転職活動はインターネット検索で見つけた【人材バンクネット】(注3)を利用した。
「スカウトメールもかなりの数だったし、仕事を続けながら、常に新しい情報を手に入れることができる」と、頻繁に使った結果、転職できたのが大阪に本社をもつソフトウェアメーカーだった。
「収入」を条件として探したので、結果として年収200万円以上のアップを実現。職種はもちろん、これまでに経験を重ね、実績も残してきた営業職。家族全員で関西に戻ることも叶った。
ここでも志村さんは人一倍の努力で成果を出し続け、1年目に主任、2年目に係長、3年目に課長と一直線に昇格。4年目にはよりハイレベルな活躍を期待され、営業推進部に異動となる。収入も年を追うごとにアップしていった。
しかし、異動となって少し経ったころ、順風満帆と思われた志村さんのキャリアに暗雲が立ち込める。
「2004年の4月ごろから、会社全体の業績悪化が見え隠れするようになりました。もともと、会社ではソフトの開発を外注に任せて、自社では作っていなかったのですが、その頃、商品の返品が増え、業績が落ち込んでいったのです。その影響で部長クラスの年俸が一律ダウン、次いで派遣社員をカットするようになりました」
この状態が続けば、自分の年俸も削られるだろう。さらにこのままいけば……。志村さんをはじめ、多くの社員に重苦しいイメージがつきまとう。そんな中、志村さんにとって転機を促す事態が起こった。志村さんを営業推進部に引っ張ってくれた部長と社長との確執である。
その部長は、実績もあり現社長からの信頼も厚かったので、次期社長とも目されている人物だった。しかし、業績が悪化するにつれ、部長と社長は意見の衝突を繰り返すようになる。
社長の方針は、社員を切ることで困難を乗り切ろうというもの。それに対して、部長の考えは、リスクを覚悟しても社内の改革・改良を進め、業績をアップさせようとするもの。正反対の考えをもつふたりの溝は次第に深くなっていった。
そしてついに社長は最後まで自分の意見を譲らなかった部長を降格。部長職を解いてしまった。この知らせを聞いたのは、冒頭の部長の弱気なセリフを聞いた直後のことだった。 |