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第36回
岡田義光氏インタビュー(その1/全5回

岡田義光氏

酒屋の息子から世界的研究者へ
日本を災害から守る
地震研究第一人者の仕事魂

独立行政法人 防災科学技術研究所 理事長岡田 義光

世界屈指の地震大国・日本。頻発する地震から人命を守るため、日々奮闘している男がいる。独立行政法人・防災科学技術研究所理事長・岡田義光63歳。今回は世界的にも認知度が高い地震研究の第一人者に、「人命を守るための研究」という仕事の意義を聞いた。

おかだ・よしみつ

世界的な地球物理学研究者。専門は地震学及び地殻変動論。1945年東京都生まれ。東京大学理学部地球物理学科を卒業後、東京大学大学院地震研究室へ。理学系研究科修士課程修了後、70年に東京大学地震研究所に助手として就職。80年に理学博士号取得。10年間勤務後、先輩の勧めで国立防災科学技術センターへ転職。第2研究部地殻力学研究室長、防災科学技術研究所地震予知研究センター長、同地震調査研究センター長、同企画部長等を経て、2006年に理事長に就任。地震予知連絡会副会長や地震調査研究推進本部地震調査委員会委員長代理などを歴任。留学中の1984年、39歳のときに地震や火山によって地球表面がどのように変形するかを計算する、もっとも一般的でかつ簡潔な形の理論式「オカダモデル」を導出。当該分野の標準モデルとして国際的に広く認知されている。

日本屈指の防災研究機関

現在の私の職務は大きく分けて2つあります。ひとつは「独立行政法人・防災科学技術研究所」という組織の理事長です。

防災科学技術研究所とは「災害から人命を守り、災害の教訓を生かして発展を続ける、災害に強い社会の実現」を究極の目標とする組織です。具体的には、そもそも地震、台風、洪水などの自然災害はどういうメカニズムで発生しているのかという基礎的なところから、自然災害の予知・予測、災害が発生する前の事前対策、それから起きてしまった後の復旧対策など、自然災害にかかわるあらゆることを各分野の研究者が集まって研究しています。

そもそもは1963年(昭和38年)に設立された国立防災科学技術センターが母体です。戦争が終わって日本がだんだん復興を遂げてきた頃に設立されたのですが、当時は、大きな地震とか台風などの自然災害が続いているんです。中でも有名な災害は1959年(昭和34年)9月に上陸した伊勢湾台風(※1)。何千人も死ぬような巨大な災害でした。

それがきっかけとなって今後は国全体で防災に取り組まねばならないという機運が高まり、1961年に「災害対策基本法」という法律が制定されました。それから1962年には中央防災会議という内閣総理大臣が長になっている防災の元締めみたいな機関(現在は内閣府の一機関)が設立されました。そういった流れの一貫として1963年4月に、自然災害全般の研究を取りまとめる中核になるような研究機関が必要だということで、国立防災科学技術センターが設立されたんです(※2)

※1 伊勢湾台風──1959年9月26日に紀伊半島に上陸し、近畿から東海地方で猛威を奮った超大型台風。最大風速75メートルを記録、死者4,697名、行方不明者401名、負傷者38,921名という甚大な被害をもたらした。

※2 1963年4月に国立防災科学技術センターが設立──国立防災科学技術センターが設立される直前の1963年1月には通称サンパチ豪雪という非常に大きな雪の災害が起こった。昭和38年に起きたことが名称の由来。福井県今立町(現・越前市)で315cm、富山県高岡市で225cm、新潟県長岡市で318cmという驚異的な積雪を記録。住宅全壊753棟、半壊982棟・死者数228名、行方不明者3名という甚大な被害をもたらした。この雪害により、防災科学技術センターが設立された翌年には新潟県の長岡に雪害実験研究所という支所が設立され、現在も活動している。

設立当初はこの筑波ではなく、東京の銀座にありました。事務所が銀座というと華やかなイメージがあるんですが、実はですね、東銀座の歌舞伎座の向かいの裏通りの方で、今はJパワーのビルが建っている場所なんですが、当時の通産省の工業品検査所の2階のフロアを間借りして、数十人の規模で発足したと聞いています。エレベーターの扉の開閉が手動という、アメリカの昔のギャング映画に出てくるようなものすごく古いビルの一室からスタートしたんですね。私はこの研究所が筑波に移ってからの勤務なので、その時代のことは知らないんですが、その後も東京連絡所として事務所が残っていたんで、何度か行ったことがあります。

研究所が銀座にあったのは約15年間で、筑波に移転したのが1978年。そこから本格的にここでの仕事がはじまったと。私はこの研究所が移転してきて間もない1980年の3月採用でしたから当研究所勤務は今年(2008年)で28年になります。

トップとして、研究者として

当研究所は2001年に独立行政法人になったのですが、その第2期が2006年に始まりまして、その際に理事長に就任しました。私のほかには理事がひとりと監事がひとり。役員は3人しかいないようなかわいい研究所ですけどね(笑)。

理事長の仕事は研究所全体の管理・運営です。民間企業でいえば社長ですね。具体的な仕事は、何をするにもお金がなければ動かないのは民間企業と同じで、予算をどういう形で確保していくかが重要な仕事のひとつです。確保先のメインは文部科学省、そのほかに外部から共同研究でお金をもらってきたりとか、原資を集める努力をしています。毎年度、研究者からいろいろな研究要望が上がってくるのですが、もちろんそれを全部叶えることは予算的に不可能なので、「今年はこういう研究をやりましょう」という計画を立てて、その実行を管理していく。こういったことが1年のメインの仕事ですね。

それ以外に日常的な細々した仕事がいろいろあります。この研究所で働いている人たちが快適に楽しく職場生活を送れるように環境を整備するとか。非常に細かいことでは、食堂のメニューをどうするかとか。もちろんそういった細かいことは私自身が全部考えるのではなくて、管理部門などから上がってきたものを一緒に検討するという形ですけどね。だけど、大きなことから小さなことまで研究所内のことに関しては全部責任を負わなきゃいけない。万が一、何か不祥事があったときには責任を取って首になるというのが、一番大事な役目ですね(笑)。

ふたつめの仕事は地震の研究です。自分の人生としてはもちろん研究者としての生活がずっと長いです。大学卒業以来、ずっと地震に関わる研究をしてきましたから。その延長線上で、研究所を管理・運営する理事長としての仕事だけではなくて、今も研究者として研究に従事しています。空いた時間には、もともとやっていた自分の好きな仕事、地震に関するいろいろな調べものをしたり、研究論文を書いたりしているんですよ。

さすがに最近は論文を書くペースはだいぶ落ちてきましたけどね。若手研究者が何かの研究をするときに一緒にして共著で論文を出すっていうパターンが多いですね。あとは学会に出席していろんな人と話をしたり、そういったこともライフワークのひとつとして続けています。

現在、日本を自然災害から守る重要な機関のトップとして、また、ひとりの研究者として辣腕を振るっている岡田氏。その原点は子供の頃に見た地獄絵図にあった。

関東大震災の地獄絵図が原点

私は1945年3月20日、東京大空襲の10日後に東京の下町で生まれました。食べるものもろくにない時代ですから、栄養失調で「この子はちゃんと育つのかしらと思った」と、母親から聞いたことがあります。もちろん私自身は全然覚えていませんけど(笑)。

実家は墨田区、両国国技館の近くなんですが、あの辺一帯は東京大空襲で丸焼けになりましたし、その前には大正12年の関東大震災で焼け野原になっているんですね。陸軍被服廠(ひふくしょう)跡(※3)ってところで何万人という人が一挙に死んだ一番有名なところなんです。国技館のすぐ北側の横網町公園はその陸軍被服廠跡で、公園内に震災の慰霊堂があるんです。関東大地震の記念日の9月1日には縁日が出るんですよね。

子供だから喜んで行きますよね。そうするとそのときだけ御開帳っていうのかな、普段は慰霊堂の中には入れなかったと思うんですが、縁日の日は入れるんです。すると中に絵がたくさん飾ってあるんですね。関東大震災でたくさんの人が死んだときの悲惨な絵とか、屍が山になっているとか、まさしく地獄絵図ですよ。子供心にも恐ろしい光景が並んでいたんですよね。そんな絵を見たときに、「こんな悲惨なことにならないために、大災害から人びとを守るために地震の研究をやろう」と志したわけではないのですが、潜在的にはそういう気持ちがあったのかもしれません。後に進路を選ぶときに、どこかでこのときの光景が引っかかっていたのかもしれないですね。

※3 陸軍被服廠跡──空き地に避難していた約4万人が迫り来る炎で焼け死んだ。被服廠とは軍の衣料品を調達する施設

高校進学が最大の転機

小学生のころは普通の男の子と一緒で、電車の運転手になりたいといった幼い夢しかなかったですね。実際に自然現象を探求することに興味を持ち始めたのは高校に上がったころです。この高校進学が私の人生で最初で最大の転機でした。

当時私の実家は酒の小売り店でした。今はもう廃業しましたけどね。私は長男だったので、親は私に商売を継がせたかったんです。そろばん塾にも通わされて3級くらいまではいったんですけれども(笑)。だから高校に進学するときに、親としては商業高校に行かせたかったわけです。

しかし中学3年になって進路を決める時期に、担任の先生が「義光くんは数学が好きだし理系の方が向いていると思うから両国高校を受けさせたらどうか?」と親に話したところ、親はしぶしぶ、「じゃあ両国高校を受けてダメだったら商売の道に行かせる」と言いました。結果は合格。両国高校へ進学することになりました。

この中学から高校に進学するときの選択、商売の道に行くか、それとも好きな学問の道に行くか、というのが第一の分かれ目だったんですね。もしこのとき両国高校に落ちていたら、今ごろ私は酒屋のおやじだったんです(笑)。 このとき、人生の最初の岐路で学問の道へ方向をつけてくれたという意味で、「両国高校を受けてみたら」と言ってくれた中学の担任の先生は、私の人生を決定付けた人と言っていいでしょうね。

地学部で開眼 自然科学の道へ

親は、両国高校に入学(※4)後は商売を継がせることは考えずに「あとはお前の好きなようにやれ」と言ってくれました。ですので、その通り好きなことをやりました(笑)。

部活は地学部に入りました。要するに自然が好きだったんですね。授業でも、理科って生物と地学と物理・化学がありますよね。たいていの人は受験のことを考えて物理、化学、生物を選択するのですが、私は自然が好きだったので地学を選択したんです。その地学の授業の一番最初に先生は「地学っていうのは自然現象から生命を除いたすべてだ」と定義されたんですね。いまだに覚えているんですが、これはすごいなと思ったんです。

実際、担当された先生は、今思うと地質の先生だったんですが、当時は今みたいに近代的な技術がなかったにも関わらず、天文、気象、海洋、地震、火山など、いろいろ幅広く話をしてもらって、「自然はおもしろいなあ」と。今思えば、そう思ったのがこの世界に入ったきっかけですね。

地学部の活動は楽しかったですよ。部員は少なかったですけどね(笑)。夜に天体観測をしたり、伊豆大島に地層の観察に行ったり。担当の部長の先生が地質の専門家だったからでしょうが、夏休みに伊豆大島に渡って、地層が見事にしゅう曲しているのを説明してくれたりとか。そういうのが楽しかったですね。

また、その後にもつながるのですが、自然相手の研究は現場に行かなければ始まりませんから、あちこち旅ができますよね。ずっと下町育ちで、あまり外に出る機会がなかったものですから、あっちこっち行けて楽しいな、みたいなのは素朴にあったかもしれないですね。

一方で、自然現象をコツコツ毎日観測するといった地味な作業も好きでした。高校卒業時に皆勤賞をもらったんですが、並の皆勤賞じゃないんですよ。地学部では毎日気温や風速などを記録する気象観測をやっていたんですが、学校は家から徒歩10分ほどだったので土日も学校に行って観測していたんです。そういうことを積み上げてコツコツ続けることに、幼い使命感みたいなものがあったんですね。だからただ月曜日から土曜日まで勤勉に通ったというだけじゃなくて、日曜日も通って気象観測していたという思い出がありますね。

※4 両国高校に入学──「当時、両国高校は日比谷高校や開成高校と並んで有名受験校のひとつでした。両国高校をもじって「牢獄高校」って呼ばれていたんです。みんな灰色の受験生活っていうんですけれどもそうでもなかったですね。8クラスあるんですが、ほとんど男子生徒なんです。3年生になると、就職希望者や志望先の大学によってクラスを分けるんです。6クラスが男子だけ、1クラスが女子が数人、残りの1クラスだけ男子と女子が半々くらいだったんですが、そこにたまたま入ったんです。このクラスがけっこう楽しかったんですね。運動会で優勝したりとか、みんなで和気あいあいとやってました。だからそんなに苦しいって感じはしませんでしたね」(岡田氏談)

東京大学で地球物理学を専攻 地震研究の道へ

高校進学に比べて、大学進学のときはあっさりというかのんきだったですね。東京大学を受験したんですが、特に理由はなく、東京にいたからわざわざ地方へ行くこともないし、実家から通えるからいいかなと思ったくらいです。東京大学ひとつだけ受けて、ダメだったら大学進学はやめて、実家の酒屋を継ぐ道もあるかなと思っていましたから。それで別に悲壮感もなく、東京大学の理科2類を受けてみたら、たまたま運よく受かってしまった。

1、2年は教養課程で全般的に学びますが、3年生になるときに進路選択を迫られます。まず理学部か工学部か、当然理学部を選択するわけですけど、その中でも純粋物理学とか地球物理学とか天文学とかいろいろな学科に分かれてるんですね。まあそれほど強いこだわりもなく、どれでもよかったんですが、気象観測をしていた経験があったからでしょうかね、地球物理学科を選びました。同じ学年で入ったのが13人くらいでした。

地球物理学を選んだ強い理由は特にこれといってなく、自然が好き、自然現象のことを研究してみたいと思ったくらいですかね。同級生の中には物理学科に進む人が数としては多かったのかな。でも物理や化学ってなんとなく実験室に閉じこもって朝から晩まで実験をやるっていうイメージがあって。そういうのは嫌だっていうのがあったのかもしれないです。

その点、地球物理学は、フィールドワーク主体であちこち観測に行ったり、野山を駆け巡るというか、そういうのがオープンで楽しいと思ったのでしょうね。高校のときの地学部が楽しかったのが強い印象として残っていたのかもしれません。

地球物理学に入って3〜4年して大学院に進むときに、今度は地震学、地球力学、気象学、地球電磁気学といった教室を選ばないといけないんです。

大学で学ぶ地球物理学は地球を対象にする学問って感じでまだ漠然としているんですね。地震学から海洋学から、いろんなものをひととおり、広く浅く学びます。そこから大学院に進学するときに、自分の好きな専門学科を選ぶということになるんです。

その当時、実は気象学に進もうと思ってたんです。気象が一番人気があったんですよ。気象とか海洋ってのは、なんとなく学問的だったんです。流体力学の方程式とかで、いわゆる天気予報をするなど、非常にスマートに見えたんですね。私の同級生でも気象教室を志望する人が多かったです。でもそのときみんなと同じことをやってもしょうがないかなっていう、ちょっと反骨心みたいなのがあったんですよね。

一方、地震などは、地球の内部で起こることですからなんとなく地味な感じがして、人気がなかったんです。当時は世の中から注目もされていませんでしたし、地球物理学科の中でも一番地味な学問だったんですよね。だからあんまり人がやらないところに行くのもいいんじゃないかって思ったんです。

もちろん興味もありましたよ。要するに地震って地下で起こる現象で、地球の中を地震の波が伝わってくるのをキャッチして、地球の中の構造がどうなっているのかを調べるという非常にアカデミックで地味な学問が地震学だったんですね。そういう、地球の内部で起こっている観測データをコツコツためて、地震のメカニズムを解析するというのが、推理小説じゃないですけど謎解きみたいで楽しそうだと思ったんですね。地震教室に入ってみたら同級生は私のほかにひとりしかいませんでした。だから、最初から「何が何でも地震をやりたい」といった強い希望や志があって地震の方向に進んできたわけじゃないんですよ。

最初の仕事はハンダゴテでアンプ製作

大学院の地震学教室での勉強も楽しかったですよ。もう亡くなった浅田先生という教授が私の恩師だったのですが、非常におもしろい先生で、地震学という学問よりもエレクトロニクスが大好きでね。車の運転も好きで、よく、地球の中で何が起きているかを調べるフィールドワークに出ていました。そういったデータを取るために観察、観測することに重きを置く先生だったんですね。

だから最初に先生の元でやった仕事はアンプつくりです。トランジスタを勉強して、ハンダごてを握ってね。浅田先生は世界で初めて微小地震(人間にも感じない非常に小さな地震)を見つけて世界中に広めた先駆者なんですが、微小地震をキャッチするための装置を作っていたんです。

地震計って単純なもので、マグネットの中で振り子が揺れるだけのものなんですが、そこで起きる電気をアンプで増幅して、当時はまだオープンリールのテープレコーダーに録音して、あとからそれをプレイバックして、地震の揺れを分析するという仕事だったんですね。

その地震計のアンプを作ったり、作った地震計を持って野外へ出かけて泊まり込んで観測するということが非常に楽しかったです。この辺の喜びは高校時代の地学部と同じですね。だから地震学もあんまり覚悟してとか使命感のようなものはなく、観測する楽しみみたいなところから入っていった記憶があります。

しかし、ただ観測にだけ出かけていればよいというわけにはいきません。一方でその教室の助教授に佐藤良輔さんという人がいて、この人も亡くなっちゃいましたけれど、この佐藤さんは地震の理論の先生だったんですよね。こちらの先生からもいろいろ薫陶を受けました。ですから地震の観測と理論の両方で素晴らしい先生に恵まれて、とてもラッキーでした。

防災科学技術研究所では24時間体制で日本全国の地震を観測している

大学院に進学後、本格的に地震研究の道に足を踏み入れた岡田氏。研究に明け暮れる毎日の中で、幸運にも在学中に就職先が見つかったが肩書きはいきなり「所長」だった──。 次回は若き研究者としての苦闘の日々と、運命を変えた転機に迫ります。

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