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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第26回(前編) 中村光博さん(仮名)37歳/企画営業
13年勤めた大企業を辞め 35歳で海外留学 100社応募の果てに たどり着いた運命の1社

学生時代から憧れていた海外留学。その夢も叶わないまま大学を卒業、大手企業に就職した中村光博さん(仮名)。しかし社会人となって14年のある日、退職して留学することを決めた。「今さらなぜ!?」と問いつめる妻。しかし、今が夢を叶え、人生を変える最後のチャンスなのだ。中村さんの気持ちは決まっていた。

 1976年。米軍岩国基地。ホンモノの戦車は、巨大で頑強そうで、映画なんかで見たものよりずっと迫力があった。

「ぼうや、中を見てみるかい?」

 アメリカの兵隊さんが笑顔で声をかける。太く大きな腕にひょいと抱き上げられ、操縦席を覗かせてくれる。

「すげーっ! カッコイイなあ!」

 小学生だった中村光博さんは、アメリカってすごい国だなあと、ただただ目を輝かせていた──。

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大企業でさまざまな仕事を
こなせるのがうれしい
 

 中村さんは東京の私立大学を卒業後、関西に本拠地をもつ元財閥系の総合物流会社に就職。扱うものはビールから鉄鋼まで幅広く、この会社でならさまざまな仕事を経験できるのではないかというのが志望動機だった。その目論見通り、最初の5年は鉄鋼を扱う部署に配属され、労務管理、顧客営業、生産管理などの仕事を1〜2年のサイクルでこなしていった。どんな仕事も新しい経験。毎年何かしら新しいことを覚え、こなしていく。型どおりに進めてそれで済むという仕事ではなかった。

 

「元々私は好奇心が旺盛というか、決まり切った仕事が長く続くとどうしても意欲が薄れてきてしまうのです。ですから、次々に新しい仕事に出会えるこの会社が合っていると感じていました。転勤も多かったのですが全然苦じゃなく、むしろ転勤そのものを楽しんでいたという感じでした」

 就職して5年余りが過ぎた頃、本社で新規事業の立ち上げ話が持ち上がった。中村さんは持ち前の好奇心から、創設メンバーの募集に手を挙げる。扱うのはメディカル関係。医療品を病院などへ送る仕事だった。病院を相手にするのは会社としても初めてで、当然手探りでのスタート。これまで経験したことのないマーケティングリサーチを行い、営業を進める。情報を調べ、分析して、実際に行動するというやり方が新鮮であり、興味が深まる。専門知識が増えれば増えるだけ、より深く、細かい対応ができるようになる(※1)。経験を積むことが自らの興味を増幅し、それが結果にもつながる。仕事が楽しかった。気がつけば5年が経過していた。

 しかしその後転機が訪れる。会社がメディカル部門を子会社として分離することを決定、それに伴い中村さんも同子会社へ出向となる。しかしその3年後、本社の別の部署への異動を勧められた。そろそろ仕事の要領もつかめてきたころだったので、また新しい仕事をしたいという気持ちから異動を承諾。しかし、異動先で待っていたのは退屈な日々だった。

「食品を扱う部署だったのですが、仕事はもうすでにシステムとして完成されていました。新しく開拓したり改善したりといった余地はほとんどなく、仕事に興味ややりがいを感じることができなかったのです。すぐに、ああ、これは失敗したな、と思いました」

 そんな毎日を送るうちに、子供の頃からのある夢がだんだんと頭をもたげてきた。

もう一度やりがいのある仕事を
するために
 

 それは海外への留学。子供の頃の憧れから一度はアメリカに住んでみたいと考えていたが、学生時代は経済的な理由でやむなくあきらめていた夢。しかし、社会人として13年も働いた今ならそれなりの蓄えはある。

 また、単なる夢や憧れだけで留学を考えていたわけではなかった。1年間アメリカの大学で語学やビジネスを学ぶと、得られるものも大きい。それを武器にすれば、よりやりがいを感じられる仕事に転職できるんじゃないか。そう思っていた。さらに年齢というタイムリミットも背中を後押しした。

「そのときもう35歳でしたから。会社を辞め1年間留学するとして、帰国するのが36歳。ただでさえ転職には厳しい年齢の上、企業は仕事現場のブランクをもつ人間は敬遠するだろうし……。それが後になればなるほどより厳しさは増しますよね。だから今しかないかなと」

 学生のころからの夢、そして新しいスキルを身につけもう一度やりがいを感じられる仕事で自分を試してみたい。そんな欲求から、中村さんは留学を決意した。

反対する妻を説得し
夫婦二人で海外留学
 

「それで、どういうつもりなの? 会社を辞めちゃうっていうの?」

 まず妻に留学の決意を打ち明けたが、突然の告白に妻は驚いた。確かに仕事に対する意欲は薄れていたようだし、肉体的にもつらそうに見えたが(※2)、転職を考えていたなんて。それも30歳半ばにして海外留学なんて。もちろん即座に反対した。しかし中村さんは粘り強く説得した。

 

「人生は一度きりだし、本当はやりたいという気持ちをごまかしても、どこかで後悔は絶対に残る。それに、留学することで外資系の企業や海外駐在などキャリアの可能性が広がるのではないか。幸い子どももいないし、将来への投資という意味でも決して無駄じゃない。妻にはそんなことを話しました。主婦だった妻も話しているうちに興味が出てきて、結局、自分も一緒に留学し学び、そのスキルを生かして、英会話の教員を目指す(※3)と言い出しました。そこで、30代半ばにして、遅まきながら夫婦2人で海外留学(※4)をすることにしたのです」

 2005年春。会社に退職願いを提出した中村さんは、妻と一緒にアメリカ行きの飛行機に乗り込んだ。


以降4月23日配信[後編]に続く

 
プロフィール
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山口県生まれ。37歳、既婚。東京の私立大学を卒業し、関西の大手物流会社に就職。以後順調にキャリアを重ねるが、14年目の異動で仕事にやりがいを見出せなくなる。そのとき、子供の頃からの夢だった「海外留学」への思いが日増しに強くなっていった。

中村さんの経歴はこちら
 

より深く、細かい対応ができるようになる(※1)
 この頃の仕事は、病院向けのSCMシステムを他企業と共同開発し、営業販売することだった。SCMシステムとは、物品管理のサプライ・チェーン・マネジメントの略で、病院における医薬品や医療材料の購入、倉庫消費管理、発注管理を一元的に行うシステムのこと。中村さんは、さらに、SCMセンター運営委託業務で、運営マニュアルを作成、物流面のコンサルティングなどを行っていた。

 

肉体的にもつらそうに見えたが(※2)
仕事が単調なルーティンワークになっていたことが中村さんの意欲を減退させる一因だったが、そのほか、倉庫の管理は365日24時間を要する仕事で、この部署になってから残業が急に増え、有給休暇も消化しきれない状態になっていった。

 

英会話の教員を目指す(※3)
中村さんの妻は大学では国文学の勉強をしていた。この段階では専業主婦だったが、いずれは自分も何か仕事に就きたいと考えており、英語の教員になろうと考えていた。ちなみに留学後は、地元・関西の外国語大学に編入し、英語力を磨いているという。

 

海外留学(※4)
中村さんが留学先として選んだのは、アメリカの州立大学のビジネスクラスの1年間の課程。半年ほどは語学を集中的に学び、後半の半年はビジネススキルを勉強する。中村さんらは当初、卒業するまでのつもりで旅立ったが、アメリカでの留学生活が予想以上に肌に合い、最終的には留学ビザの切れるまでの約1年半をアメリカで過ごすことになる(後編を参照)。

 
次回は4月23日配信予定
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取材・文/有竹 真(ジャネットインターナショナル)

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