キャリア&転職研究室魂の仕事人第7回武装解除人 伊勢崎賢治さん-その1-あっけなくついえた最初の夢
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魂の仕事人 魂の仕事人 第7回 其の一 photo
あっけなくついえた最初の夢 次の希望はインドのスラム街から生まれ アフリカで実を結んだ
アジア、アフリカ、中東など、世界の紛争地に赴き、内戦を終わらせ、平和を取り戻す仕事がある。敵対する戦闘集団と交渉、武装解除、動員解除、兵士の社会復帰を実現させる通称DDR。その仕事に命を賭ける漢の名は伊勢崎賢治。しかしその一歩は挫折から始まった。
武装解除人・日本紛争予防センター理事・立教大学教授 伊勢崎賢治
 
希望を抱いていた建築家に失望
 

 僕のキャリアの中では国際平和維持活動の仕事が一番長いですが、元々は画家とか音楽家になりたかったんですよ。でもそれで食うのは難しい。で、中間を取って(笑)、建築家になろうと思った。建築も芸術の一分野だからね。だから建築でもアントニオ・ガウディみたいな意匠系、建築作家になろうと。非常に安易な動機ですね(笑)。

 それで早稲田大学の建築学科に進んだ。当時の早稲田の建築っていうのはすごく有名だったんですよ。国際コンペで優勝したり、海外から留学生が来たり。早稲田の建築は日本一だった。偏差値ではなくて、技術がね。で、僕も最初はやっぱり大建築家になることを夢見てたわけですよ、丹下健三みたいな。

 でも大学に入って建築に失望した。まず「丹下健三」になるのが難しい。1万人にひとり、なれるかどうかですからね。そもそもこんな狭い島国なのに1級建築士の数が多すぎる。おかしいですよね。こんなにいらない。中には姉歯さんみたいなヘンなことやったりする人もいるし(笑)。運よくなれたとしても作るものは巨大な公共建築物。建築費、維持費は市民の血税。でも年間どのくらいの人に使われるのだろうかと考えると血税の無駄遣いにしか思えない。

 あとはせいぜい住宅作家になる程度。その住宅作家の作る家だって、一般の人がなかなか理解できない奇抜なデザインのものが多いから、転売するときになかなか買い手がつかない。資産価値まで下げてしまう建築家の存在って一体? 建築家って、果たして社会の役に立ってんのかな? っていう疑問がだんだん膨らんできて。迷惑なものを作ってるだけなんじゃないかな? ってね。要するに建築家といっても日本では有益性がないことに気づいてしまったんです。

 住宅作家や建築士でもいい仕事をしている人はいますよ。今は「ビフォーアフター」(注1)なんて番組もあって、僕の同級生も出てるけど、見てると複雑な思いですよね。当時は非常に優秀なやつだったんです。でも、こんなもんかと(笑)。もう僕ら48歳ですからね。「ビフォーアフター」は良い番組ですけど、せっかく建築を学んだのに、もう少し大きなことやってもいいんじゃないのかなって。非常に不謹慎な話だけどね(笑)。

(注1 「ビフォーアフター」)テレビ朝日系列で放映中の「大改造!! 劇的ビフォーアフター」のこと。住まいに関する悩みをもつ人の自宅や店を、実際に建築士や住宅作家が改築・改造する番組

建築に失望した伊勢崎さんだが、そのとき卒業間近。この先どうしようと思っていたところに「都市計画」という学問に出会う。しかし、尊敬する教授の元、新しい学問を学ぶことに情熱を燃やしていた矢先、その教授が急死。またしてもお先真っ暗になった伊勢崎さんが希望の光を求めたのはインドだった。
インドへ国費留学
 

 教授の突然の死にショックを受けましたが、とりあえず大学院に進むことにしました。普通に社会に出て企業に就職することは考えなかったかって? うーんそれは考えなかったですね。なぜなんでしょうね……。でも、大学院でこの先、何かあるんじゃないかな〜って漠然と思ってたんでしょうね。

 で、大学院で都市計画を学びました。おもしろそうな学問領域だったというのと、みんながやってないということもありましたし、いわゆる新しいものに魅かれたわけです。でも勉強してみたらこれも中身のないものだった。結局「都市計画」といっても日本やアメリカなんかの物質的に満たされた先進国で暮らす人のための学問だったんです。

 またしても失望して、その後はほとんど惰性で大学院生活を送っていたのですが、卒業間近のときに、偶然大学の掲示板でインドの政府国費留学生募集を見つけた。当時日本の都市計画の学問は国内にしか向いてなかったんですが、日本の外、特に、貧困層に向けてみたいと思ったんです。とはいっても、貧しい人を救いたいという気持ちではなく、この新しい学問を生かす舞台として漠然とインドなんかいいかもなあと思ったんです。インドはゴチャゴチャとしてるイメージがあって、当時は社会主義でしたから。じゃあ「インドに行ってみるか」と非常に軽い気持ちで、政府費留学生試験に受けたら受かっちゃったんですよ(笑)。

 適当に選んだ大学がボンベイ大学だったんですけど、そこで実践的社会科学という学問を学んだ。ソーシャルワークですね。日本でソーシャルワークというと、老人福祉とか医療とかをイメージすると思うんですけど、違うんですよ。本当のソーシャルワークっていうのは、個人のカウンセリングから社会政策の領域まで広がってるんです。つまりソーシャルチェンジという言葉をよく使うんですが、社会を変えることを目的にする学問なんです。

 特にコミュニティ組織論は後でものすごく役に立ちましたね。人々を説得する方法、交渉の仕方、住民を横につなげる技術、それら話術で民衆を動かすテクニック、住民先導術を学んでました。ボンベイ大学はこの学問に100年の歴史がありますからね、産業革命のときからですから。イギリスから革新的な技術が入ってきて、工業化が進むと、社会の最下層っていうのが生まれていくわけじゃないですか。そのときからですから筋金入りですよね(笑)。

 

インド・ボンベイ大学留学していたころの伊勢崎さん

 
スラム街40万人を組織
 

 そうやってインドの大学でソーシャルワークを学ぶうちに、「世の中を変えるんだ!」みたいな気持ちになっちゃったんですよ。元々自分の動機としてそういうものがあったわけではないんですが、刷り込まれちゃったんですね。インドは社会問題の宝庫なんですよ。そもそもカースト制度っていう身分制度と差別がある。あと農村の問題。農村なんかに行ったら、まだ原始時代のような生活をしてるし、スラムとかもたくさんあるしね。

 社会問題があるところには住民運動が起こるじゃないですか。でやっぱりそれに巻き込まれちゃったわけです(笑)。大学は一年で中退して、人口40万人のアジア最大のスラム住民組織を支援するNGOに転がり込んだんです。結局インドには4年間いたんですけど、あとの2年間は実践活動をしてました。

 そのスラム街で生活しつつ、住民運動を指揮してたんですが、その現場で、学んだ学問を実践できたんです。ほんとに20万、30万人単位で住民を動かせちゃうんですよ。これはすごい力ですよ。警察当局とか宗教団体に子供たちを中心に、数万人のデモをかけるとか。ヒューマン・チェーンとかで抗議行動の輪を作って、ブルドーザーが来たって女性や子どもが前に立ちはだかったりね。それを僕を中心とした住民とかソーシャルワーカーが組織するわけです。そういうときはやはり、すごいダイナミズムを感じました。大衆を動かすことに酔いましたよね(笑)。

ひとくちに40万人のスラム街といっても、宗教によって大小さまざまなグループに分かれていて、中には敵対するグループもあるわけです。ヒンドゥ教とイスラム教とか。でも大きな目標のためには宗教のカベを超えてひとつにまとまらなければならない。そういうときはどうするかっていうと、どちらもwinの状態に導くわけですよ。それはひとつの運動のなかで、両方の問題を解決するようにもっていく。共通の目的を見い出してまとめていくわけです。

 数10万単位の人間をまとめていくためには、やはりコーディネーター的な役割じゃないとだめ。僕がアジテーションをして手を組むんじゃまとまりませんよ。具体的には各グループ側にリーダーを作っていく。これは小さな組織でもそうでしょ? たとえば僕が日本人として、外国で組織を動かすときにはやはり大きくなればなるほど、僕の言葉を代弁できる、彼らの中のリーダーを作る。だからある意味で系列のチームを作る。

腹心のリーダーをどうやって作るか? これが難しい。自分がその人を好きだからということではなくて、本当に周りの人が認めて力がある人をリーダーとして立てる必要がある。その調整が難しいですよね。周りの人が認めていても僕が嫌いだったらダメだし、そういった人間を僕はなぜ嫌いなのか? と自分に問いかけなければいけない。それは単に相手の能力が僕よりも上回っているから嫌いなのか? とか。そういうときはけっこう自分を抑えますよね。基本的にそういう場合が多くて。なぜかっていうと、僕も若かったから。みんな僕より年上ですからね。で、僕はこう見えても非常に謙虚な人間だから(笑)。

 

 

スラム街の中で生活しながら住民運動を指揮していた(右から4人目が伊勢崎さん。写真下も)

 

 

スラム街の子供たちと花火に興じる伊勢崎さん

 

 それをボランティアじゃなく、仕事としてやってたんです。NGOから「インド人のソーシャルワーカー」としてちゃんと月給もらってね。職として確立されているから、給料ももらえるわけですよ。それで生活してました。

 そうして市当局に対して、さまざまな不当命令に対する抗議デモ、法廷闘争などで、徹底的に戦ったんですが、ハデにやりすぎたせいかインド政府公安部からマークされて、国外退去命令を受けちゃった。それでしょうがないから帰国したわけです。

帰国後、失業状態におちいった伊勢崎さんは奥さんの収入で生活しながら就職活動を開始。日本のNGOに職を求めるがあまりの低賃金に断念、世界最大規模の国際NGOの門を叩く。採用条件を満たしていなかったが、インドでのソーシャルワーカーとしての実績を伝えるとその場で採用に。最初の赴任地は、聞いたことすらない国だった。
アフリカで国を動かす仕事に
 

 PLAN INTERNATIONAL(注2)っていう国際NGOに就職したんですが、最初の6カ月間にリーダーシップトレーニングを受けて、組織の長としての知識・ノウハウを徹底的に叩き込まれました。欧米ではひとつの学問になってますからね。これは非常に有意義だった。

 研修後、最初の赴任地として派遣されたのがアフリカのシエラレオネ(注3)っていう小国だったんですが、最初聞いたときは、どこにあるんだ、そんな国は? という感じでした。でも特に迷いとか不安はなかったですね。家も引き払って、まだ生まれてから二カ月の長男、66歳のおばあちゃん、妻と家族全員連れていきましたから。どこででも生きていけるっていう気持ちはインド時代からあったしね。

 

 仕事はおもしろかったですよ。僕が赴任したのは13県あるうちのひとつの県でしたが、そこでほぼすべての公共インフラを整備しました。学校設置、職業訓練などの教育事業、診療所、病院設置などの医療事業、灌漑設備や種子倍増などの農業事業など、貧困削減につながる開発をすべてやった。結果、幼児の死亡率が飛躍的に下がるなど、かなりの成果を上げ、常にモデル県と見なされてました。当時の年間の国家予算が30億円くらいで、僕の事務所に割り当てられていた予算が数億円でしたからね。僕らがいないと政府が動かないって状態でした。国の政策にも介入しましたし、国会の指名で市会議員も一期務めました(注4)

 仕事の醍醐味は、自分が企画した大きなプロジェクトを、人を動かして実現していくっていうこと。それが国の運営に直結してたからなおさらですよね。当時僕は28歳で、200人くらいのスタッフを指揮する管理職だった。いくらこちらが給料払っているスタッフでも、ただ命令しただけじゃ動かないんです。だからそのスタッフたちを動かすにはどういう準備をして、どう動くようにもってくかとか、いろいろ考えたり実行したりするのが、たいへんだったけど、楽しかった。

 ここでインドでの経験が非常に役に立った。

 インドと同じくシエラレオネ現地スタッフの中に僕の腹心を作ったんですが、その人たちっていうのは、僕よりも学歴が全然上でね(笑)。だいたいシエラレオネは教育が盛んなところで、西アフリカのアテネと呼ばれていたくらいの国ですから。シエラレオネ大学なんて250年の歴史がある。日本の慶応大学なんて比じゃないですよ。きれいな大学だったんですけど、当時は無政府状態だったんでかなり疲弊してましたけどね。でも、僕のスタッフだった人間は、その良き時代の学生で留学経験もあったの。アメリカとかイギリスのね。しかも半端な大学じゃなくて、ハーバード、ケンブリッジとかそういうのがいるわけです(笑)。そんな秀才を腹心にしないといけないんだから、たいへんさもわかるでしょう(笑)。

(注2 PLAN INTERNATIONAL)国連に公認・登録された世界最大規模の国際NGO。1937年、スペイン内戦で大量に生まれた戦災孤児を救うために設立された。以来45カ国で開発援助、130万人の子供たちを育てている。年商は約500億円。活動資金のほとんどは15カ国からの寄付に頼っているが、一番多く出している国はオランダ。日本では「財団法人 日本フォスタープラン協会」として活動している

(注3 シエラレオネ)人口30万人、大西洋に面したアフリカの小国。1971年、イギリスからの独立以来、軍事クーデターと内戦が繰り返されてきたが、2002年3月カバ大統領により国家非常事態の終了宣言がなされた。伊勢崎さんがPLAN INTERNATIONALの現地責任者として赴任したのは内戦中の1988年から1992年4年間。開発事業に加え、反政府ゲリラに対して、自警団の組織化、シエラレオネ警察の強化に努めた。その9年後、DDR部長として再赴任することになる。

(注4 市会議員) 外国人で市会議員になったのは伊勢崎さんが初

快適な暮らしにおばあちゃんも大喜び
 

 意外に思われるかもしれませんが、暮らしも快適でしたよ。国際協力で現地に赴任する外国人の暮らしってのはVIP待遇に近いものがあるんです。使用人も使えますしね。だって、身の回りのことやってくれるんですよ。そりゃ楽に決まってるじゃないですか(笑)。日本はこんなに豊かですけど、普通、使用人なんて使えませんよね。事実、うちのおばあちゃんはアフリカに帰りたいっていつも言ってますよ。それくらい暮らしいいところだったんです。

 病気や治安の悪さも気にならなかった。実際、アフリカは白人の墓場だったけどね。マラリアとか黄熱病とかで。でもね、病気はどこにでもあるじゃないですか。だから気にならなかった。実際に僕、妻、子供はマラリアにかかっちゃったけど、死にませんでしたしね。おばあちゃんが一番元気だった(笑)。

 

エチオピアの首都アジスアベバのスラムで、女性の協同組合を組織。その面々と

 

ケニアでの活動地タイタ・タベタ県の農村の小学校で、生徒たちを前に話しているところ

 

内戦前のシエラレオネ、マケニ氏の市議会議員の面々。伊勢崎さんは外国人として初めて選ばれた(前列左端)

 

内戦前のシエラレオネで、この国の独立後初と言われていた大きな農業共同組合を設立した。その開所式典で。マイクを持っているのは当時の副大統領(前列右端が伊勢崎さん)

 
天下りの理事と大ゲンカ
 
シエラレオネで4年間開発と治安維持に尽力した後、ケニアで2年、エチオピアで5年同職務に従事。帰国後は、所属していた同じ国際NGOの日本支部「フォスター・プラン」に就職。しかし理事長と大ゲンカして8カ月で退職してしまった。
 

 フォスター・プランっていうのは、財団法人なんです。天下りの温床といわれている悪名高き公益法人(笑)。フォスター・プランは良い方で、理事会は無給でちゃんと奉仕していますが。でも、不可避的に、元官僚を理事に入れなきゃいけない。その連中と僕はぶつかっちゃったわけですよ。

一番決定的だったのは、当時「子どもの権利条約」を日本が批准した直後で、「子供の権利」っていうのが脚光を浴びたわけです。僕が現場でやってきたのは、まさに子供の権利を守るためであって、アフリカでもちゃんと予算をとって大々的に啓蒙活動をやってたわけですよ。それと同じことを日本もやらなきゃいけないと。当たり前のことでしょ?

 そしたら、理事の何人かが僕に噛み付いてきたわけですよ。「権利とは何ごとだ? 権利なんて言うキミはアカか?」ってね(笑)。「権利」っていうのはアカが使う言葉なんですって。それは青天の霹靂でしたよ。はあ、こうなのか……と(笑)。どんなにお金儲けてもNGOは社会正義を訴えることに意義があるのにね。弱者の権利っていうのは、絶対主張しなきゃいけない。

 この一部の元官僚の理事たちとは、その他のことでも激しくぶつかっちゃって。こっちはNGO魂=反体制ですからね。認識のギャップは大きすぎて埋まらなかった。だから8カ月で辞めたんです。世界で最も優良な評価を得ているこの国際NGOも、日本に支部をつくるとなると、頭の硬直化した元官僚の年寄り連中を理事にしなければ社会的地位が得られない。悲劇ですね。

組織の使命と自分の使命が イコールでなくなったときに辞める
 

 会社やチームなどの「組織」がないと物事は動きません。ですから組織そのものを否定するつもりはないですけど、帰属の対象ではないんですよね。自分の思想とか文化、ポリシーまでも帰属させる対象ではないということです。

 組織は目的をもって作られますよね。それが大きくなってくると、組織の運営・存続自体が目的化しちゃう場合があるでしょ? 組織が間違ったことをしてると思っていても、その存続のために見て見ぬフリをしなくちゃいけない、とか。そういった個人のミッションと組織のミッションに食い違いが起きる場合もありますよね。組織が大きくなればなるほどそういう傾向は強まる。

 そうなったときに、潔く組織から出ていくということを、いつでも瞬時に決断できる状況にいました。もちろん今も、これから先もそれは変わらないでしょうね。

 

フォスター・プランを飛び出した伊勢崎さんはある国際平和協力系のシンクタンクに転職。中東和平の研究をしていたところに運命を変える電話が鳴った。外務省国連政策課からだった。ここから「紛争屋」としての新しい人生がスタートする──。

次号では、いよいよこれまでに手がけてきた、武装ゲリラ相手のDDRについて熱く語っていただきます!

 
2006.1.9リリース 1 インドで40万人を指揮し アフリカで国づくり
2006.1.16リリース 2 東チモールから始まった 紛争屋への道
2006.1.23リリース 3 僕がDDRをやる理由 日本の右傾化に危惧
NEW! 2006.1.30リリース 4 やっぱり根底にあるのは ものづくりへの情熱

プロフィール
 

1957年7月東京生まれ。建築家を志し、早稲田大学理工学部建築学科に入学するも途中で「建築学」に失望し、インド国立ボンベイ大学大学院に留学。

●1983年4月〜1987年6月
大学院で学んだコミュニティ組織論、交渉術等を駆使し、スラム街に住みながらプロのソーシャルワーカーとして40万人の住民運動を指揮。ボンベイ市当局と壮絶な戦いを繰り広げる。大学院は前期で中退。あまりに苛烈さからボンベイ市公安局から国外退去命令を受け帰国。

●1988年1月〜1997年2月
世界最大規模の国際NGO「PLAN INTERNATIONAL」に就職。シエラレオネ共和国の現地事務所所長として、農村総合開発を計画、実施。国のインフラを整える。ケニア、エチオピアでも同様の事業に従事

●1997年3月〜1998年9月
財団法人 日本フォスター・プラン協会に転職。国際援助部長として予算管理、広報戦略を担当

●1998年10月〜2000年2月
財団法人 笹川平和財団に転職。主任研究員として中東和平に関わる

●2000年3月〜2001年5月
国連東チモール暫定統治機構の上級民政官としてコバリマ県の県政を指揮。DDR、治安維持、開発インフラの復興を手がける

●2001年6月〜2002年3月
国連シエラレオネ派遣団、国連事務総長副特別代表上級顧問兼DDR部長として、内戦後のシエラレオネでDDRを総合的に指揮

●2002年4月
立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科の教授に就任

●2003年2月〜2004年3月
日本主導で行われたアフガニスタンDDRを指揮。軍閥の解体、国軍の再構築を実現

●2004年4月〜現在
立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科の教授に復職
リスクマネジメント、コミュニティ組織論を教えている
立教大学・伊勢崎研究室

●2005年12月
外務省の依頼で内戦終結したインドネシア・アチェへ。目的は日本がアチェの復興にどう協力できるか、視察。


『武装解除 ─ 紛争屋が見た世界』(講談社)、『東チモール県知事日記』(藤原書店)、『NGOとは何か ─ 現場からの声』(藤原書店)、『インド・スラム・レポート』(明石書店)、『紛争から平和構築へ』(論創社)など著書多数。講演、新聞、雑誌、テレビ等各メディアに出演、NGO、国際平和実現、国際援助のあり方等について発言している

 
 
おすすめ!
 

『武装解除』(講談社)
『武装解除』
(講談社)

これまでの伊勢崎さんが手がけた国際援助、途上国開発、DDRが詳細に書かれた一冊。キレイごとではなく、国際援助、和平実現の在り方が本音で書かれてあるため、今後こっちの方面に進みたい人は必読。特に幼少期のエピソードに国際援助へのモチベーションの源泉が垣間見えて興味深い。

 
 
お知らせ
 
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業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
●河出書房新社
●魂の仕事人ブログ

 
photo 組織は自分の思想・文化・ポリシーまでをも帰属させる対象ではない 組織は自分の思想・文化・ポリシーまでをも帰属させる対象ではない 組織は自分の思想・文化・ポリシーまでをも帰属させる対象ではない
 

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取材・構成/山下久猛(編集部)
協力/パンチ広沢
写真/bushi-HONDA
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