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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第28回(前編) 萩原沙也香さん(仮名)27歳/編集者
本当にやりたい仕事は何なのか コアを見失った苦悩を乗り越え 3度目の転職で夢を実現

大学卒業後、夢だった雑誌編集者の道を断念し、IT企業のSEとして最初のキャリアをスタートさせた萩原沙也香さん(仮名)。その後編集者への道をあきらめ切れず、2度の転職を経験。しかし3社目となった編集プロダクションは仕事内容、環境ともにひどいところだった。こんなはずじゃなかった──。苦悩と後悔だけが萩原さんの心を支配していた。

「萩原さん、キミ、もう今月でいいから」

 編集プロダクションで編集者として働いていた萩原沙也香さん(仮名)は、突然社長から投げかけられた言葉で全身から力が抜けた。

「もういい」とは「もう会社には来なくていい」。つまり解雇という意味である。しかしその脱力感は、ショックから来るものではなく、安堵から来るものだった。

 ようやくこの会社を辞められる──。萩原さんは心の中で「よかった」と胸をなでおろしていた。

編集者の夢をあきらめSEに
 

 萩原さんは幼いころから本に興味をもち、将来はマスコミ・出版の道に進みたいと考えていた。都内の高校を卒業後は東京の有名私立大学に入学。しかし就職戦線を迎えるころには、日本経済はバブル崩壊による深刻な不景気に見舞われ、就職氷河期の真っ只中だった。

 ただでさえ難関の出版社は募集自体がほとんどないというさらに狭き門となったため、あえなく断念。そんな中、ほかの企業に先駆けて一通のダイレクトメールが届いた。大手IT企業からのDMだった。とりあえず卒業後は会社に入ってきちんと働きたいと思っていた萩原さんは、そのDMでSEという職種に興味をもち、応募。就職氷河期ながらトントン拍子で内定が決まり、4月からIT企業でSEとして働き始めた。

 それまでは全く興味をもっていなかったSEという仕事は意外に楽しかった。収入も同い年のOLとは比べものにならないほど高いものだった。

 すべてが順調と思われていたが、3年目に入ったころ、ある思いが萩原さんの心の中で広がっていった。

「向いていることと好きなこととは違うんだな」──。

 仕事のやりがいも感じているし、成果も挙げ、収入に関しても文句はない。確かに向いていると思う。しかし「この仕事が好きか?」と問われるとどうか。私が本当に「好き」で「やりたい」のはやっぱり本や雑誌を作る編集の仕事であって、SEではない……。

 それは小さいシミがだんだん大きくなるように、時間とともに萩原さんの心の中で広がっていった。

やりたい仕事は自分で作ろう
小冊子を創刊、編集長に
 

 しかし好きなことをやるために何も行動しなかったわけではない。編集者への夢を膨らました萩原さんは、通信形式の編集者養成講座を受講(※1)。ひとり勉強に励むと同時に、勉強したことを生かしたいと、会社にいながらにして編集の仕事に携わる方法を模索した。

 その結果、営業ツールとしての小冊子の創刊を上司に提案することにした。そもそも社内で編集らしい仕事に携われるのは広報部しかない。しかし闇雲に異動願いを出しても会社が了承してくれるとは思えない。そこで広報への異動の足がかりとして実績を作ろうと、小冊子の創刊を提案したというわけだ。

 萩原さんの提案は上司に受け入れられ、小冊子の創刊が決定。初代編集長に就任し、媒体の制作業務に就くことに成功した。

 長年の夢だった編集の仕事はやはり楽しかった。そして編集の仕事を専門にやりたいと思い、当初の戦略どおり上司に広報部への異動を願い出た。しかし帰ってきた答えは「SEのトレーニングしか受けていないおまえを広報に出すことはできない。あきらめてくれ」だった。この瞬間、萩原さんは転職を決意した。

「一度編集の仕事をやってみて、すごく楽しかったし、私が本当に好きでやりたいのはこの仕事なんだと思いました。やっぱり好きなことでないとモチベーションは続かないんですよね」

 入社してちょうど丸3年(※2)が過ぎたころのことだった。

長年の夢だった雑誌編集部へ
仕事は楽しかったのだが……
 

 200×年3月、萩原さんは辞表を提出(※3)し、学生時代から愛読していたビジネス雑誌を出版している小さな出版社に入社した。しかし待遇は正社員ではなく、アルバイトだった。

「社長に『編集未経験だから正社員では無理だけど、アルバイトでよければ採用する』と言われたんです。いよいよ本当にやりたい仕事に就けるわけですから、アルバイトでも全然関係なかったですね。業界も職種も未経験の完全なキャリアチェンジだったので。もちろん、頑張って正社員編集者になってやるって思ってました」

 学生時代からあこがれていたジャンルの雑誌編集部への転職だっただけに、仕事は楽しかったし、一生懸命頑張った。しかし現実はそう甘くはなかった。

 仕事は文字入力や資料集め、素材の運搬などの編集アシスタント。つまり雑用係だ。自分でもページを作りたいと思い企画を提出するも、編集長の壁は厚くなかなかOKがもらえなかった。ただひたすら雑用業務にいそしむ日々(※4)が続いた。

 月給は前職の半分以下にまでダウンした。覚悟の上だったが、前職で得た貯金を切り崩す日々はやはりつらかった。

 極めつけは、萩原さんより後に応募してきた女性が正社員としてあっさり採用されたことだった。彼女は年下で前職は有名週刊誌の編集者だった。

「正社員の先輩編集者がひとり辞めたので、正社員になれるチャンスだと思って頑張っていたのですが、後から来た人にあっさり正社員のポジションを取られたことはものすごくショックでした。これまでの頑張りが無駄に終わったことと、いつになったら、どれだけ頑張ったら正社員になれるのかが全然見えてこなかったので……。それ以来仕事のモチベーションがかなり下がりました」

 さらに将来的な不安も感じていた。ベテラン編集者の年収は萩原さんのSE時代の年収よりも低く、昇給もないようだった。仮に正社員になれたとしてもこの会社の給料で生活していけるのか──。こういう実情を知り、現実の厳しさを改めて認識した。

「本当に好きじゃないとやっていけない世界だということも痛感しました。編集長も私を正社員にするとは最後まで言いませんでしたし。だから私にはこの編集部で正社員になるためのいろんな資質が欠けていたのでしょうね」

 改めて厳しい現実を痛感した萩原さんに、これ以上この編集部で頑張る気力は残っていなかった。転職活動を開始し、次の転職先が決まった時点で編集長に辞意を伝えた。入社から半年後のことだった。

正社員編集者を目指し
編集プロダクションへ
 

 前職での教訓から、「次の転職先は正社員雇用で、アシスタントではなく、ちゃんと編集業務ができる会社」と固く心に決めた。しかしこれが結果的に裏目に出てしまう。

 転職活動を始めてすぐ、インターネットの転職サイトで編集プロダクション(※5)の編集職の求人を見つけた。社長のほか従業員数名の会社だったが、待遇は正社員。クライアントが名だたる大手出版社で、誰もが知っているメジャー週刊誌や月刊誌のページの制作を請け負っていたことも魅力的だったので、即応募した。

 ひとつ気になっていたのは受注のメインが純粋な記事ページではなく、広告タイアップ記事だったこと。広告ではなく、自分で企画、取材してページを作りたかった萩原さんは、面接で社長にその点を問いただした。すると「確かにタイアップ記事が多いが純粋な記事ページもある。それができるかどうかはあなた次第」との回答。それなら頑張ってみようと入社(※6)を決意、編集者として新たなスタートを切ったのだった。

全く異なる仕事内容
こんなはずでは……
 

 しかし入社してみると実情は全く違っていた。純粋な記事ページなどは全くなく、すべて広告タイアップ記事の編集。自分で企画を立てることはおろか、興味深い取材や自分の考えを反映できるような執筆の仕事は全くなし。ただクライアントから受け取った材料を期日までに整理して入稿するという完全な流れ作業だった。

「企画を立てて取材に行ったり記事を書いたりしたかったので、タイアップ記事制作の仕事はすごくつまらなくて苦痛でした。少しは純粋な記事ページの編集もできる余地があると聞いていただけに、すごくがっかりでした。自分の頭で考える余地のない、詰め込み型の仕事のスタイルも私には合っていなかったようです」

業務も予想以上にハードだった。この編集プロダクションに回ってくるのは、ほとんどが他の編集制作会社に断られて最後の最後にくる仕事だった。したがって制作スケジュールが極めてタイト。入社以来、ほとんど毎日が朝から始めて終電で帰るという14〜15時間労働だった。

「ものすごくつらかったですね。そのうち体調までおかしくなってきて……。同期入社の他の3人(※7)は完全に体の調子を崩していました」

職場環境、労働条件も最悪
 

 たまには早く帰りたいと思っても、それができる雰囲気ではなかった。目を吊り上げてガリガリと仕事をこなす先輩よりも先に帰るなんてとてもできなかった。もちろん余裕があるからといって仕事に全然関係のない話などできるムードではない。帰ろうと思えば帰れるのに、黙ってても胃の痛くなるような会社に残っていなければならないつらさは想像に余りある。

「社内で会話ができなかったのが一番つらかったですね。人と話すことは元々好きだったのですが、だんだん他の人とも会話できなくなっちゃって。おしゃべりできないのがこんなにつらいことだとは思いませんでした」

 スキルアップの面でも不安は大きかった。入社したばかりだというのに、先輩は萩原さんたち新人に仕事の仕方を教えようとはしなかった。自分の仕事で手一杯だったのがわかっていたから、萩原さんも教えてもらいたいと思ってもなかなか聞けなかった。

 条件面も劣悪だった。給料は向こう3年間は修行期間ということで、かなり低く押さえられた。毎月赤字でここでもSE時代の貯金を切り崩さざるを得なかった。さらに驚くべきことに正社員雇用にもかかわらず、健康保険、厚生年金などの社会保険にも加入させてくれなかった。

 会社自体はかなりの利益を上げていた。しかしそれは社長を潤すのみにとどまり、萩原さんたち新人までは降りてくることはなかった。そういう点にも嫌悪感をもっていた。

 事前情報とは違う仕事内容と最悪の職場環境(※8)、そしてひどすぎる待遇。萩原さんの仕事のモチベーションは日に日に下がるばかりだった。

「とにかく人間関係を含めた職場の雰囲気がストレスになっちゃって、身を入れて仕事をしようという気になれませんでした。前の編集部ではよく『バイトの域を超えてる』と言われて重宝がられてたのに、自分でもわかるくらいに仕事ができない人になっちゃってましたね。1カ月も経たないうちに、これだったらSEの方がマシだとまで思うようになりました。あんなにやりたかった編集の仕事が嫌いになりそうでした。それが一番悲しかったですね」

 それでも自分から辞めたいとは言いたくなかった。それは自分に負けることだと思っていたからだ。これまでも仕事が嫌で辞めたことはない。SEを辞めたのは、編集の仕事がやりたかったから。ビジネス雑誌編集部の退職理由は、先が見えなくなったから。

突然の解雇に「せいせい」
 

 モチベーションは低下の一途をたどりつつも、つらくても試用期間が終わるまではなんとか我慢しようと業務をこなしていたある日のことだった。突然、社長から別室に呼び出され、こう言われた。

「今月で辞めてもらう」

 入社してちょうど1カ月が経とうとしていたころだった。

 突然のクビ宣告だったが、しかし、萩原さんにショックや失意は微塵もなかった。

「それを聞いた瞬間に思ったことは『あ〜、よかった〜』です。それしかないです。ちょうど、こんな状態じゃ続けられないなと思っていたところだったので。社長にもそれが伝わっていたんじゃないですかね」

 負けず嫌いな性格がアダとなってなかなか辞職を言い出せずにいたところのクビ宣告。ある意味「渡りに船」だった。

 しかし萩原さんの本当の苦悩の日々は、ここから始まったのだった。

 
プロフィール
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東京都在住の27歳。大学卒業後、3年間IT企業のSEとして働いた後、念願のビジネス雑誌編集部の編集アシスタントに。半年間勤めた後、編集プロダクションに編集者として転職。過酷な労働条件や劣悪な環境の中で頑張っていたが1カ月で解雇された。

萩原さんの経歴はこちら
 

通信形式の編集者養成講座を受講(※1)
入社から3カ月後、九州支店に配属されたため、通信講座にせざるをえなかった。「あまり役には立ちませんでしたが、専門用語や業界用語を覚えられました」(萩原さん)。また「早く東京に戻りたくてしょうがなかった」というのも転職理由のひとつだった

 

丸3年(※2)
「どんな仕事も3年は続けないとものにならないし、もし転職してもその後同じ業界に戻ろうと思ったときに職務経歴として評価してもらえないと思ってたので、あまり興味がもてなくても3年間は頑張ろうと思っていました」。萩原さんのこの判断が後に大きく奏功することになる。(後編を参照)

 

辞表を提出(※3)
辞表を提出した時点ではまだ次の転職先が決まっていなかった。転職活動は有給消化中に行い、次の転職先を決めた。出版業界への思いの強さがうかがい知れるエピソードだ。

 

雑用業務にいそしむ日々(※4)
それでも3カ月が経つころには、一部分ではあるが取材・執筆ができるようになった。「しかしそれでも雑用がメインだったことに変わりはありません」

 

編集プロダクション(※5)
雑誌編集など制作部門に特化した会社、または集団。通称「編プロ」。ほとんどが小規模で、数名のスタッフがマンションの一室で制作しているという場合が多い。クライアント(主に出版社)の意向に沿って編集プランを立て、制作する。企画、編集記事を制作している編プロもあるが、萩原さんが転職したような広告タイアップ記事を専門に請け負う編プロも多い。

「編集の仕事がしたいのであれば、倍率も難易度も高い出版社への就職を目指すより、編プロに入って現場の仕事を肌で覚えた方が近道」という言説もある。確かに編プロでは現場に近いところで働けるので経験値が上げやすいが、激務&薄給であることが多い。萩原さんの場合は経験値も上がらず、激務&薄給という最悪のパターンだった。

 

入社(※6)
内定は100分の1という高倍率だった

 

同期入社の他の3人(※7)
ちなみに現在では3人とも退職している

 

最悪の職場環境(※9)
驚くべきことに社長が事務所でしつけのなってない犬を飼っていた。その犬が毎日吠え、さらにところかまわず粗相をする。萩原さんはその掃除をさせられることもたびたびあった。かなりのストレスを感じていた。「私の方が毛が抜けそうでしたよ」。

 
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