第40回
須藤シンジ氏インタビュー(その4/全6回)
安定よりも自由を優先
次男の誕生をきっかけに独立
福祉業界の変革を決意
フジヤマストア代表/ネクスタイド・エヴォリューション代表須藤 シンジ
本社の役員に逆らったことで飛ばされた支店で孤軍奮闘していたころ、私生活でも大きなライフイベントが発生した。次男の誕生である。この出来事が須藤氏の人生を180度変えていくこととなる──。
すどう しんじ
1963年、東京都生まれ。有限会社フジヤマストア、有限会社ネクスタイド・エヴォリューション代表。3児の父。
大学卒業後、丸井に入社。販売、債権回収、バイヤー、宣伝など、さまざまな職務を経験、その都度輝かしい実績を打ちたてる。特に30歳のときには丸井の新しい業態「イン・ザ・ルーム」、「フィールド」の立ち上げに主要メンバーとして参画。丸井のイメージの一新に貢献した。次男が脳性まひで出生したことにより、14年間勤務した丸井を退職。マーケティングのコンサルティングを主たる業務とする有限会社フジヤマストアを設立。
2002年、「意識のバリアフリー」を旗印に、ファッションを通して障がい者と健常者が自然と混ざり合う社会の実現を目指し、有限会社ネクスタイド ・エヴォリューションを設立。以降、世界のトップクリエイターとのコラボで、障がいの有無を問わず気軽に装着できるハイセンスなユニバーサルデザイングッズや障がい者を街に呼び込むための各種イベントを多数プロデュース。ネクスタイド・エヴォリューションが手がけたスニーカーはあのイチロー選手も愛用しているという。
年を経るごとに須藤氏のコンセプトに賛同する企業は増え、意識のバリアフリーの輪は少しずつだが、確実に広がっている。
価値観を大きく変えた次男の誕生
1995年、32歳でK店に飛ばされた年に次男が生まれたのですが、10カ月後の検診で、医師に脳性まひだと告げられました。しかも重度の。一生動けない、歩けないだろうと言われました。
そのときの気持ち? いや、気持ちも何も、世界が止まってしまったほどのショックでした。映画などでよくあると思いますが、世界がモノトーンになって、街行く人々がぴたっと止まってしまうような感じです。
想像もしないピンチ……というか脳裏に浮かんだのは「嘘だろ?」の一言でした。まさかそんなことが自分に起こるとは思いもしなかったから……。父親が亡くなったときよりショックを受けました。
医師の説明では、生まれたとき、へその緒が首に巻き付いていて、仮死状態だったとのことでした。確かに生まれた直後は長男のときと比べて全然泣かない静かな子だったんです。出生時仮死というやつで、脳に酸素が運ばれなかったために重度の脳性まひになってしまったということでした。
そういった医師からの説明を家内が僕に冷静に話すわけです。10カ月検診で病院に行ったら、そういうことらしいと。家内は看護師なので非常に冷静に話しているわけですが、母親なので絶対内心は穏やかではないのはわかりきっています。彼女になんて言ってなぐさめればいいんだろうという思いと、世界が止まってしまったかのようなショックの中、「嘘だろ?」という言葉しか脳裏に浮かんでこない……。あのときの心情は今でもはっきり覚えています。
ショックの時期がどれくらい続いたかはよく覚えていません。当然ながらそんな状況でも会社に行って働かなければいけません。正直つらかったです。当時、仕事もやりがいないですから。自分の価値観とは違うことを、自分が非だと思うことを、是として時の上司から強要される。さらにそれに対して上層部にノーと言い続けるわけですから、それはキツかったですね。仕事もキツいし、私生活もつらかったです。
でも、どれほどつらかったかというのは、正直よく覚えていません。無意識に追いやっているのかもしれません、もしかしたら。あまりにもつらすぎて、語れないのかもしれません……。
仕事でも私生活でもつらい状況だったが、いつまでも落ち込んでいる須藤氏ではなかった。現実をありのままに受け入れた上で、再び前を向いて力強く歩き始めた。
障害をもつことが必ずしも不幸ではない
僕の場合、これまでの人生もそうなのですが、マイナスの状況に陥ると必ずプラスに転じることを考え始めるんです。徐々に、次男は脳性まひであることが、彼にとって本当に不幸なのかなと思い始めたんです。
僕はひとりっ子で、子どものときに友達のお母さんから、「シンジくんは兄弟がいなくてかわいそうね」って言われましたが、生まれたときからその状態だから、僕自身は「別に?」って感じでした。
それと同じように、次男本人としても自我を意識、あるいは自覚したときに果たしてそれが不幸なのかと思ったんです。生まれたときから脳性まひであれば、それが前提なんだから、関係ないなと。僕の場合も、振り返ると、ひとりっ子だったことでむしろこれまでの人生、すごく楽しい思いもできたしなと思いましたし。だから今後、次男もこれから積み重ねていく経験だとか思い出とかで幸福感を得られるチャンスは無限にあるはずだと思い始めたんです。
むしろ、つらいのは親だなと。「脳性まひでかわいそうですね」とか「たいへんですね」と他人から差別視されるのは親だと思ったんです。結局それに耐えるのは親の方なんだろうと。だったら耐えればいいと。次男が将来、ひとつでも多く喜怒哀楽を感じられるように、もちろん「怒」や「哀」も含めて、僕たち親がやれることはたくさんある。そう思ったとき、次男の人生はむしろ豊かな可能性しかないなと感じたんです。
もちろん、こういうふうに考えられるようになったのは、脳性まひだと告げられた直後ではありません。でもそれから数カ月という割と早い段階でした。毎日そのことばっかり考えていた結果、そういう結論に達したのでしょう。
歩き始めた奇跡
その一方で、医者に次男は一生動けないだろうと言われたとき、かなり大きなショックを受けたのですが、「本当にそうなのか?」とも思ったんです。次男は絶対に歩けると、無理矢理にでも、自分に対して信じ込ませてたんです。本来、動物って信じる力みたいなものが、本当に現実に寄与することってあるのではないかと、僕は今日までの人生で実感していたので。それで、次男に接するとき、いつも「君は絶対に歩ける」と語りかけていました。また、いろんな子どもの感性を与えてほしいと思って、障がい児の通う養護施設ではなく、普通の子どもが通う保育園に入れました。
そうやって信じる気持ちを態度に表して接してたら、次第に動けるようになったんです。一生自分の足で歩けないと医者から言われてた次男が、いきなりはいはいもせずに立ち上がり始めたり。このときは感動しました。人間ってすごいと思いました。映画『フォレストガンプ』で、自立歩行が困難だった主人公が女の子のかけ声とともに走り始め、足につけてた装具がばらばら外れていくシーンがあるんです。まさにそんな気分でした。驚きと喜びで。
送迎用にベンツを購入
当時次男をリハビリのため、療育センターに送り迎えしていたのですが、他の車は地味なバンなどで、余計に痛々しく感じていました。だから僕はもっと明るく、派手に行こう、どうせなら一番かっこいい車で療育センターに乗り付けてやるって、ベンツのゲレンデバーゲンを買ったんです。当時1200万円くらいでした。ローンを返すまでに10年くらいかかってしまいましたけど。
K店のマネージャーとして勤めた後、1年後に係長に昇進。本部に呼びもどされ婦人用品部のバイヤーとして働き始めた。最初の1年間は海外のファッションブランドものの買い付けに奔走、次の1年はこれまで丸井が扱っていなかった国内のブランドの仕入れや開発に携わった。そしてその翌年は渋谷店の副店長に抜擢された。一度外れた出世街道を再び驀進するかに見えたが、須藤氏が選んだ道は誰もが驚くものだった。
葛藤
次男が生まれてからの生活は結構たいへんでした。うちは家内も看護師として働いてたので共働きだったのですが、やっぱり障がい者の次男坊を抱えてると、保育園からすぐに迎えに来てくださいって連絡が入ることがしょっちゅうあるんです。でも僕も家内もなかなか仕事を放り出してすぐ迎えに行くことがなかなかできない場面が増えてきたんです。 また、僕は次男が生まれた翌年に本社に異動になってバイヤーになり、その翌年は渋谷店の副店長という重要なポストに就いたにも関わらず、朝、子どもに関わってなきゃいけなくて、その結果午後出社にならざるをえないことも出てきました。
でも、それは僕のサラリーマンスピリッツとしては絶対に許されない行為なんです。それまで「男たるもの、家庭の事情を会社に持ち込むべからず」とか、「家庭の事情で会社に遅刻したり、休んだりするなんてもってのほかだ」といった価値観をもっていて、自分自身もそれに従い、部下にも厳しく指導していたのですが、次男が生まれたことで、自分がその反対のことをやり始めてる。この矛盾にある種のジレンマを感じていました。
だからこの頃、上司から管理職の昇進試験を受けろって言われてたんですが、断ってたんです。今のこの状況では、この会社の管理職になる資格はないなと。この頃にはさらに三男も生まれてましたしね。このときもかなり悩みました。万が一また脳性まひで生まれたらどうしようなどと思ってしまうわけです。だけど次男が生きていく上で、助けとなる手は多い方がいいだろうと思って生むことにしたんです。今は、あのときの決断は間違ってなかったと確信していますが、当時は次男の介助プラス三男の誕生でますます家庭の事情を会社に持ち込まざるをえなくなりました。ゆえに僕のジレンマもますます大きくなっていたわけです。
退職を決意 人生の転機
この局面で、俺の人生とは何か、あるいはまさしくこのインタビューのテーマである働くという意味は何か、と真剣に考えてみたんです。すなわち、会社の中でサラリーマンとして働くということは、会社に自分の時間を差し出す代わりに給料をもらうということですよね。言い方を変えると、就労とは、毎月25日に会社から生活費をもらう代わりに、自分の時間をハンドリングする権利を会社に差し出すという行為ですよね。
でもあの頃の僕にとって最も重要なことは、自分の時間と家族の時間を自分でコントロールする権利であって、毎月の安定的な収入は二の次だなと思いました。つまり、僕の人生の中では、生まれたときは医者から一生動けないと言われた次男が緩やかに動き始めていくというその成長の過程を見守り、サポートすることの方が重要だなと思ったのです。
それで渋谷店の副店長(※1)になって2年後の2000年の夏に辞表を提出したんです。僕の職業人としての大きな転機がそこで、次男の誕生をきっかけに訪れたんです。
※1 副店長──最初の係長昇進試験に落ちてK店に飛ばされた1995年、カード勧誘の仕方を巡って上司とぶつかったことで、丸井に入社以来初めて評価が下がった。各店舗で下された評価は本社の人事部に集約されるが、K店で下げられた評価を本社の人事部は上げて戻してきた。この異例の事態にK店の上司も驚愕。それほど本社の経営陣は須藤氏を高く評価していたということだろう。そして2度目の係長試験を受け、合格。本来ならば副店長は課長職の職務だが、須藤氏は係長級で担当していた。
フジヤマストア設立
しかし当然ながら、自分で時間をコントロールする権利を優先して会社を辞めた場合、安定的な収入は見込めなくなります。でも退職した後のことは全く考えてませんでした。ただ決まっていたのは、もう会社勤めはしないってことと、これまでの仕事で得たコネクションに頼らないってことだけです。
確かに大手でいえば、電通、博報堂から始まって、バイヤーのときの取引先も含めてコネはたくさんありました。でも丸井を辞めた後、そこに仕事を求めるのは違うなというまた僕なりの美学があったんです。それをやるんだったら、会社を辞める意味はないなと。仕事上のネットワークを与えてくれたのは丸井なわけで、それを使って「私」を優先するってのは筋が違うんじゃないかと。だから、今までお世話になった取引先から収入を得るような仕事はやらないと誓ったんです。
辞職が決まってこれまでお世話になった取引先へ挨拶周りに行ったときも、「会社を辞めてからのことはこれから考えようと思います」と言っただけでした。「私がこれまで経験してきたような仕事はできるとは思うけど、みなさんの会社でどうこうするつもりは全くないんで、くれぐれもうちの会社に来いとか、そういうことはおっしゃらないでください」っていうようなニュアンスを伝えました。
そしたら回り回って、僕自身は直接取り引きしたことのない、とある超大手の商社の子会社の企画プランニングの会社から、商品企画や販売促進や事業開発などの仕事を月30万円で発注したいっていう連絡がきたんです。
それで2000年8月に丸井の退職金をすべて使って、有限会社「フジヤマストア」を立ち上げました。この月30万の業務委託契約からサラリーマンではなく、独立した自営業者としての人生が始まったわけです。
会社といっても、実態は僕ひとりだけの個人事業でしたが、大手企業は法人じゃないと口座を開いてくれないので、法人にしたのです。設立当時の主な業務は広告代理業とマーケティングのコンサルティングなどでした。
「フジヤマストア」という社名はメイド・イン・ジャパンのイメージを前面に打ち出して世界と一緒に働くぜ、みたいな気迫を込めてつけました。海外を意識していたというか、そもそも学生時代に海外放浪をしたせいで、海外っていうものを特別意識したことがないんです。生意気に聞こえるかもしれませんが、僕の中では別に日本も海外も同じ。例えばロンドンは大阪、ニューヨークは広島みたいな、そんな感覚なんです。
いきなり1600万円の借金
ところが会社設立早々、たいへんなことが起きました。某出版社の役員がすごく気を遣ってくれて、個人に近い有限会社だけど「口座開いてあげるから、うちの広告代理店としてやってみなさい」て言ってくれたんです。そしたら独立した翌月、IT系の企業から広告が10ページも取れたんです。広告総額1600万円。これは幸先がいいってすごく喜んだのですが、なんとそのIT企業が計画倒産してしまったのです。
初めての商いなので、こちらの代理店マージンを限りなく安くして広告枠を売ってました。だからこちらの取り分は最初からわずかだったんですが、そもそものネットの広告代金1600万円が入ってこないわけですよ、倒産してしまったから。
このときは本当にどうしようかと思い悩みました。出版社に払わないという選択肢もありえます。クライアントが倒産しちゃったから申し訳ありませんと。でも好意で口座を開いてくれた出版社の役員さんの顔にいきなり泥を塗るわけにはいきません。だから全額僕がかぶることにしたんです。
資本金300万の有限会社フジヤマストアが、設立2カ月目にしていきなり1600万円の借金を抱えてしまったわけです。当時の僕にとってはとてつもなく大きな金額でした。
だからそれからはしゃにむに働きました。その甲斐あって、順調に借金は減って、1年で返済できました。まずは家内が看護師だったのがすごく助かりました。彼女の稼ぎを生活費に充てて、僕が稼いだ金をすべて返済に回すことができましたから。
損得抜きで相手のために尽力する
あとはクライアントに恵まれたことも大きいですかね。でも仕事をくださいって営業して回ったわけではないんですよ。そもそもこれまで営業らしい営業をしたことはありません。人様のつてや紹介だとかでなんとかなっているんです。
工夫したことというと、直接お金になるかならないかは別として、目の前に困ってるクライアントがいれば、それを助けるために、丸井で学んだエッセンスを思いっきり投下したことでしょうか。文字通りできることは100%。「見返りを求めずに与える」とかおこがましいものじゃなくて、とにかく困っている人のために僕がもっている限りの力を提供する。今この現在の等価交換ではなく、相手の求めるものに対して尽力するということです。
すると、不思議なことに、そのご褒美は助けた相手じゃないところから返ってくるんです。数カ月後か数年後、全然関係ないところから返ってくる。それは実感として本当に感じます。今僕たちが生活させていただいているのも、そのおかげだと思っています。
もちろん僕自身は無給の1年間でした。当時は莫大な金額に思えた1600万円を返済すべくひたすら働きました。ただ、土日、祝日はきっちり休みましたよ、家族との時間をつくるために。小売業界で働いていた14年間で、土日祝日に休んだ経験ってほとんどないんです。世の中こんなに休みが多いんだって、改めて驚きましたね。
組織に雇われる身分ではなくなったことで、安定的な収入はなくなったが、最初の望みどおり、自分で人生の時間をコントロールする主導権を手に入れることができた。須藤氏にとってはそれがなによりうれしかった。そして、自由に配分できるようになった時間を使って、ボランティア活動にも参加し始めた。そこで感じた違和感が、須藤氏を次のステージへと誘っていく。
福祉の世界を変えたい
プライベートでは、次男を連れて障がい児のための施設に通ってたのですが、施設は運営資金が足りないから、それを補うためにいろんなバザーを開催していました。そこで、丸井のバイヤー時代の取引先が、ボタンが取れかかってるような、会計上ゼロ評価にした後は捨てるだけという洋服の在庫をかなりもっていたので、それをいただいてバザーで売って、そのお金を寄付したり、親御さんたち主催のキャンプの手伝いなどをボランティアとしてやっていました。参加の動機は、うちの次男がお世話になっている子どもたち、またその親御さんたちに対する感謝ですね。
そうやって、僕自身も障害をもつ子どもの親としていろんな障がいを持った子どもたちやその親御さんと触れ合い、僕らを取り巻く障がい者の世界の価値観とか風土、日本の福祉の環境を見たときに、どうしようもない地味な世界だなと思ったんです。
というのは、まず、福祉業界には事実上市場原理が働かないので、競争がありません。だから発展性に乏しいんです。一般社会でいうマーケットや顧客満足の発想が全く存在せず、送り手の意思ですべてが決まってしまうという、ある種の恐ろしさを感じました。
福祉の世界は、まさに高度成長時代の「厚生労働省」管轄の領域で、これを「経済産業省」の土俵にもっていかないと、「改善/改革の継続性」はもはや限界だと感じていたのです。
経済社会でいえば、保育園の運営母体は厚生労働省ですが、この運営に限界・破綻が起こり、今やベネッセなどの民間企業が運営を代行する時代になりました。すなわち経済産業省の領域にシフトしているわけです。
そもそも、日本は戦後50年、美しきものは前へ、見苦しいものは見えないところへ、という歴史でした。障がい者を「見苦しいもの」のカテゴリーに属し、それを正当化するために時の為政者達が「弱者」と美化表現した習慣が、現在の福祉を取り巻く関係各社の根っこにある気がしました。
僕がこれまで会ってきた福祉業界で働く人々も、年配の人であればある程、「かわいそうなひとたちに、施しをしてあげている」という「弱者救済」的考え方が染み付いていました。僕の父親は「障がい児」をあまり人前に出すなという価値観だったし、まさに自分自身もそれに近い価値観を、障がい児の父となるまではもっていました。
そして、僕の次男の将来を考えたとき、彼が成人したときに親として与える資産もなければ家もないので、彼がひとりで生きていくためには世の中を変えた方が早いなと思ったのです。それで、自分なりにもってるノウハウで次男を取り巻く環境、福祉の世界に何か一手が打てないかと模索し始めたのです。
意識のバリアフリーを目指して
また、当時はバリアフリーとかユニバーサルデザインという言葉が一般化してきた頃だったのですが、結局バリアっていうのは物理的なバリアじゃないなと思い始めたのです。
前にも言いましたが、欧米では街中に障がい者の方が当たり前にいて、全然関係ない赤の他人が障がい者の方を当たり前のようにサポートしています。でも日本の場合は特別に扱っています。車椅子の方が電車に乗るときなんて、専用の電動リフトを使ったりしていますよね。
これってやっぱり気持ちの中にバリアがあるからだと感じたんです。気持ちのバリアがなくなれば、周りの人も当たり前のように手を貸すようになります。そうなればどんなバリアがあったとしても、ひとりで車椅子で街に出てこられるようになります。すなわち障がい者と健常者が混ざってる状態が当たり前になりますよね。そういった意識のバリアが本当のバリアなんだっていう認識を明確にもったのが2001年ころです。
その意識のバリアをぶっ壊すために僕が使える最も強力な武器は何かと考えたとき、ファッションだと思いました。丸井の会社員時代に身につけたファッションの力で、意識のバリアフリーを成し遂げ、障がい者と健常者が混ざってる社会をつくることを目指して動き出したんです。
「意識のバリアフリー」をコンセプトとして掲げた須藤氏は、まずニューヨークの著名なデザインスタジオの代表と構想を議論。その新プロジェクトは「ネクスタイド・エヴォリューション」と命名された──。