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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第15回 前編 林 章さん(仮名)32歳/SE
仕事で成長しなければ意味がない!異国の地で望みの仕事を手に入れた 32歳中国人SEのど根性
知人に誘われて中国から来日し、大阪でプログラマとして働くことになった林さん。来日時には全く理解できなかった日本語を少しずつ覚え、2度目の転職でブリッジSEに転身。ところが林さんを待っていたのは、期待していたSEの仕事ではなかった。

 カタカタカタ……キーボードを叩く音がフロア内に静かに響く。時折、ピッと鳴る電子音。
 画面をじっと見入っていた林さんは、険しい表情を解いて小さく伸びをした。午前3時。蛍光灯の下、フロアは白々と明るく、窓の外を見なければ、一瞬時間の感覚を失ってしまう。さっきまで耳に入らなかった、自分以外の者が叩くキーボードの音が、どこかほかのブースから微かに聞こえてきた。

「一体、自分は何をしているんだろう……」

 点滅するカーソルをぼんやりと見ながら、林さんは思う。

 7年前、上海から日本にやって来た。自分のキャリアを伸ばせる何かを期待しての来日だった。まったくわからなかった日本語を必死に覚え、新しい知識を身に付け、ただひたすらに、がむしゃらに頑張ってきた。だが……。

 何かが違う。

 小さくため息をついてマウスをカチカチと動かしてみたものの、再びぼんやりと画面を見入る。こんなはずじゃない……こんなことを続けるために、今まで努力してきたわけじゃない──。

 本来はブリッジSEとしてこの会社に雇われたはずなのに、実際に自分が携わっているのは、プログラマとしての仕事。それだけでも不本意なのに、1カ月ほど前からいくつものプロジェクトが立て込み、先月の労働時間はとうとう300時間を超えた。今月はさらに上回りそうな勢いだ。今日も結局自宅に帰れず、妊娠中の妻を一人ぼっちにさせてしまった。諦めたような、ちょっと寂しそうな妻の顔が、ちらりと頭をかすめる。

 さらにこんなに働いても収入は少しも上がらない。それにも関わらず、仕事のクオリティは、より高いものを要求され続ける。これが終われば、またきっと同じことの繰り返しに違いない。

「もうイヤだ!」

 不意に心の中で叫んだ。もうこんなことは続けられない。これ以上我慢できない──!


知人に誘われ、心が惹かれ—。
上海から大阪へ、プログラマとして来日
 

 中国第二の都市、上海。発展著しい中国の中でも、とりわけ急成長を続ける大都会。その町で、林さんは生まれ育った。数学や物理など理数系科目が得意で、子どもの頃からコンピュータに夢中(※1)だった。おまけに英語が大好き。そんな林さんが、大学を卒業後、就職先に、外資系のコンピュータ会社を選んだのはごく自然の成り行きだった。

 好きな英語を駆使しながら、コンピュータに向かう日々。システムエンジニアとして、それなりに充実した日々を送っていたが、ある日、最初に勤めた会社(※2)絡みで知り合った知人のR氏がこんなことを持ちかけてきた。

「日本で会社を立ち上げたんだけど、働いてみないか?」

「日本? どんな会社?」

 よくよく話を聞いてみると、R氏は大阪でシステム会社を設立し、外注としてプログラミングなどを請け負ったり、中国人のプログラマやエンジニアをほかの会社に派遣したりしているのだという。

「けっこう忙しくてさ。プログラマが足りないんだ」

 R氏は事業が上り調子であることをほのめかすかのように言った。

 海外旅行がじわじわとブームになり始めていた中国だったが、多くの人の関心はアメリカやカナダ、オーストラリアなどの英語圏に向いており、林さんもその例外ではなかった。いつか得意の英語を生かして、カナダかオーストラリアで働いてみたいと、内心思っていたほどだ。その中で、日本という国は、ちらとも意識したことがなかったのが正直なところで、R氏の話に一瞬、面食らった。

 しかし上海には多くの日系企業が進出しており、林さんの頭にも、すぐに有名な日本の企業名やブランド名がいくつか思い浮かんだ。意識したことはなかったけれど、世界に知られている技術力を持つ日本—。

「もしかしたら、何か自分のキャリアにプラスになることがあるかもしれない」

 林さんは日本行きを決心し、結婚したばかりの妻(※3)を伴って大阪に降り立った。1998年秋のことだった。

日本語オンリーの環境に悪戦苦闘
息つく間もない生活に望郷の念が…
 

「来日した時、日本語は全然わかりませんでした。だから最初は本当にしんどかった」

 会社は中国人が経営し、働いているのもほとんどが中国人。だが、顧客は日本人。林さんの悪戦苦闘の日々が始まった。コンピュータのことはわかるし、相手の希望するプログラミングもできる。だが、その「要望」を理解するまでが大変だった。英語が通じれば少しは状況が違ったかもしれないが、日本では予想以上に英語が通じなかった。

「顧客が日本人の会社なので、当然のことなんですけどね」

 その上、仕事も相当キツかった。厳しい納期と要求されるクオリティに応えるために、ゆっくりと休むヒマなどない。林さんは、まさに働きながら日本語を習得していった(※4)のだ。

「仕事をもらう時、同じチームの日本人とか、日本語がよくできる中国人に頼んで、一緒に話を聞いてもらうんです。とにかく、『はい』と仕事を請けてから、その後の詳しいことは、一緒に来てもらった人に話を聞いてもらう。あとからそれを教えてもらい、仕事をしました。何か分からないことが発生すると、またその人に頼んで話を聞いてもらい、仕事をする。どうしてもわからなくて、図や絵を描きながら理解したこともあります」

 少しずつ日本語を覚え、やがて一緒に話を聞いてもらう人が不要になっても、相手のしゃべる言葉がなかなか聞き取れずに何度も聞き返して、「もうええわ!」と言われたこともある。早口でしゃべる相手になるとほとんどお手上げで、改めてほかの人に聞き取ってもらうこともあった。生産性は落ちるが、正確な仕事のためには仕方ない。でも言葉さえ通じれば、もっと早く作業を進められるのに……!

 言葉が通じないゆえのストレスと仕事の忙しさに、何度も中国に帰りたいと思った。だがそのたびに望郷の思いを呑み込み、「まだ自分は日本で、何も得てない」と、自分を励ました。妻も、そんな林さんを支えてくれた。

 こうして2年が過ぎた頃、会社は経営悪化のため倒産してしまう。しかし運よく顧客だった会社にプログラマとして雇ってもらえた。ところがこの会社も2年後に、業績不振のため倒産。しかし林さんは、ただ呆然として手をこまねいていたわけではない。

「無職の期間を作りたくなくて、残務整理の合間に転職先を探しました。今度は、前回のような幸運はないと思って、転職サイトなど利用しました」

 2年前は、あれほど望郷の思いを募らせていたが、この機会に帰国するという考えは少しも浮かばなかった。日本語も上達し、大阪での生活にも慣れていたことに加え、なによりも、「まだ自分はステップアップできていない」——そんな思いが林さんを日本に引き留めたのだ。そして3カ月後に2回目の転職を遂げる。大手電気メーカーの孫会社に、ブリッジSEとして入社。中国語はもちろん、英語もできることを買われての採用だった。

「SEとして雇われたはずなのに」
仕事をしながら湧き上がる疑念
 

 同じコンピュータを扱う仕事でも、これまでのプログラマとは違うことに挑戦できる——。新たな期待と意欲を胸に入社した林さんだったが、しかし思ってもみなかった事態が待ち受けていた。

「本当は、中国の大連支社の開発現場と連携を取りながらシステムエンジニアとして働くはずだったんですが、大連の方が不調で、結果的にあまり仕事のボリュームがなかったんです」

 ブリッジSEの仕事はないが、その代わり、プログラマの仕事は膨大にあった。「林さん、これ、お願いしたいんだけど」と言われれば、断るわけにもいかない。

 結局プログラマに逆戻り——。納得はいかないが、仕方がない。言われるままに仕事を引き受けるうちに、気が付いたら、いくつものプロジェクトを抱え、プログラマとして中心的な役割を担うようになっていた。

 システムエンジニアの肩書きを持つにも関わらず、実際は、コンピュータの前に座り、来る日も来る日もキーボードを叩いてプログラミングに明け暮れる日々——。しかしそんな毎日の中、林さんは、徐々に気が付いていたのだ。IT業界において、自分がやりたい仕事は、この大阪にはないのではないか、と。

「大きなプロジェクトがあっても、そのほとんどの作業は東京で行われていたし、実際、上司もたびたび東京に出張していましたからね。私がやるはずだったSEの仕事だって、東京の方が中心(※5)。だから大阪では、プログラマの仕事ばかりになってしまう。自分の望む仕事をするためには、東京に行かないとだめなんじゃないかと思うようになったんです」

 それに、せっかくマスターしている英語を使う機会がほとんどなく、日に日に英語の能力が落ちていることも、林さんにとって気がかりだった。

「確かに日本語で不自由しなくなりましたが、企画書の制作や商談の場など、ビジネスの重要な場面では、やはり日本人にはかないません。私が勝負できるのは、中国語と英語しかないんです。英語を生かせるといえば外資系企業ですが、これも大阪には少ない」

将来について真剣に検討
転職を決意。そして東京へ
 

 入社して3年目を迎える頃、妻が妊娠した。日本で働き続けることと、子どものことを考え、林さんは日本国籍を取得(※6)。「将来」について、以前にも増していっそう、真剣に考えなければならない時期がきていた。

 コンピュータが好きだから、プログラマの仕事も決してイヤではない。だが、このままここでずっとプログラマの仕事を続けていけば、システムエンジニアとしての成長は見込めないし、今以上の報酬も望めそうにない。おまけに、英語の能力も衰えていくばかりだ。第一、プログラマの経験しかなければ、将来、年齢的に体力が続かなくなったらどうなる? 最悪の場合、好きなITの仕事ができなくなってしまうかもしれない——。

 停滞こそは、林さんがもっとも恐れるものであり、避けるべき事態だった。東京に移った友人たちの、「東京の方が仕事も多いし、給料も高いよ」という言葉が、何度も思い出された。

 いくつもの仕事が山場を迎え、多忙を極めていた2005年4月。先月から残業や泊り込みが続き、休日も思うように取れず、疲労はピークに達していた。だがこの状況も、月末にはカタがつくだろう——睡眠不足で重い頭を抱えながらも、林さんは冷静に今後の見通しを見定めた。

「そうしたら、転職活動を開始できるはずだ。東京に行って、転職しよう。将来のために、家族、そして自分自身のために、今以上に成長できる仕事を見つけよう」

 林さんは、密かに心にそう誓ったのだった。

プロフィール
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千葉県在住の32歳。中国・上海生まれ。8年前に来日して、大阪でプログラマとして4年間働く。ブリッジSEとして大手電気メーカー系列の会社に採用されたものの、実質的な仕事はプログラマであることに疑問を抱き、3年後、自身のステップアップを目指して転職活動を開始。現在、東京の日米合弁のシステム会社で、システムエンジニアとして活躍中。
林さんの経歴はこちら
 

コンピュータに夢中(※1)
「コンピュータ歴は長いですよ。中学生の時からコンピュータを触ってますから」と林さん。中学生の時、触っていたコンピュータとは、なんとマッキントッシュの「Apple Ⅱ」だという。

 

最初に勤めた会社(※2)
林さんは来日前、中国で約2年間働いていたが、その間にも一度、転職を経験している。「中国では、いい仕事を求めて転職するのは一般的なことで、転職は全然怖いものじゃない。ステップアップするための手段という感じですね」

 

結婚したばかりの妻(※3)
日本に行きたいと話した時、林さんの妻はまったく反対しなかった。「あなたの新しい道だから、と言ってついてきてくれました。彼女は私の転職に反対したことはありません。私の仕事内容を詳しく知らないところもあるかもしれませんが、私の気持ちを尊重し、理解してくれるのは本当にありがたく心強いです」

 

日本語を習得していった(※4)
来日前に、ひらがな・カタカナは少し勉強していた林さんだが、日本語習得のために、語学学校には行かなかった。「日本語は、主にテレビと本で覚えました。お笑い系の番組だと、タレントが話すと同時に、テロップが表示されるでしょう? そのテロップ読んで、何を話しているのか見当をつけるんです」。本は、中国から持ってきた日本語のテキストのほか、週刊誌などの雑誌を読んでいたという。

 

東京の方が中心(※5)
「大阪に来てから勤めた2つの会社が潰れた最大の理由は、結局のところ、大阪に仕事がなかったからだったようです。外資系の会社も、中心は東京で、大阪にあるのは支社。東京へ出なくては…と日に日に思うようになりました」

 

日本国籍を取得(※6)
子どものために国籍を取得した林さんだが、日本名の名字を決める際には、中国の両親の願いを受け入れ、中国名の名字にちなんだものにした。

 
後編に続く

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