京都大学が、5年前に学生交流協定を結んだ米カリフォルニア大から「教え方のレベルが低い」などと、協定更新を保留されているという記事が先日新聞上を賑わせました。
僕はこの記事を読み、「まあ当然だよな」と思いました。僕は京都大学で学び、教わる側の視点、そして大学院時代には大学の講師として教える側の視点を持ちました。それぞれ経験し、京都大学を含め日本の大学はなんとくだらないところなんだという結論に至りました。
僕は京都大学時代、大学院時代通算して10日も講義には出席していません。京都大学の学生に対する評価は結果主義であり、期末試験で合格点を取れば単位は認定されます。だから、結果を残し続け卒業証書は手にできました。
大学入学直後、勉強する気満々で講義に出たのですが、10分後には退席しました。教授はもごもごと小さい声でしゃべり、何を言いたいのか、また何か伝える気があるのかさっぱり分からなかったからです。学生(聞き手)にとって何の魅力も無い講義でした。
しかし、それから京大の講義の内容が変わったとは聞きません。当たり前です。講義の内容をチェックする仕組みが無いからです。だから、大学教授は自分勝手に低レベルな講義を続け、何の改善もしないわけです。
僕は自分が大学の講師をやる事になった時、自分が受け続けた苦痛、すなわち、聞く気がしない講義、面白くない講義、役に立たない講義は、絶対学生に提供しないと誓いました。
僕は学生と大学教授のどちらが偉いかといわれれば、間違いなく学生だと思います。学生または学生の親が授業料を払ってくださるから、大学教授はおまんまを食べることができるのです。学生はお客様であり、大学教授はサービスプロバイダーです。
サービスプロバイダーが、お客様の要望を聞き、常にサービスを改善し、高水準のサービスに対し対価として報酬を頂くというのは世の常識です。世の企業はサービスを計画し(Plan)サービスを提供し(Do)売れるか売れないか評価され、そこで結果を分析し改善し(See)改善できる企業はサービスが売れ生き残り、改善できない企業は死ぬわけです。
ところが、京都大学を始めとして日本の大学では講義を評価されるということがないため、極めて低水準の講義がまかり通るわけです。
僕は自分が大学の講師になった時、全ての講義で毎回アンケートをとりました。そして、良い評価には喜び、悪い評価には改善ポイントを明らかにし修正を続けました。講義の始めには、「僕の講義が分からなければ、それは君らの脳みそのせいではなく全て僕の責任だ」と宣言しました。米国の大学では当たり前のようにやっていることを、他の教授たちは、「牧田は馬鹿じゃないのか」という目で見ていました。しかし、僕の講義は一躍人気講座になり、ほぼ毎回定員オーバーの講座になり学生に支持されました。
今、僕は戦略コンサルタントになり、自分の脳みそとプレゼンテーション能力、問題解決能力をクライアントに買っていただいています。僕は商品です。クライアントに評価され、時には叩きのめされ、買い叩かれ、自分の修正ポイントを見つけ出します。そして、その修正ポイントをクリアし、バージョンアップを続けることで、市場で高値で取引される商品になり続けようとしています。
とまあ、ここまで大風呂敷を広げておいてCMですが、7月9日に宇都宮で主催される「トップエグゼクティブセミナー」で基調講演を行います。
「僕の講演が分からなければ、それはお客様の脳みそのせいではなく全て僕の責任だ」という講演をやろうと考えていますので(笑)、是非お越しください。