キャリア&転職研究室|転職する人びと|第40回(後編)本物のコンサルタントが見つけてくれた 自分を活…

TOP の中の転職研究室 の中の転職する人びと の中の第40回(後編)本物のコンサルタントが見つけてくれた 自分を活かせる理想の職場

     
       
 
一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第40回 (後編) 梶原 徹さん(仮名)38歳/営業
本物のコンサルタントが見つけてくれた 自分を活かせる理想の職場

父から受け継いだ町工場は、デジタル製品の進出に対応できず、あえなく倒産。妻と乳飲み子を養っていかなくてはならない梶原徹さん(仮名・38歳)は、社長業から一転、会社員の道を決める。だが、新しい職場は思いもよらぬ過酷な労働条件、ずさんな福利厚生のため、わずか1カ月で退職を決めることになる。「次の職こそは」。そう固く誓う梶原さんだったが、現実はあまりにも厳しく、つらかった。

前任者の引き継ぎもなく
仕事の要領がわからない
 

 父親が経営していた町工場をたたみ、やむなく会社員になることを決めた梶原徹さんが次に選んだ会社は、同僚が「この会社は社員を使い捨てる」と耳打ちするような職場だった。交替制とはいうものの、人材不足から不定期に何時間も働かされる。しかも、残業代はほとんど出ない。サラリーマンになってわずか1カ月。早々に退職することに決めた。

 次に決まった会社は、大手企業の関連会社だった。工事関連業務の営業職。かつては町工場の経営者として商取引の場数を踏んでいたし、行動力にも自信がある。何より人と接し話をするのが好きだ。商品知識さえ身につければ、新人とはいえ、周りの人たちに迷惑をかけることはないだろう。それどころか、年齢的にはもう30歳も半ば。上司より年上だ。一刻も早く彼らに追いつき、追い越していかなければならないのだ。

 しかし、入社早々、少し雲行きがおかしいと感じた(※1)。担当者が引き継ぎらしい引き継ぎもないまま退職していったのだ。当然、仕事の要領が全くわからない。

「周りの人も、自分の仕事で手いっぱい。教えてくれる人もいませんでした。すべて自分で考えて行動しなければならない。中途採用とは、そういうことなのかと思いました。そうはいっても、前の担当者は、全く痕跡らしいものも残さずに辞めたということに、疑問を感じたのも事実です。自分の仕事や職務に愛着がなかったのではないか。私が1カ月で辞めてしまった前職の会社の雰囲気と似たようなものを感じました」

 およそ職場の人たちは、自分が抱えた仕事以外は、けっしてやろうとはしなかった。それも、手が回らないからではない。この会社も残業代をまともに払うところではなかった。つまり、必要以上の仕事を、わずかでもすることが“常識外”だったのだ。

「自分が管理者だった時は、職場に気を遣い、できるだけ自分が率先して動いて、周りを楽にするよう心がけていました。そうすることで、みんなも同じように積極的に補い合ってくれる。そうしたお互いの助け合いが職場全体のチームワークをつくり、結果としてお互いが効率的な仕事ができると思っていました。しかし、それは私が知っている家庭的な職場、つまり中小企業だからできたこと。今のような大きな会社ではやり方が違うんだろうなと思ったのです」

 しかし、それでも、事務作業に追われて帰りそびれている人には、つい声をかけて仕事を手伝ってしまう。そうしていけば、みんなも賛同して少しずつ協力し合う雰囲気ができるのではないか。そんな期待もあったのだが幾度試みても、反応はなかった。結局のところ、職場の空気を読んでいないのは自分の方だったのだ。

事業所縮小、人員削減…
経営危機を耳打ちする上司
 

 前任者の引き継ぎがなかったこともあり、休日出勤、残業は当然多かった。もちろん、それらの手当はほとんどつかない。新人の自分にやるべきことが多いのは当然だし、仕事が遅い分、長く仕事をするのはやむを得ない。しかし、慣れている人が少しでも教えてくれれば、もっと早く終わるのに。そしてその分、自分から職場に還元することもできるのに──。しかし、各自それぞれの仕事にだけ打ち込んでいる。自分以外は、みな敵だといわんばかりに。

 だが、そんな中でも、梶原さんを認めてくれる人が全くいないわけではなかった。入社当初、上司にあたる人物は、彼のそうした努力、人とのコミュニケーションを大事にし、場の雰囲気を変えようとする積極的な姿勢に一目置いて、何かと声をかけてくれた。

 その上司がある日、一緒に昼食をとりながら、ささやいた一言。その言葉に、梶原さんは衝撃を受けた。

「この会社はもうダメかもしれない。関東地区の事業所は、近々半分ほどに縮小される。当然、辞めさせられる者も出る。残っても、その分負担が増えるだろう。その人は、そう耳打ちしてくれました。そして『君はどうするかね(※2)』、と入社してまだ何カ月も経っていない私に言ったのです。そう言われても、まだ仕事も完全に覚えているわけでもないし、30歳半ばですでに転職を繰り返しているので、なんとかここで頑張るしかないと思いました」

しかし、1年が過ぎ、さらに会社の事情が分かってきた(※3)ころ、その上司が言ったとおり、事業縮小の動きが見え隠れしてきた。

 そのさなか、営業部の中に、法律に触れるギリギリの際どい仕事をしている社員がいることが分かった。

「ある上司と話をしているときに、その話が出ました。そこで、もし違法行為を犯すようなことに陥ったら大変ではないですかと言ったところ、『お前もその覚悟で仕事をしろ』と言うのです。俺たちは、みな腹をくくって仕事をしているんだ、と」

 梶原さんは断固食い下がった。それは意気込みなどの話ではない。犯罪にまでいかないにしても、信用を失ったり、人間関係を保てなくなったりしては、最後には自分たちの会社に跳ね返ってくるのではないか。もっと別の方法で売り上げを伸ばすべきではないのか。

しかし、その上司は、梶原さんを逆に甘いだけの“ボンボン”と思っただけだったようだ。

「こうした日常の中で、ストレスはたまっていきました。もがけばもがくほど深みにハマる感じ。いく晩も自分がうまくいっていた頃の夢を見ました。そんな感じでしたので、もしかして、という気持ちもあって、また転職活動を再開しました」

 入社して、まだ1年半ほど。それで転職するのは、履歴書としては、よくないことは明らかだ。しかし、とどまっていても先が見えないことはわかっていた。

初めて出会った「コンサルタント」
 

 インターネットで検索する過程で、【人材バンクネット】を発見。登録してみた梶原さん。すると間もなく、あるコンサルタントからメールが届いた。過去の転職活動においても、人材バンクから求人紹介のメールをもらったことはある。しかし、コンサルタントから、「一度会って話を聞きたい」という内容の連絡を受けたのはこのときが初めてだった。コンサルタントがどんな仕事をするのかも、この段階ではよくわかってはいなかった。が、ともかく一度会って話をしてみることにした。

 そのコンサルタントは旭化成アミダス株式会社の木村英樹と名乗った。 まずは、木村コンサルタントに自分のこれまでの経歴を話した。自分の工場が倒産したこと、会社に入って1カ月で辞めてしまった理由。そして、今勤めている会社の苦しい事情。

 木村コンサルタントは、丁寧に話を聞き、最後に、ご苦労されたようですね、と言った。嘘やおべっかを言っているようには見えなかった。こういったところに、誠実さを感じた。

 そして、求人を紹介するにあたって、こんなことを言った。

「これから紹介するのは、今までのように大きな会社ではなく、ごく小ぢんまりした会社ですよ、と言って、ひとつの会社を紹介してくれました。私が希望している営業の仕事です。確かに広く名の通った会社ではないようでしたし、人数が少ないので、担当するお客様の件数が多いとも。その会社の、むしろマイナスとなる点を先に、包み隠さず教えてくれた(※4)のです」

 さらに、この会社はその分野では老舗で、それなりの信頼も得ているということ、人を大切にする社風で、それは、社長の人柄からきているものでもあるということだった。そこに心動かされる何かを感じとった梶原さんは、ともかく応募してみることにした。

「ところがその会社の採用基準は案外厳しく、これまでに木村コンサルタントを通して、10人ほど受けているが、いずれも不採用になっているということでした。転職回数も多く、年齢も高い自分は無理ではないかと思いましたが、ダメ元でもいいという気持ちで面接に臨むことにしました」

不利な自分の履歴を説明するのに
十分な時間をくれた面接
 

 ダメ元で臨んだ面接だったが、意外な展開を見せた。木村コンサルタントの話では、こちら側からあれこれアピールしても、話をあっさり聞くだけのケースが多いという。しかし、梶原さんの場合はむしろ、会社の側からいろいろと質問してくる。履歴書には転職回数や短い就業期間が記されていてかなり不利であるだけに、梶原さんとしてもこれまでの経緯を自分の言葉で説明しておきたかった。話は一気に盛り上がり、気がつけば1時間余りも話をしていた。

 その結果を木村コンサルタントに連絡すると、「ずいぶん長かったですね。これまでは30分がいいところでした」と言う。手応えというのだろうか、少なくとも、自分のことを最初から最後まで説明することができたと、梶原さんには満足感があった。

 それから、3、4日後にもう一度面接を行い(※5)、数日後に木村コンサルタントから採用の報せが届いた。もうこれで、昔の夢でうなされて起きることはなくなるだろうか。妻も以前のような穏やかな顔に戻るだろうか──。何度も会社を転々とする、重苦しい負のスパイラルから抜け出すことだけが、梶原さんの願いだった。

仕事に必要な知識を学び、
上を目指す日々を送れる喜び
 

 梶原さんは、今、毎日の仕事に充実感を感じている。上司は、何かトラブルがあっても部下を頭ごなしに叱りつけることはない。まず、ことの原因を問いただして、善後策を立てることを優先する。それは、前職では考えられない対応だった。誰かの仕事が遅れれば、他の人が補うように動く。人数は少ないものの、皆が集まって処理するので、結果としてたいした残業にはならない。これも以前の職場ではありえないことだった。

「そのことを、会社の人に話したら、その人が教えてくれました。社長も若いころ苦労したみたいだよ。だから、その辺のツボを心得てるのさ、と」

 現在は、前職では考えられないほど早く帰宅することができるし、休日は家にいるので、子どもが驚いているのだという。

「娘が、どうして今日はお仕事に行かないの? と、寝坊している私の枕元で聞いてくるんです。今日はお休みなんだよと説明すると、布団に飛び乗って、遊ぼう遊ぼうとせがんでくるのが、うれしいですね」

 梶原さんは、しかし、今でも休日は自宅で仕事の勉強をしているという。現在扱っている商品の知識を蓄え、一刻も早く一人前になり、さらにその上を目指すためだ。

「同じ休日の仕事なのに、やらさせているのと自分からやるのとではこんなにも違うものかと、当たり前のことながら驚いています。ええ、もちろん、今は夢にうなされることはありませんよ」

コンサルタントより
旭化成アミダス株式会社
 木村英樹氏
コンサルタント
  履歴書の「不利」な要素を
  どう本人がとらえているかで
  状況が変わってきます
 
 

 一言で「営業職」といっても意外に複雑で、その会社が求める人材も、扱う商品に対する知識が豊富な人が希望なのか、コミュニケーション能力のある人をより重視するのか、新規開拓に意欲的なのか、従来の顧客を大切にして、業績を伸ばそうとしているのかなど、さまざまな要素があります。そうした会社側と求職者側の意向がぴったりマッチしていなければ、満足のいく転職は難しいかもしれません。
 
転職回数が多く、その就業期間が短いという経歴の方の転職は、確かに不利だと思います。しかし、特に営業職では、いわゆる「ツブシが利く」といわれるように、転職を重ねる方も珍しいわけではありません。履歴書の「不利」な要素を、その人がどうとらえているかということで、状況も変わってきます。

 梶原さんの場合は、それまでの業種や職種の経験を見た限りでは、紹介した企業の求人条件に合っていました。しかし、転職の多さ、期間の短さなど、マイナス要因もありますので、その理由と、本人のお人柄を確かめたいと思い、声をかけたのです。

 実際にお会いして話をしてみると、非常に明るく気さくで、なおかつ気配りもできる人だということがわかりました。また、ご自身の転職の理由も包み隠さず話されますし、何よりこれからのことに積極的な姿勢がうかがえました。このお人柄であれば申し分ないと判断し、今回転職された企業を勧めたのです。企業の側でも、梶原さんの人柄、特にコミュニケーション能力の高さと、将来に向けてのポジティブな姿勢には高い評価があったようで、ほかに転職歴も少なく、経験も豊富な人の応募がありましたが、敢えて梶原さんに決められたようです。

 その企業には、梶原さんの前にすでに数人の方の応募があり、最終的には入社に結びつかなかったのですが、それほど企業と求職者とのマッチングが微妙だということがいえます。しかし、逆にいえば、そのマッチングがうまくいけば、経歴や年齢などのマイナス面を越えて、理想的な職場を手に入れることができるということもいえるのです。

 我々コンサルタントも、そのためにさまざまな可能性を見つけ出す努力をしています。転職がうまくいかない、または仕事に就いても自分に合っていないということで、すぐに営業職に向いていない、この履歴書ではダメだなどと短絡的に決めつけず、行き詰ったら、我々コンサルタントといっしょに考えてみるのも悪い選択ではないと思います。

 
プロフィール
photo
※写真はイメージです

埼玉県在住の38歳。大学卒業後、大手電気工事会社に就職するも、母親が病気で倒れたのをきっかけに父親が経営していた町工場を受け継ぐ。約10年そこで切り盛りするが、経営は悪化し、遂に35歳で工場をたたみ、再度会社員になる。しかし、最初に就職した会社は1か月で退社。次に就職した会社も入社早々行き詰まりを感じる。

梶原さんの経歴はこちら
 

少し雲行きがおかしいという気がしていた(※1)
そもそも、入社前に言われていた事業所からすぐに転勤になったのだが、これも聞いていたこととは違っていた。通勤時間は片道2時間になってしまった。朝早く出て、夜遅く帰る勤務時間に、妻がいっそうの不安感を持っている様子だったのがつらかったという。

 

きみはどうするかね(※2)
その上司は、近く転勤となる。定年も近く、会社を辞めることは難しいので、遠く離れた職場で最後まで職務をまっとうするという。一緒に来るかという誘いも受けたが、家族や両親を置いていくのは難しいので、梶原さんは断らざるを得なかった。

 

さらに会社の事情が分かってきた(※3)
会社の縮小もこの時期、次第に明確化していくが、梶原さんが当初見ていた通り、各自が自分の仕事だけにしか気を配らない職場の雰囲気も、実は営業成績を上げることができない一因ではないかと考えるようにもなっていた。各自が独自の情報で勝手に動いているので、情報が散乱し、全体を通した分析力が脆弱だったのだ。引いてはそういう社風が事業所縮小にまでつながっているのではないかと思っていた。

 

マイナスとなる点をまず包み隠さず教えてくれた(※4)
木村コンサルタントは、給料面でも、現職に比べて、減額になることは間違いないということも、ためらいなく話してくれた。聞きたいけれどためらわれるようなことをスパッと話してくれるその応対は、信頼感が持てるものだったという。

 

もう一度面接を行い(※5)
このとき、給料などの確認をした。最初に木村コンサルタントが言ったように、年収では前職より減給にはなる。しかし、それでも家族が生活するには十分な額だった。また残業代についても、ほとんどつかないと明確に言ってくれた。ただし、残業自体はほとんどないということで、それはそれで納得できるものだった。

 
取材を終えて

 いろいろな方のお話を聞かせていただいて、この人は、この仕事に天性の能力を持っている人だと感じることがあります。梶原さんは、人との応対に才能があります。明るく接しつつも、言葉の端々に相手への気遣いが見えます。こういう方は、営業職にぴったりではないかと思いました。

 しかし、その力もただ自分の成績だけしか見ない、個人が孤立したような環境では生かされることはない。それを今回の取材で強く感じました。

 一人は全体のため、全体は一人のため。そういう配慮が全くない職場は、長い目で見れば、これからの時代に生き残ることはできないかもしれない。梶原さんは、極めて短期間で転職されましたが、この“冒険”は、迅速な行動という意味で正解だったような気がします。

 それにつけても、数ある履歴書の中から、そうした埋もれた才能を見つけ出し、またそれに適した企業に結びつける人材バンクのコンサルタントの目のつけどころにも大いに感服するところです。求職者の影にコンサルタントあり。頼もしい存在だと思います。

TOP の中の転職研究室 の中の転職する人びと の中の第40回(後編)本物のコンサルタントが見つけてくれた 自分を活かせる理想の職場