武田さんの脳裏には時に転職の二文字が頭をよぎることもあったが、仕事のやりがいが大きく、決心はつかなかった。営業先で出会う中小企業の社長たちには教えられることが多く、とても楽しかった。契約数も伸びていた。またひどい人間関係に悩まされたのは大阪支社だけで、本社や他支店の社員たちにはかわいがってもらっていた。
それに、辞めるにしても、所属チームをナンバーワンにしてから、自分の力で誰からも文句を言われない結果を残してからだ——いつからか、武田さんはそんな思いに取りつかれるようになっていた。自分の身も顧みず、早朝から深夜まで意地になって仕事に取り組んだ。休日もほとんど取らなかった。
声が出ない、という体の異変が起きたのはそんなある日のことだった。何か言おうとしてもどうしても言葉が出ない。初めての経験に、武田さんは慌てた。
(どうしよう!? これじゃ、仕事にならない)
しかし、焦りと同時に別の思いも込み上げてきた。
「仕事ができなくなれば、会社を辞められる……」
病院に行くとストレスからくる症状であることがわかったので、とりあえずは声を出さずにできる仕事に従事しながら、様子を見ることにした。上司は武田さんのことを心配するどころか、大いに攻め立てた。
「すぐにでも辞めます」と上司の上の立場に当たるマネージャーに申し出てみたが、武田さんが辞めると営業成績に響くと判断したのか、「あなたの上司に問題があるのはわかっている。部署を変えるから残ってくれないか(※4)」と慰留された。マネージャーと上司の関係も険悪だったのだ。両者の確執も大きなストレスとなっていた。
しかし、武田さんはマネージャーからの提案を受け入れる気にはなれなかった。そのころの武田さんは心身ともにボロボロだった。力を入れて引っ張ったわけでもないのに、髪の毛が途中でプツプツと切れてしまう。行きつけの美容室で、美容師に驚かれた。気がつけば肌も荒れ、やせ細っていた。鏡の中にはかつての自分とはかけ離れた姿の自分がいた。
そこまで追い詰められていたものの、武田さんは出社すると意地になって仕事に取り組んだ。
「こうなってしまったのは私のせいじゃない。誰にも後ろ指を指されるもんか」
もはや気力だけで仕事をしているようなものだった。
声が出なくなってから2カ月後、ようやく退職願いが受理された。後輩への引き継ぎを完璧に済ませ、先々の営業アポイント先も確保して、会社を去った(※5)。もう二度とこんな会社で働きたくない。今度こそ、長く働ける職場を見つけたい——武田さんは強く決意した。 |