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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第34回 (前編) 平沢明彦さん(仮名)34歳/営業
ほしいのはただ、仕事のやりがい 勤続15年の慎重派サラリーマンが 初めての転職で勝ち取った「天職」

高校卒業後に大手住宅設備メーカーのグループ会社に入社。以来12年、設計に携わってきた平沢明彦さん(仮名/34歳)に、ある日突然、「事業所での営業支援」という辞令が下る。これまでと全く違う仕事にも真摯に取り組む平沢さんだったが、次第に不穏な空気がジワジワと迫っていった。

 ただひたすら、デスクに座り続ける日々が、すでに1カ月以上続いていた。今取り掛かるべき仕事は何もなくても、いつ仕事が発生するかわからない。だがしかし、その「いつ」は、この1カ月もの間全く訪れることなく、平沢さんをはじめ、チームのメンバーを無駄にデスクに縛りつけていた。

(忙しそうだな……)

 近くにある営業マンたちのシマを見て、平沢さんは心の中でつぶやく。バタバタと出かける者、満足そうに帰ってきた者、電話で話し込んでいる者、パソコンのモニターを見ながら近くのデスクの同僚と話をしている者——シマ全体がにぎやかしく、いかにも活気にあふれている。

 それに比べて、自分たちのチームはどうだ? 1カ月ほど前——ちょうど桜が散り始めた頃は、自分も営業マンと一緒に客先に向かっていたというのに。
(なんだか嘘か夢みたいだな─)

 ただ、このまま。
仕事らしい仕事もできないまま、待つしかないのか。
もっと仕事がしたい。1件でもいいから、現場に足を運んでクライアントの声を聞きたい。
たった、1カ月前までのように——。
ふと窓の外を見ると、初夏を思わせる爽やかな青空が、誘い出すように広がっていた。

同期入社の仲間たちとの関係は良好
充実感を感じながら仕事に打ち込む日々
 

 平沢さんが、千葉にある大手住宅設備メーカーのグループ会社に入社したのは高校を卒業した1992年。システムキッチンなどの開発から製造、販売まで手がけるその会社で、平沢さんは生産技術部に配属。その中でさらに、キッチン設備のパーツを組み立てる機械の、設計からメンテナンスまでを担う機械工程ラインに配属された。

「たとえば、システムキッチンについている引き出しがありますよね? その引き出しのパーツを板から丸鋸が切り出す機械や、取っ手をつけるネジを回しこめる穴を開けるための機械、といったものを手がけていたんです。細かい組み立ては人の手で行われるのですが、組み立てまでの工程を担うのは機械なので…。効率よく作業できるように、機械が穴を開ける早さを調節するプログラミングをしたり、商品の品番によるサイズの違いや、合板か天然木か材質の違いなどにも対応していました」

 技術力を要求される、エンジニア的業務。実は平沢さんは、工業高校出身というわけではないという。配属先の業務内容に戸惑いはなかったのだろうか?

「たしかに、最初は仕事を覚えるのは大変でしたよ。でもほかの同期のメンバーたちも、私と同じように普通科や、中には農業高校など、必ずしも工業系の高校を卒業しているわけではなかったので、スタートラインが同じだったというか…。『自分だけがついていけない』という焦りや不安はありませんでした。それに、会社の研修や教育が充実(※1)していましたしね」

 生産技術部に配属された同期のメンバーは約10名。みな同年齢だったということあり、すぐに打ち解けられた。わからないところは教えあったり、誰かが困っていたらフォローしたり——互いに競うように仕事を覚えながらも、協力し合える関係だったので働きやすく、居心地もよかった。また会社自体、平沢さんが入社した頃はまだ設立して間もなかったこともあり、社内全体にフレッシュで若々しい空気が満ち溢れていた。

「自分が設計した機械で、作業現場の人たちが効率よく働けるようになったと聞くのもうれしかったですね。やっぱり自分が携わったモノに対する手応えを知ることは、仕事のやりがいや励みになりますから。私もほかの同期たちも、ちょくちょく現場の人の声を聞くようにしていました(※2)」。

 楽しい職場とやりがいのある仕事。平沢さんの毎日は充実していた。この仕事を続けていくことに何の疑問も持っていなかった。突然の辞令が出るまでは。

まるで「晴天の霹靂」な辞令! しかし
異動先で知った、仕事の新たな醍醐味
 

「入社して12年目の年末、大阪へ異動の辞令が出たんです。もともと、親会社の本社が大阪にあるのですが、そこの工場へ行ってほしいと」。

 異動願いなど出していない平沢さんには、寝耳に水の辞令だった。

「以前から事業拡大を目的として、親会社の工場との間でちょこちょこと異動は行われていたんです。同期が一人異動したこともあり、自分は無関係だと思っていたわけではなかったのですが……。実はその頃、結婚して家も買ったばかりだったんですね。子どもも作りたいと思っていましたし……」。

 何日か悩みぬいた平沢さんは事情を説明し、辞令を断りたいと上司に伝えた。すると今度は、「それなら、東京の事業所に営業支援として行ってほしい」と言われた。東京なら十分通勤圏内だったのでこれを了承し、2004年2月、事業所へと転籍・異動した。

「この会社の営業支援とは、営業先へ営業マンに同行し、そこで製造の視点から技術的な説明や提案をするという仕事なんです。私の異動先は設置されたばかりの、マンションへの営業を行うグループ。そのため営業先は、マンションを手がけるゼネコンやデベロッパーがほとんどでしたね」

 平沢さんに期待されたのは、12年間キッチンの製造に携わって培われた専門知識。

「でも実際のところ、私が携わっていたのはキッチンの製造の一部、それも商品ではなく商品を作る機械でしたからね。当時、キッチンのことが全くわからないといっても過言ではなく、キッチンについて説明しろといわれてもできなかったんです」

 これではいけない——平沢さんの、商品知識を頭に叩き込む日々が始まった。

「すべての商品の品番はもちろん、細かな機能や、扉や引き出しなど部品のカラー、大きさなども覚えました。また、営業先でも、営業マンとやりとりする上でも必要な金額も覚えましたね」

 12年間携わった製造の仕事とは全く異なる仕事に、最初は戸惑いを隠せなかった平沢さんだったが、しかし徐々にやりがいを見出していく。

「一番うれしかったのが、お客様の意見を直接聞けることや、私の提案が受け入れられ、お客様に喜んでもらえるというところ。それまでは同じ会社内の違う部署の人間の意見を聞くことはあっても、商品を採用してくれるお客様の話を聞くことはありませんでしたから」

 クライアントとのスムーズなコミュニケーションは、商品知識を覚える励みになり、そうして覚えた知識はまた、クライアントとのコミュニケーションに活かされる。

「お客様の要望やマンションの仕様に合わせてオリジナル商品を提案するのですが、先方に採用された時の達成感と充実感といったら……! まあ、マンションの場合、金額が安ければ安いほどいい、というところがあったので、簡単に採用されることはなかったんですけどね。お客様が望む金額に折り合いをつけるのは大変でしたが、だからこそ、やりがいも感じていたんです」

 だが、クライアントの望む金額と折り合うための「苦労」は少しずつ大きくなり、平沢さんを苦しめるようになる。

売りたいのに売れない…
必死の社内提案も甲斐なく、ついには…
 

「会社はキッチン専門メーカーではなかったし、むしろほかの住宅設備方が商品としては主力でした。それに加えて、会社の方針自体がそもそもマンション向けにキッチンを販売する方向ではなかったため、キッチンの金額は当初から、お客様の希望より高く設定されていたんです。でもお客様が希望する金額と折り合わないと売れない。そのため社内で金額の引き下げを提案するものの、受け入れてもらえない。だから、お客様の希望はわかっていても、高い金額で提案しなくてはならないという状況でした。同行する営業マンと、『これじゃ売れないよな』などといいながら、客先に向かうこともありましたね」

 クライアントの声を直接聞ける現場にいるからこそ、焦燥感と危機感は募っていく。

「営業マンは会社が取り扱う全ての商品を担当しているため、キッチンだけを売っているわけではありませんでした。もともとキッチンは商材が多いし面倒くさい部分がある。その上、ハナから金額が折り合わないから売れるわけがない。そのうち、キッチンを売ろうとする営業マンが減っていったんです(※3)

 キッチンを売らないということは、平沢さんたちが営業支援に同行する必要がなるということでもある。実際、平沢さんに同行を依頼する営業マンは徐々に少なくなっていき、とうとう、今年の4月中旬には、同行することが全くなくなった。かつては月の半分は営業に同行して現場に向かっていたというのに——たった3年で、一日たりとも同行のない日が来ようなどと、誰が予想しただろうか。

 それでも平沢さんはただ手をこまねいていたわけではない。マンションにキッチンが売れない最大の原因は、クライアントの希望からかけ離れた金額だ。「とにかく売らなければ」との思いで、平沢さんは工場と相談して金額の見積もりを算定し直し、社内提案して上層部に掛け合った。しかし——

「その提案を上層部が却下するわけではないのですが、かといって動こうともしませんでした。『君から直接営業マンに話してみれば?』という程度の反応なんです。営業マンに話してみても、会社の方針が『何が何でもマンション業者にキッチンを売ろう』というものではないので、わざわざ時間と労力をかけて高いキッチンを売ろうとするはずがありません。もし上層部が現場の営業マンに働きかけるとか、マンションに意欲を見せるとか、少しでも動いていれば、事態は違っていたかもしれませんが……」

 上層部レベルで交渉してもらって事態の打開を図りたいという平沢さんの目論見は崩れた。マンションに特に執着を見せない会社のおかげで、平沢さんたちキッチンの営業支援グループは、仕事のない宙ぶらりんの状態で社内に放置されるという異常事態を迎えることになる。

 売りたくても売れない。
売れない原因がわかっているのにどうにもできない。
そしてクライアントの声を聞くこともできない——。 

「営業支援」とは名ばかりの、客先に全く出向くことのない日々(※4)が始まった。同時に、無力感と閉塞感に押しつぶされそうな毎日に比例して将来への不安が日増しに大きくなり、平沢さんを襲うようになる。

「そのうち、チーム自体がなくなるんじゃないかと、派遣社員の女性と話すこともありました。そうなったら自分たちはどうなるんだろう、と」

 入社して15年、初めて平沢さんの胸に「転職」という言葉がよぎった。そろそろ春が終わり、初夏の気配が漂い始めた頃のことだった。


以降12月24日配信[後編]に続く

 
プロフィール
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千葉県在住の34歳。高校卒業後、大手住宅設備メーカーのグループ会社に入社し、12年、製造業の設計の現場に携わった後、親会社の事業所に異動。製造の立場から商品を説明・提案する営業支援として活躍していたが、会社の体制がクライアントの要望にマッチしていないことから仕事が激減。転職を決意した。

平沢さんの経歴はこちら
 

会社の研修や教育が充実(※1)
研修や教育には、仕事をする上で基本的かつ必要な一般知識を身につける内容も含まれていた。「たとえば、Qシートに則ったグループディスカッションでは、提議された問題に対して、現状把握・目標設定・検証まで行ったりしました」。平沢さんの社会人としての知識や常識は、こうした研修や教育から養われたのかもしれない。

 

現場の人の声を聞くようにしていました(※2)
「この時の仕事のやりがいは、今から思うと、自分が機械を設計し、メーカーや機種を選定した結果、それがうまく動いて思った以上の結果が出るという部分。そしてそれによってどのくらい利益が出たかということと、自分が設計した機械を実際に使う作業者の感想や要望を聞くことでした。反応があることに手応えを感じていたんです」。平沢さんの、利益を出すことへの意識の高さと、他者とのコミュニケーション重視の傾向がうかがえる。

 

キッチンを売ろうとする営業マンが減っていったんです(※3)
「これがもし、会社がキッチンを売ることに積極的で、営業マンにプレッシャーを与えていたとすれば、営業マンも何としてでもキッチンを売ろうと思ったでしょうが……。営業マンから、キッチンを売る気が目に見えてなくなっていったのはつらかったです」。

 

客先に全く出向くことのない日々(※4)
「本当に全然外へ出る機会がないのが耐えられなくて、モデルルームを見学するなど、無理やり理由を作って外出するようにしていました」。

 
次回は12月24日配信予定
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取材・文/名越秀実

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