キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その1…

TOP の中の転職研究室 の中の魂の仕事人 の中の第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その1-薬物依存者が回復支援者になるまで

第24回
近藤 恒夫氏インタビュー(その1/全5回

近藤氏

たった一度の注射が元で
人生の絶頂期から堀の中へ
薬物依存者が回復支援者になるまで

日本ダルク代表/NPO法人アパリ理事長近藤 恒夫

現在、日本には200万人以上の薬物乱用者がいるといわれている。その数は、年々増加の一途をたどっており、特に10~20代の若者を中心に広まり続けている。そんな薬物依存者と一緒に回復への道を歩き続けているのが、「日本ダルク」代表の近藤恒夫66歳。自身も元覚せい剤依存者であり、薬物依存者の社会復帰を20年以上にわたって支援し続けている近藤氏に、仕事の意義を聞いた。

こんどう・つねお

1941年秋田県生まれ。30歳のときに覚せい剤を覚えて以来、薬物乱用者となり、37歳で精神病院に入院。それでも覚せい剤をやめられず39歳のとき逮捕。半年の拘置所生活を経て執行猶予付き判決で出所。
釈放後は回復を誓い、アルコール依存症者の回復施設の職員を経て、1985年日本初の民間による薬物依存者回復施設「ダルク」(現東京ダルク)を開設。以降薬物依存者の回復支援に尽力。
2000年にはアジア太平洋地域の国々の依存症問題に取り組む研究機関「NPO法人 アパリ」を設立。国家行政機関、法律家、医療者、研究者などと連携し、国内外の薬物問題に取り組んでいる他、学校や刑務所などでの講演も精力的に行っている。
1995年、東京弁護士会人権賞を受賞
2001年、『薬物依存を超えて』(海拓舎)で吉川栄治文化賞受賞

薬物依存者のリハビリ施設

私は現在、「日本ダルク本部」の代表と、NPO法人「アパリ」の理事長を務めています。どちらも覚せい剤や麻薬などの薬物依存者の回復を支援する団体です。

まず「ダルク」=「DARC」とは、「Drug Addiction Rehabilitation Center」の略で、その名の通り薬物依存者のリハビリ施設です。ここでは薬物依存者が3~6カ月間、共同生活を送りながら、社会復帰を目指しています。

現在、ダルクは全国に約50カ所ありますが、最初のダルクは私が23年前に日暮里で立ち上げました。その当時は「薬物依存」なんて言葉すらなくて、薬物中毒、ヤク中なんて言葉しかなかった。そういう人たちは刑務所か精神病院、最悪死体置き場のような場所、要するに鍵のかかるところしか行き場がなかったんです。彼らは反社会的な犯罪者であるとされてた。病気であるということを社会は認めてこなかったんですね。大半の人は今でもそう思ってるかもしれませんが。

薬物依存とは「寂しさの痛みの病」

アディクション、つまり薬物依存を含めた病的依存とは「心の病」、「寂しさの痛みの病」なんです。病的依存者の多くは、幼いころ肉親からの愛情に恵まれなかったり、虐待を受けたりといった不可抗力的な原因で、大人になってからも人間関係をうまく結べない。そこから感じる寂しさや、心の痛みに自分の意思の力では耐えられないから、酒やクスリに頼ってしまうんですね。

写真:日本ダルク本部の玄関に掲げられている小さな看板

その薬物で失敗しちゃった人、日の当たらない場所に追いやられた薬物依存者が社会復帰に向けてリハビリしている場がダルクなんです。

近藤氏がダルクを作ったのは1985年7月。その以前は、近藤氏自身もまた重度の薬物依存者だった。

まずはバクチに溺れる

僕はまずバクチを高校時代に覚えて、大学もバクチ三昧で中退。それからはレストランや喫茶店などの水商売の世界を転々としてた。24歳のときには喫茶店のマネージャーになったんだけど、そこで賭場を開いて毎日バクチに狂ってたんだ。今考えたらバクチ依存症だよ。

だからいつも周りにはシャブ、覚せい剤をやってるヤクザばっかりで、やつらの中にはおかしくなったり死んだりしたヤツがたくさんいたんだよ。そういうのを間近で見てたから、俺はシャブだけは絶対にやらないと固く心に決めてたんだ。

でも26歳のときに船会社に転職したのが運のツキだった。いや、途中まではうまくいってたんだよ。

小樽と舞鶴を結ぶフェリーの船員になったんだけど、入社当時は喫茶店とバーの担当だった。夏は常に満員だったから、朝6時から深夜の2時3時までロクに休憩も取れずに働きっぱなしでさ。でも仕事は嫌いじゃなかったし、起きてることは好きだったから寝ないで働くことは苦にならなかったんだ。まあがむしゃらに働いたね。

でも冬になると乗客はがたっと減るんだよな。トラックの運転手くらいしか乗ってこないから。仕事も暇になる。小樽−舞鶴間は30時間もかかるから、運転手も暇をもてあますんだよ。そこで運転手たちの相手をしてやるようになったわけ。バクチでね(笑)。運転手はバクチ好きが多かったからすごく喜んでね。わざわざ僕が乗船する日に合わせて乗ってくる運転手もいたよ。まるで「ご指名」だよな(笑)。

たった一度の「失敗」で人生の絶頂期から転落

でも会社側が冬の間は乗客が激減して採算が取れないから人員削減するって言い出した。もちろん労働組合員全員が反対したよ。で、なぜか僕が会社側と交渉する代表に選ばれちゃった。口が達者だったからかな(笑)。

それで会社側と何度も話し合ってなんとか妥協点を探って交渉をまとめたら、えらく評価されてね。それと夏の間の仕事の頑張りも認められて、3年目には調理部門のトップになっちゃった。年収も1500万。異例のスピード出世だったらしいよ。思えばこのころが人生の絶頂期だったなあ。

だけどいいことって長くは続かないもんでさ。調理部門のトップになった次の年、30歳のときに、船会社の会長の息子がアメリカ留学から帰国したんだけど、いきなり会社の管理職に就いちゃった。俺はこの会社で4年も死に物狂いでやってきてようやくここまで来たのに、これまでの努力はなんだったんだって思ったよ。猛烈に腹が立ったと同時にやる気もなくなっちゃった。

会長の息子は血統がいいから、これからいくら俺が頑張ったところでこいつを追い越すことはできない。だったらこんな会社で働いたって意味ないだろうと思ったんだよな。そしたら一気にやる気がなくなってそれ以来、仕事をまともにやらなくなっちゃった。そのときのショックはすごいストレスだったよ。

劇的な効果で一発でハマる

ちょうどそういうときに歯も痛くなってね。歯の痛さも相当に強いストレスでしょう。痛みをこらえながら乗船業務をこなしてたとき、全身に刺青を入れた顔馴染みのトラック運転手に「元気ないね? どうしたの?」って聞かれた。「歯が痛くてどうしようもないんだよ」って答えると、「そんな痛み、覚せい剤を使えばすぐ取れるよ」って言うんだよ。

俺はそれまで注射は大嫌いだったし、覚せい剤を使うヤツはバカだと思ってたんだけど、あのときはいろんなことが重なってすごくストレスを感じてた。歯の痛みもそうだけど見えない心の痛みの方が大きかったな。ストレスも痛みで、人ってやっぱり痛みに弱いからね。

そこにすごくいいタイミングで覚せい剤がやってきた。だからちょっとやってみるかって気になっちゃった。それに元々やりたくて覚せい剤をやるわけじゃないから、ここでやったってハマるはずがないと思ってたしね。

それで軽い気持ちで覚せい剤を打ってもらったら、1週間もずっと続いてた歯の痛みが数秒でなくなっちゃった。これはすごくいいぞ! と思ったね。

今考えると不思議だよな。なんで悪いことが重なるときって、3つも4つも重なるんだろうね。でも悪いことが重なってた時期だからこそ劇的な効果があったんだろうね。痛みが大きければ大きいほど、クスリの薬理効果って大きいんだよ。よく空きっ腹に酒を飲むと五臓六腑に染み渡るっていうじゃないですか。あれとおんなじなんだよ。シャブが体中に染み渡っちゃったんだよ。打ってすぐ、30秒もかからないうちに歯の痛みが取れて、そのとき「これだ!」って思っちゃった。そういう劇的な変化に人間は弱いんだよな。

それで一発でハマっちゃって、それ以降も打ってもらったんだけど、1回打てば2、3日は寝ないで仕事ができたし、徹夜でバクチをやっても連戦連勝するようになった。そういう報酬効果がすごかった。だから1週間後には1日3回、3カ月後くらいには1日5回も打つようになっちゃった。そのハマり方はちょっと異常だったよね。

当時は会社の要職についていた近藤氏だが、覚せい剤に手を出して以降は仕事も休みがちになり、1年後にはついに社長じきじきに退職勧告を受けてしまう。高収入も仕事も失ってしまった近藤氏はますます覚せい剤にのめりこむようになる。

兄の会社をつぶす

退職勧告を受けたときはショックというよりも、もうどうでもいいという感じだったよね。それよりもこれからどうやってシャブを手に入れようか、そればっかり考えてた。

会社を辞めた後は兄貴が経営する会社に入社させてもらった。最初のうちは、ちゃんと働くつもりで出社してたんだけど、会社でもシャブのことで頭がいっぱいで仕事が全然手につかなかった。そればかりか社長の弟という立場を利用して、シャブを買うために会社の小切手を切りまくってた。そのうち会社にも行かなくなっちゃってね。家にこもってシャブばっか打ってた。

兄貴に「仕事をしないでブラブラしてるからクスリをやるんだ。だから働け」って言われて仕事を探したわけ。で、求人に応募するために履歴書を書くでしょ。でも書いてくうちに疲れちゃうんだよ。ウソばかり書かなくちゃならないから(笑)。それで、もし入社が決まったらそれ以降はシャブを打てないから、今打たなきゃと思ってシャブを打っちゃうんだよ。

そういう脅迫観念が出てきたら打つしかないんだよ。どんなことがあっても。親の愛情とか子供への愛情なんかは何の役にも立たなくなっちゃう。薬物の欲求にはどうしたって勝てないんだよ。

だから結局転職もできなくてさ。さらに兄貴の会社の小切手を乱発してたらついには不渡りを出して倒産しちゃったんだよ。俺が兄貴の会社を潰しちゃった。それでも俺はシャブを買う金ほしさにサラ金に行って金を借りてさ。あっという間に300万の借金ができちゃった。

精神病院に入院

家族はどうしようもなくなって札幌市の精神保健センターに相談に行ったら「病気だから入院させなければダメだ」って言われたみたいで、俺に入院を勧めたんだ。でも「なんで病気でもないのに入院なんかしなくちゃいけなんだ」って逃げ回ってさ。でも最後は家族に「病院に行くか警察に行くかどっちかにしろ」って言われて、当時アルコール依存症治療で有名だった札幌市の病院にしょうがなく入院したんだよ。説得され始めてから3年後だった。

でも病院に入院したからって薬物依存から回復なんてできないんだよ。入院中も頭の中はシャブのことでいっぱいなんだから。

禁断症状はない

でも入院して急に覚せい剤を打てなくなったら禁断症状がすごかったんじゃないかって? いやいや、覚せい剤には禁断症状なんてないんだよ。そりゃ入院して最初の1週間くらいは、冷や汗をかいたり、体がケイレンしたりしてつらかったけどさ、でもその程度だよ。よく言われる地獄の苦しみなんてものはないんだよ。

だから覚せい剤がきれたからって壁を引っかいたり、そこら中のた打ち回って苦しむとかっていうのはウソ。あれは完全にテレビの世界。覚せい剤で入院してる患者や、刑務所の中にいる連中はみんなおとなしいもんだよ。いつもにこにこしてるから。

幻覚・妄想と禁断症状を一緒にしちゃダメなんだよな。禁断症状がすごいのはヘロインとかアヘン系の麻薬。その代わり精神依存はそれほど強くないんだよ。幻覚・妄想状態っていうのはさ、全然禁断症状じゃなくて、シャブをやってるときの症状なんだよ。やればやるほど幻覚や被害妄想は強くなっていく。

精神依存が強い

シャブを打てなくなったら、ただ打ちたいっていう気持ちがどんどん強くなるだけなんだよ。やりたくて仕方がないっていう苦しみ。禁断症状がないかわりに、そういう精神依存はものすごく強い。禁断症状があればいいんだけどな。ないからやっちゃうんだよ。だから覚せい剤ってのはタチ悪いんだよ。禁断症状があればもっと早くシャブをやめられてたと思うよ。

俺は入院してるとき、病院の中でもシャブを打ってたからね。一時退院で帰宅したときにクスリを病院にもって帰ってきてさ。もうどうしようもないよね。

でもこのままではいけないという気持ち、シャブをやめたいという気持ちはあるんだよ。でも一方でシャブをやりたいという気持ちも同じくらいにある。それにどうしても勝てないんだよ。

3カ月後に退院した近藤さんは、その日にまた覚せい剤を打ってしまう。そしてついには1980年9月20日、警察に逮捕され、札幌西署の拘置所に勾留されてしまった。不惑の歳を目の前にしてついに落ちるところまで落ちてしまった。

39歳で逮捕、勾留

俺は自分でやるだけじゃなくて仲間にも覚せい剤を流してた。ある日一緒に覚せい剤を打ってるときに仲間のひとりが追跡妄想にとらわれちゃって、警察に駆け込んで警官を連れてきちゃったんだよ。

俺たちはそのまま警察に連れていかれておしっこを採られたけど、その日はそのまま釈放されたの。警察は住所とか身元がはっきりわかってたらいつでも逮捕できるから、釈放してしばらく泳がしておくんだよ。そこから別のヤク中とか売人が見つかるかもしれないから。

捕まったときは運が悪かったとしか思わなかったよ。あのバカが警察に飛び込まなければこんなことにならなかったのにって(笑)。だから警察にバレたからってやめる気なんて全然なかったよ、釈放されたその足でまたクスリを買いに行ったからね(笑)。

つらかった勾留生活

でもその後やっぱり逮捕されちゃって、札幌の拘置所に入れられちゃった。拘置所での生活はつらかったよ。

これまで俺は好き勝手に生きてきたけど、拘置所ではすべてが思い通りにいかないからね。11月の札幌はほんとに寒くてな。独房にはもちろん暖房もついてないし、あったかい毛布やふとんもない。北海道に長くいる割には寒さに弱いからシャブ切れたら特に寒いんだよ(笑)。だから悲鳴を上げてた。独房に差し込む日差しだけが頼りだったな。

当然、食べ物や嗜好品も自由がきかない。あったかいラーメンを食いたいと思って申請しても出てくるのは2週間後だし、読みたい本があっても届くのは1、2カ月後とかさ。当たり前だけど好きなシャブも使えないし、コーヒーも飲めないし、たばこも吸えない。これまでの勝手気ままな暮らしと比べたらどん底だったよね。

だけど今から考えたら、これまで自分の思い通りになるような生き方しかしてこなかっただけに、初めての不自由な生活は今までの自堕落な自分を振り返れたからいい経験だったよ。

自殺も考えた

拘置所に入れられてる間はもうシャブはやめないとダメだとは思ってるんだけど、どうしても打ちたいという欲求が沸き起こってくるんだよ。精神依存の強いクスリだから。毎日が「やめたい」と「打ちたい」のせめぎ合いだった。

毎日不安でいっぱいだったよ。そのとき39歳だもん。40歳を目前にしてシャブ中で逮捕されて、社会に出てもまともな会社にも勤められないだろうしね。その上シャブを買うためにサラ金から500万くらい借金してたから、生活も成り立たないだろうし。やり直しはもうきかないと思ってた。この先俺の人生どうなるんだろうって考えてた。お先真っ暗だったよね。

だから絶望感でいっぱいになって、こんな自分なんて生きていても何の価値もない、もう死にたいと思うようになった。実際に独房の中で毛布を首にくくりつけたこともあったよ。

タンポポで生きる希望が

でもあるとき、拘置所の窓から外を見たとき、軒下にタンポポの花が見えたんだよ。11月だから季節外れだけど、雪の中から黄色い花を覗かせてた。後で仲間には「そりゃ妄想、幻覚だよ」って言われたんだけど、花びらが風になびく様子まではっきり見えたんだから間違いない。

この厳しい寒さの中、タンポポは土にしっかり根を張って花を咲かせてた。そのタンポポが「俺はこんなにしっかり生きてるけど、おまえは生きてねえじゃねえか。しっかり生きろよ」って言ってるような気がしたんだよ。

そのうち、涙が出てきて止まらなくなった。自分はなんて情けない人間なんだと思ったんだよ。雪の中で咲くタンポポに比べて、このくらいで悲鳴上げてる俺はなんてだらしないんだと。だから俺もしっかりしなきゃ、これからクスリから手を切って、社会の中でしっかり生きて行こうって思ったんだ。

逮捕、勾留から3カ月後の1980年11月、札幌地方裁判所で判決が下ることになっていた。しかし、その直前の最終陳述で、近藤氏は驚くべき発言をした。

自ら実刑を望む

今度という今度は覚せい剤をやめて生まれ変わりたいと思ってたんだけど、執行猶予で釈放されたらまたやるだろうと思ってた。そうなると3、4年は確実に刑務所に入れられて、出てくるときは43、44歳になっちゃう。そうなったら本当に人生終わりだと思ったから、「覚せい剤をやめたくても私の意思の力ではどうにもならないから、刑務所に入れてください」って泣きながら裁判長に言ったんだよ

だけどそう言ったら心がすっと軽くなった気がした。これが初めて覚せい剤に対して自分の力ではどうしようもできないということを認め、受け入れた瞬間だったよね。

でも刑務所は入れてくれって言って入れるようなところじゃないから、執行猶予になって、社会の中でやり直しなさいってことになっちゃった。

釈放されても不安でいっぱいだったよ。これから覚せい剤をどうやめて、どうやって生きていけばいいか全然わからなかったから。そのとき感じてたのはやっぱり己の無力さだよな。クスリに関してはもう全く意志の力が働かない。この依存の問題は意志を強くもって臨めというのは間違いじゃないんだけど、強い意志をもてばもつほど、反対に同じくらいの強さでやりたいという気持ちも起こってくる。だからややこしいんだよ。  でもありがたいことに一緒に歩いてくれた人がいたんだ。

これから、新たな人生のスタートを切り、人間らしい暮らしを取り戻す近藤氏へ―。

病的依存は、「寂しさの痛み」の病

TOP の中の転職研究室 の中の魂の仕事人 の中の第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その1-薬物依存者が回復支援者になるまで