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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第40回 (前編) 梶原 徹さん(仮名)38歳/営業
工場経営者から会社員に 待ち受けていたのは失望と後悔の日々だった

ガスメーターをつくる工場の息子として生まれ、成人した後は自ら先頭に立って工場の発展に尽くした梶原徹さん(仮名・38歳)しかし、近年のデジタル新製品の進出に対応できず、まさかの不振に陥った。年老いた両親、妻子を抱えて苦境に立った梶原さんは、やむなく廃業し、会社員として働く道を選んだ。しかし、そこで見たのは、思いもよらぬ労働条件、福利厚生のずさんさ。元・町工場の社長。そのサラリーマン生活は、ただただ棘(いばら)の路が続くばかりだった。

 いきなり崖から突き落とされた。そう思った瞬間、目が覚めた。

 自分の家の寝室。背中は汗でぐっしょりと濡れていた。

 隣には、疲れきった顔で眠っている妻。さらにその隣には、まだ1歳の我が子がすやすやと眠っていた。

「また、あの夢を見てしまったな……」

 自分のこれまでの人生の中の、もっとも順調だった頃。父親が経営する町工場を引き継ぎ、順調に規模を拡大していたあの頃。少しでもいい製品をつくろうと努力し、それが実際の売り上げとして表れていたあの頃。両親は健康で働き、家に帰ると、妻がにこにこしながら話しかける。あなた、もうすぐパパになるのよ。

 その夢は、決まってそこでぷつりと途切れ、いきなり真っ暗闇の崖から突き落とされる感覚とともに目が覚めるのだ。

「そうだ。俺は、今、工場の経営者なんかじゃなくて、会社員なんだ。それも、いつ法律違反に問われるかもしれない、あの会社の……」

 もう一度妻と子に目をやる。気のせいだろうか、暗闇の中で見る妻は、眉間にしわを寄せて寝ているようにも見える。

 今。この今が一番苦しい時かもしれない。40歳に手が届きそうな今。妻子を養う責任がある今。そして、工場をたたんでから、サラリーマンになったものの、短期間で転職を繰り返そうとしている今──。

 だが、梶原さんは、それでもどこかに光があると信じていた。自分ならやれるはずだし、自分を求めている場所が、どこかに必ずあるはずだと確信していた。

「またあの夢を見たの?」

 いつの間に目を覚ましたのか、妻が声をかける。

「いや。なんでもない。それより子どもに布団を掛けてあげな。はだけちゃってるぞ」

 そういって、再び眠ろうと努めた。すでに冷たくなった背中には、ただ不快感だけが張り付いていた。

母の病気で会社を退職
父親の工場を引き継ぐことに
 

 梶原さんは、大学を卒業後、東京の大手電気工事会社に就職した。父は、埼玉で町工場を経営しており、いずれはその跡を継ぐつもりでもあった。しかし、まずは経験を積みたかったし、自分がどれほど人に認められるか、それを試してみたくもあった。

「いずれは父の工場を継ごうということも頭にはあったのですが、父は、自分の代で終わってもいいと思っていたようでした。それに甘えて、自分としては、家を出て、社会の中で頑張れるだけ頑張っていきたいと思っていたのです」

 しかし、入社2年目で、状況は変わった。母が病気で倒れてしまったのだ。工場は、両親二人きりで切り盛りしていた。ここで、母の看病と工場の運営を父一人でやるのは事実上不可能だと、梶原さんは思った。

「両親は、せっかく一流の会社に入ったのだから、ウチのことは気にせずもっと頑張ったらどうだと言ってはくれたのですが、やっていくのが厳しいのはわかっています。それに、会社では転勤の話があり(※1)、東京を離れると、両親に会うことも簡単にはできなくなる。そう思って、辞める決心をしたのです」

 母はせっかく就職したのにもったいないといつまでも言っていたが、父は息子が継いでくれると、近所に自慢していたという。梶原さんも、せめて3年は勤め、それなりの役職に就きたいと思っていたので、いささか後ろ髪を引かれるものがあったのだが、一家を自分が引っ張っていくという、その仕事に気持ちが引き締まる思いがあった。

 職人肌の父は、製造管理を中心に行い、営業は自分が回る。そうした親子二代の工場は、それまで以上に活気をつけ、業績も徐々に伸びていった。

時代が変わり、工場経営が行き詰る
再び会社員へ立ち戻るしか……
 

 工場の経営に陰りが見えてきたのは、梶原さんが切り盛りするようになって8年ほど経った頃だった。工場では、自動車やガスのメーターを製造し卸していたのだが、そのメーターは、デジタル製品が次々に導入され、梶原さんの工場でつくっているようなアナログ製品のシェアが徐々に減ってきたのだ。

 得意先からも、これからはデジタルだとは言われていたのだが、その導入には膨大な投資費用がかかる。どうしようかと迷っているうちに、あっという間にデジタル化が進んでしまった。気がついてみると、売上はどんどん下がってきてしまったのだ。

「それでもやっていくには、まずは人件費をカットしなければなりません。そこで、父と自分がその分を働いて埋めなければならなくなったのです。しかし、それでもじりじり追い込まれていきました。もし、ここで自分か父が倒れでもしたら、もう立ちいかなくなる。そこまで追い込まれていったとき(※2)、決断するしかないのではないかと思ったのです」

 そのときすでに、サラリーマンなら退職してゆったりした老後を過ごしてもおかしくない年齢に達していた父が、体に鞭打って働いている姿は見るに忍びなかった。父に相談すると、同じことを長らく考えていたらしく、自分で決めて納得する道を選べ、と言ってくれた。

 腹をくくって、工場をたたもう。自分はほぼ10年のブランクをつくってしまったが、またサラリーマンをやろう。梶原さんはそう決心し、日々の工場の仕事が終わると、インターネットで情報を収集し、その過程である人材バンクに登録してみた。

わずか1カ月にして転職
その先に見出すはずの希望は……
 

 人材バンクからは、たくさんの紹介案件が送られてきた。そこで見つけたのが(※3)、食品メーカーの工場のライン長の仕事だった。製造の仕事をしてきたので、これなら関連も深い。業務内容と賃金の話を少し聞いたくらいで、すぐにその会社で働くことを決めた。会社も2度ほどの面接であっさり入社が決まった。

「一流会社の系列会社でしたので安心感があったんですよね。工場をたたんですぐにでも仕事に就きたいという焦りもあって、あまりよく調べもせずに決めてしまいました。年齢もそのとき34歳。どうせ仕事に就くなら早い方がいいと、早く決まったところにそのまま入社してしまったのです」

 しかし、実際入社して仕事をしてみると、全く予想もしていない過酷な労働条件だった。工場は朝5時から夜11時まで稼働し、その間、2交代制で仕事を行う。しかし、そのシフトはほとんどでたらめで、朝から夜までぶっ通しだったり、早番と遅番の組み合わせが不定期だったりで、いずれも生活のリズムがとれないものばかりだった。途方もない残業時間になることもしばしばだったが、残業代はほとんどまともに支払われなかった(※4)

「そんな無茶苦茶なシフトになるのも、従業員が次々に辞めてしまって長続きしないので、うまく組むことができないからだったようなのです。いわゆる悪循環ですよ。職場の先輩たちは口々にここは社員使い捨てだから気をつけろ、と忠告してくれました(※5)。そこで、ここはダメだと反射的に判断したのです」

 人材バンクへの登録はそのまま残していたので、相変わらず案件は送り付けられて来る。そのなかで、ある会社の募集に目が止まり、応募。意外とあっさり採用が決まった。東証一部上場企業の関連会社。結局、入社後わずか1カ月で退職することになった。

「わずか1カ月での転職。年齢も35歳。もう転職するにはギリギリの状態でしょう。しかも、妻子がいるのです。今度こそ、という気持ちでした。これでまた転職しようものなら、もう、そのときの私の履歴書をまともに見てくれる人など、この社会にはいないだろうなどと、想像したりしていました」

 しかし、その「想像」は現実のものとなった。もう後がないというところで、上司も同僚も信用することができず、安心して働くことができないという最悪の状況に陥ってしまったのだ。なぜ、行くところ、行くところ、問題がある会社ばかりなんだ? 問題は、会社にあるのか。それとも……。

 梶原さんが、夜、かつて自分の工場の景気がよかった頃のことを夢に見るようになったのは、この会社に入って数カ月が過ぎた頃だった。

ここにいてもいいのだろうか──。その不穏な雰囲気は、入社直後からそれとなく感じ始めていたのだった……。


以降[後編]に続く

 
プロフィール
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※写真はイメージです

埼玉県在住の38歳。大学卒業後、大手電気工事会社に就職するも、母親が病気で倒れたのをきっかけに父親が経営していた町工場を受け継ぐ。約10年そこで切り盛りするが、経営は悪化し、遂に35歳で工場をたたみ、再度会社員になる。しかし、最初に就職した会社は1か月で退社。次に就職した会社も入社早々行き詰まりを感じる。

梶原さんの経歴はこちら
 

会社では転勤の話があり(※1)
その会社に強い不満はなかったが、「設計ということで入社したのですが、実際は入社して1年が過ぎても、それらしい仕事は回ってこず、外周りの仕事ばかりでした。最初の話とは違うものなんだな、と思いました」という。大きな会社なので、転勤があってもおかしくはないとは思ったが、その話も入社前には聞かされていなかった。

 

そこまで追い込まれていったとき(※2)
そのとき、梶原さんは結婚しており、長女も生まれていた。家族の誰かが倒れてしまっても先がないという状態だったのだ。また、その段階で、まだ工場が赤字になっていたわけではなく、工場やその土地もいっさいが父親のものだったので、それさえ残っていれば、両親は大丈夫だという算段があった。

 

そこで見つけたのが(※3)
このときは、ただ名前を登録したことで送られてきたメールの中から、めぼしいと思う会社をピックアップして、自分一人で応募を決めていた。特に人材バンクのコンサルタントと直接面談をしたわけではなかった。

 

残業代はほとんどまともに支払われなかった(※4)
梶原さんより以前から働いている人で、100時間の超過勤務をした人がいたが、それでも付いた残業代は、会社の規約により最大の20時間だけだった。

 

忠告してくれました(※5)
本社の人間が工場にやってきて、指示をするのだが、それも2、3カ月というごく短いスタンスで入れ替わるのだという話も聞いた。そのたびに方針が変わり、やり方が改まる。これも、使われる側にはつらいことだが、そうした上も下も人の動きが激しいということ自体に、この会社は大丈夫かという危機感を感じたという。

 
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