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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第16回(前編) 鈴木りささん(仮名) 26歳/Webディレクター
不安と絶望のつらい日々も あきらめなければ道は開ける こんな僕でもできたのだから 転職はだれでもできる!
地元・北海道で一生暮らそう。そう考えていた北原伸太郎さんに出向の辞令が出たのは、入社してわずか1年後。それもやむなしと向かった先で出会ったのは、過重なノルマに悲鳴を上げる先輩社員たちだった。「ここで負けたくない」と歯を食いしばる北原さんだったが次第に消耗の色が濃くなっていった──。

 部長に呼ばれたときふと思った重苦しい予感。それは的中していた。

「すまんが、我孫子の会社に行ってくれないか」
 
 北原伸太郎さんが、この川崎の会社に回されたのは、ほんの2カ月前のことだ。

『キミノヨウナ人間ハ、我ガ社ニハオ荷物ダ。必要ナインダヨ』

 目の前の上司は、自分に向かってそう言っているのだ。
 
 確かに、前のいわき市の会社では、決して会社が満足する仕事をしてきたとは言えなかった。しかし、それは自分が未熟なせいばかりだっただろうか。同僚や上司が次々にストレスと体調不良で倒れていくようなあのプロジェクトの中で、結果が出せなかったのは、ただ自分のせいだったのだろうか。
「どうかね? イヤなのかね」
 
 部長の様子は、何の問題もなかろうと、むしろ温情を示すような口ぶりだった。北原さんは、これまでの経緯を思い出す。確かに、修羅場のようだったいわきの会社から今の川崎の会社に移って来てからの2カ月は、職場のだれとも馴染めず、仕事も投げやりだったかもしれない。「いつ辞めようか」という、その言葉だけが頭の中に響いていたような、虚ろな日々だった。過酷なプロジェクトから外され、新会社に移っても意欲を見せない若手出向社員。それが今の自分だった。

「イヤなのかね」と聞かれた北原さんには、何の答えもなかった。ただ、これを断って会社辞めて故郷に帰ることだけはできなかった。

「わかりました」

 北原さんは、ただその一言だけ答えた。

「ワカリマシタ」……いや、自分は全くわかってなんかいない。お荷物扱いされ、自分を振り回すカイシャに留まっていていいのか。そもそも悪いのは自分なのか、カイシャなのか、それとももっと奥深いところに潜む何かなのか……。

 このとき、北原さんは決心をした。「辞めよう。しかし、ただイヤだから辞めるんじゃない。こんな自分を認めてくれるところ、自分の価値をわかってくれる場所へ行くために辞めるんだ」

 

故郷・北海道で暮らす
こんなことも叶わないなんて……
 

 北原さんにとって、北海道は特別な場所だった。生まれ育った街。両親や兄弟たちと過ごしてきた街。大学を決めるときも、就職を決めるときも、もちろん北海道を出ることは考えなかった。

 東京に出なくても大学はある(※1)。産業だって発達している。就職のために東京に出るなんて意味がないことだ。北原さんは、自分は一生を北海道の地で過ごすものだと信じていたし、それは家族もみな同様に思っていたことだった。

 

「大学で学んでいたのはITを中心とする工学系の分野でしたし、就職は地元でということが第一で、規模の大小は問いませんでした。そのため、割と早い時期に地元のソフト開発の企業に決めることができ、これで地元・苫小牧にずっと住むんだろうなあ、などと考えていました」

 北原さんの入社した会社は、地元では30年以上の歴史がある企業。170名ほどの従業員がいた。彼が配属されたのは地元民間企業向けソフトの開発部門。実家の近くに部屋を借り、休日は、地元のスポーツジムに通う日々(※2)。社会人となって、順調なスタートを切ったかに見えた。

 しかし——

「入社して1年ほどで、同期入社した大学の時の友人がいわき市に出向になると聞いて、愕然としましたね。いわきに行く事業部じゃないのに、なぜ地元民間企業担当者がいわきに行かなければならないのか、と納得がいかない気がしたのです。彼も内心イヤがっていましたが、『会社の事情じゃしかたない』と結局出て行きました。そのとき、自分の意思だけではどうにもならないようなことが、いろいろ起こるものなんだな、と少し寂しい気持ちになりましたね」

 北原さんのところへも出向の辞令が出たのは、友人が出向してから間もなくのことだった。福島県いわき市のカーオーディオを作っている会社へ出向しろというのだ。

「やはり来たか」

 あれほど地元にこだわっていたのに、会社の都合で「出向してくれ」の一言で、あっけなく故郷を離れなければならない。一抹の理不尽さを感じつつも、それにこだわっていても仕方ない。友人の去っていく姿を見送った今は、覚悟はできていた。

「お前がまさかねえ、という母には、後ろ髪を引かれる思いでしたが、とにかくいわきでがんばるよと北海道を後にしました。入社して3年はがんばらなければと決心していましたし、自分はまだまだ学ぶべきことがたくさんあると思っていたので、今は言われたらその通りに、とことん付き合って自分を大きくしようと開き直っていたのです」

元からいる社員たちとのズレに
小さな戸惑いを覚える
 

 2004年7月、いわき市に住民票を移し、寮での生活が始まった。

「いわきの歴史なんかを調べたり、先にいわきに来ていた友人たちと連絡を取ったりして、なんとか新しい土地に溶け込もうと考えていました。新しい職場は前の会社の人たちが多く配属されている部署だったので、気兼ねも少なくて済むな、こっちのスポーツジムなんかも探さないとな、などと考えていましたね」

 そんな北原さんが、元からいる本社社員に、ちょっとした違和感を覚えたのは、初めにかけられた質問だった。

「『キミの車のオーディオはどのメーカーか?』と聞かれ、使っているもののメーカー名を答えたら、ヘンな顔をされたんです。『なんだ、ウチの製品じゃないのか』って。今度の会社は確かにオーディオ製品を製作しているところで、私が配属になったのも、カーオーディオの新しいシステム開発のプロジェクトを扱っているところ。でも、プライベートに使っているものなのに、そこまでこだわる必要があるのかな、という気がしたんです」

 そうした先輩社員の彼に対する対応は、「愛社精神を求めている」というより、「よそ者が入ってきたことに警戒しているのではないか」あるいは、「自分たちの仲間として溶け込めるかどうか選別しようとしているのではないか」「オーディオのシステム開発をしているため、カーオーディオに興味があるか」と今なら思える。ただ、その時は、かすかな違和感のようなものを持っただけだった。

 だが、実際にプロジェクトが本格的に動き出すと、その違和感は次第にはっきり確信へと変わっていった。

言葉が、基礎的なシステムが……
仕事についていけない焦燥の日々
 

 北原さんの担当するプロジェクトは、カーオーディオの新システムの電子回路設計に関するソフト開発。いわば社運をかけた大プロジェクトの一部を、北原さんたちのチームが担っていた。

 

「苫小牧の会社にいたころは、VB言語を使っていたのですが、ここで使っているのはC言語でした。そのため最初は、日常交わされる言葉の意味すらよくわからないという状態でした。先輩たちに聞いても、彼らの仕事もハンパな量ではなく、そうそう付き合ってくれるものではありません。最後には、『そんなこと、自分で何とかしなさいよ』と言われてしまうのです。こちらは経験も知識もない。けれども、やるべき仕事は経験豊富な他の人と同様に課される。結局、通常の勤務時間ではノルマがこなせず、残業と休日出勤が続きました(※3)。それでも仕事は終わらない。それどころか、過労のために失敗も多くなり、やり直しが重なるので、さらにノルマが大きくなっていきました」

 仕事をすればするほど、出口が遠くに行ってしまうように見える。新人にはよくあることだが、与えられたプロジェクトのハードルが高く、技能を習得するための講習会などを受ける余裕がないギリギリの状態では、その泥沼はより悪い方へ進む。ましてや、北原さんのように経験が浅い人たちは、全体が見えない分、さらにプレッシャーがかかる。

「入社2カ月ほどで、プロジェクトの遅れが日常化してしまい、深夜までの残業や休日出勤は当たり前の状態になってしまいました。ただじっとPCの前で奮闘し、ふと目を上げると、同じようにせっぱ詰まった表情の仲間が黙々と仕事をしているのが目に止まる。肉体的にも精神的にもプレッシャーを感じていました」

 たとえわずかな時間でも、同僚たちと苦労をねぎらい合い、励まし合うような会話でもあれば、やる気が高まったかもしれない。しかし、ここにあるのは、ただ目の前のハードルをひとりで超えること。それ一点に尽きた。

 そのうち、北原さんの同僚、経験の不十分な仲間が次々にプレッシャーに押しつぶされていった。次第に仕事場に来る時間が遅くなっていき、これといった理由もないまま休みがちになる。そして、それによる進行の遅れが、さらにチーム全体のノルマとして日常の仕事の上乗せになる。

 仕事の遅延とその責任。そのために、最後は、北原さんのチームリーダーすらも体調を崩してしまう(※4)に至った。欠勤が続き、職場の仲間うちからは、彼はノイローゼらしいというウワサが聞かれるようになったのだ。

ギリギリの努力も報われず
ついにはお荷物扱い
 

「もう意地になっていましたね。同期の者が休職していく中、自分だけは決して遅刻はしないと決め、毎日朝8時20分までには会社に行っていました」

 しかし、そうした奮闘をよそに、経験豊富なチームメイトからは、北原さんたち、外から来た新人たちの仕事の遅延に業を煮やしていた。

「仕事ができないなら、努力して覚えろ。おまえたちの分まで我々が尻ぬぐいをしなければならないということを少しは考えたらどうだ」

──持てる時間のすべてを費やしているのですから、さらに学べ、習得しろといわれても、できることではありません。学ぶ時間をください。

「時間に余裕はない。個人で努力してもらうしかない」

──それではいつまで経っても覚えることはできません。

 まさに収束のつかないパラドックス。職場の体制が、崩壊ギリギリのところまで来ていた。そんな中、北原さんが密かに考えていたのは、このプロジェクトから外れることだった。

「正確にいえば、プロジェクトから外れるではなく外されるということです。つまり、自分から動いて別の場所に移ることは難しい状況でしたから、見るに見かねた別の部署の上司に拾ってもらうことを期待していました。実際に私たちはプロジェクトのお荷物になっていましたから、会社の側からも私たちを外して、別の人材を投入した方がよかったはずです。私たちの残業時間もハンパではなかったので、残業代(※5)だけでもバカにならなかったでしょう」

失われた労働意欲を見抜いたように
再度の出向の命令
 

 そうした北原さんの密かな期待に応えるかのように、入社1年後の7月に、辞令が下った。今度の出向先は川崎の会社。それならば、心機一転となるところだが、北原さんの仕事に対する意欲は全く消え失せていた。

 

「もともと苫小牧で仕事をしているはずだったのに、会社の都合で軽く弄ばれるように川崎にまで来てしまったと思うと、何もかもどうでもいいというような気分になってしまいました。いわきの出向先では、本社の人間にあつく、私たち外から来た者に冷たい扱いだったのを見ても、しらけたような気持ちになってしまって」

 川崎に来てからの仕事は、今思えば申し訳ないと思うくらいに投げやりだったという。やらなければならない最低限の仕事だけをこなして、後はどうにでもなれといった気分。仕事場でも、だれかと積極的に接しようともせず、悶々とした気持ちで過ごす日々。

「そういう仕事ぶりを見抜いたんでしょうね。川崎に来てたった2カ月で、今度は我孫子の会社に回ってくれと命じられました」。

 我孫子行きの話を聞いて、北原さんは、たとえ会社が変わったとしても同じことだと感じていた。確かに熱心に仕事に取り組んでいたとはいえなかったかもしれないが、わずか2カ月での出向命令。会社は、自分のことを認めていない。自分はお荷物だから、一番納まりのいい場所、邪魔にならない場所へ移そうとしているだけだ。

「それならばどうすればいいのか、その時は何も浮かびませんでした。ただ、このまま辞めてしまっては何も始まらない。もともと3年は石にかじりついてでも、という思いで北海道を出てきたのですから」

 そこで、北原さんは考えた。自らの力を求めている場所を見つけて、そこで今度こそ精一杯がんばってみるしかないのではないか。自分の価値を高めて、それを正当に評価してくれる場所。それは、こうして会社の中で待っていて得られるものではない。自分から動いていこう。

 北原さんは、この出向命令を機に、決心を固めた。新しい職場でも決められた仕事はこなす。しかし、それ以外の時間はすべて自分のために使う。つまり転職の準備にとりかかったのだ。

 
プロフィール
photo
神奈川県在住の26歳。地元・北海道で一生を過ごそうと考えていたところ、入社したIT企業から出向命令が出され、いわき市の企業へ。だが、結局、会社が期待するほどの成果を出せず、今度は川崎の会社へ回される。しかし、さらに別の会社へ出向するように命じられ、会社の都合で振り回されるのに嫌気が差し、転職活動を開始。現在は、東京で、SEとして意欲的に働いている。
北原さんの経歴はこちら
 

東京に出なくても大学はある(※1)
「大学は、実家のある苫小牧のすぐ近くの工学系の私立大学に決めました。比較的新しい大学ですが、新しい技術やIT関係に強く、また就職率が高いということが大きな理由でした」

 

地元のスポーツジムに通う日々(※2)
北原さんの趣味は体を動かすこと。休日のジム通いは、仕事の疲れをリフレッシュさせる大切な生活の要素になっているようだ。「ですから、生活にマッチしたジムが近くにあれば、それだけでその街を好きになることもできるのですが、逆にそれが見つからないと、日々のストレスが余計に溜まる気がしますね」

 

残業と休日出勤が続きました(※3)
「毎日の仕事が終わって帰るのが深夜0時頃。つまり6時間の残業。土日が休日になっていましたが、土曜日に休んだ経験は、ほとんどありませんでした」

 

チームリーダーすらも体調を崩してしまう(※4)
北原さんが退社するとき、世話になったチームリーダーに電話で挨拶をした。「ご迷惑をおかけしました、と言ったら、いやこちらこそ、と返してくれました。今思えば、我々も先輩方も同じように苦しかったし、心の中ではチームのメンバーとして、お互いを労わりたいと思っていたのではないでしょうか。……電話で話していて何か熱いものがこみ上げてきました」

 

残業代(※5)
「自分のミスでやっている残業なのだからと、全額は払ってもらえませんでした。また、土曜日に出勤をしても、代休はもらえません。土曜・日曜と仕事をした場合は、かろうじて1日だけ休みをもらっていましたが」

 
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