そもそも法医学の道へ進もうと思ったのは、これまた半分不純なんだよね(笑)。
さっきも話したけど、僕の叔父が有名な生理学者だったから、周りは当然、その叔父の後を継いで生理学者になるだろうと思ってたわけ。僕自身もその頃から生理学がおもしろいと思っていたんだけどね。
でもある本を読んで考えを変えたんだ。
森鴎外の息子さんで森於兎(オト)という人がいるの。東邦大学の解剖学の教授で偉い人なんだよ。だけど、常に「あいつは森鴎外の息子だ」って言われる。だから「どこへ行っても僕という存在がない」と、ある随筆に書いてあるのを読んだ。
で、このまま僕が生理学の道に進んだら、どこへ行っても「あいつ(叔父)の甥だ」って言われると思った(笑)。この於兎さんと同じようにね。そこで反旗を翻すじゃないけど、生理学方面へ行くのはやめにしたんだ。
卒業する年は「小児科医にでもなろうかな」と思ってたんだよ。小児科医だときれいなお母さんと接する機会もあるでしょ(笑)。
でも、その年の夏休みに血液の勉強をしに法医学の教室へ行ったことが運命を変えたんだな。そのときの先生が桑嶋という先生でね。監察医として下山事件(※1)とか帝銀事件(※2)を担当した人なんだ。
卒業直前にその先生から手紙が来てね。「法医学をやらんか」って。その頃は僕も25歳だったから純粋でね。早くも「教授に声をかけられた」ってノボせちゃって。喜んでその誘いを受けちゃったんだ。
(※1 下山事件)1949年(昭和24年)7月5日、下山定則国鉄総裁が常磐線の北千住と綾瀬駅間で、轢死体となって発見された。司法解剖の結果、「死因はわからないが、死んだ後に轢かれた」という結論が出された。他殺か自殺か、ことの真相は今もってわかっていない。「戦後史最大の謎」と呼ばれている事件
(※2 帝銀事件)1948年(昭和23年)1月26日、東京都豊島にあった帝国銀行(後の第一勧業銀行、現・みずほ銀行)椎名町支店で12名の行員が毒殺され、多額の現金が盗まれた事件
桑島教授の法医学教室に助手として勤務し法医学を学ぶ傍ら、その翌年、神奈川県の監察医になった西丸氏。33歳のときに死体解剖資格を取得。以後38年間の長きに渡って監察医を勤める。その間解剖した死体9000体。そこから多くのことを学んだ。
法医学を学ぶと監察医の仕事ができるんですよ。とはいえ、本職はあくまでも大学の教職員。監察医ってのは副職みたいなもの。特に収入がたくさんあるわけじゃないんだけどね。
たまたま神奈川県の監察医務室が大学内に置かれてあったんで、同じ部屋で法医学と監察医の二枚看板でやっていたというわけ。
そのうち大学内にこもって研究や解剖ばっかりやっててもおもしろくないからって、監察医の話を書いた。それも「どうやって解剖するか」なんていう技術論じゃなくて、ある人が死んだ時に周りの人とかが何を考えただろうといったことを心理的というか文学的というか、そうした視点から書いたものが『法医学教室の午後』(※3)という本なんだ。
(※3 『法医学教室の午後』)法医学、行政解剖、司法解剖の世界を技術専門書としてではなく、普通の人が読んで楽しめるエンターテインメントとして初めて描かれた作品。初版は1984年。すぐにベストセラーとなり、『法医学教室の午後 続』『法医学教室との別れ』と相次いで続編も出版、人気を博す。ドラマや映画(「助教授一色麗子・法医学教室の女」)にもなり、監修も勤める。
「最初は篠ひろ子さんが女の助教授役で解剖とかやってるんです。刑事になったのは山下真司くんかな? それを3年くらいやって、それが終わってから名取(裕子)くんがやって……あと宅間伸くん。この間、10何年ぶりかにみんなと会って『あの頃はみんな若かったなぁ』って言ったら名取くんが『私は今でも若い!』って(笑)」(西丸氏)
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