転職する人びと
水谷恵美子さん(仮名)36歳/経理・前編
この転職で生まれ変わった! パワハラ、うつ病、解雇 どん底から奇跡の復活
長年にわたって経理畑を歩んできた水谷恵美子さん(仮名)。通常業務に加え、自主的に経理の勉強をしたり、通信教育で大学を卒業したりと、懸命な努力でスキルアップを図ってきた。一通りの業務は自信をもってできると思えるようになった34歳のころ、「ぜひ、わが社へ」と請われて施設運営サービス会社に入社。しかし、そこには想像もしていなかった「地獄」が待ち受けていた……。
「育て方が悪かったんかな……」
施設運営サービス会社に勤めていた水谷恵美子さん(仮名)が病気のため、自宅療養となってから3カ月めのこと。母親がぽつりとつぶやいた。
「どうしてそんなこと言うの?」
驚いた水谷さんがうながすと、母親はしぶしぶ話し始めた。
「この間、恵美子の会社の人から電話で呼び出されてね。お父さんと行ってきたんよ。そしたら、社長さんが『おたくの娘さんの言動が社内で問題になってる。迷惑している者も多い。ウチとしては、そういう社員にいてもらっては困るんです』って。お父さんも私も、知らず知らずのうちに、あんたを甘やかしてしまったのかな、と思って……」
「えっ……!?」
水谷さんは絶句した。
母親の話によると、社長は水谷さんの“問題社員”ぶりを語ったらしいが、どれも身に覚えのないことばかり。文句があるなら、直接自分に言ってくれればいい。それなのに、こちらの言い分も聞かず、こっそり両親を呼び出してそんな話を……。会社のやり方は許せなかった。
さらに翌月、今度は水谷さん本人と両親とで会社に来るようにと連絡があった。
入社以来、ずっと激務をこなし、どんなにつらくても苦しくても耐えてきた。なのにこの仕打ち……。
「もう我慢の限界だ! 辞めてやる!」
はりつめていた気持ちの糸が、ついに、切れた瞬間だった。
経理畑一筋に
スキルを磨いてきた努力家
水谷さんは高校卒業後、金属加工会社の経理部に就職。覚えることは多かったが、経理の仕事は自分に向いていると思った。4年後、会社が遠方に移転することになり、通勤が困難になるため、住宅設備関連の会社に転職した。
入社当初は、水谷さんを含めて3人の経理担当者がいた。しかし、業績が悪化するにつれ、社員がどんどん自主退職し、ついには水谷さん1人で会社の経理をこなさなくてはならない状況になってしまった。
「転職してみて初めて、業界や会社の規模によって経理に対する考え方ややり方が全く違うということを知りました。でも、教えてくれる人は誰もいない。会社でお世話になっている会計士さんがいたんですが、細かいことまでいちいち質問するわけにもいかず、専門書を読んで勉強しながら、仕事をこなしました」
会社の経理をたった1人で任されるには、まだまだ未熟。もっと、いろんな会社の経理の現場を知って、経験を積みたい。そう考えて、会社を辞め、派遣社員になることを決めた。派遣社員になれば、大手から中小まで、さまざまな会社の経理業務を経験できて勉強になるし、自分の適性もわかってくると考えたからだ。
実際、ソフトウエア開発会社や機械メーカー、資材メーカーなど、さまざまな規模や業界の会社を経験することができた。経理の道でさらにステップアップしていくことを考え、多忙な業務をこなしながら、大学の通信教育を受け、卒業資格も得た。(※1)
大学の通信教育を受け、卒業資格も得た。(※1)
ある大手企業で勤務していた際、仕事のやりがいと居心地の良さが気に入って、正社員登用の可能性の有無を人事に問い合わせたが「ウチは大卒しか採用していない」とあっさり言われてしまう。それがきっかけで、スキルアップしていく上で、学歴の壁に悩まなくて済むよう、大卒の資格を手に入れることを決めた。「働きながらの勉強はたいへんで、時間はかかりましたが、卒業という目標があれば、絶対に頑張れると思っていたので、やり遂げられたのだと思います」
「ぜひ、わが社に来てほしい」
熱心に誘われて入社したが……
派遣社員になって11年目の2006年2月。転機が訪れた。
ある人材紹介会社から、施設運営サービス会社の求人を紹介されたのだ。先方が水谷さんの経歴に非常に興味を持ち、「新しい支店を立ち上げるので、ぜひ、そこで経理・人事・総務の業務を担当してほしい」という話だった。
水谷さんの心は揺れた。入社すれば、社内外の多くの人とのやりとりをしなければならない。しかし、水谷さんはもともと人と接するのがあまり得意ではなく、サービス業の経験もなかった。不安材料が多かった。
「やっぱり無理かな……」
断わるつもりだったが、先方は「ぜひ、来てほしい」と強く入社を望んでくれていた。このまま派遣社員を続けることへの不安もあり、この機会を逃すのは惜しいという気持ちも出てきた。
「そんなに期待してくれるなら、やってみるのもいいかもしれない、そう思って入社を決めました」
しかし、業務は想像以上にハードだった。数日後には支店のオープンが控えており、その後には月次決算が待っていたからだ。出社したその日から、水谷さんは仕事に追われた。
見積書や請求書などを管理するコンピューターを見て、水谷さんは唖然とした。データがきちんと管理されておらず、めちゃめちゃな状態だったのだ。それを毎晩遅くまでかかって整理した。支店内の書類の流れを整備し、やり方を統一するよう社員に伝達したり、本社に提出する消費税申告、事業所税申告などの書類を作成したりと、仕事はいくらでも湧いて出てくる。息をつくヒマもないほど、めまぐるしく働く日々が続いた。
「まるで、深い霧の中にいるみたいで、先が見えない状態でしたね」
高熱にうなされたときも、休むことはできなかった。「せめて土日は休んで」と上司に言われ、家で横になっても、「あれはどうなってるの?」「これはどうすればいいの?」と次々と電話がかかってきた。
そうこうしているうちに3月の本決算がやってきた。ところが、どうしても数字が合わない。そのたびに支配人から厳しく責められた。残業をして、なんとか仕事を終わらせようとしたのだが、そうすると今度は「どうしてこんなに残業するんだ!」と、責められた(※2)上、始末書まで提出させられた。
「どうしてこんなに残業するんだ!」と、責められた。(※2)
水谷さんの残業時間は月に50〜60時間。それ以上に残業している社員もいたが、支配人が認めてくれないため、誰も正確な残業時間を申請することはできなかったという。
激務の毎日。そして上司からの
屈辱的なパワーハラスメント
夏を迎えるころ、水谷さんの体に異変が起こった。頻繁に、めまいと吐き気に襲われ、日に日に激しさが増す。気がつくと、体重は1カ月で10キロも減っていた。
「おかしいな、とは思ったけど、仕事が忙しいから仕方がないと思ってました。いつも『我慢しよう。大丈夫、大丈夫』って自分に言い聞かせて……」
そんなある日のこと、支配人に呼ばれて、会議室に行くと、予想だにしなかった、恐るべきことが起こった。
「お前は全然仕事をしてないじゃないか!」
「言いたいことがあるなら、言ってみろ!」
「お前には全くいいところがない!」
支配人は激しく机を叩き、その手は水谷さんにも振り下ろされた。水谷さんは激しい痛みと暴言に耐えながら、言葉を発することもできず、ただうつむいて嵐が過ぎ去るのを待った。
「上司に何か意見を言うなんて、部下としてすることじゃないと思っていたんです。反抗的だと受け取られてしまうのもイヤだったから、結局、何も言えなかった。今考えれば、そんなのおかしいってわかるんですけど」
支配人による暴言、暴力はその後も繰り返された。人事面談の際も、水谷さんの健闘を認めてくれるどころか、「勤務態度が悪い」「全然、仕事ができない」などと、非難の言葉を浴びせられた。
ストレスの蓄積で体調に異変が
「このままでは自殺も」
ある朝、これまでに経験したことのない感覚が水谷さんを襲った。
「足が、動かない……!」
どんなにがんばっても、足が全く上がらない。普通に歩こうとしても、歩けない。壁や手すりにしがみついて、足を引きずるようにして、やっと前に進める状態だった。(※3)
日を追うごとに体調は悪化。めまいがひどく、常に体がふわふわと浮いているような感覚になった。病院へ行くと、1週間の検査入院を勧められた。
「ちょうどテレビで見た脳の病気と症状が似ていたから、私もその病気に違いないって、思い込んでいました」
脳神経外科で診察を受けたが、結果は「異常なし」。心配していた脳の病気ではなかったが、どんどん体調が悪くなっているのが自覚できた。
「ストレスはありませんか?」
医師のその言葉をきっかけに上司の暴言・暴力のこと、仕事の多忙さについて、一気に話し始めた。医師からは心療内科の受診を勧められた(※4)。診察の結果は、抑うつ状態、身体表現性障害(※5)。
「このままでは自殺してしまうことになりかねません。まずは1カ月、会社を休んでください。メールも電話も遠ざけて、とにかく寝ていてください」
足を引きずるようにして、やっと前に進める状態だった。(※3)
歩行障害になってしまい、足をひきずりながら会社に通った。「靴がすぐに磨り減ってしまうので、何足もつぶしました」。
心療内科の受診を勧められた(※4)
水谷さんは高校生のとき、交通事故に遭っている。このため、体調が悪いのは後遺症のせいだと思いこんでいた。「今思うと、心の病だと認めたくない気持ちもありました。でも、脳の病気ではないとわかったので、観念して、心療内科に行きました」
身体表現性障害(※5)
精神的な悩みやストレスが身体の症状として現れるが、本人がいくら異常や症状を訴えても外科、内科的には正常であると診断される障害。たとえば本人が胃痛を感じて、病院で検査しても、胃には何の異常も見つからない。
自宅療養しながら願っていた会社への復帰
しかし、叶わなかった
医師に指示された通りに自宅で安静にしていても、仕事のことが気になって仕方がなかった。一日も早く仕事に戻りたいという思いでいっぱいだった。支配人とも、なんとかうまくやっていきたい、努力しようと思っていた。
しかし、1カ月が過ぎても、症状は全く変わらない。相変わらず、歩くことができない日々が続いた。なかなか快復しない体が恨めしく、悔しく、情けなかった。
自宅療養が2カ月を過ぎたころ、父と母が会社から呼び出されていたことを知った。社長は水谷さんの問題行動を指摘したというが、寝耳に水の話ばかりだった。
そして翌月、今度は水谷さん本人と両親とで会社に来るようにと連絡があった。
「もう我慢の限界だ……! こんな会社、辞めてやる!」
退職を決意したが、会社には絶対に抗議したいと思った。誤解があるなら解きたい。しかし、今の状態で何を言っても、相手にしてもらえないことは目に見えていた。そう思うとさらに泣けてきた。
会社に来るように指定された日。水谷さんと両親を目の前にして社長はこう言い放った。
「来月いっぱいで、退職していただきます」
その瞬間、頭の中は真っ白になった。
ふいに崖から突き落とされたような絶望感だけが水谷さんの心を支配した。
取材・文/田北みずほ