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TOP の中の転職研究室 の中の魂の仕事人 の中の第40回 ネクスタイド・エヴォリューション代表 須藤シンジ-その2-命の危険を感じる仕事も 夢のために頑張れた

第40回
須藤シンジ氏インタビュー(その2/全6回

須藤氏

自分の命と向き合い、目標を決定
命の危険を感じる仕事も
夢のために頑張れた

フジヤマストア代表/ネクスタイド・エヴォリューション代表須藤 シンジ

大学最後の海外放浪から帰国した須藤氏は本格的に就職活動を開始。子どもの頃からの夢を追い求めようとするが、しかし、またしても思い通りにはいかなかった。

すどう しんじ

1963年、東京都生まれ。有限会社フジヤマストア、有限会社ネクスタイド・エヴォリューション代表。3児の父。
大学卒業後、丸井に入社。販売、債権回収、バイヤー、宣伝など、さまざまな職務を経験、その都度輝かしい実績を打ちたてる。特に30歳のときには丸井の新しい業態「イン・ザ・ルーム」、「フィールド」の立ち上げに主要メンバーとして参画。丸井のイメージの一新に貢献した。次男が脳性まひで出生したことにより、14年間勤務した丸井を退職。マーケティングのコンサルティングを主たる業務とする有限会社フジヤマストアを設立。
2002年、「意識のバリアフリー」を旗印に、ファッションを通して障がい者と健常者が自然と混ざり合う社会の実現を目指し、有限会社ネクスタイド ・エヴォリューションを設立。以降、世界のトップクリエイターとのコラボで、障がいの有無を問わず気軽に装着できるハイセンスなユニバーサルデザイングッズや障がい者を街に呼び込むための各種イベントを多数プロデュース。ネクスタイド・エヴォリューションが手がけたスニーカーはあのイチロー選手も愛用しているという。
年を経るごとに須藤氏のコンセプトに賛同する企業は増え、意識のバリアフリーの輪は少しずつだが、確実に広がっている。

最初の夢が破れる

大学に入ってからも、小学生の頃からの「第一企画に入社して『宇宙戦艦ヤマト』の続編をつくる」という夢は揺らいでなかったので、就職活動の時期が来たときに、いよいよヤマト担当の第一企画(当時・現ADK)の中村建一さんに相談したんですよ。ところが、彼は大反対したんですよね。「今、この会社に入っても幸せになれないから絶対やめとけ」と。

さらに、中村さんに改めて「シンジ君は広告代理店に入って何がやりたいの?」って聞かれました。広告代理店の仕事にもいろいろあるんだけど、番組制作に関わりたいのか、CMをつくりたいのか、イベントを手がけたいのか、いったい何がやりたいのかと。でもそのときの僕は「ヤマトの続編を作りたい」という以外に何もやりたいことがなくて、答えられなかった。しいていえば、なんとなく企画することが好きとか、広告代理店ってなんとなくイメージがいいとか、薄っぺらい理由しかなかった。要するにヤマト以外、何も考えてなかったってことですよね。

ヤマトの夢がなくなったことで、俺は何をやりたいんだろうと真剣に考え始めました。すると、どうやら映像系がやりたいということだけはなんとなくわかってきたので、テレビドラマとかCMなどの特に映像系を見始めたんです。

そういうことを中村さんに話したら、「じゃあまずはバイトから始めてみれば?」と、彼の知り合いのディレクターやプロデューサーを紹介していただいて、テレビ番組やCMを制作している会社でアルバイトするようになったんです。

バイト先では、「資料を読んで番組の企画を何か考えてみて」って言われたんですが、そんなことは考えたことすらなかったので、全然アイディアが思い浮かばなくてね。「企画書ってなんですか?」っていうレベルですから。それでも四苦八苦して企画を考えたんですが、つまんないものしかできなかったんですよね。それで何となくバイト先に居づらくなって、段々足が遠のいていっちゃったんです。

最終面接で不採用

同時に、中村さんに相談したことで、ようやく広告代理店って第一企画以外にどんな会社があるんだろうと興味が湧いてきたので調べたところ、電通と博報堂っていう会社がどうも大きいらしいということがわかりました。最初は電通って電気の会社か何かと思ってたんですが、当時世界一の売り上げ高を誇っていた広告代理店だったんですよね。第一企画がダメなら、大手がいいだろうということで、電通と博報堂に履歴書などの応募書類を送りました。単純ですよね(笑)。

両社ともいいところまで行ったんですが、最後の役員面接で落とされました。その頃大学4年の10月中旬。マスコミは特に募集時期が遅かったんです。しかも電通と博報堂しか受けていなかったんですよ。大手の広告代理店しか頭になかったのと、何のコネもないのに、絶対、電通か博報堂に受かると信じ込んでいたからです。それだけのことを大学の4年間でやってきたというわけのわかんない自信があったんですよね。

もちろん他の業界の採用時期はほとんど終わってます。だからこのままでは大学を出ても行くところがない、これはヤバイことになったなと。大学受験でどこも受からなかったときと同じ気分でしたね。

でも挫折感とか絶望感までは抱いてませんでしたね。それは海外放浪を経験したからかな。海外放浪では命の危険を感じたこともあったし、異国でお金がなくなったとき路上ライブで帰りの航空チケット代を稼いだこともあったしね。そういう経験を通して、俺は裸一貫になっても、どこでどうなっても生きていけるという自信を身につけることができたんですよね。だからどこにも就職できなかったら、コンビニのバイトでもすればいいや、つまんないプライドを捨てれば別に困んないし、それはそれで楽しい世界もあるかもな、なんて思ってました。こういう開き直りというか、ある種の楽観性は海外放浪で得た大きな財産だと思いますね。

流通大手の宣伝部に方向転換

でも、崖っぷちではありましたが、就職を完全にあきらめたわけではないですよ。当時は今のようなフリーターという身分は社会的に認められてなかったので、就職浪人はかっこ悪いなと思ってましたから。そこでリクルートから分厚い企業情報資料を取り寄せて、いろいろ調べ始めました。

その頃ドラマやCMを作りたいと漠然と思っていたのですが、当時華やかなCMを流してたのが、流通大手のS百貨店と丸井でした。S百貨店は当時担当コピーライターの名コピーで話題になった時期だったし、一方、丸井は夜の11時にテレビをつければどの局でも「時代がそろっています。丸井です」などといったCMを流してたし、かっこいい5~10分の帯番組を持ってたんです。だからS百貨店か丸井の宣伝部に入りたいと思ったんです。

イメージとしてはS百貨店の方がよかったので、最初にS百貨店に今からでも応募可能か否か、問い合わせの電話をかけました。ところがその対応がすごく横柄に感じたんですよね。だから、S百貨店の採用広告ページの反対側に掲載されていた丸井に電話しました。

丸井に入社

丸井の担当者は「すぐ面接を受けに来てください」とすごく感じのよい対応でした。早速その翌日に行って、そこから7回くらい面接を受けました。毎回宣伝の仕事がやりたいと言い続けましたが、面接官からは、「ウチの社員は1万人いるけど、宣伝課にはそのうち7人しかいない。しかもウチの会社は物を売ってお客様からお金をいただくのが商売であって、お金を使う宣伝は本業ではない」というようなことを散々言われたんです。

でも僕はとにかく宣伝課に行きたいんです、なんならロッド・スチュワートでもビリー・ジョエルでも直接交渉して日本に呼んで来ます、なんて大ぼら吹いてね。当時は社会の仕組みをわかってないから、間にエージェントやプロモーターが入ってるなんてことは知らずに、みんな直接の知り合いだから頼めば来てくれると思ってたんですよ(笑)。

そんな大ボラ拭きながらも、運良く採用になりました。当時の丸井はかなりの成長期だったので、いくら人がいてもよかったんじゃないですかね。

滑り込みで丸井に入社したはよかったが、最初に配属されたのは、希望の宣伝課からは程遠い、自由が丘店の紳士靴売り場だった。しかしここからが須藤伝説の始まりだった。

紳士靴売り場からのスタート

僕がやりたいのは靴を売る仕事じゃなくて、宣伝課で番組やCMを作る仕事なわけですよ。でも宣伝課には1万人の社員の内、7人しかいない。非常に狭き門です。

そこで宣伝課に入るためにはどうすればいいのかを冷静に考えました。会社の上層部に宣伝課に行きたいという声を真剣に聞いてもらうためには、1万人の中で目立たなければならない。そのためには、まず、配属された靴売り場でトップの売り上げを記録するのはもちろん、もっとインパクトのある結果を出さなければならない。

その当時、毎年丸井では全社員で夏はエアコン、冬は羽毛布団を売ってたんです。「これだ!」と思いましたね。洋服や靴や家具といった、数ある部門のひとつでトップになるよりも、全社共通テーマのエアコンの売り上げでトップになった方が目立つと思ったんです。

でも、80年代終盤当時は、エアコンはまだ現在のように普及していなかったから安くなかった。インバーターエアコンが30万円、安いもので10万円台後半っていう時代でした。

一方、靴なんて数千円から高くても2、3万です。靴売り場で、しかも3800円のサンダルを買いに来たお客さんにどうやって30万のエアコンを売って、なおかつ全社でトップになるか。いろいろ考えた結果、まず秋葉原に行きました。エアコンを売らなきゃいけないけど、僕はエアコンのことを全く知らない。知らない商品は売りようがないので、まずはどんな種類があって、どんなものが売れ筋でといったエアコンの基礎的な知識を得るために、秋葉原の人気家電量販店のエアコン売り場へ行ったんです。

秋葉原で極意をつかむ

これが大正解でした。行ってみてわかったのですが、販売員は、エアコンをただ売りつけようとするだけではなく、まずは客の状況を聞くわけです。どういう家に住んでいて、どういう暮らしをしていて、どういう家族構成で、どんな目的でエアコンを買おうと思ってるのかを徹底的にヒアリングした上で、あなたにぴったりなのはこのエアコンですという売り方をしていました。それが、優秀な販売員さんに共通する手法でした。

なるほどと思って、僕が勤める自由が丘店の靴売り場に頻繁に来るお客さんのことを考えました。当時自由が丘は女性の憧れの街だったので、お金持ちの1人暮らしの女性が多かった。よし、これをメインのターゲットにしようと決め、ニーズを分析しました。1人暮らしの女性が重視するのは何だろうと考えた結果、やっぱり防犯性だなと。でもエアコンには防犯的機能はない。でも防犯につながる要素はあったんです。

1人暮らしの女性の場合、洗濯物、特に下着などは洗った後、外に干したくないじゃないですか。かといって部屋干しでは乾くのに時間がかかるし、部屋の中がじめじめする。もし部屋の中ですぐ乾かせたらベストですよね。

そこでその翌週、秋葉原のエアコン売り場にいって、販売員に「僕の姉貴が1人暮らしするんですが、下着とかを部屋で乾かしたいと言ってるんです。いいのありませんか?」と聞きました。もちろん僕に姉なんていないんですがね。そしたら、スイッチを押して短い時間で冷たい空気が出てくるインバーターという機能と乾燥できるドライという機能がついている最新機種なら、部屋を閉め切っても洗濯物は短時間で乾くからお勧めですと説明してくれたんです。

さらに、窓に取り付けるタイプなら工事で部屋の中に穴を開けなくていいし、窓の鍵も閉まると。今は窓型エアコンなんてないですが、当時はまだ壁にエアコン用の穴がついていないマンションやアパートが多かったんです。

売り上げトップを達成

それを聞いた瞬間、これだ! と思いました。窓取り付け型でドライ機能がついてるインバーターエアコンなら、1人暮らしの女性でも安心して洗濯物を乾かせますという売り方ができる。さらに、一軒家に住んでる人にもエアコンのついていない部屋にこのエアコンをつけて洗濯物乾燥部屋にしたらどうですか? と売り込める。

早速この方法で靴を買いに来たお客さんにエアコンを勧めたところ、予想通りかなり好感触でね。結局、キャンペーン期間中に23台を販売して、全社員の中でトップを取れたんですよ。3800円のサンダルを買いに来たお客さんに30万円のエアコンを売るのって楽しかったなぁ(笑)。

エアコン売り上げでトップを取ったことで、広報室の人が取材に来ました。社内報に載せるためです。これで当初の目的である全社的に目立つことの最初の一歩は成功したと。広報のセクションも憧れていたので、取材に来た人に、「実は僕は広報に行きたいんですよね、どうすれば行けますかね」みたいな話をずーっとしてました(笑)。

エアコンの販売台数は、その翌年も記録更新の26台でトップでした。たぶんこの記録は破られてないんじゃないかなあ。それもこれも宣伝課に行きたいという思いが強かったからでしょうね。販売員をやるために丸井に入ったわけじゃないって思ってましたから。

「ヤマト」から「コミニュケーションプラン」へ

このあたりで夢が変わってきました。「宇宙戦艦ヤマト」の続編は完全にどこかへ行っちゃって、大学時代にアメリカで知り合ったハリウッドのプロデューサーのキースと組んで、CMや番組を作ったり、いまだ人々が経験したことのないようなイベントを仕掛けたいと明確に思うようになったんです。今で言うところのコミュニケーションプランの制作の方に傾倒していったわけです。

例えば、毎月ハリウッドのプロデューサーがチョイスした俳優とミュージシャンと舞台役者を使って5分間のエンターテインメント番組を作りたいとかね。1年間52週でこういうキャスティングでやる、という感じで、より具体的にやりたいことのイメージが固まってきたんです。

無視され続けた異動申請

当時の丸井では、1年に2回、夏と冬のボーナス前に社員の人事評価を行うんですが、その際に異動したい部署を申告して、自分が何をやりたいかをアピールできる制度がありました。当然1年目から宣伝課に行きたいって書くわけですよ。

でも所定の狭いスペースには宣伝課への熱い思いはとても書き切れなかったので、別に5、6枚くらいのレポート用紙に書いて提出していました。宣伝課への幼稚なラブレターですよ。当時「丸井サウンドスペシャル」という音楽系のイベントもやってたので、面接時と同じく、「会社の宣伝課にはツテがないだろうから、私が直接ビリー・ジョエルと交渉して呼んできます。だから、宣伝課に俺のために8番目の椅子を用意してください。給料なんていらないから私にやらせてください」などと書いて、毎回提出してたんですよ。これが人事とか売り場の担当者からすごく嫌がられてね(笑)。

宣伝課への熱い想いを手紙にしたためて提出していたが、夢はそう簡単に叶うものではなかった。会社は須藤氏の夢など鼻にもかけていない様子。だからさらに頑張った。エアコンの売り上げでNO.1を取っただけではなく、本業の靴売り場の販売員としても優秀な販売成績を挙げた。しかしこの頑張りが裏目に出てしまう。靴売り場の店長は優秀な販売員である須藤氏をなかなか手放さそうとはしなかったのだ。それでも、2年目もエアコンの売り上げで全社トップになった直後、異動の辞令が出た。しかし異動先はとんでもない部署だった。

債権回収課へ異動

移った先は宣伝課ではなく「債権回収(いわゆる取り立て)」をするセクションでした。つまり、丸井の赤いカードで商品を買った後、支払いの悪いお客様から代金を回収する仕事です。 支払いが1カ月遅れると催促のハガキを送る。2カ月遅れると赤色の催促のハガキを送る。3カ月遅れるとスタッフの女性が直接催促の電話をする。それでも支払わない人、つまり4カ月以上遅れた人が債権回収課に回されて来るわけです。

さらに配属された先が最悪でした。全国の歓楽街を渡り歩いて最後に流れ着いたような人たちが集う非常にガラの悪いエリアを管轄していたんです。自由が丘や世田谷などの高級住宅街の近くにある店は回収率は限りなく100%に近くて楽なんですけどね。

支払いが4カ月遅れてる人ってのは相当のツワモノですよ。中には、本当に海外赴任などで払えない人もいますが、それは高級住宅街エリアの話。僕の担当区域には、経済的に貧しくて本当に払えない人や、さらに歓楽街なので身体に刺青を彫ったりしてるような人たちもたくさんいました。

だから回収率は当然丸井の全店舗中、最下位なわけですよ。もちろん、払わない人、払えない人が大多数を占めていたからですが、永久に払えなくなった人もたくさんいたからです。つまり死んじゃう人。

出社してまず最初にする日課が新聞の死亡欄のチェックでした。自分のお客さんが死んでないかチェックするためです。死亡欄を見て「やばい、これ、俺のお客さんだ」、みたいなことは日常茶飯事でした。そして、毎朝刑事が訪ねてくるんですよ。死んじゃった人が丸井のカードを持っていたら、そこからいろんな情報がわかるからそれを確かめに。

命懸けの業務

債権回収の業務は想像以上にハードで、人間不信にもなりましたね。なにせ4カ月以上も滞納しているツワモノですから、何度も支払い期日の約束を破られるのなんて当たり前で、連絡すら取れなくなりますからね。だから滞納者の居場所を突き止めるために、探偵や刑事まがいの行動を取ったこともありました。

それだけならまだいいのですが、身の危険を感じることもしばしばありました。約束を破られ続けると人間不信になるばかりか、お客様でも「嘘ばっかり突きやがってこのヤロウ」と、人として怒りを覚えてくるんですよね。それで一時期は強引な取り立てをしていたこともあって、週刊誌に叩かれたり、告発本に書かれたりしたこともありましたけどね。もっとも僕が担当していた頃は貸金業法など債権回収に関する法律が改正されて、どんなに約束破りを繰り返す債務者に対しても、あくまでもお客様として接しなければいけませんでした。また、督促と回収時間も規定されていたので、言葉遣いや対応は丁寧にせざるをえない時期でした。

でも僕の前任者は、嘘を突き通されても粘り強く対応して、やっと居所を押さえた女性の債務者の家まで取り立てに行ったら、いきなりブスっと刃物で刺されたんですよ。いや、女性の債務者にじゃなくて、そのヒモの男に。「俺の女にどういう口の聞き方で請求してんだ!」と。 だから着任して早々、上司に「須藤君ね、君の前任者は刺されちゃったから、集金に行く時は黒いジャンパーとヘルメットは絶対取らないでね」って言われたんです。

僕自身も「一生横浜を歩けないようにしてやる」とか「社員通用口から出てくるときは気をつけた方がいいぞ」とか、しょっちゅう脅しを受けていたので、変装して出社したりしてました。あと、実際に怖い人に半日ほど監禁されたこともありましたね。

辞職の選択肢はなかった

そんな危険な仕事を辞めたいと思ったことはなかったか?こんな毎日が1年ほど続きましたが、辞めようとか転職しようと思ったことは1度もないですね。

まあ、身の危険を感じてたっていってもあくまで安全な日本での話。学生時代に海外放浪をしてたときに本当の命の危険を味わってますからね。殺されるときってこういうときなんだなってのが2、3回あったので、本当に危ないときはわかるし、そういう経験に比べたら大丈夫だと感じてたんでしょうね。また、やられたらやってやる、ただじゃ死なねえぞ、みたいなヘンな気迫もありましたしね。

さらに、債権回収の業務は、前もって1年間だけの期間限定だとわかってたのが大きかった。一生やるわけじゃないということがわかっていたから耐えられたということもありますね。

でもやっぱり一番大きい理由は丸井で宣伝の仕事がしたいという思いですよ。確かに、俺はいつになったら宣伝課にいけるんだろうと思っていましたが、ここであきらめたら宣伝課への道は永遠に閉ざされますからね。それに、回収率最下位の店をトップに押し上げたら絶対目立つなと思ったんです。エアコンのときと同様、1万人の社員の中で、宣伝課に行きたいという声を会社の上層部に届けるためには、まず目立つことが重要ですから。会社から与えられたミッションで全部トップを取れば嫌応なく目立つだろうなと。

だから辞めようなんて思考は全くなく、ただ回収率の向上を目指しひたすらに頑張りました。今だから言えますが、あまり大声でいえないような裏技を使ったこともあります。もちろん合法ですよ(笑)。その結果、1年間で全店舗中3位まで上げたんですよ。上の2位と1位は超優良エリアで回収率100%に近かったから、抜くことは不可能でしたね。僕の担当区域は生きてる人からはなんとか回収できるんだけど、死んじゃったり殺されちゃったりする人が多かったので。

エアコンに引き続き、債権回収業務でも結果を出した須藤氏は、今度こそ宣伝課に行きたいという望みが叶うかと思ったが、会社はそう甘いところではなかった。その後も毎年宣伝課への異動を会社に訴えるが、なかなか聞き入れてはもらえない。しかし、それでもめげず腐らず、各部署で成果を上げ続けた結果、ようやく入社から6年後、チャンスが巡ってきた。念願の宣伝課で須藤氏の時代が始まった──。

命の危険を感じても、目標があったからやめようとは思わなかった

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