で、その後60年近くにも及ぶ長いラーメン人生の最初の一歩を踏み出した山岸氏。好きで始めたラーメンの仕事だったが、甘い考えが吹き飛ぶほど、仕事は厳しかった。

ラーメン職人も旋盤工も同じ

工場を辞めるとき、社長から「ラーメン屋なんて若い男のやる仕事じゃねえ」って言われたけど、やってみると旋盤工もラーメン屋も同じってことが分かった。手に職って意味では結局、同じものづくりだからね。

でもラーメン屋の仕事はキツかったよ。旋盤工を辞めなきゃよかったかなと思うことがあったくらいにね。なにしろ1日が長いんだから。朝は空が明るくなったら起きなきゃならないし、夜は電車が終わるまででしょ。睡眠時間は3時間あればいい方だったよね。

朝はまず火起こしから始まるんだ。今みたいにガスじゃなくて、コークスを炊いてたからね。前の日のお客さんが使った割り箸を火種にして火を起こすんだよ。だから最初からたいへんなんだよ(笑)。

店に入った当初のメインの仕事は製麺。私は子供のころから農作業で体ががっちりしてたから、製麺をやらされたんだろうね。製麺の仕事はとにかく力が必要だから。

まず7キロくらいの小麦粉に潅水と塩を入れてひたすら手で練るんだ。ミキサーなんてないから、何度も何度も練ってツブツブが細かい粒子になるまで練り上げていく。堅すぎても柔らか過ぎてもダメ。腕も腰も使う。

それから薄く延ばす。それ用の機械はあるんだけど、モーターがなかった。だからハンドルをひたすら手で回してた。最初、いい運動になるって喜んでたんだけど、やってくうちに疲れちゃってね。いつも早くモーターを入れてくんないかなって思いながらやってたよ(笑)。

こんな感じで長時間・重労働だったけど、つらくはなかったな。若かったんだろうね。当時17歳くらいではりきっていたからね。睡眠時間も人間3時間も寝られれば十分だと思ってたし。早く一人前になりたいと思ってたから全然平気だったね。だからしんどかったけど手を抜いたことは一度もないよ。

あと俺は今でもそうだけど当時から酒が全然飲めなかったから、朝早いのも苦にならなかったんだよ。酒飲みは朝つらいよな(笑)。酒を飲まなかったおかげで、これだけ体がボロボロになっても生きていられると思うんだよね。

当時があったから今がある

製麺は店の裏でやってたんだけど、当時は早く厨房に入ってラーメン作りを覚えたいと思ってた。厨房だと、一日中力仕事じゃないからね(笑)。

でも今考えるとこの時期がすごく貴重だった。いちから徹底的に製麺を頑張ったおかげで、コシのある独特の麺を作る技術が身についたからね。俺が作った麺は違うって店の職人にもよく言われてた。

それはその後独立してからも役立ったんだ。製麺業者に頼らずに自前で麺を作ることができたから。今は何でも機械で便利になっちゃったから、まず手で練って短い帯を作ってバラを乗せてだんだん伸ばして最後に切って製品にするといった麺作りの工程がわからないからね。そういうのを体で覚えられたのはよかったよね。

最近のラーメン職人は粉を扱うのは自分の仕事じゃないって思ってて、製麺は業者任せにしてる人が多いんだけど、ほんとはそれじゃダメなんだよな。麺、スープ、チャーシューとトータルでやらないと本当に自分オリジナルのラーメンとは言えないと思うんだよね。

あと、自分で作ることができれば、業者から買わなくていいからその分ラーメン代を安くできたからね。

ひたすら製麺に明け暮れる日々が半年ほど続いた後、店にも出られるようになる。スープの作り方、麺上げの方法などはすべて兄貴から叩き込まれた。ひととおりの仕事を覚えた2カ月後、ついに「兄貴」が独立を決意。「栄楽」の店主には引き止められたが、山岸氏も一緒に店を出る。新しい店は中野。「大勝軒」の始まりである。

中野店の店長に

兄貴が独立して出した店はバラックつくりで、ひとつ屋根の下に何軒もの店が並んでいる、その中の1軒でね。兄貴と一緒に朝から晩まで一生懸命働いたおかげで徐々に常連も増え、店は繁盛したんだよ。

写真:中野店時代の山岸氏(写真提供:山岸大勝軒)

それで独立からちょうど3年後の昭和29年12月30日、結婚して子供もいた兄貴は、バラック小屋で火事にでもなったら家族の身が危険だということで代々木上原に一軒屋の店を作って、そこを大勝軒の本店としたんだ。俺は大勝軒・中野店の店長として店を任されるようになった。

このころはほんとに楽しかった。店長として責任をもってやるようになってからは余裕が出てきたんだね。

俺が店長になってからは、兄貴が教えてくれた味を守ることに加えて、独自の路線でやってた。一度に5品くらいメニューを増やしたりね。カレー中華とかたまねぎそばとか、もやしだけで作る安い焼きそばや上海焼きそばとかね。その新メニューの中に「特製もりそば」もあったわけです。

日本で初めて「つけ麺」を商品化

「特製もりそば」とは、ザルに盛った麺をスープにつけて食べるスタイルのラーメンで、今でいう「つけ麺」なんだけど、そもそもは「栄楽」時代のまかないメシだったんだよ。

写真:つけ麺の元祖・大勝軒の特製もりそば。おいしさもさることながら、まずは量にど肝を抜かれる。

ゆで上がった麺をザルからどんぶりに移すときに、1本とか2本はザルに残るわけ。「栄楽」ではそれを捨てるのはもったいないからってとっといて、ある程度集まったら、唐辛子やねぎを入れたスープにつけてまかないかわりに従業員が食べてた。それは俺が店に入る前からあったんだよ。

中野店の店長になってからもそういうふうにして食べてたら、それを見たお客さんが「うまそうなもん食ってるね」って声をかけてきた。そのとき、「これをメニューにしたら売れるかも」と思って、いろいろ試行錯誤しておいしいと思えるものができたから商品化したわけ。名前は「特製もりそば」ってつけた。普通のラーメンよりも手間がかかるから、少しだけ高くしてね。当時ラーメンが35円だったから40円にした。昭和30年の4月、店長になって4カ月後くらいだったかな。

でも当初、兄貴には反対されたんだよ。もりそばは普通のラーメンと違って、一回冷水でシメなきゃいけないから手間がかかるからね。そのころ店は繁盛してたから、わざわざそんな手間のかかることをしなくてもいいってね。

でも自分でおいしいと思うものはお客さんにも食べてもらいたいし、お客さんにも喜んでもらえてたからそのまま続けたら、やっぱりその後もお客さんに大好評ですごく売れたんだよ。それでその3年後、兄貴も兄貴なりに考案したものを代々木上原の本店のメニューに加えた。俺もうれしかったね。名前は「つけそば」。惜しいよね。「つけ麺」までもう一歩(注1)だったね(笑)。

注1「つけ麺」までもう一歩──ちなみに現在一般的になった「つけ麺」という名前を最初に使ったのは「つけ麺大王」。山岸氏がもりそばを売り出した18年後の昭和48年ころなので、「特製もりそば」がつけ麺の元祖ということになる。また、その後も代々木上原大勝軒系列はすべて「つけそば」で売っており、つけ麺の元祖の「特製もりそば」の名前で売っているのは山岸氏の大勝軒系列だけである。

つけ麺の元祖、新メニューの特製もりそばもヒットし、中野店は大繁盛した。そしてついに店長になって7年目の昭和36年(1961年)、27歳で独立、自分の店を東池袋に出す。独立した店は行列ができるほど大勢の客で賑わい、すべてが順調かと思われた。しかしそれも長くは続かなかった──。

いったん決めたことは貫き通す

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