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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第26回(後編) 中村光博さん(仮名)37歳/企画営業
13年勤めた大企業を辞め 35歳で海外留学 100社応募の果てに たどり着いた運命の1社

13年間勤めた大手物流企業を退職してまで中村光博さん(仮名)がやりたかったのは海外留学だった。当初は反対していた妻も納得し、夫婦そろってアメリカの大学で学ぶことを決めた。しかし、30代半ばでの留学。それに続く転職活動。納得のいく企業に出会うことはできるのか。夢は大きく広がるものの、不安材料も決して少なくはなかった。

【前回までのあらすじ】

 一度きりの人生なのに、本当にやりたいことをあきらめ与えられた仕事だけをこなす。それでよいのだろうか──。そう思った中村光博さんは、大阪の大手物流会社を退職し、子供の頃からの憧れだった海外留学を敢行することに決めた。学生時代にも留学を望んでいたが、経済的に実現できず、そのまま卒業し、就職したのだった。仕事はそれなりに楽しく、いつの間にか13年の年月が過ぎていた。今は、もう資金面での問題はなく、30代後半にさしかかる今、この夢を実現しなければ留学するチャンスは一生訪れないかもしれない。そこで中村さんは、2005年春、会社を退職すると同時に夫婦そろってアメリカ行きの飛行機に乗り込んだのだった。

息をするのを忘れるほどの集中でも
落ちこぼれそうな勉強の日々
 

 留学といっても学生であれば、ただ実践的な語学力を身につけるといった目標でよいだろう。しかし社会人である中村さんにとっては、そのレベルでは済まない。そこで見つけたのが、アメリカのある州立大学のグローバルビジネスサーティフィケイト課程(※1)だった。そこではインターンシップ、つまりアメリカの企業での就業体験がカリキュラムに組まれていたのだ。

 意気揚々と渡米した中村さん夫妻だったが、さすがに現実は厳しかった。

「最初の2カ月くらいは、留学なんかするんじゃなかったと思うほどでした。当然授業は英語で行われるわけですが、留学当初はその英語が聞き取れない状態でした。その上毎日膨大な量の宿題が出ます。それを毎晩深夜までこなして早朝からの授業を受けていましたから(※2)

 最初の半年は英語の語学講義が中心になるが、語学力は自分がクラスで最低レベルではないかと思われるような状態(※3)。毎日の授業をこなすだけで精一杯だった。しかし13年勤めた会社を辞めて、反対する妻を説得してまで来たアメリカ。つらいからといって簡単にあきらめるわけにはいかない。中村さんは早朝から深夜まで必死で頑張った。すると段々英語も理解できるようになってきた。

 

「何とかその段階を脱すると、勉強もどうにかはかどるようになり、次の半年のビジネス講義中心の授業に入ることができました。この時期はインターンシップとして、自分で見つけた日系人の弁護士の営む法律事務所の仕事を経験しました。英文での訴訟書類作成や通訳など、法律業務のアシスタントをこなせたことでかなり自信がつきました。正直、この頃は、お金が続くのなら日本には帰りたくないとも思っていました(※4)

 しかしあくまで留学目的なのでビザの期限もある。インターンシップでは稼げないので資金も尽きる。1年半後、いよいよ転職活動に踏み切るときがきた。この1年半で大きく変わったという自覚はある。次はそれを日本の企業にどうアピールするかだ。

アメリカから日本の人材バンクに
メールを送信
 

 帰国する前に中村さんは、インターネットで日本の企業の求人情報を集めた。この過程で見つけた【人材バンクネット】は多くの求人、人材バンクが掲載されていたので登録。キャリアシートを匿名公開した。

 【人材バンクネット】を含め、まずは日本の企業が自分をどう評価してくれるだろうと、中小から大手企業まで、手当たり次第に40社ほど応募してみた。しかし結果は散々なものだった。

「まだ海外にいる人間からの発信ということもあったのか、返事が来たのはごくわずかでした。やはり帰国して、すぐにでも面接に行ける体制にしておかないと難しいのかなと思っていました」

 そんなある日、沈滞ムードを吹き飛ばすメールが届いた。【人材バンクネット】経由で旭化成アミダス株式会社の古大工真規コンサルタントからのスカウトメールだった。そこには、「大手グループ企業の物流を扱う部門が新規事業を展開するので、そのコアになる人材を募集している」と書かれてあった。

 まさに中村さんがこれまでで最ものめりこんだやりがいのある仕事と酷似していた。しかもまだしばらくアメリカに居る旨を伝えると、帰国してからでよいから一度面談に来てほしいという。中村さんは有力候補としてこの案件を頭に入れた。

100以上もの応募も結果は散々
不安と後悔で落ち込む
 

 2006年9月に帰国してからは妻の実家に住まいを借り、精力的に転職活動を始めた。前職の医療系の物流企画営業職にやりがいを感じていたが、せっかく留学したんだからその経験を生かして新たな世界、例えば外資系企業へも挑戦してみたいとの思いもあった。年収はもちろんアップするのが理想だが、前職を下回らなければよいと考えると、候補となる企業はかなりの数に上る。とにかくやれるだけのことはやってみよう。そう覚悟を決めた中村さんは、10月いっぱいで100社に上る企業に応募書類を送付した。しかし結果は散々だった。

 

「書類選考に通ったのは、わずか10社程度でした。その時は既に35歳を過ぎていたので、年齢で切られてしまったのでしょうか……。自分の中では、34歳時点の自分と35歳の自分とは大きく変わったという自覚があったのですが、こうなってみるとむしろ留学をしない方がよかったのかとも思い、少々暗い気持ちになりました(※5)」。

 しかしそれでも心底落ち込むことがなかった。帰国前に古大工コンサルタントと交わしたメールがあったからだ。

応募の3日後にいきなりの面接
 

 書類選考に通った数少ない会社との面接をこなす合間に、旭化成アミダス大阪支社を訪ね、古大工コンサルタントとの面談に臨んだ。

「古大工さんは物流業界についての造詣が深く、現場の人間でなければ知らないような専門的な内容までよくご存じでした。ご紹介いただいた企業についても相当関係が深いようで、私のキャリア、経験、さらには私の考え方や性格までを把握した上で、この企業をお薦めしますと言ってくれました。そのときはすべてわかっているという自信に満ちているように感じましたね」

 古大工コンサルタントに信頼感をもった中村さんはその場で応募を申し出た。すると驚くべきことに、その3日後には早くも面接が設定された。誰でも知っているような日本を代表する大企業のグループ企業にも関わらずこの対応。改めて古大工氏の影響力を実感した。

 面接は終始和やかなムードの中で行われ、これまでの経験や実績が先方の意向に合致するのがわかった。中村さんは手応えを感じた。

「自分で応募した会社はほぼ100%ダメでした。私を認めて面接してくれたのは、古大工さんをはじめとする人材バンクのコンサルタントを通しての案件ばかり。人材バンクの存在には感謝しましたね」

転職には直接生かせなくても
大きな財産となった留学体験
 

 面接から10日後、古大工氏を通じて内定が告げられた。ようやく決まったかという安堵感と同時に、留学経験を直接生かした転職ではないことに少々の不満が残った。しかし留学体験は中村さんを内面的に大きく成長させていた。

 

「留学経験はこれからの私の人生の糧になるベースと考えました。仕事的にもこれからは海外との交渉も増えるでしょうから、いずれ役に立つでしょう。何より私自身に『納得』があり、いわばさなぎからかえったような感覚があります。仕事に対する考え方も変わってきたと思います。若い人を温かく迎えたり、助けたり、教えられることがあれば誠意を持ってアドバイスしたり……。要するに自分だけに目を向けるのではなく、職場全体、あるいは社会全体に目を配って仕事をしていきたいと思えてきたのです」

 今、中村さんは関西の妻の実家から東京に引越し、単身赴任で新しい仕事に取り組んでいる。35歳を目の前に留学し、転職したことで、ひと回り大きくなったようだ。これまで見えていなかった新しい価値観ややりがいを見いだしている。

「入社間もない今は、前職で経験したことがスライドしている感じですが、これからは誰も思いつかなかったような企画を提案し、積極的に海外へも進出したいと考えています。わがままを通して手に入れた1年余りの留学経験を必ず将来に生かす。そういう気持ちが、何でもない普通の仕事でも興味深いものに変えてくれる気がするのです」

 中村さんが留学体験で得たものは決して小さなものではなかったようだ。

コンサルタントより
旭化成アミダス株式会社 総合営業推進部 人材紹介担当 大阪
コンサルタント 古大工真規氏
留学の成果を「手放す」ことで
満足度の高い転職を実現

古大工真規氏

中村さんのキャリアシートには、いくつか目を引く部分がありました。ひとつは、物流業界で多様な経験を

なさっていたこと。特に運輸の現場と営業の仕事の両方をこなし、さらにメディカル関係の子会社に移られてからは、ゼロからのクライアントの開拓、マネジメントまでなさっています。このような多様な業務を経験されている点は注目に値するものでした。

というのは、今、物流業界は大きく変わってきており、相手のニーズに的確に対応し、具現化できる人材が望まれています。ただ倉庫の物を運ぶ仕事というイメージではもはやなく、今は経営レベルで流通のコストダウンができるシステムを作り上げることで急成長しています。そのなかで中村さんのような経験をされている人こそが望まれる人材だからです。

また中村さんのキャリアシートを拝見すると、各部署での仕事内容のよくわかる的確な表記だったので、論理的な思考ができる人だとも想像できました。

しかし問題は、せっかくそれだけのキャリアを積んでおきながら、留学のためにあっさり退職なさっている点でした。その目的・意図が、キャリアシートからでは図りかねました。そこで、まずは一度お目にかかりたいと打診をしたのです。

ご本人の帰国を待って実際に会ってお話をうかがってみると、ご本人にとって留学は重要な意味のあることという話でしたが、できれば留学経験を武器に外資系企業など条件の高い転職を希望されていました。またそのためにはこれまでの経験業界や職種とは違う仕事も視野に入れているとのこと。しかし中村さんには、物流業界でのキャリアがあります。ご自分を一番高く評価してくれる物流業界でキャリアを再構築することをご提案しました。キャリアについてはリセット型ではなく、雪だるま型の転職をするほうがよいと判断したからです。ただ、ご自身の「市場価値」を客観的に判断し、自ら納得した人生の選択をしていただくため、ご自分で考えておられる他の選択肢についても比較検討されることを見守りました。

結果として、転職された企業では、新しい発想のできる戦力として高い評価を受けていらっしゃるようです。留学経験で得た語学力や国際感覚を、今すぐに生かす場はあまりないようですが、将来的には期待がもてます。ご本人もそういうことで納得されておられるようです。

中村さんのように、順調にキャリアを積み、さらに上に進むチャンスも抱えながら、あえて退職されるというのは、やはりそれなりにリスクが発生すると言わざるを得ません。それが留学といった前向きなものであっても、その後の転職に必ずしも好結果を生むとは限らないのです。中村さんの場合は、留学の成果と転職を結びつけることにこだわることなく、ご自身の価値を客観的に判断されたので、結果として一層の将来性を秘めた転職ができたのだと思います。

多くの人が転職を考え、転職が特別なことではなくなっている時代になっても、転職事情はひとそれぞれ。その方の個性や考え方をじっくり聞いて、一緒に考えていくというプロセスが欠かせません。そのなかで、高い資質はあるものの、ある意味でユニークな道のりを歩まれた中村さんのような方の転職をお手伝いできたのは、常に1対1で対応することを心掛けている私たちのやり方が正しかったのだと確認できることでもあります。その意味でも、中村さんのこれからの活躍を願ってやみません。

 
プロフィール
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山口県生まれ。37歳、既婚。東京の私立大学を卒業し、関西の大手物流会社に就職。以後順調にキャリアを重ねるが、14年目の異動で仕事にやりがいを見出せなくなる。そのとき、子供の頃からの夢だった「海外留学」への思いが日増しに強くなっていった。

中村さんの経歴はこちら
 

グローバルビジネスサーティフィケイト課程(※1)
サーティフィケイトとは、認定書のこと。州立大学の認定課程で、就学期間は1年。主に英語を母国語としない人のための英語と国際経済を学ぶコース。入学は書類選考程度なので、申し込めばほぼ入学でき、そのまま約6カ月、英語力修得を目指すセメスター(学期)で学ぶことができる。その修了時に試験が行われ、基準点を超えられなければ、国際経済の授業が中心となる次セメスターに進級できない。

 

それを毎晩深夜までかけてこなして早朝の授業を受けていました(※2)
留学時の宿泊はホームスティでまかなった。当然アメリカ人の一般家庭であり、日本語は通じない。日常の一切を英語漬けにすることで、短時間で言葉をマスターしようとしたのだった。

 

語学力は、自分が最も低かったのではないかと思われるような状態(※3)
クラスには日本人も多かったが、ほとんどが大学や大学院で外国語を学ぶ学生だった。皆、中村さんより10歳以上若く、しかも日本にいる頃から語学の勉強をしているので、語学力のレベルはかなり高かった。

 

この頃は、お金が続くのなら日本には帰りたくないとも思いました(※4)
留学ビザでの渡米だったので、お金を稼ぐことは小さなアルバイトでも認められていない。インターンシップで働いていたときも、無料報酬だった。

 

少々暗い気持ちになりました(※5)
「もし中村さんが10歳若ければ、100%書類審査は通っていたでしょう」という人材バンクのコンサルタントの話には、「少々ヘコみました」。ともかく仕事が決まるまでは、妻の実家に「居候」状態だったわけだが、「妻も妻の両親も仕事については一言も言いませんでしたが、それがかえってつらかったですね」という。

 
取材を終えて

 若い頃から夢として持っていたものを、日々の忙しさにかまけて心の奥底に押しやっていると、どこかできしみが出て爆発してしまったり、高齢になってから後悔の念がわき起こったりするものかもしれません。中村さんの場合は、30歳の半ばという、まさに人生の転機を迎える狭間で決断し、実行しました。

 中村さんは、その前に1つの会社で13年も勤め、その年齢に応じた経験を蓄えていました。リストラの風が吹き荒れていた数年前ならいざ知らず、企業の雇用意欲が高まっている今であれば、1年2年のブランクはあまり問題ではないのかもしれません。また留学は、中村さん自身の内面的な成長には欠かせない経験だったわけですから、これによって得られたものはそれなりに大きな意味があったのだろうと想像できます。

 しかし年間に300万人以上もの人が転職するといわれる現状では、オーソドックスなキャリアの歩み方をしてきた人から採用が決まっていく傾向にあります。その点で、特異な経歴を持つ人、ユニークな性格の人は、本人の転職意欲や能力とは関係なく、転職の“本流”からはじかれてしまいがちです。

それをすくい上げるのが、人材バンクのコンサルタントです。中村さんの「自身での応募はほとんどダメ、コンサルタント経由でやっと話がつながる」という発言は実情を象徴的に表していると思いました。

TOP の中の転職研究室 の中の転職する人びと の中の第26回(後編)13年勤めた大企業を辞め 35歳で海外留学 100社応募の果てにたどり着いた運命の1社