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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第39回 (前編) 川瀬忠司さん(仮名)40歳/販売
誇りをもって働くために 40歳で転職を決意

酒店の息子として、父の働く姿を見ながら育った川瀬忠司さん(仮名)は、自らも酒に関する資格を持ち、知識や経験もプロフェッショナルという自負があった。しかし、結婚披露宴などの采配・アレンジをするルームマネージャーという仕事では、専門知識を駆使する必要もない、ただ数をこなすという、それだけの「業務」に過ぎなかった。この仕事は、本当に自分のやるべき仕事なのか。自らに問うものの、その答えは明白だった……。

 川瀬さんが選びに選んだワインを口にしたその紳士は、少し驚き、そして微笑した。とある結婚披露宴でのことである。紳士はとなりのマダムにそっとささやく。驚きましたな。なかなかのものですよ、このワインは──。

 川瀬さんの仕事は、ブライダル会社における企画運営。特にワイン、ドリンクのセレクトと手配を担当している。予算も納期も厳密に指定されている中で、時には無理をしてでも、最良のものを提供することを心がけていた。 なぜなら、自分にはワインアドバイザーとしての知識があり、長年の経験で、いい品を安く提供してくれる卸業者を豊富に抱えていたからだ。そして、なにより上質のワインを堪能した人たちの幸福感に満ちた笑顔が見られるのがうれしいからだ。

 しかし、会社の上の人たちは、それを目に見える成果だとは見ていなかった。上司は言う。

「どうせ少し酔えば、品質なんてわかりっこないだろう? それよりも都合のつきやすいものを適当に見つくろって、数をこなしてってくれりゃ、それでいいんだよ」

 確かに、効率化は、仕事の上で重要な要素だろう。しかし、最善のサービスがあってこその会社の信頼であり、それが過当競争の中で生き残る術なのでは……。

「何をぶつぶつわかった様な事を言ってるんだね、川瀬くん。君はこだわり過ぎるんだよ。その日の気温だの天気だのを細かくチェックしたり、メニューにあれこれ注文をつけたりすることに何の意味があるのかね。それに、あまり残業してもらっても困るんだがねえ」

 目の前の仕事を適当にこなすことだけを考えるのなら、それでもいいのかもしれない。しかし、それなら、自分がプライドを懸けてやる仕事ではない。簡単なことだ。自分の力を本当に求めているところを探し、そこへ移るまでだ。

 そう決心した夜、川瀬さんは、誰もいなくなった厨房で明日のワインを試飲してみる。こころなしか、少し苦みが残る気がした。

ワインアドバイザーなどの
専門資格を意欲的に取得
 

 子どものころから仙台で酒店を営む両親の手伝いをしてきた川瀬さんは、世話になっていたある大手酒造メーカーのお得意様の口利きで、カクテルの勉強ができるスクールに通わせてもらえることになった。成人式を終えて間もない、大学在学中のことだ。学んでみると酒の世界は予想以上に奥が深かった。

「生徒さんは、ほとんどがお酒に関する職業に就いている人やその卵たち。今、業界で名の通ったソムリエさんたちもここで学び、伸びていったスクールなのだそうです(※1)。ですから、皆勉強熱心でしたし、それだけの魅力がお酒というものにあるのだな、ということをまず学びました」

 高校卒業後は親元を離れ、関東圏の大学に入学したこともあり、家業を継ぐのではなく、東京での就職を考えていた。そして見つけたのが、酒類の卸売業社。ワインの営業部を新規に設立し、ヨーロッパワインの自社輸入販売に手を広げようとしていた会社の求人だった。

「新規開拓ということもあり、何もかもこれからという仕事でしたので、自分で考えてやることも多く、毎日が充実していました。自分たちが選んだワインの販売店が広がっていき、雑誌などでも紹介されたりすると、それなりの達成感がありました。自分が仕事をこなしていけばこなしていくだけ、事業が拡大していく。経験と実績がほしい新人にはうれしいことでした」

 この時期、川瀬さんは仕事をこなすかたわら、各種酒関係の資格取得も同時にこなしていく。かつて通っていたスクールの恩師たちにも勧められ、励まされていたので、より熱が入った。

「23歳でワインアドバイザーの資格(※2)を取り、翌年に酒匠アドバイザー、翌年に利き酒師という具合に、20代のころにお酒に関する資格を5つほど取得しました。もちろんいずれもプロが目指す資格ですから、簡単なものではありませんが、意欲も充実していたし、勉強するには最適な環境でした」

実家の酒店を継ぐも
競合店の出店で閉鎖することに
 

 仕事にはそれなりの充実感があったが、川瀬さんは入社して2年後に退職を決めた。仙台の実家が経営している酒店を継ぐことになったためである。

「ちょうどバブルも絶頂のころで、実家の酒店の売り上げも上々で、両親だけでは手が回らなくなってきたのです。自分としては、まだまだ東京で修業をしたいという気持ちはあったのですが、東京に出てこれたのも、もとはといえば、両親のおかげ。ここで親の頼みをきかないわけにはいかなかったのです」

 その仙台の酒店では、ワインブーム、焼酎ブームといった世情の動きを敏感に察知して品物をそろえ、蔵元などとも懇意になりコネクションを広げ、常に好調な売り上げを示していた。しかし、店を継いでほぼ15年。時代は少しずつ変わり、自分一人の力では太刀打ちできない状況になっていく。

「近所に大型のディスカウント量販店が開業したのです。そことの競合は、お酒の知識やお客様への気配りといった地味なサービスだけでは通用しません。値段というわかりやすい指標で左右されるのです。まだまだやれるという状態ではありましたし、両親が立ち上げた店ですから、それをつぶしてしまうのは忍びないところだったのですが、将来を考えるとどうしても、このまま続けるのは得策とは思えません(※3)。両親を説得し、店を閉鎖することにして、私は知り合いのつてで、新しい職場に転職することにしました。それが、新規展開として披露宴の企画運営をするブライダル会社だったのです」

面倒な仕事、繊細な仕事には
手を触れようとしない上司
 

 自分の得意とするワインなどの知識を生かした新しい職場で、マネージャー待遇での採用。また、知り合いの紹介ということもある。さらにいえば、両親を説得して店をたたむための理由も、その時は必要だった。そこで、あまり深く調べもせず、転職を決めてしまった。

「しかし、それが間違いでした。昇給や福利厚生のことなどもろくに確かめもしないままに仕事に就いてしまったのです。ふたを開けてみれば、自営をしていた時の半分程度の収入。いくら努力しても、まず当分は、上がる見込みもなさそうです。しかしそれ以上につらかったのは、お酒の専門家として入社したつもりだったのに、その知識はほとんど必要がないということでした。そればかりか、むしろ邪魔なくらいの扱いだったことです」

 質のいいワインをより安く仕入れるのは、それなりの知識とコネクションがなければできない。そのために奮闘していい結果を出しても、できるだけ安く仕入れるのは当たり前の業務だとばかりに、これといった評価もされない。

 そればかりか、サービスを売る、人を相手にする仕事であるにもかかわらず、手間を省くことや効率的に回すことだけを考えて仕事をしようとしている。人の夢をかなえるはずの披露宴をプロデュースする仕事にも関わらず、ホスピタリズムという考えはほとんど見当たらないのだ。川瀬さんのプロとしてのプライドを持って語る意見や陳情は、面倒くさそうに聞き流されてしまう。要は安く早く事を済ませること。おざなりであろうと、予算と時間の範囲内でできることをさっさと片付けて終わりにすることが、社員たちの日常になっていた。半年も前からこの日のためにいろいろ計画してきたであろうカップルの夢を、「無理ですよ」の一言で片づけてしまう。川瀬さんのプロとしての専門知識やホスピタリティ精神は、この職場では不要だったのだ。

 また、職場の人間関係を円滑にするのも、川瀬さんのポジションでは重要なことだ。その人間関係も良好とはいえなかったのが、会社の将来性に期待を持てない理由でもあった。

 ブライダル関係の仕事ということで、多くのとりわけ女性が入社してくるが、いざ業務についてみると、理想との違いに戸惑い、すぐに辞めていってしまう。川瀬さんは、そういった人たちにも理解を持って接し、教育指導していかなければならなかった。

「彼女たちは、上司に陳情することなどできません。それを私が察し、相談に乗り、上の人と話をつけるのです。中間管理の立場であれば当たり前のような気もしますが、それがこの会社ではなかなかうまくいっているとはいえなかったのです(※4)。これという目に見える商品を売るわけではないホスピタリティの仕事では、こうした精神的なつながりもチームワークの形成という意味で大切なことだと思います。しかし、この職場ではそれをしっかり自覚している上司がいないのではないと感じていました。面倒な仕事や、繊細な神経を使う仕事は、手を触れようとしないというふうに思えたのです」

自分の力を求める場所は
きっとある
 

 仕事をこなすのは問題ない。また小売店の経営では経験できなかった職場の人間関係なども、ここでは経験することができる。しかし、それだけだという失望感が川瀬さんにはあった。ワインの知識を生かすこともできず、昇給の見込みもない。一般的に結婚率が下がっていくなかで、ブライダルの会社だけは都会も地方も関わりなく増えてきている。ますます過当競争が激しくなるというのに、今の職場は、他と差異化に不可欠なホスピタル精神もきちんと理解されているとは思えない。ここで働く意義は、全く見つからなかった。

 それなら、別の場所、自分本来の力を発揮できる場所に移るしかないだろう。答えは明確だった。また、自分の力を求めている場所は、絶対にどこかにあるという自信もあった。自分にはそれだけの知識と経験があるという確固たる自信。転職を決意したのは、ごく自然の流れだった。

 もちろん不安がなかったわけではない。そのときすでに40歳。年齢がネックになると思っていた。転職活動を開始してみると、その不安は的中する。

「最初は、求人が掲載されているフリーペーパーで調べたり、ハローワークで探してみました。また、インターネットでいくつかの人材バンクに登録してはみたのですが、これという反応はしばらくありませんでした。案件のメールは毎日のように来ます(※5)ので、ひとつひとつチェックしてみるのですが、年齢と職務内容、勤務地、給与でこちらの希望に一致するものはほとんど見つかりませんでした。履歴書を送ったり、問い合わせをしたりしてみても、おそらくは年齢の問題でしょう、これといった応答はありませんでした(※6)。もちろん、その段階では、まだ退職しているわけではなかったので、気長に探そうと考えてはいました。自分の店をたたんでの転職は、失敗といわざるを得なかったので、今度は慎重に決めようと考えていたのです」

 応募書類を送ったのは5、6社程度。そのうち半分は面接のお呼びもかからなかった。しばらくは進展なしという状況が続いた。しかしある日、ネットで検索中に見つけて登録した【人材バンクネット】から1通のスカウトメールが届いた。登録から4カ月が経った頃のことだった。この日を境に状況は急激に変わっていった。

 
プロフィール
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東京都在住の40歳。仙台の酒店の息子として生まれる。20代でワインアドバイザーなどの資格を取得、酒類を販売する会社に2年ほど勤め、その後実家の酒店を継ぐ。順調に業績を伸ばしていくものの、引き継いで15年後、近所に大型のディスカウント店が開店したことにより売上が激減、小売店に見切りをつけ、ブライダル会社の披露宴の企画マネージャーに転身。ワインの知識を駆使して、酒のプロとしての活躍を目指したが、その職場は、ただ「適当に数をこなすこと」だけを考えるだけで、仕事に充実感がなかった。そこで、自分の力を生かすことができる職場を求め、転職を考えた。

川瀬さんの経歴はこちら
 

今、業界で名の通ったソムリエさんたちもここで学び、伸びていったところだそうです(※1)
そのスクールを卒業するというとき、教員から、あるソムリエスクールにたまたま欠員が出たので、よかったら通ってみないかと言われた。そこは、何年も待たなければ入学できないという人気を誇り、飲食店でも幹部クラスの人ばかりが受講するスクールだった。ここで指導に当たってくれた教員は、業界では知らない者はないといわれる大御所たち。今でも彼ら恩師とのつながりは続いており、何かあった時に相談できる、いわば川瀬さんの切り札的な存在でもあるという。

 

ワインアドバイザーの資格(※2)
ワインアドバイザーは、酒類業界や酒屋、流通関係者などを対象とした資格。それに対して、ソムリエは、ワインや酒類を提供する飲食サービス業に従事している人を対象とした資格。専門知識の幅や深さは同程度だが、ソムリエは実務経験が5年以上必要なのに対し、ワインアドバイザーは3年以上となっている。ちなみに、ワインアドバイザーの合格率は、およそ3割程度といわれている難関資格。

 

このまま続けるのは得策とは思えません(※3)
川瀬さんは独身であり、身軽であることも、店をたたむことへの抵抗を軽減していた。もし、養うべき家族がおり、最低確保すべき賃金が絶対必要という立場であれば、より慎重にならざるを得なかったかもしれないと語っている。

 

この会社ではなかなかうまくいっているとは言えなかったのです(※4)
川瀬さんが退職することを職場に告げたとき、多くの同僚や部下と話をしたり、メールを受け取ったりしたが、その中には決まって、川瀬さんがいなくなることで職場の人間関係が悪くなるのではないかという不安の声があったという。「そういうふうに感じてくれていたことをありがたいと思うと同時に、やはり人間関係に気を配ることの大切さを実感しました。その気持ちは、今の新しい職場でも活かそうと心掛けています」(川瀬さん)。

 

案件のメールは毎日のように来ます(※5)
川瀬さんが、登録の際に記した条件は、勤務地が東京か地元仙台であることと収入。もちろん、お酒にかかわる仕事が第一の希望ではあったが、間口を広くもつために、接客にかかわる仕事であればとしておいた。そのために、求人案件のメール自体は多かったが、ほとんどが希望に合うものではなかった。

 

これといった応答はありませんでした(※6)
この時期、面接を受けた会社もあったのだが、「あなたのようなキャリアをもつ人は当社にはもったいない」と断られたこともあったという。必ずしも年齢をさして言ったことではないのかもしれないが、40歳という年齢は、転職の時期としては難しいといえるかもしれない。

 
 

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