キャリア&転職研究室|転職する人びと|第14回 前編 すべては愛する子どものために――苦闘の果てにつ…

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一年間に転職する人の数、300万人以上。
その一つひとつにドラマがある。
なぜ彼らは転職を決意したのか。そこに生じた心の葛藤は。
どう決断し、どう動いたのか。
そして彼らにとって「働く」とは—。
スーパーマンではなく、我々の隣にいるような普通の人に話を聞いた。
第14回 前編 菊池雄二さん(仮名)45歳/人事
すべては愛する子どものために——苦闘の果てにつかんだ5度目の天職
経営コンサルタントとして充実した日々を送っていた菊池さんを突然襲った妻の病死。幼い子どもたちの養育のため、やむなく実家に引き上げたが、8年後、子どもたちの希望や将来を考えて転職を決意、再び上京。しかし菊池さんを待っていたのは、予想外の苦難の連続だった…。

 発車のベルが鳴り響き、電車がゆっくりと動き出した。窓からは、主婦らしい子ども連れの女性や老人、スーツ姿のサラリーマンたちが改札口に向かって歩いていくのが見える。菊池さんは、大きくため息をついた。

「俺は一体、これからどうなるのだろう……」

 仕事を辞めて2カ月。もて余す時間は、都内の美術館や博物館めぐりで消化していたが、それも1カ月ほど前に行き尽くしてしまった。今は、関東のJR各線を片っぱしから乗りつぶしている(※1)毎日だ。

 窓の外の風景を見ながら、預金通帳の残高を思い返す。日々の生活費や食費、子どもの教育費、住宅ローン…。黙っていても毎月20万円は出ていく。自己都合で退職したため、失業保険はまだもらえず収入はゼロ。預金残高は見る見るうちに減っていく。

 電車に乗っていても、我が子の笑顔や姿が脳裏に浮かぶ。子どもたちには失業したことを話していない。話せば北九州の実家に伝わり、大騒ぎになるだろう。考えただけで気持ちはいっそう塞ぎこみ、両親に心配をかけると思うと申し訳なくてたまらなくなる。

「このまま次の転職先が決まらなければ、アルバイトでも何でもして生活していくしかない…」

 自分に言い聞かせるようにつぶやく。ふとドアの上の、複雑に絡まった首都圏の路線図が目に入り、何度目かのため息をついた。ああ、あと少しで、すべての路線を乗り終えてしまう……。

仕事も、ゆくあてもないのに、毎朝スーツを着て駅に向かった菊池さん。何を思いながら電車に揺られ続けていたのだろう……
 

突然の妻の死。幼い子どもたちの
ために実家での生活を決断
 

 8年前の1998年、菊池さんは経営コンサルタントとして、東京・広尾の経営コンサルティング会社に勤務していた。社員4名の小さな会社。そのため、コンサルタント業務以外にも、給与計算や外注コンサルタントの運営管理など内部管理業務にも携わる忙しい日々。しかし仕事はおもしろかったし、充実感を感じてもいた。そんな菊池さんを、ある朝、予想だにしなかった悲劇が襲う。

「妻が突然倒れ、その日の夕方に息を引き取ったんです。くも膜下出血でした」

 あまりにも唐突な死に、呆然とする菊池さん。あとに残されたのは、多忙な仕事を抱える自分と、幼い子ども2人—。

「当時、上の子は6歳、下の子は4歳と、親がそばにいてやらなければならない年齢でした。でも私は、子どもたちを育てるために働かなくてはならない。幸い、九州の両親が元気だったので、子どもを見てもらおうと……。選択肢はほかにありませんでした」

 実家のある北九州市で生活することに決め、4カ月かけて仕事を片付けて退職。だが同時に、菊池さんは一つの決意を胸に固めていた。それは、「いつか再び、東京に戻って来る」という決意。

「その時すでに、東京に家を建てていたので、余計に戻りたいという気持ちが強かったんですよね。それに退職の意思を伝えた時、社長が、東京に戻ってくるのを待っていると言ってくれたのも心の支えになってました。まあ実際は、私が東京に戻る頃には社長は亡くなって会社の経営者が変わり、復帰はできませんでしたけどね。でもその気持ちはありがたかったです」

 かくして菊池さんは、幼い子どもたちを連れて、北九州市へと出発したのだった。

地元スーパーの急成長に貢献も
子どもたちのために上京を決意
 

 実家に戻ってすぐに、菊池さんは、人事責任者を募集していた地元の食品スーパーに転職した。上場を視野に入れた、人事制度の構築を期待されての採用だった。

「当初は、すぐに人事部に配属される予定だったんです。でも、まず現場を経験したいと申し出まして……」

 菊池さんには、長年のコンサルティング業務を通じて、ある一つの確信があった。社長の意思ひとつで動くオーナー企業に入社したら、まずその会社の業務の流れや仕組みを、しっかり観察、把握することが必要だと。菊池さんが入社した食品スーパーも、「地元に根ざした個人商店」といった趣のオーナー企業であった。

 5カ月後に人事部に異動すると、いよいよ本格的に人事制度の構築に着手。新人採用および中途採用の採用計画や採用基準を見直し、人材育成の基本システムを整えた。さらには、新入社員を店長・チーフまで育てる教育部署を新たに設立。スキルアップのためのプログラム作りや、OJTなどのマニュアル作りなどに携わり、「個人商店から会社組織へ」という会社の規模拡大に貢献。期待に十二分に応える成果(※2)を、着々と上げていった。
 
 だが、東京を離れた日の決意を忘れることは、決してなかった。

「おかげさまで仕事は順調でしたし、社内の雰囲気も良く、非常に働きやすい環境ではありました。でも子どもたちの気持ちや家のことを考えると、東京に戻りたくて……」

 子どもたちは、すでに13歳と11歳に成長していた。父親の気持ちを知ってか知らずか、しきりに東京に戻りたがっている。思春期に差し掛かり始めた彼らの気持ちと将来を考えると、そうするべきではないのか—。

 北九州に、仕事に、不満はない。しかし子どもたちの将来を考え、菊池さんは今一度、決断した。東京に戻ろう、と。

大手人材バンクを通じ、
念願の東京で就職
 

 しかし、退職したいと切り出した時、上司だった常務に猛然と反対された。

「退職理由が、会社や仕事に不満があるわけではなく、子どもの教育のため、というものでしたからね。何を考えてるんだ(※3)って(笑)」

 半年かけ、誠意を尽くして社長と常務を説得、ようやく退職願いを受理されると、菊池さんは業界トップクラスの大手人材バンクの博多支店に出向いた。希望職種は人事部門。そしてなによりも、東京で勤務できることを条件に挙げた。

 ほどなくして、担当コンサルタントは人材派遣や人事教育を手がける在京の企業の求人案件を紹介してきた。近々新規事業として、企業向けの人事コンサルテーション部門を立ち上げる予定で、その責任者というポジションだった。確かにこれまでの経験が生かせる仕事だったが、どんな会社なのか、もっとしっかり情報収集したかった。しかし、コンサルタントから、早急に一度面接に行くことを要求されたため、それに従った。

 急き立てられるように上京して面接。するとなんとたった1回の面接で採用が決まってしまったのだ。

「あとから考えると、ちょっとおかしいなとは思ったんですよね。たった一度の面接で私の何がわかるのだろうと。そもそも採用に時間をかけない会社ほど注意しなくてはならないというのはこれまでの経験でわかっていたことなんですが……」

 しかし当時はすでに会社を辞めてしまっていたため、一刻も早く転職したかった。念願だった上京のチャンスを逃す手はない。内定を受諾した菊池さんは、子どもたちと一緒に、2005年5月、東京に舞い戻った。実に8年ぶりのカムバックだった。

違いすぎる話に退職を決意
転職活動の再スタート
 

 新たな意欲を胸に入社した初日、菊池さんは、上司にいきなりこう切り出された。

「悪いんだけど、とりあえずは人材派遣のトレーナー管理をしてくれないか。トレーナーの給与計算や、出張手配なんだが……」

 理由を聞くと、担当者が急に辞めてしまって、代わりがまだ見つからない。次が決まるまでの間だけでいいから、ということだった。

 仕事内容は新規事業の人事コンサルテーションという話だったのに……。とっさにそう思ったが、入社したばかりだし、断るわけにもいかない。次の担当者が決まるまでなら、そんなに長い間でもないだろう。渋々引き受けた。しかし予想は見事に裏切られた。

「実のところ、言葉は悪いですが、キャリアが全くなくてもできそうな仕事ばかりで、内心、どうして自分が……と思っていました。おまけに、1カ月たち、2カ月たっても、まったく次の担当者が決まらないんです。どうなっているのか聞いても、『探しているんだけど、なかなか見つからなくて』という返事が返ってくるばかりで……」

 次の担当者が決まるどころか、社員はどんどん辞めていく。おまけに、いつまでたっても、自分が配属されるはずの新規事業部門が立ち上げられるという話が伝わってこない。

 どうもおかしい。日に日に疑惑と不安が強まっていった入社3カ月目。上司から、驚くような事実を知らされた。

「実は、派遣業務の方が忙しくなったので、新規事業部門設立はできなくなった」──。

「もう、耳を疑いましたよ。自分が入社した意味がなくなったわけですからね。この会社にいても仕方ないと思って、すぐに退職を決めました。3カ月足らずしかいませんでしたが、大量の退職者を出す(※4)会社の体質に疑問も感じていましたし」

 9月、退職願いを提出。たった3カ月で、転職活動の再開を余儀なくされた。

 だが今回の転職に際して菊池さんは、味わったばかりの苦い教訓を踏まえ、新たな決意を胸に臨んでいた。

「このときの転職では、最近CMなどをバンバン打ってる大手人材バンクから紹介してもらったのですが、転職前と後では、仕事内容が全然違っていた。これは後でわかったことなのですが、この人材バンクでは、企業担当と転職者担当が別の人間で、どうもその当人同士の間で情報の行き違いがあったようなんです。ですから、今回の転職では、企業担当と転職者担当が同じコンサルタント(※5)の人材バンクを選ぼうと思ったんです」

 

 こうして始まった転職活動だが、当初菊池さんは「なんとかなるさ」と楽観していた。これまで4度転職してきた(※6)が、どれも1カ月以内に転職先を決めてこられたし、苦労したことはない。その経験と自信が菊池さんを支えていた。

 だが、今回ばかりは思い通りには進まなかった。菊池さんの前に高く分厚いカベが立ちふさがったからだ──。

 
プロフィール
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埼玉県在住の45歳。最初は営業として活躍していたが、コンサルティング会社で企画開発部に異動となって以来、経営コンサルタントとして17年のキャリアを誇る。妻の病死をきっかけに、子どもの養育のため、いったんは実家のある北九州に帰ったものの、2005年、やはり子どもの教育のために再び上京。その際入社した会社への不信感から転職活動を開始。現在は人材派遣業などを統括する会社の人事課でマネージャーとして活躍中。
菊池さんの経歴はこちら

乗りつぶしている(※1)
「電車内に張り出されているあの関東一円の路線図は、すべて制覇しました」と笑う菊池さん。「100km以内なら、途中下車しなければどこを経由してもいいと知っていたんです。でも一度だけ、高崎線に乗って郡山を経由し新潟に入った時、乗車券の確認に来た車掌さんとの間で、ひやっとしたことがあります。わたしの切符の行く先は大宮。何やってんの、と聞かれ、仕事がなくてヒマだからぐるっと回ってるんです、と答えたら、呆れて笑われましたけど」

 

期待に十二分に応える成果(※2)
菊池さんが在職していた8年間の、この食品スーパーの成長には目覚しいものがある。売上げは約4倍に増えて500億円に、社員数も4倍増の200人を数えるまでになった。また店舗数は、元々9店舗から30店舗以上にまで増加した。

 

何を考えてるんだ(※3)
「当時、わたしを引き止めてくれた常務とは、常務が出張で上京するたびに会っています。今でも『もし北九州に帰ることがあればウチに戻って来い』と言って下さるんですが、本当にありがたいことだと思いますね」

 

大量の退職者を出す(※4)
「30人の従業員がいましたが、私がいた3カ月の間で、15人が辞めたんですよ。その理由も、全員が入社前に聞いていた条件と違うというものでした」。同時に会社側の、辞めるのなら辞めればよいとでもいうような、人材を育成する気などさらさらない態度にも、菊池さんは不信感を募らせていた。

 

企業担当と転職者担当が同じコンサルタント(※5)
もちろん分業制になっていても、コンサルタント同士がコミュニケーションを密に図り、求職者にベストな求人案件を紹介してくれる人材バンクも多数存在する。人材バンクによっても違うし、コンサルタントによっても違うということだ。そのため、複数の人材バンクに登録することを勧めたい。選び方のコツはこちらを参照されたい。

 

それまでの転職(※6)
菊池さんは現在の会社に転職するまでに4回の転職を経験しているが、すべて「どうしようもない理由で」退職・転職をせざるを得なかった。「1回目は会社が潰れたから、2回目は業績不振で希望退職を募っていたため、3回目は妻の死、そして4回目は子どもの将来のためです」。そのせいだけではないだろうが、現在の会社では、じっくりと腰を落ち着けて働きたいという気持ちが強い。

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