キャリア&転職研究室|魂の仕事人のバックナンバー一覧

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魂の仕事人|バックナンバー

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第20回 コオプコーディネーター 小島貴子-その一-長年築き上げた評価や実績を捨て46歳から未知なる世界へ
コオプ・コーディネーターとは大学と社会をつなげるこれからの仕事だ。そんな未知の領域に46歳で飛び込んだのは、元埼玉県庁の伝説のキャリアカウンセラー・小島貴子氏。なぜ小島氏は14年も勤めた居心地のいいはずの場所を捨て、職業定義すらも定まっていない未知の領域へと足を踏み入れたのか。
vol.72
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第19回 元プロボクサー 坂本博之 -その五-すべて受け入れ、全部やり尽くした
子供たちへの思いを胸に、勝つために、再び走り出した坂本。血のにじむようなトレーニングに挑戦し、最後のリングではすべてを出し切った。二人の子供のため、家族のため、ファンのため、そして自分自身のために。リングを降りた坂本は人生の新しいリングで、これからも戦い続ける。
vol.71
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第19回 元プロボクサー 坂本博之 -その四- 突然襲ってきた悲劇
畑山との伝説の一戦、4度目の世界挑戦に敗北した坂本は、OPBFタイトルマッチにも敗れてしまう。腰の手術を経て、2年7カ月もの長期間のブランクとリハビリを乗り越え、再起戦のリングに立つが、またもや敗北。すでに身体はボロボロだった。それでもあきらめなかったのには理由があった。
vol.70
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第19回 元プロボクサー 坂本博之-その三-このままではダメになる──危機感から業界のタブーを破りスランプ脱出、復活へ
坂本はデビュー戦以降もKOの山を築き、東日本新人王、全日本新人王、日本王者と順調にタイトルを手にしていった。戦いの中で、見る人の魂を揺さぶるようなボクシングスタイルも確立されていく。しかし順調そうに見えたが、心の内では見えない敵と戦っていた。
vol.69
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第19回 元プロボクサー 坂本博之-その二-空腹と虐待で死をも思った幼少期 養護施設で見た夢に向かって挫折を乗り越え、KOデビュー
坂本が最初にプロボクサーを目指したのはまだほんの子供、小学校低学年のころだった。あれから30年、いつも食べることに窮していた少年は、多くの人々に勇気を与えるボクサーにまで成長した。今回は不遇な幼少期を経て、プロボクサーとしてデビューするまでに迫った。
vol.68
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第19回 元プロボクサー 坂本博之-その一-ボクシングは仕事ではなく生き様 うそがつけない人生そのもの
2007年1月6日、ひとりのボクサーがリングを去った。「平成のKOキング」と呼ばれた男の名は坂本博之。これまで4度世界王者に挑戦するもそのすべてに敗れ、ここ数年は数試合しか戦っていない。にも関わらず最後の試合には後楽園ホールが超満員の観客で膨れ上がり、大歓声に包まれた。
vol.67
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第18回 ラリードライバー 篠塚建次郎-その四-仕事はあくまで自分のために ラリーこそ人生のすべて 生涯現役を貫き通したい
ラリーを戦い続けて40年、世界のラリースト・篠塚氏は今年22回目のダカールラリーに出場。非力なマシンで、トラブルを抱えながらも、目標である完走を果たした。メーカーのバックボーンを失っても、還暦を目の前にしてもなお、走ることをやめようとしない篠塚氏は何のために、誰のために走るのか。
vol.66
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第18回 ラリードライバー 篠塚建次郎-その三-俺はやっぱりラリースト 自分と向き合い下した決断
1978年、絶望的な不運が篠塚氏を襲う。国内自動車メーカーが排ガス規制とオイルショックのあおりをうけ、モータースポーツ事業から撤退。以後8年間、ラリードライバーとしてもっとも脂の乗る貴重な時期にハンドルを握れなかった篠塚氏。しかし、ただ絶望に打ちひしがれているだけではなかった。
vol.65
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第18回 ラリードライバー 篠塚建次郎-その一-元世界一サラリーマンドライバー“ラリーバカ一代”の走り続ける理由
還暦を目の前にして世界一過酷なレースにチャレンジし続ける男、篠塚建次郎58歳。これまでパリダカ優勝、WRC優勝ほか、「日本人初」の冠がつく数々の偉業を成し遂げた世界屈指のラリーストにして、世界に四駆ブームを巻き起こした元ビジネスマンでもある。篠塚氏にとってラリーとは何か―。
vol.63
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第17回 水中写真家 中村征夫さん-その4-仕事は生かされている証 これまでの苦労に感謝 これから先の人生にわくわく
海中でのさまざまなドラマを撮影しはじめて41年。還暦を迎えてもいまだ海と写真への情熱を燃やし、世界中を駆け回っている中村氏。しかし過去1度だけ海を憎み、カメラを置こうとしたことがあった。それは中村氏自身も死にかけたあの大災害がきっかけだった。
vol.62
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第17回 水中写真家 中村征夫さん-その3-31歳で独立も陸撮影の日々 ライフワークを見つけ 写真家としての道を切り開く
命がけで撮ったスクープも、認められるどころか罵声を浴びせられたことでとうとう堪忍袋の緒が切れ、7年間在籍した会社を辞職、フリーカメラマンとして独立を決意した中村氏。再びゼロからの厳しいスタートとなったが、持ち前の粘り強さと情熱でカメラマンとしての道が徐々に開けていった。
vol.61
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第17回 水中写真家 中村征夫さん-その1-やりたいことがわからず 悶々としていた10代出会ったとき、体が震えた
2006年8月、東京都写真美術館で異例の写真展が開催された。タイトルは「海中2万7000時間の旅」。日本を代表する水中写真家・中村征夫氏が2万7000時間をかけて撮った珠玉の水中写真の数々に、訪れた約4万人の観客は酔いしれ、あるいはど肝を抜かれた。中村氏に仕事の意義を聞いた。
vol.59
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第16回 機動救助隊長 宮元隆雄さん-その四-人命救助は 己のすべてを懸けられる仕事 ひとりでも多くの笑顔を見るために
より危険度の高い事故・災害現場の最前線で長時間の救出活動を行うハイパーレスキュー隊。隊員はなぜ他人の命を救うために、自らを危険にさらしたり、ときには命を懸けたりできるのだろうか。宮元隊長にとって、人を救助するということとは何か、仕事とは何か、について聞いた。
vol.58
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第16回 機動救助隊長 宮元隆雄さん-その三-人の死に直面してもあえて引きずらない 次の災害現場に進むため 救助の質を高めるため
レスキュー隊に入隊して12年後の1999年、37歳でレスキュー隊長に任命された宮元氏。人命救助のプロとして、さらにひとつステージを上げ、数々の災害・事故現場で指揮を執る。さらに増す責任感。しかし宮元隊長はいう。プレッシャーなどないと。
vol.57
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第16回 機動救助隊長 宮元隆雄さん-その二-災害現場の最前線に行きたい 人命救助のプロ・レスキュー隊へ 極限の現場で大きく成長
ポンプ隊員、はしご隊員を経験した後、さらなる高みを目指し、全国の消防士の憧れ「レスキュー隊」に挑戦した宮元氏。特訓が実を結び、狭き門にもかかわらず、一発合格。ここから、人命救助のプロとしての本当の戦いが始まった。
vol.56
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第16回機動救助隊長 宮元隆雄さん-その一-自分の性格に最も合っていた 消防・人命救助という仕事 つらい経験も次への糧に
2004年10月の新潟県中越地震。土砂崩れの下敷きになった一台の車。オレンジの制服を着た男たちが幼い男の子を救出した。中心となって活躍したのが、東京消防庁消防救助機動部隊、通称「ハイパーレスキュー隊」である。人命救助のプロ中のプロ、その隊長に、人の命を助けるという仕事について聞いた。
vol.55
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第15回三鷹光器株式会社会長 中村義一さん-その3-「便利」ではなく「必要」なものを
1986年、ライカから業務提携依頼を受けた三鷹光器は医療機器の分野へ進出。画期的な脳外科手術機器を開発し、アメリカやヨーロッパで高い評価を得る。天文機器と医療機器、一見なんの関係もないように見えるが、中村会長にとっては同じ「ものづくり」だった。
vol.53
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