キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第40回 ネクスタイド・エヴォリューション代表 須藤シンジ-その3…

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第40回
須藤シンジ氏インタビュー(その3/全6回

須藤氏

苦節5年で夢の宣伝課へ
ドでかい仕事を次々達成するも
燃え尽きて真っ白な灰に

フジヤマストア代表/ネクスタイド・エヴォリューション代表須藤 シンジ

1年間の命懸けの債権回収業務でまたもや結果を出した須藤氏は、丸井の花形・渋谷のヤング館へ栄転。ジュニアマネージャーとして現場の販売員を束ね、業績アップに貢献した。その後、半年間の商品部の係数管理業務を経て、カード企画部への異動の辞令が下った。これが夢の宣伝課への布石となった。

すどう しんじ

1963年、東京都生まれ。有限会社フジヤマストア、有限会社ネクスタイド・エヴォリューション代表。3児の父。
大学卒業後、丸井に入社。販売、債権回収、バイヤー、宣伝など、さまざまな職務を経験、その都度輝かしい実績を打ちたてる。特に30歳のときには丸井の新しい業態「イン・ザ・ルーム」、「フィールド」の立ち上げに主要メンバーとして参画。丸井のイメージの一新に貢献した。次男が脳性まひで出生したことにより、14年間勤務した丸井を退職。マーケティングのコンサルティングを主たる業務とする有限会社フジヤマストアを設立。
2002年、「意識のバリアフリー」を旗印に、ファッションを通して障がい者と健常者が自然と混ざり合う社会の実現を目指し、有限会社ネクスタイド ・エヴォリューションを設立。以降、世界のトップクリエイターとのコラボで、障がいの有無を問わず気軽に装着できるハイセンスなユニバーサルデザイングッズや障がい者を街に呼び込むための各種イベントを多数プロデュース。ネクスタイド・エヴォリューションが手がけたスニーカーはあのイチロー選手も愛用しているという。
年を経るごとに須藤氏のコンセプトに賛同する企業は増え、意識のバリアフリーの輪は少しずつだが、確実に広がっている。

カード企画部へ異動

バブルが崩壊へと向かっていく1990年代初頭、丸井の経営戦略も方向転換を強いられるようになりました。簡単に言うと経費削減です。バブル崩壊を実感しつつ、その後数年に渡って続く経費削減に、早めに着手した時期だったんです。

ちょうど今の時代とかぶるかもしれませんが、そんなとき、真っ先に削られるのが費用対効果が測りにくい宣伝・広告費。中でも一番意味のわからない金の使い方をしていたのが、宣伝課がもってたイベントプロモーションだったんです。

だから、このイベント部分だけが宣伝課から切り離されて、カード会員のメリットになるような企画を考える「カード企画部」という部署へ移ったんです。そのタイミングで、時の上司から「おまえがそんなに宣伝をやりたいんだったら、まずはカード企画部で好きな企画をやってこい。そこまでの橋渡しはしてやる」と言われ、カード企画部に異動となったんです。

基本的な業務は、元々宣伝課が手掛けていたスポーツや音楽系のイベントの企画運営をそのまま引き継ぐ形となりました。具体的には「丸井プロサーフィン大会」や、音楽系の「丸井サウンドスペシャル」というイベントの企画運営などです。今思えば信じられない金額を使ってましたよね。あとは、ファッションやイベント情報を掲載した丸井のカード会員向け情報誌の制作などです。

要するにこれまで多目的で、不特定多数の顧客に向けて打っていたイベントを、カード会員のメリットにどう紐付けていくかという実務を行っていたわけです。

会社の命令に逆らう

実はこのカード企画部が子会社としてその半年後に独立、分社化することになったんですよ。当然、カード企画部に在籍していた社員は丸井の本社から新しく子会社化するカード会社に出向っていう形になるわけです。その際、一応、上司は「あなたは出向を合意しますね」とカード企画部のスタッフに確認しました。

基本的に、子会社化といってもほとんど同じ会社なので、ノーという人はいなかったのですが、僕は断ったんです。「私はカード会社に就職したわけではありません。申し訳ないけど、カード会社に出向するんだったら、JCBなりアメックスなり、ほかにもっと行きたいカード会社はたくさんあります。私がやりたいのは丸井での宣伝の仕事なんですよ」と。

そしたら当然のことながら波乱を生んじゃって(笑)。「おまえは会社の命令に逆らうのか。もう丸井におけるおまえの将来はないと思えよ」、くらいのことを言外に匂わせるわけですよ、時の上司は。

でも僕はそれでもいいですよと出向を拒否して本社に残ったんです。もちろんそんなことをしたのは僕だけでした。

まさかの異動辞令

正直、本社に残るはいいけど、ちょっとこの先やばいかなと思っていたのですが、その後の配属先がなんと宣伝課だったんですよ。どういうことかというと、カード企画部を別会社にしたことで、イベントの運営業務がまた本社の宣伝課に戻ったのですが、カード企画部の人間はみんな別会社に出向してたから、直近のイベントの運営実務を経験したのが僕だけだった。だからイベントが戻ったのと同じ流れで僕も宣伝課に行けたというわけです。ほんとラッキーでしたよね。会社の出向命令に背けば左遷されるのが普通だけど、イベントの実務担当者は必要だったので、そこにうまくはまれた。

ちなみに当時の宣伝課長は「君が入社のときから毎年年に2回、すごい手紙を書いて送ってきてたのは知ってるよ。これだけあるよ」って、僕が送り続けた宣伝課へのラブレターを全部見せてくれました。ちゃんとそこには届いてたんですよね(笑)。

宣伝の仕事を夢見て丸井に入社後、紳士靴売り場の販売員、債権回収、ファッションのジュニアマネージャー、 商品部の係数管理、カード企画部など、さまざまな職場でさまざまな業務を経験した。その間も毎年2回、宣伝課への熱い思いを手紙にしたためて上層部へ送り続けた。なかなか認めてもらえなかったがしかし、入社6年目にして、ついに憧れの宣伝課へたどり着いた。ここから須藤氏の時代が始まった。

夢の宣伝課へ

宣伝課に行けるとわかったときはそりゃあうれしかったですよ。大げさかもしれませんが、感動に近い達成感がありましたね。まさに「宇宙戦艦ヤマト」のテーマソングのイントロが頭の中でガンガンなってる感じですよ。まだ宣伝課での仕事が始まってもいないのに、よお~っし! やってやるぜ! みたいな。こうなってくると、どんな雑用だって、仕事が楽しくなっちゃうんですよね。

宣伝課ではイベント担当になりました。僕ひとりに与えられた年間予算は詳しくは言えませんが、億単位でした。それまで継続しているイベントもあれば、新しくつくるイベントもあり、それを若干27、8歳の若造の僕が全部組み立てる。もちろん実現するために稟議は必要ですが、自分で組み立てられるという立場に立てたことが身震いするほどうれしかったですね。

数多くのイベントを手がけましたが、特に印象に残ってるイベントは「丸井パイプラインマスターズ」というハワイで開催されるサーフィンの世界大会です。丸井は「プロサーフィン世界選手権大会」という先駆的なイベントをずっとスポンサードしてまして、中でもサーフィンの聖地・ハワイで開催されるパイプラインマスターズは最も盛り上がる世界大会でした。何千万円もかけて行うビッグイベントで、毎年3週間前、クリスマスころからハワイに入って準備していました。規模が大きい分だけ、やりがいも大きかったですね。

写真:「丸井パイプラインマスターズ」の担当時代のひとコマ。ハワイにて(左端が須藤氏。写真提供:須藤氏)

またテレビの特番などの製作にも関わりました。当時番組中に右下に曲名を入れたりするのが流行ってたからそれを特番に入れようとか、映画が好きだったから画コンテまで作って、画角はできればこれでとか、ここはもっと寄りで撮ってとか、あのシーンはヘリを飛ばしてくださいとか、制作スタッフに細かく口出ししてました。予算を管理してたからいろいろ言えたわけです。この仕事も思い出深かったなあ。自分の意向が番組にダイレクトに反映されるわけですからね。

テーマレストランのプロデュース

それから丸井の60周年記念事業の一環として、テーマレストランのプロデュースなんかもやったんですよ。ちょうど若者向けのテーマレストランが流行ってた時代で、下北沢の120坪の敷地に倉庫みたいな建物をつくって、旅をテーマにしたレストランにしたんです。1年限りのね。

内装を駅っぽくして、3カ月ごとにテーマを決めて、そのテーマに合わせてカクテルを決めたりしてました。例えばへミングウェイがテーマの期間はキューバライクなダイキリを出したり、ドラキュラのときはブラディマリーを出したり。このとき、学生時代にやってたホテルのバーテンの経験が生きました。

レストランにはステージがあって、そこで開催するイベントコンテンツを全部自分で企画して作ってたんですよ。ドラキュラのテーマのときは、ドラキュラがグランドステーション下北沢に蘇って、最後ニューヨークに行って昇天するっていうストーリーを作ったり、バックに流す映像と役者の芝居をリンクさせるという構成を考えたりね。

演出はスピルバーグが運営する学校の受講生だったデボラさんという演出家に頼んだのですが、基本スクリプトは全部僕が作って、会社に予算を申請して実現しました。最後の3カ月は「フィガロの結婚」というテーマにしたんですが、そのとき今のカミさんとの結婚式をそのレストランで挙げたんですよ(笑)。

宣伝課での仕事は楽しく、やりがいのあるものだったが、何でも簡単にやりたいことが実現できたわけではなかった。しかし、そのハードルが須藤氏を着実に鍛えていった。それがさらに大きい仕事へと繋がっていく。

仕事を通してレベルアップ

イベントの企画を形にするためには、係長から始まって課長、部長、本部長、役員、最後に社長と、数々のハードルを越えなければなりません。そのためには、自分がこれが好きでどうしてもやりたいという気持ちを書くだけでは当然通らない。最初はどうしても好きだという気持ちが全面に出る、つまり趣味、嗜好の延長線上でイベントの企画書を書いていたので、なかなか通りませんでした。

じゃあどういう企画書が通りやすいかを散々考えた結果、あることに気づきました。とにかく自分の思いだけを訴えるだけじゃダメ。会社を納得させるためには、自分の考えたイベントなりプロモーションが、丸井にどういう利益をもたらすか、引いては丸井のお客様にどういうメリットをもたらすのかということを論理的に証明することが重要だということがわかってきたんです。

そういう視点で企画書を作り始めると、100回書いてようやく1つ通っていたのが、50のうち1つ、30のうち1つと徐々に打率が上がってきて、最終的に10のうち3つくらい通る、まさに3割打者になってきたわけですよ。もっとも、そこまで行くのに5~6年かかりましたけどね。

写真:丸井のサラリーマン時代の須藤氏

だから、宣伝のセクションにいる間、イベントを含めた宣伝課の実務、自分の考えた企画を社内で通していくということの厳しさ、夢とか憧れだけじゃどうにもならない、ビリー・ジョエルと直接交渉する前に、超えなきゃいけないより高いハードルがあるってことが身に染みてわかりました。 また、それを通して、会社の上層部を納得させるイベントや事業の企画書を作る力が鍛えられたわけですよ。これは後々会社を辞めてからも生きたいいトレーニングになりましたね。おかげで会社の上層部を納得させる表現手法やノウハウを身につけることができましたから。

ラッキーだったのは、当時の丸井は、多くの一般企業のように電通、博報堂などの大手広告代理店に宣伝やプロモーションを企画から運営まで丸投げするのではなく、宣伝課が全部自前で企画していたことです。例えばCMであれば自社の宣伝課でコンテまで作ってイメージを固めてから、制作実務を外の広告代理店に発注してた。その企画に対するディレクションとかプロデュース業務までを自社の宣伝課の若い社員にやらせてたっていう恵まれた時代だったんですよ。

新規事業の立ち上げに参画

宣伝課に異動になった翌年、経営陣から、丸井のブランドイメージを向上させるためにダサい家具売り場やスポーツ売り場をかっこよく、おしゃれに変えろという指令が出されました。

当時、インテリア売り場は旧態依然とした「家具売り場」で、ファッションの売り場に押され急速に縮小されていました。ただ、丸井はそもそも中野の家具屋から始まったという事実を考えると、家具屋としての遺伝子を一切捨ててしまって良いのか? という葛藤が経営陣にもあったわけです

そこで、商品価値=価格を訴求する商売から、生活価値(今で言うところのライフスタイルにおける付加価値)=生活者の満足、という図式を業態として構築して、いにしえの「家具売り場」を現代に新しい業態として表現できないか、と考えた訳です。

そこで、僕を含めた若手3人がチームを組んで動き出しました。毎日ホワイトボードの前に集まって煙草を吸ったり、ドリンクを飲んだりしながら、メンバー同士でああでもないこうでもないってブレストしてました。メンバーは仕事に対する志が高かったので、ある程度の裁量権を与えられ、大規模な企画の機会が与えられると、文字通り寝ずにやってましたよ。明らかに丸井の中でも異色の存在でしたね。

宣伝課の僕の役割は、イメージチェンジをいかに付加価値として表現できるかというようなプロモーション的な役割でした。

幾度かのブレストを経て、ダサい家具売り場をかっこよく、おしゃれに変えるために、まずは丸井のニオイがしない、丸井の象徴的なストアブランドを作ろうということになりました。ブランド名は「イン・ザ・ルーム」と名づけ、まずは全館丸ごと「イン・ザ・ルーム」というインテリア専門館を作って、それから10年かけて全国の丸井のダサい家具売り場を「イン・ザ・ルーム」っていうフロアに変えていくという戦略でいこうということになったんです。このあたりの業務は事業計画とブランディングですよね。

そのために、まずは海外の有名な一流インテリア専門店を全部リサーチした上で、コンセプトとターゲットを考えました。その結果、メインターゲットはパリでひとり暮らしをしている若い日本人女性、よく読む雑誌は『HANAKO』みたいな感じに設定しました。その設定に従って、『FIGARO』や『ELLE』などの雑誌の特集を参考にして、パリの1人暮らしの部屋のイメージを固めていきました。

フロアのゾーニングも、1階はパリの街角をイメージした造りにしようと、床にブロックやレンガを敷き詰めました。当時、商業施設の1階にレンガを敷いたフロアなんてなかったんですよ。そういう意味でも時代の最先端を行く売り場になりましたね。

内装だけではなくて、音楽にも凝りました。当時、丸井は館内で時報を流してたんですよ。「ポーン。ただいま6時をお知らせします」みたいな無機質なものを。その音をパリといえばモンマルトルの鐘だということで、モンマルトルまで鐘の音を録音しに行ったんです。そんな感じで立体的に作り上げていきました。

そうやって最初にできたのが渋谷の「イン・ザ・ルーム」です。それがストアブランド化するためのコンセプトショップですよ。これまでの従来型の家具集積のインテリア館とは、全く異なるインテリア専門店へ。これができたときも感無量でしたね。そこから最初の戦略に従って約10年後、全国の丸井に「イン・ザ・ルーム」が行き渡ったときに役割を終えたので、渋谷の「イン・ザ・ルーム」は閉めました。今は、電力館の横のシダックスのビルになってます。

その翌年からスポーツ売り場も同じスキームを組んで、おしゃれなスポーツ用品館に生まれ変わらせました。それが「フィールド」です。フィールドのコンセプトは「遊びだけじゃない、スポーツだけじゃない」でした。

あとは、バージンメガストアのCD販売事業を企画したりとか、通常の宣伝の仕事をしながら、別立てで若手のプロジェクトチームを作って新しい事業を立ち上げていくという仕事を経験させてもらいました。

30歳前後で「イン・ザ・ルーム」などの大規模な新規事業の立ち上げに加わり、その成功に貢献した須藤氏は、最年少で係長の昇進試験の受験資格が与えられた。このまま出世街道をひた走るかに思われたが、意外な落とし穴が待ち受けていた。

燃え尽き症候群に

ゼロから新しい事業を立ち上げていくという仕事、すなわち企画して、人を集めて説明して、売り場を設計して、作って、広告して世の中に広めていくという一連の仕事は、非常にやりがいのある貴重な経験でした。このときの経験があるから今の僕があると言っても過言ではないですね。

しかしその一方で、30歳前後でそういう大きい仕事を経験したことで、力が抜けちゃったんですよね。ほぼ自分の能力は出し尽くした、もうやりたいことをやり尽くしちゃった、この先どうしようかなあと思うようになったんです。いわゆる燃えつき症候群っやつですよ。

そんなときに、会社から係長の昇進試験のチャンスが与えられました。当時、最年少での昇進試験だったようですが、厳しい選抜試験を通過して最終の役員面接まで行けました。役員面接は「これからさらに頑張ってくれたまえ」と役員から言われるだけの「儀式」なので、ここまで行けたら昇進決定なわけです。

でもちょうどその頃、会社の変革期が訪れていました。経営方針がチェーンオペレーション強化へとシフトし、企業風土や経営の方向、舵取りの方向性を大きく変えようとしていたんです。具体的には、戦略は全部本社が決めて、それを全店で均一にオペレートしていくという方針。つまり、各店舗の勝手は許さんという価値観に大きく変わろうとしていたんです。

でもそれは僕の理想とする丸井とは違っていました。だから役員面接で「現場は本社が決めたことだけを文句を言わずにやってればいいんだ」みたいなことを言われたとき、「それは違うと思います。仮にそうであっても、いかに現場の声を吸い上げるかという仕組みこそ、チェーンストアとしては重要なんじゃないですか?」ってはっきり言っちゃったわけです。

「現場は本社が決めたことだけを文句言わずにやってればいい」なんて言われたら、現場のモチベーションは確実に下がりますよ。そして、小売業、しかも労働集約型の産業では一度働く人のモチベーションが下がっちゃったら、それを再び上げるのには莫大な時間と労力がかかるってのが僕の持論だったんです。また、丸井の入社試験を受けたときに感じた自由な企業風土みたいな部分が全部切り捨てられちゃうかもしれない、そうなったら丸井のいいところがなくなってしまう。そういった危機感をもって役員と戦っちゃったわけですよね。まあ、そのときすでにやりたいことをやり尽くしていたので、失うものがなかったからということもありますけど(笑)。

それから役員とああだこうだと激しい議論になりました。他の人たちはみんな2分くらいで面接を終えていたのに、僕だけ2時間以上かかってしまって、結局昇進には至りませんでした。ちなみに役員面接で落ちた人はそれまでの長い丸井の歴史の中でもほとんどいなかったようです。

会社の将来を憂い、自分の理想に従って意見を発したことで結果的に役員に楯突く格好となった須藤氏は、昇進が取り消されただけではなく、それまでの輝かしい経歴・実績は一切通用しない支店のひとつ、K店の紳士服売り場に異動となった。事実上の左遷。そこから過酷な毎日が始まった。

孤軍奮闘の日々

K店への異動の辞令が下った1995年当時、丸井全店でカード会員獲得至上主義みたいなものが蔓延し始めていました。丸井のカード会員になったお客さんは、ほぼカードで買い物をするので、利用客数や利用率、ひとり当たりの利用額などの概算がわかる。さらに丸井全体の利益の中でもキャッシングの金利で得られる利益が大きかったので、カードは経営の安定化という意味では非常に便利なツールだったんですよ。

だから、とにかくひとりでも多くのお客さんに丸井の赤いカードを持たせろという風潮の中、店のいたるところで全社員によるカード契約の勧誘合戦が始まりました。これがとにかくひどかった。 例えば丸井に来たお客さんが1階のハンカチ売り場で600円のハンカチをもってレジに行くと、レジ担当の店員に「丸井の赤いカードはお持ちですか?」と聞かれる。いや、持っていませんと答えると、「作りませんか?」と勧誘される。カードなんていらないから、いや、いいですと断る。その後5階のジーパン売り場へ行ってジーパンをレジにもっていくとそこでもまた「丸井のカードいかがですか?」と聞かれる。いや、だからいりませんと答える。その後7階のレストランで食事をするためにエスカレーターに乗ろうとすると、エスカレーター脇で待ち構えている店員にまた「カード、いかがですか?」と声を掛けられた上、断ると後からしつこくついてくる。もうここまできたら、誰だっていい加減にしろよと思うじゃないですか。

僕はK店の紳士服売り場に主任として着任したんですが、僕の部下20人全員がそれをやってたんですよ。僕はそのキャッチセールスのようなカード勧誘を否定しました。お客さんにとってストレス以外の何物でもないカードの勧誘こそが、ファッションの丸井の次の成長を阻害する最大の要因だと感じたんです。だから部下にそんなことは直ちにやめろと命じました。

これに対するK店の店長、副店長からの圧力はものすごかったですよ。それまでひとり月に約10枚、部下20人で月に200枚取れていたカード契約数が、僕が着任したとたんみるみるうちにゼロに近づいていくわけですから。どうして勧誘をやめさせるんだと詰め寄られたわけです。

彼らに対しては、カード勧誘は会社の将来にとっていいわけがないという理屈で戦いました。もちろん今日の商売も大事だけど、会社の10年後を考えながら仕事はやるべきだろという思いが僕にはあるわけですよ。今日、10枚のカード契約が取れたとしても、その10人のお客さんに、店員がうるさいからしょうがなくカードを作ったという悪印象を抱かせてしまったとしたら、果たして10年後もお客さんとして来てくれるのかって話ですよ。行くたびにカードを作れってうるさいから丸井には金輪際行かないという人もたくさんいるはず。そういうリスクに対してあなたがたはどう責任をもつのですかと。そもそも丸井のカードは、あくまでもお客さんが商品を買ってくださったときに、お小遣いや予算に合わせて分割払いで支払える方法もありますけどいかがですかという感じで、お客さんのメリットになるような切り口で提案するっていうスタンスでやるものでしょうと反論したわけです。

未来の会社のために

だからカード勧誘をやめさせるなという上からの圧力はありましたが、部下には徹底してむやみなカードの勧誘はやめろと言い続けました。その代わりに、部下にはもう一回接客することにエネルギーを懸けさせました。カードの勧誘をするにしても、お客さんのメリットになるような切り口で獲得に導けと。でも部下にとっては難しかったようですね。それまでそういうやり方でやってないんだから。接客そっちのけで、フロアをうろうろして「お客さん、カード作りませんか?」ってやってるわけですから。しかもそれまでカード会員契約数の多い社員は店長や副店長からは評価されてるわけですよ。それを時間をかけても変えていかなければならないと指導をしていました。10年後、20年後の丸井のために。

だから部下には、「今日のカード会員の契約の数字は落とすかもしれないけど、お前らが数年後に俺と一緒にこの会社に物申せるポジションに上がってったときに、俺たちで会社をよりよく変えるために、今やらなきゃいけないことを考えようぜ」ってよく話してました。

燃え尽きていたはずなのに、なぜそこまで頑張れたか? 確かに当時、俺の次の目指すべき道は何なのかと悩んではいましたよ。とはいえ、この会社で一度夢を叶えさせてもらったにも関わらず、役員面接でNOって言った俺ってなんなのかなと考えてたんですよね。NOと言った以上は丸井の理想の方向に対して貢献していくべきじゃないかと。言葉で言うと美しすぎるんですけど、そういう思いは確かにあったんですよ。

K店で孤軍奮闘していたころ、私生活でも大きなライフイベントが発生した。次男の誕生である。この出来事が須藤氏の人生を180度変えていくこととなる──。 次回、その4は次男の誕生を機に下した重大な決断へ。

会社の未来のために信念を貫き通した

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