第24回
近藤 恒夫氏インタビュー(その2/全5回)
今日一日のためだけに――
共に歩いてくれる人と
踏み出した回復への道のり
日本ダルク代表/NPO法人アパリ理事長近藤 恒夫
39歳のときに覚せい剤取締法違反で逮捕された近藤氏は、実刑の願いもむなしく執行猶予付きの判決を言い渡された。出所後は妻、子供、親と離れ、月3万円のアパートでの一人暮らしを余儀なくされる。この先どうやって生きていこうか──。途方に暮れていたが、幸運にも回復への道に一筋の光明が差し込んだ。
こんどう・つねお
1941年秋田県生まれ。30歳のときに覚せい剤を覚えて以来、薬物乱用者となり、37歳で精神病院に入院。それでも覚せい剤をやめられず39歳のとき逮捕。半年の拘置所生活を経て執行猶予付き判決で出所。
釈放後は回復を誓い、アルコール依存症者の回復施設の職員を経て、1985年日本初の民間による薬物依存者回復施設「ダルク」(現東京ダルク)を開設。以降薬物依存者の回復支援に尽力。
2000年にはアジア太平洋地域の国々の依存症問題に取り組む研究機関「NPO法人 アパリ」を設立。国家行政機関、法律家、医療者、研究者などと連携し、国内外の薬物問題に取り組んでいる他、学校や刑務所などでの講演も精力的に行っている。
1995年、東京弁護士会人権賞を受賞
2001年、『薬物依存を超えて』(海拓舎)で吉川栄治文化賞受賞
恩人・ロイ神父
出所後は今後どうやって覚せい剤をやめて生きていけばいいか皆目検討がつかず困っていたんだけど、ありがたいことに一緒に歩いてくれた人がいたんだ。その人はロイ・アッセンハイマー(注1)さんっていう神父。ロイさんはメリノール宣教会(注2)から日本に布教活動をしに来てたんだけど、慣れない日本での生活からくるストレスでアルコール依存症になっちゃった。それで自分もAA(注3)、アルコホーリクス・アノニマスというアルコール依存者たちの自助グループに入ってアルコール依存症からの回復を続けると同時に、ほかのアルコール依存者や薬物依存者にも声をかけて、回復を手助けする活動をしてたんだ。
写真:1997年、ヴァチカン主催の薬物依存のシンポジウムでヨハネパウロ2聖(写真右)と謁見し握手するロイ神父
最初の出会いは俺が精神病院に入院してたとき。AAのミーティングに誘われて一緒に出席したことがあったんだ。その後覚せい剤で逮捕されて勾留されてた間も、よく面会に来て励ましてくれてたんだ。
そして俺が出所した日の夕方に、家に来てくれてね。「AAのミーティングに行きましょう!」って。出所したものの、どうしていいかわからなかったから言われるがままロイさんについて行ったんだ。
精神病院に入院してたときに出席したAAのミーティングでは、自分のことを素直に話せなかった。ただアルコール依存症者が集まって、これまでの体験を語るだけのミーティングなんて意味がないと思ったし、「アルコール依存者の連中なんかに俺の気持ちがわかってたまるか」って自分から積極的に発言しなかったし、聞く耳ももたなかった。だからそれ以降は何回か出席しただけで行かなくなっちゃった。
だけど、このときはなぜか「覚せい剤をやりたくなる気持ち」を正直に話せたんだ。そしたら法廷で「もう自分の力ではどうにもならないから刑務所に入れてください」って言ったときと同じように気持ちが軽くなった。
今思えば、法廷でそう言えたのは、入院中にAAのミーティングに参加したおかげだと思う。確かに当時のミーティングでは正直に話す人のことをバカだと思ってたんだけど、その一方で正直に話す人はみんな楽しそうだし、僕の話にも耳を傾けてくれてるなあと感じてた。だから正直に今の気持ちを言おうという気持ちになれたんだと思う。
そして出所後のミーティングで正直に発言できたのも、法廷で「今の自分」の無力さを認め、正直になれたからだと思う。それからは一日も休まず、AAのミーティングに出席して、「覚せい剤をやりたい気持ち」に徹底的にこだわり続けたんだ。
注1 ロイ・アッセンハイマー──メリノール宣教会司祭。1938年アメリカ合衆国ペンジルバニア生まれ。1965年来日。布教活動を行う傍ら、1975年札幌市と帯広市でアルコール依存症者の回復施設・「メリノール・アルコール・センター」を開設。1985年にダルク開設を支援。近藤氏とともに薬物依存症者の回復支援に尽力。2000年アパリ初代理事長に就任。2005年脳出血で死去。
注2 メリノール宣教会──1911年に創設されたカトリック教のアメリカの海外宣教会。ニューヨークに本部をもつ。日本ではアルコール依存症者の回復施設のほかに、山谷で暮らす貧しい人々を支援する山友会を結成するなどの弱者救済の活動を行っている
注3 AA──アルコホーリクス・アノニマス。アルコール依存症者の仲間同士で悩みを分かち合い、お酒を飲まない人生を目指そうとしているセルフヘルプ・グループ。
「よろしければ」
これまでもロイさんは絶対こうしなさい、ああしなさいとは言わなかった。いつも相手に責任を与えるんだよ。僕がシャブをやってたときも、「シャブ打ちたいなあ」と言うと、「あなたがよろしかったらどうそ。やればいいんじゃない?」って言うんだよ。
シャブにおぼれてたころ、「シャブを買いたいから金を貸してくれ」と言ったときも、「それはおもしろい。貸しましょう」って4万円貸してくれたんだよ。普通、シャブを買いたいから金を貸してくれって言われても貸さないでしょ? しかも神父なのに。そのときは「なんでやめろって言わないのかな? おかしな人だな」と思ったけどね。
そのとき唯一「やめろ」って言わなかったのが彼だったんだよ。それは今考えると新しい回復指導のやりかたかもしれないよね。これまでも今も裁判所や警察や家族は「ダメだからやめろ」としか言わないからね。「やめろ」って言われても、「やめりゃいいんだろ、やめりゃ」としか思わない。でもそれじゃあ何も自分では考えられない。
でも「やりたきゃやればいいんじゃない?」っていうのは、「あなた自身の問題だよ」という問いかけだよね。「それをあなたが選ぶのなら、あなたの責任だよ」っていう、責任を返されてるってことでしょ。初めてそこから自分で考える。「やる」か「やらないか」の二択だよね。「どっちを選ぶかはあなたが決めることでしょ? 誰も決めてくれませんよ」ってこと。あなたの責任において、「よろしければおやりなさい」ってことですよ。
人から命令されたら、失敗したときに「俺が好きでやったわけじゃなくて、あいつらがこうしろって言うからやったんだから俺には責任がない」といつでも責任転嫁できるじゃないですか。でも自分で選択したら自分の責任でしょ。そういう意味では新しい言葉だったなと思うよ、「よろしければ」っていうのは。すごく新鮮な言葉だったよね。
“Take it easy” “Just for today” “Keep it simple”
ロイさんはよく「Take it easy」って言ってたね。「依存からの回復はとにかく長いレースなんだから気楽にやろうよ」という姿勢だった。それと「Just For Today」。その先の長い未来じゃなくて、一日24時間、今日だけ考えて生きましょうっていうことだよね。それはやっぱり自分の病に対して謙虚に生きるってことなんだろうなと思うよね。
とにかく今日一日、新たな一日を生きましょうと。間違いのないように。1週間、1カ月、1年、10年、クスリをやめることはできても、いつまたスリップ(注:クスリを再びやってしまうこと)するかわからない。明日のことなんてわからないんだから、わからないことで悩まないで、とにかく今日をしっかり生きていこうということだよ。
薬物依存者に限らず、だいたい人ってまだ来てもいない明日のことを心配するでしょ。不安の先取りというかね。そうすると足が止まって、今日やるべきことができない。今日は明日の準備のはずなんだから、準備の方をおろそかにして先のことを考えちゃうから行動が止まっちゃうんだよね。そういう意味で捕らえるととっても大切な言葉だなと思うよね。
それから“Keep it simple”も大事だって言ってた。問題を難しくしない方がいいと。ほとんどの薬物依存者は、薬物のほかにもいろんな問題を抱えているものなんだよ。借金とか離婚とか仕事とか。でもそういう問題はまずは放っておくと。まずひとつのことができるようになるまでシンプルにしていこうと。まずやらなきゃならないのはクスリをやめること。これを第一にしようってことだよね。
助けるのではなく共に歩く
だからロイさんの存在はとてもありがたかったね。ロイさんは俺と一緒に歩いてくれたから。彼は助けようとはしなかった。ただ一緒に歩いてくれただけ。特に回復の初期に一緒に歩いてくれるとすごく助かるんだよね。揺れてるから。ひとりだと横道にそれちゃう。難しいことだからね、やめ続けることは。
出所して1〜2カ月は覚せい剤をやりたくてしょうがなかったよ。ちょうどその時期はクスリへの渇望が強くなる時期だったから。砂糖や雪を見ると覚せい剤を打ちたいという衝動に駆られてた。昔のシャブ仲間からの誘惑も多かったしね。
当時AAの仲間が、クスリを使ってしまわないために「ふたり以上で行動すること」や「必要以上のお金を持たないこと」ってよく言ってたんだけど、それを守ったおかげでなんとか踏みとどまれたんだ。それがなかったらスリップしていたかもしれない。ロイさんやAAの仲間がいてくれたおかげだね。
近藤氏はAAのミーティングに毎日出席。さらに、判決で精神病院への週1回の通院と保護観察の保護司との面接を義務付けられていたため、出所してからは多忙な毎日を過ごしていた。しかし生活保護と医療保護なしでは生活できない自分に情けなさを感じ、また、この先の人生の展望は全く見えてこなかった。そんなとき、人生を変える転機が訪れた。きっかけを運んできたのはまたしてもロイ神父だった。
自己嫌悪と不安の日々
AAに通いながらこれからどんな仕事をしようか、どういう人生を歩めばいいのかずっと考えてたんだけど、どうすればいいのかわからなかった。感じていたのは自己嫌悪と不安だけ
30歳のときは船会社の調理部門でトップに立って月収80万円も稼いでたのに、覚せい剤を覚えてたった1年で会社をクビになった。そしてその8年後には覚せい剤の所持・使用で逮捕されて、犯罪者になっちゃったからね。借金もできて家庭も崩壊。人生の絶頂期からたった10年足らずで生活保護と医療保護を受けなければ生きていかれなくなった自分に、ふがいなさともどかしさと情けなさを感じてた。
でも生活保護にはかなり助けられたよ。俺は拘置所から出て一年間もらったんだけど、特に出所してから間もないときは非常に有効だね。今日も明日もクスリをやりたいって揺れ動いてる時期だから、生活のことを気にせずクスリをやめることに集中できるからね。
でもしばらくしたら生活保護なんていらないって自分から役所のケースワーカーに言っちゃったんだよ。「俺は働く」の一点張りだったんだよね。仕事も見つかんないのにいい格好して。ヤク中ってのはいい人を演じちゃうわけよ。
でもそのときのケースワーカーは「仕事のことなんて考えないで、今はクスリをやめることだけを考えましょう」って言って打ち切らなかったんだよ。ここで生活保護を打ち切ったらまた俺がクスリの世界へ戻っちゃうと思ったんだろうね。まだ若かったけどすごい人だと思うよ。そのおかげで助かった。あのとき俺が言うままに打ち切られてたら、どうなっていたかわかんないよ。
というのは、俺は20代のとき、ずっと水商売の世界で働いてて、そこでバクチもやってた。だから自立した生活を考えたとき、一番てっとり早いと思ったのがまた水商売に戻ることだった。昔の仲間やツテがあるからね。でも仲間にはシャブ中や売人が多かったし、バクチをやったら絶対シャブに手を出しちゃうと思ってたから、それだけは絶対にやるまいと思ってた。だけど生活保護がなくなったら、そっちの仕事をやるしかない。そうするとまたシャブに溺れる生活へ逆戻りしてしまってただろうと思うわけ。
ロイ神父の仕事を手伝う
そんな不安な毎日を過ごしてたとき、ロイさんが「仕事を手伝ってくれませんか」と声をかけてくれたんだ。当時ロイさんは自分の体験を生かして、AAの活動を北海道各地に広げる活動をしていて、その手伝いをしてほしいってことだった。仕事探しに困ってたから渡りに船って感じでもちろん即承諾したよ。
仕事の内容はロイさんの事務所の掃除とか手紙の宛名書きとかの雑用だったけど、それに加えて車の免許を取りに教習所に通い始めた。アルコール依存症の患者をAAのミーティング会場まで送り迎えする運転手がいればAAのメンバーが増えると思ったから。免許を取ったとき、ロイさんの知り合いの神父がライトバンを寄付してくれたときはものすごくうれしかったね。寄付してくれたことよりも、仕事ができる喜び、人のために何かをする喜びを感じられたことがうれしかった。10年以上忘れてた感情だったからね。
ロイ神父は、回復を目指すアルコール依存症者を年中無休でいつでも迎え入れる施設の必要性を感じ、開設に向けて尽力していた。近藤氏は昼は運転手、夜はその手伝いに奔走した。そして1981年11月、アルコール依存者のための回復施設・札幌マック(メリノール・アルコール・センター)が開設。近藤氏はその働きが認められ、初代所長に任命された。その後も札幌マックを軌道に乗せ、さらに1983年帯広にもマックを開設することに成功した近藤氏は、メリノール宣教会内でも高い評価を得るようになったが、近藤氏の中ではあるジレンマが大きくなっていった。
薬物依存者のための回復施設を作りたい
マックで働くうちに、俺はヤク中なのになんでアル中の世話をしなきゃならないんだっていう不満が日に日に大きくなっていったんだよ。
アルコール依存者の人たちにとっては、マックのような回復施設がたくさんあるからいいけど、薬物依存者の人たちは受け入れてくれるところがなくて排除されてた。それは差別でしょ。僕自身が薬物依存者だから、そういう人たちもマックのような施設があれば回復できるはずだと思ってた
それでメリノール宣教会のミーニーっていう神父に相談したんだけど、「ヤク中の回復なんてありえない」って言われた。以前、薬物依存者の回復支援もしたことがあったんだけど、どうやってもできなかったらしいんだ。だからそう言うのもわかるんだけど、頭に来てね。「じゃあ俺も回復できないってことかよ」って。僕自身も薬物依存者だからね。だから「アル中は回復できるけどヤク中はできないっていうのは差別と偏見だ。薬物依存者の回復施設がないなら俺が作ってやる」って気持ちになっちゃったんだよ。
でもミーニーさんはさすが神父だけあって、否定するだけじゃなかった。「本当に薬物依存者の回復を信じるなら、東京都精神医学総合研究所の斉藤学(現家族機能研究所代表)という精神科医を訪ねてみなさい」って教えてくれたんだ。それで斉藤先生に相談したんだけど、「やめたほうがいい」と反対された。そもそも薬物依存者の回復は困難を極めるし、そういう施設を作るために無理をして僕自身がつぶれてしまったら元も子もないという意味だったと思う。ほかの医師も同じ意見だった。
ミーニー神父や精神科医たちだけじゃなく、当時周りにいた人、ロイさんまでも反対した。それでもあきらめるわけにはいかなかったんだ。AAのミーティングだけじゃなく、NA(注4)とかいろんな依存症のミーティングやセミナーに出席するうちに、僕の周りには薬物依存者が集まってきてたからね。
写真:NAの12のステップ
注4 NA──ナルコティクス・アノニマスの略。薬物依存者の自助グループ。12ステップを実践することによって薬物依存からの回復を目指す。「NAとは薬物によって大さな問題を抱えた仲間同士の 非営利的な集まり。NAに来る上での条件は何もない。私たちはいかなる組織にも従属しないし、 入会金も月謝もいらず、宣誓書を書く必要もなく、またいかなる人にも約束を求めない」(NA日本公式Webサイトより抜粋)
他人のためじゃなくて自分のため
どうして自分だけの回復でよしとするんじゃなくて、他の薬物依存者のために施設を作ろうと思ったか? 他人のためじゃない。自分のためだったんだよ。
AAではアルコール依存症からの回復のための12ステップっていうプログラムがあってね。「アルコール」を「薬物」に置き換えたらそのまま薬物依存からの回復ステップになるから、それを実践してたわけ。俺の生きる道はこの回復への12ステップを一生やり続けることしかないと。
その12ステップの中の最後のステップ12は「他の薬物依存者にも自分の経験を伝えるように」って書かれてあるんだよ。だから自分だけ回復するんじゃなくて、他の同じように薬物依存で苦しんでいる人たちに回復の手順を伝えていこうと。それで回復のステップにしたがって薬物依存者のための回復施設を作ろうと思ったんだ。
だから「他人のために」っていうんじゃないんだよ。「他人のため」じゃ続かないよ。自分が助かるためにこの施設が必要だと思ったから作ろうと思っただけ。確かに結果的に多くの人のためになってるけど、それはあくまで結果であって、最初は多くの人を手助けするために、なんて全く思ってなかった。今もそうだよ。
周りのすべての人に反対されて行き詰まっていた近藤氏だったが、突破のきっかけをくれたのはまたしてもロイ神父だった──。 次回は「ダルク」誕生とそこで繰り広げられたドラマについて語る。