新しい職場に意気揚々と出社した初日、いきなり違和感を覚えた。社内の雰囲気がやけに重く感じられたのだ。社員同士が挨拶もしない、態度がやけによそよそしい。パソコンキーを叩く音だけが響く静かなオフィスでは、私語どころかちょっとした会話さえも聞こえない。ふと、パソコン画面を凝視しながらものすごい速さでキーを叩いている社員の姿が目に飛び込んできた。どうもチャットで打ち合わせをしているようだった。なんとも形容しがたい異様な雰囲気……すでに3社での経験がある今井さんだが、こんな不思議な感覚は初めてだった。
不安を感じながらも何とか気持を奮い立たせて働き始めた今井さん。しかし、初日に感じた「嫌な予感」は日を追うごとに現実のものとなっていく。
まず今井さんが最初にショックを受けたのは、直属の上司とのコミュニケーションがどうしてもうまく取れないことだった。上司は今井さんから言葉を発しない限りは、自分からは何も言ってきてくれないのだ。背中合わせに座っているにも関わらず、業務連絡はメールで、打ち合わせはチャットでパソコンに届く。簡単な伝言すらしてくれない。
「最初は嫌われているのかなと思いました。でも、私以外の誰に対しても同じ態度だったので、きっとそういう人だったのでしょう。上司としては非常にやりずらかったですね」
そんな上司から下りてくる仕事も理想からかけ離れたものだった。今井さんは契約書の作成や管理をする部署でマネージャーとして採用されたのだが、取引先との折衝など主要な仕事は、すべて上司が持っていってしまうのだ。入社直後には小さなチャンス(※4)もあった。しかし今の上司になってからは、まわってくるのは、その上司がとりこぼした小さな仕事や、法務の本流から外れた雑務的な仕事ばかり……。やりがいなど感じられるはずもなかった。しかもその上司は保身のためか自分の失敗を平気な顔をして今井さんにかぶせてくる。
「上司の指示が的外れだから、無駄な仕事も多くなりがちでした。たとえば、書類を作ってふと気づけば他部署で同じものを作っていたり、同じ作業を進行中だったり……そんなことはしょっちゅう。せめて部署間の風通しが良ければ情報も入ってきたのでしょうが、それも期待できなくて。頑張るほどバカバカしくなりました」
コミュニケーションが乏しいのはその上司だけではなかった。全社的にも、社員同士が無関心で、おしゃべりはおろか業務に必要な会話すらパソコンで行うような冷めた雰囲気があった。それはおよそ人間が介在しているとは思えないような無機質なものだった。派遣社員はあっという間に入れ替わり、正社員は時期を見て次々辞めていく。入社したばかりの今井さんにも「まともな神経の人は長く働き続けられない会社」だということが徐々に分かってきた。
「すぐにでも辞めたい」——まだ転職したばかりであるにも関わらず、今井さんは毎日そんなことばかり考えるようになっていた。しかし入社してすぐ辞めてしまうのはキャリアに傷がつく恐れもあって簡単にはできない。大企業に勤める安定感(※5)も捨てがたい。嫌な上司が近々異動するという噂もあり、その可能性にかけてみたい気もした。幸い他部署だがランチタイムに愚痴をこぼせる友達はできた。
「もうちょっとだけ……せめて1年だけは頑張ってみよう。そうすれば道が開けるかもしれない」
苦しい状況にもがきながらも、今井さんはとりあえず「耐える」ことで状況を乗り切ろうと心に決めた。事態が好転することを信じて……。 |