それは、ほんのアクシデントに過ぎない、ありふれたできごとのはずだった。
法律事務所に転職してまだ1カ月ほどだった森田さんは、まだ業務を完全にこなすことはできないでいた。その日もちょっとしたミスで席を立とうとした瞬間、右腕に激痛が走った。
「バシッ!」
森田さんを制止しようと、隣にいた同僚の女性が彼女の腕を叩いてしまったのだ。その力は思いのほか強く、思わずその場にうずくまってしまうほどだった。
同僚の行為自体は悪意のあるものではむろんない。しかし、その後叩かれた箇所は今まで見たこともないような青あざになり、痛みも引かなかった。念のため医者に診てもらったところ、全治10日という診断が下されてしまった。
問題はそこからだった。叩いた同僚からはなんの謝罪もなかった。さらに一応業務上でのアクシデントなので、医師の診断書を上司に提出したところ、彼はあからさまに不機嫌な顔になり、威圧的にこう言った。
「こんなモノを出してきて、一体どういうつもりなのだ」
単なるアクシデントだったことは森田さん自身も認めている。それをとやかく申し立てようというのではない。ただ、森田さんとしては、業務上の事故があったことは明らかにしておきたかったし、せめて叩いた同僚に対して上司が注意なり、何らかの対応をしてくれればそれでよかった。
だが、上司の対応は、予想外だった。
「このことはきみの親にも知らせたのかね?」
上司は明らかに、この事故をなかったものにしたがっている。私や私の両親がこの件を訴訟のネタにすると考えて恐れているのだ──。
森田さんは、従業員一人ひとりのことではなく、事務所の体裁だけを考えるこの上司の態度を見て、身体の中の血がすっと引いていくような感覚に襲われた。
これは、ありふれた事故ではない。事務所がそこで働く者たちに向ける態度の象徴なのだ。なぜ事務の人間と受付の人間との関係がぎくしゃくしているのか。なぜ正社員とパートとの仲が冷たいのか。入社後3カ月に満たない森田さんにも、その理由が見えてきたように思えた。
以前勤めていた法律事務所も決してよい労働環境とは思えなかったが、それでも6年間勤め上げた。そんな森田さんだったが、この新しい職場はすぐにでも辞めるべきだと考えるようになった。
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