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魂の仕事人 第19回 其の五
すべて受け入れ、全部やり尽くした 人には生きるための強い力がある 子供たちに伝えていきたい
 
子供たちへの思いを胸に、続けるためではなく勝つために、再び走り出した坂本。血のにじむようなトレーニングに挑戦し、最後のリングではすべてを出し切った。二人の子供のため、家族のため、ファンのため、そして自分自身のために。しかしリングを降りても坂本の目はギラギラしている。坂本は人生の新しいリングで、これからも戦い続ける。  
元プロボクサー(元東洋太平洋ライト級チャンピオン) 坂本博之
 

筑波大での肉体改造トレーニング

 

 腰の手術からの復帰戦で負けても現役続行は決めてましたが、日本ランカーに勝つためにはこのままではダメ、肉体を変えるくらいの新しいトレーニング方法が必要だと思っていました。それで知り合いのスポーツライターに以前教えてもらった筑波大学の白木教授(注1)を紹介してもらって、筑波までトレーニングに通い始めたんです。

 このとき34歳だったんですが、普通に考えれば厳しいですよね。僕がハタチのころ、34歳のボクサーを見て、すげえな〜、よくやってんな〜って思ってましたから。でもその自分が34歳からより強くなるために、新しいトレーニングを取り入れて再スタートを切ってるんですよね。

 トレーニングは外側の筋肉を鍛えるんじゃなくて、内側の筋肉、体幹のインナーマッスルを鍛えるものでした。手術をすると、アスリートはみんな身体が固くなるんですね。やり始めの頃、僕は50〜60歳くらいの身体の固さだったらしいですよ。その固くなった身体をどうやって柔らかくしていくか、とにかく徹底的にやりました。

 2005年9月から1年4カ月の間、週に一回、筑波大学体育総合実験棟に通ったんですが、トレーニングをしていくにつれて身体がどんどん柔らかくなって、小刻みな動きができるようになりました。自分でも身体が内側から変わっていくのがはっきりと分かるくらいでした。

注1 筑波大学の白木教授──相撲、野球、スピードスケートなどのトップアスリートに、独自に開発したトレーニング法を指導している。元巨人軍の工藤公康投手の17年来のトレーナーとしても有名。ちなみに紹介してくれたライターは白木教授と面識はなかったのだが、坂本のために頼み込んでOKをもらってくれたのだという。

トレーニングの成果は徐々に現れてきた。これまでできなかった動きができる。それは試合の結果にもつながった。2006年1月14日に行われた試合で3ラウンドKO勝利。3年7カ月ぶりの勝利だったが、それ以上に特別な勝利だった。

ようやくひとつ前に進めた
 
2006年1月14日に行われた試合で、腰のヘルニア手術から復帰後、KOで初勝利。実に3年7カ月ぶりの勝利だった(写真提供/角海老宝石ボクシングジム)
 

 この手術後の初勝利で、初めてようやくひとつ進めたかなと思いました。このときの試合で使ったグローブはジムから買い取って部屋に吊るしてます。こんなことは47戦中初めて。最初で最後でした。

 僕はデビュー当時からボクシング関係の物は家に置かないようにしてるんです。トロフィーやベルトすらも。やっぱり毎日つらい練習をして、ジムにいるときはずーっと気が張ってますからね。せめて家にいるときくらいはボクシングから離れて心安らかに過ごしたかったんです。

 でもこのグローブだけは部屋に置いておきたかった。家族の思いがそうさせたんです。

 復帰戦に向けてのトレーニング中に子供が亡くなって、復帰戦でもKOで負けて、でもあきらめずにそこから新しいトレーニングを取り入れて、ようやく勝てたグローブですから。いろんなことを受け入れて前に進めたひとつの証なんですよね。買い取った後、僕とウチのやつ(奥さん)、そして子供たち2人の名前を書いて、仏壇の置いてある部屋に吊るしたんです。今でも吊るしてます。

坂本は続いて6月の試合にも1ラウンドKOで勝利。復活へ向けて順調にステップを踏んでいるかのように見えたが、再び暗雲が立ち込める。原因不明の発熱が続き、頭痛が止まらない。常に身体がダルく疲れが取れない。決定的だったのは満足のいく練習ができなくなったこと。ここでついに坂本は現役引退を決意した。最後のリングに上がった坂本のトランクスには「夢」と「志」という二文字が縫い付けられていた。

「夢」と「志」
 

 あの二文字は亡くなった二人の子供の名前から一字ずつ取ったものなんです。それまではほんとにリングに私情を入れたことがなかったんですが、このときは初めて私情を入れました。最後はこの二人のためにボクシングをやってたよ、これでもう父ちゃんはグローブを置くよ、だからちゃんと見ててくれよっていう気持ちを込めてトランクスに入れたんです。

 あれを見た僕の親しい友人は納得したみたいでしたね。ああ、ほんとにこれで最後なんだなって。

 
最後の試合を終え、リングから去る坂本。途中、大勢のファンから「坂本、愛してるぞ!」の大合唱が起こった(写真提供/角海老宝石ボクシングジム)

 試合結果はドロー(注2)でしたが、全然悔いはなかったですね。最後はほんとに全部出し切った。俺らしいファイト、子供たちにも胸を張れる戦いができた。この二人がいなかったら、最後の踏ん張りはきかなかった、ここまでボクシングを続けることはできなかったでしょうね。

 だから最後、花道を通って帰るときに、ウチのやつの顔がちらっと見えたんで、トランクスに縫い付けた「夢」と「志」を拳で叩いて見せたんです。

 見たか、やったぞ、こいつらのおかげで最後まで戦えた、こいつらが守ってくれたんだぞって。前々からそうしようと思ってたわけじゃなくて、ウチのやつの顔を見たとき、自然と出たんだよね。

注2 試合結果はドロー──引退試合に関する詳細はインタビュー其の一を参照

勝利者としてリングを降りた
 

 と同時に、最後の試合が終わってリングから降りたときに、勝利者としてリングから降りることができたなってすごく満足したんです。それは試合の結果じゃなくて、ボクシングに対しての勝利者ということです。

 確かに僕には世界チャンピオンという称号はないよね。ベルトもない。最後の試合の結果もドローだった。でもリングを降りるときの大勢のお客さんの大歓声を聞いたとき、俺は勝利者だなって思ったんです。全部やりきった勝利者だなって。

 僕は今までそれを求めてたんだと思います。今まではそれがなくて、ずっとなくて、そう思ってリングから降りるのが僕自身の人生の目的だったんじゃないかなという気さえしてるんですよ。

 家に帰って、仏壇の前で子供たちに語りかけました。見ていてくれたか? 父ちゃん、頑張っただろって。ボクシングはもういいや。次のことで頑張るから一緒にやっていこっかって。でもそれは最後の試合だから特別だったというわけじゃない。子供はいつもそばにいるもんだから。毎日やってるように、ごく普通に語りかけただけです。

子供の仏壇が置かれた部屋には、最後の試合で着用したトランクスやガウン、復帰後初勝利のときのグローブなどが吊るされている。坂本の腰に巻かれているベルトは、和白青松園の子供たちが作ってくれた手作りのチャンピオンベルト。坂本にとっては、どんな国際団体の公式ベルトよりも価値あるものだ(写真提供/坂本博之)※クリックで拡大

坂本はここ数年のつらい出来事、そしてどういう気持ちで戦ってきたのか、その真意をこれまで語ってこなかった。その経緯が初めて記事として公表されたのは今年1月に発売されたスポーツ雑誌。しかし、公表を決めても坂本の心は揺れていた。

今だから語れる
 
最後はまさしく坂本の生き様がにじみ出る戦い振りだった(写真提供/角海老宝石ボクシングジム)
 

 ここ数年、つらい状況でも続けてきたボクシングの一番のモチベーションは、子供のことに尽きます。これ抜きには語れない。もちろん、自分自身が強くなりたいとか、応援してくれるファンのためという気持ちも強かったのですが、それだけではここまで続けてこられなかった。

 亡くなった子供たち、家族に対して、自分がもう一度、もっと強いところを見せなきゃいけない。そこが本当の最終地点だなって思ってた。

 子供の件は親しいライターは知ってて、当時も取材を受けたりしたんだけど、雑誌などで記事にするのを3年くらい拒んでた。当時はまだ心の整理がついてないし、とても世間に公表できる気持ちにはなれなかった。特にウチのやつがとてもじゃないけど絶対無理、やめてくれって。それからも、ずーっとダメって言ってた。

 その公表をOKしたのが、今年に入ってから。『ナンバー』(注3)っていう雑誌に初めて子供を失ってからこれまでの経緯が掲載されたんです。

 公表をOKしたのはほんとにタイミング。掲載が引退後とか、いろんなタイミングが合ったんだろうね。でも公表するって決めてからも、本当に公表していいのかなって、気持ちはすごく揺れてたよ。その事実を記事として公表することがウチのやつを傷つけるかもしれないと思ったり。だから1月6日の引退試合が終わってからも、この記事が出るまでは俺はずーっと気が張ってたんだよね。

 でも、やっぱり命というものの大切さを、今の世の中の人たちにわかってもらいたいという気持ちが強かった。自殺やいじめや虐待が繰り返されている世の中で、もっともっとひとつの命の重さをわかってほしかったから。記事を読んだ人の反応からは、わかってくれたんではないかなと思ってるけどね。

注3『ナンバー』──『スポーツグラフィック・ナンバー』(文藝春秋)の670号、2月1日発行号に「命。坂本博之の決断」(文・高山武将)と題して5ページにわたって、当時の坂本夫婦の心象と引退に至るまでの詳細な記事が掲載された

「たら・れば」を言いたくなかった
 
最後のリングには、子供のため、妻のため、そして自分のために立った。その顔は晴れやかだった(写真提供/角海老宝石ボクシングジム)

 今、子供を亡くしたとき、ボクシングを辞めないでほんとによかったなって思う。あのときボクシングから離れて違う世界に行ってたら、今の僕は絶対になかった。すべてを受け入れて、ボクシングをやってきてよかった、ボクシングに関してはほんとに全部やりきった、現役生活に未練は全くないという、こんな気持ちにはなれなかっただろうね。

 もしあのとき辞めてれば、今頃「もし続けていればどうなってたかな」って、「たら・れば」をぐじぐじ考えてるでしょうね。そういう人間にはなりたくなかった。だから意地でもやらなきゃならないって思ったからやれたというのもありますね。

 考えてみれば僕の人生はすべてそうかもね。「たら・れば」を言いたくないから、手術してまでもボクシングをやった。「あのとき手術していればどうだったんだろうか」っていう可能性を残したくなかったから、グローブを置かなかった。復帰戦で負けてから、新しいトレーニング方法に挑戦したのだって、「あのときあのトレーニングをやっていればどうだったんだろう」って、後になって思いたくなかったから。

 できることは全部やりきったから、今の僕には「たら・れば」はないですよ。

さまざまな試練を通して、人の強さを実感したと坂本は言う。神様とだってケンカしてやるといい続けた強靭な人間が、子供の死によって一度は生きる気力を失いかけた。しかし子供のため、妻のため、自分のために再びボクシングに戻り、結果、自分を取り戻していった。今なら、すべてを受け入れ、これからの人生もしっかり歩いていける。そんな坂本は、新たな使命を感じていた。

結果じゃなくて過程が大事
 
試合後、ファンに挨拶する坂本。すべてを出し切ったという充実感にあふれていた(写真提供/角海老宝石ボクシングジム)
 

 今後は子供たちのために、自分の経験を通して得たことを話していきたいと思ってます。例えば引退試合の後にも言ったんだけど、結果よりも過程が大事だってことなんかをね。

 腰のヘルニアの手術をして入院したときに、同じ病院に当時中学生だったタッちゃんって子がいたんです。ブランクからの復帰後、初めて勝ったときに、彼に電話で報告したんですよ。そしたらその子のお母さんがすごく喜んでくれたんですよ、勝った勝ったって。でもタッちゃんはお母さんにこう言ったんです。「今回勝ったことよりも、ボクシングを続けたことをほめてあげなよ」って。

 それを聞いて、まだ中学生だけど、ああ俺と同じなんだなあ、同じ土俵で戦ってるんだなあって思ったんだよね。

 タッちゃんは中学一年までは普通の生活を送ってた。剣道が強くてね。佐賀県のチャンピオンにもなってた。だから将来は剣の道で、優れた武道家になるだろうって周囲からとても期待されてたんだけど、ある事故で頚椎に深刻なダメージを負ってしまった。当時は全身麻痺で、医者からは手術しても寝たきりの生活になるだろうと言われてた。でも手術したら奇跡的に感覚が戻った。だけど寝たきりの状態には変わりなかった。でも彼の魂はあきらめなかったね。そこからめちゃめちゃリハビリを頑張った。それで普通の高校に入っちゃったんだよね。

 すごいヤツでしょ。入院当時から、その必死で頑張ってる姿を見て、なんてすげえやつなんだって感動して、友達になったんだ。今でもすごく頑張ってる。先日福岡で会ったんだけど、そのとき彼に「頑張ってんのはわかるから、頑張りすぎないようにな、少しは息を抜こうな」って言ったら、「いやいや、まだまだ足りない」って(笑)。

 その土俵に上がって戦ってる人たちって、自分の生き様、結果じゃなくて過程をすごく大事にするんだよね。

 年齢は関係ないよね。病院には80歳の人もいたんだけど、その人もその人の土俵で一生懸命戦ってた。そういう人たちを間近で見て、人間の底力のようなものを感じたんだよね。人間て本当に強いんだなって、この歳になって改めて思い知らされた。考えてみれば俺自身も6〜7歳のころから戦ってたんだよね。

そのときすぐに結果を出せなくても、自分がその過程で一生懸命やってればいつかは何かが返ってくる。一生懸命やって負けたからといって、そこで気持ちが萎えることはない。土俵から降りずに戦い続けてることで絶対、しっかり返ってくる。

 自分に対してだけじゃなくて、人に対しても同じ。熱をもって接すれば熱をもって返ってくる。すぐには返ってこないかもしれないけど、いつか絶対自分に返ってくる。俺がこの15年間でボクシングを通して教えてもらったことはこういうことに尽きるね。だから、土俵から逃げずに、今を頑張ることが大事だと思うんだよね。

伝えていかなければならないことがある
 

 結果じゃなくて過程を大事にする人って、初めからそうだったんじゃなくて、経験によってそうなったんだよね。

 ウチのやつもそうなんだよ。初めから強かったわけじゃない。僕と一緒にいろんなことを経験してきた。母親になったと思ったら子供の命を2度も続けて奪われた。なぜそうならなくちゃならなかったのかとすごく苦しんだ。でも、その苦しい格闘の中で、生きて生きて生きて、自分から命を絶とうとしなかった。乗り越えることはできなくても、受け入れることはできた。そして進んできた。

 みんな、つらい状況にいたとしても、何かに打ちのめされて負けたとしても、そこから逃げないで、どう打開しようかって自分と格闘してきたんだよね。常に戦ってる。負けても常に前に進んでる。

 そういう領域にまでなると、人はどんな絶望的な状況になっても生きていける。簡単に命を捨てようとはしない。受容の過程を踏んで前に進めれば、何も怖いことはない。そういうことを伝えていかないといけない人たちなんじゃないかなって思う。

 僕も今、人に対して自信をもって自分の意見を言えるというのは、あのとき逃げなかったから、戦いの土俵から降りなかったから。戦い続けたから。

 立ち向かうことが大事なのは一般の社会人も同じだよね。いかに真正面からぶつかり合って、真っ向勝負するか。その結果、勝つ者もいれば負ける者もいる。負けた者がダメかといえば全然そうじゃなく、負けて、それでも前に進むってことは、勝つことよりも得ることが多いんですよ。

 これまでは言葉はいらないって思った。言葉じゃなくて、戦う姿勢がメッセージだったから。それは試合を通してファンに伝わっていたと思うんだけど、リングを降りた今後は言葉で伝えていきたい。

 特に今の子供たちにいろんなことを伝えていかなきゃいけないって思う。使命感だよね。だから声を大にして伝えたい。どんなことがあってもあきらめるな。挫けてもいいから這い上がれ。その力が人間にはある。それを信じろ。怖いことなんか何もないと。

坂本は現役時代、幼い頃に過ごした児童養護施設をたびたび訪れたり、経済的なサポートをするなど、子供たちのためにさまざまな支援を行ってきた。今後はそれをもっと広げていくのが夢だという。

原点に返って
 
和白青松園の子供たちお手製のチャンピオンベルトを巻いて(写真提供/坂本博之)

 今後はボクシングのトレーナーとして、今の若いボクサーに僕の経験してきたことを伝えていきたいと思っています。手始めに、3月からアメリカのボクシングジムにトレーナーの勉強をしに行ってきます。

 帰国してからは、トレーナー修行と平行して、2000年に設立した「こころの青空基金」を中心として、恵まれない子供たちのサポート活動をしていくつもりです。

 この基金は、すべての子供たちは平等でなくちゃいけないという理念で僕のファイトマネーの一部から設立したものなんです。まずは2000年に僕が暮らしていた児童擁護施設の和白青松園にパソコンを送ったのがきっかけです。そのころ、一般家庭にはパソコンが普及してて、子供もパソコンに接することが普通になり始めてたんですが、まだ青松園にはパソコンがなかった。だから、青松園の子供たちも、一般家庭の子供たちと同じようにパソコンで視野や世界を広げて、自分のやりたいことや夢を探すのに役に立ててほしいと思ったんです。

 そういうことをテレビや新聞で話したら、青松園にパソコンを送ってくれた人がいたんですよ。今では10台くらいに増えました。そのほかにもたくさんの人がおもちゃとかいろいろ送ってきてくれてるんです。

 これまで集まった寄付で、青松園にテレビを送ったり、子供たちを試合に招待したりしてきたんですが、今はまだ青松園だけというが現実なんですね。募金といってもそんなに多くは集まらないので、ここまでやるのが精一杯なんです。だからこれからはもっと規模を大きくしていって、全国的に広げていきたいと思ってます。それが僕の一番の目的ですね。ボクシングを志したのも、世界チャンピオンを志したのも養護施設のおかげですから。原点に返って、ということですね。

子供たちのための学校を作りたい
 

 これからとりあえず、全国のいろんな養護施設を回って子供たちと一緒にメシを食ったり、遊んだり、話をしたいと思ってます。

 そういった活動を長いスパンでやっていって、ゆくゆくは自分で施設や学校を作りたい。現役のときは勝つことをモチベーションにしていたけど、これからはそういうものをモチベーションにして生きていきたいなと思うんです。今の施設の子供たちが大人になって僕みたいに思ってくれるようになれば、またそれを子供たちに伝えていってくれればいい。思いは受け継がれていきますから。それを僕があと20年後、30年後に聞くことができたら、こんなにうれしいことはありません。

 
2007.2.5 ボクシングは「生き様」
2007.2.12 死をも思った幼少期
2007.2.19 練習で泣いて、試合で笑え
2007.2.26 突然襲った不幸 絶望の日々
2007.3.5 子供たちのために

プロフィール

さかもと・ひろゆき

1970年福岡県生まれ、36歳。日本ライト級チャンピオン、東洋太平洋チャンピオンに輝いた元プロボクサー。2007年1月に現役引退。

幼少時代を過ごした児童養護施設でボクシングのテレビ中継を見て、プロボクサーを目指す。

現役時代のニックネームは「平成のKOキング」。KOの山を築いた強打と打たれても前へ出るファイトスタイルで熱狂的なファンをもつ。4度にわたる世界挑戦の敗退、さらに椎間板ヘルニア手術による2年7カ月のブランクを乗り越え、最後の最後まで現役にこだわる。特に2000年に行われた畑山隆則とのWBC世界ライト級タイトルマッチは伝説の試合としていまだに語り継がれている。

困難や逆境にへこたれず挑戦し続けるその生き様は多くの人々に生きる勇気を与えた。記録よりも記憶に残る不撓不屈のボクサー。

●主な戦績
通算47戦39勝(29KO)7敗1分

1991年12月 デビュー戦をKOで勝利

1992年12月 東日本新人王ライト級チャンピオン(デビュー以来6戦連続KO勝利)

1993年12月 全日本新人王ライト級チャンピオン、日本ライト級チャンピオン

1996年3月 東洋太平洋ライト級チャンピオン

1997〜2000年 4度世界ライト級タイトルマッチに挑戦、敗れる

2002年 腰のヘルニア手術〜リハビリで2年7カ月のブランク

2005年5月 復帰戦に敗れる

2006年1月 3年7カ月ぶりの勝利

2007年1月 現役引退

●詳しいプロフィール、戦績、近況は、
角海老宝石ボクシングジム・オフィシャルWebサイトか、坂本博之さんのブログ:「ラストファイトまで不動心」へ!

●こころの青空基金
坂本氏が2000年7月に設立。各種チャリティイベントなどの募金活動を通じて、全国の養護施設にいる子供たちを支援している。
 
おすすめ!
 
『僕は運命を信じない 不滅のボクサー坂本博之物語』(西日本新聞社)

絶望の中でも夢を追い続け、はい上がってきた坂本の壮絶な半生を通じて、「生きる」という意味を問いかけている一冊。いじめによる自殺、児童虐待などが相次ぐ中、坂本さんは「どんな環境や境遇に生まれようとも、生きてさえいれば人は前に進むことができる」と訴えている(西日本新聞社Webサイトより)。

 
 
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魂の言葉 魂の言葉
人間にはどんな絶望的な状況になっても生きていける力がある。それを信じろ 人間にはどんな絶望的な状況になっても生きていける力がある。それを信じろ
第20回 コオプ・コーディネーター 小島貴子さんインタビューへ


協力/角海老宝石ボクシングジム
http://www.kadoebi.com/boxing/

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