キャリア&転職研究室|魂の仕事人のバックナンバー一覧

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魂の仕事人|バックナンバー

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第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その3-「スポーツで診る」という新発想で人々のQOLを上げたい
内科医として4年間勤務した後、「医師としての自分」に疑問をもち、「本当にやりたいこと」を考える過程の中で次第に大きくなっていったスポーツへの思い。そしてついに30歳にして大学を辞職、いよいよスポーツ医学への道を歩み始めた。この決断により、辻氏の運命は大きく変わっていった。
vol.111
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第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その2-とことんまで自分と向き合い スポーツ医学の道へ
大学卒業後、都内の名門大学病院に就職し、医師として職業人生のスタートを切った辻氏。2年間の研修医期間を終えた後は、さらに別の病院での修行が始まった。しかしそこで改めて自分自身と向き合うことを余儀なくされる。それは小さいが、後の人生の方向性を決定づける最初のきっかけだった。
vol.110
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第28回 スポーツドクター 辻 秀一-その1-個人のQOLを上げて豊かな世の中に
スポーツで世界平和を目指している男がいる。辻秀一46歳。スポーツドクターにして、4つの会社と1つのNPOを運営する経営者でもある。内科医から始まり、壮大な夢をもつに至るまでに何があったのか。辻氏にとって仕事とは何か、「よく生きる」とはどういうことなのか、熱く語ってもらった。
vol.109
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第27回 心臓外科医 須磨久善-その5-悪い心臓を治すだけが仕事ではない
外科医になって35年。「神の手をもつ男」と呼ばれるまでになった。目の前の患者を救うだけではなく、新しい手術に挑戦し、考案した手術を世界に広め、改良を重ね、成功率と生存率を高めてきた。患者は絶えることはなく、限界までそのすべてに応えようとしている。須磨氏を駆り立てるものは何なのか。
vol.108
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第27回 心臓外科医 須磨久善-その4-「手術して終わり」ではない
国内外の優秀な外科医を訪ね、イメージ力と判断力を養っていった若き日の須磨氏。自ら考案した鍛錬法で技術を磨き、いつしか神の手をもつ心臓外科医と呼ばれるまでになった。しかしそんな須磨氏でもすべての命を救えるわけではない。今回は若き日の技術修行法、そして外科医ならではの苦悩に迫った。
vol.107
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第27回 心臓外科医 須磨久善-その3-外科医にとって最も重要なのは手先の器用さではなく想像力
世界初の胃の動脈を使った心臓バイパス手術や国内初のバチスタ手術など、病に苦しむ患者のために、未知の難手術に挑戦し、しかも高い成功率を誇っている須磨氏。なぜ可能なのか。今回は外科医にとって最も重要なのはどんな能力なのか、そして一人前になるためのコツを語っていただいた。
vol.106
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第27回 心臓外科医 須磨久善-その2-医者は患者のためにある
一般外科の経験を積んだ須磨氏は、4年後、心臓外科医としてのキャリアをスタート。1984年、アメリカのユタ大学の医師に直接教えを請うために留学。半年間、心臓手術の本場で一流の医師から最新の技術と知識を吸収した。そして帰国して2年後、36歳で世界初の心臓バイパス手術に成功する。
vol.105
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第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その5-将棋は宇宙、その謎に迫りたい
恩師からの葉書で自分を取り戻した瀬川氏は第二局を勝利、第三局のA級8段棋士には敗退したが、第四局、第五局で勝利し、ついにプロ棋士・瀬川晶司が誕生した。ここにプロジェクトSは最高の結果で幕を閉じた。しかしそれは同時にプロ棋士としての厳しい戦いの始まりでもあった。
vol.103
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第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その4-失われていく最後の希望を つなぎとめたのは「恩師」だった
2004年、将棋仲間を中心に瀬川氏のプロ入り実現のための「プロジェクトS」が結成。前代未聞のプロジェクトは本格的に始動したが、この時点で瀬川氏がプロになれる可能性はほとんどなかった。無謀な挑戦。将棋界の常識を知る者はみなそう思ったがしかし、男たちはあきらめなかった。
vol.102
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第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その3-再び将棋の楽しさに目覚め アマ最強からプロ棋士キラーに
絶望や悲しみを受容し、一歩踏み出した先の新しい生活で少しずつ自分を取り戻していった瀬川氏。そして、一度は恨みすら抱いた将棋の世界へ再び身を投じ、アマチュア棋士最強の称号を得、さらに、もう一度「夢」への挑戦を決意する。瀬川氏の背中を押したのは、あの「ライバル」はじめ、亡き父、周囲の仲間だった。
vol.101
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第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その2-自ら命を絶とうとまで思った 後悔と絶望と怨嗟の日々
まずは最初の関門を19歳で突破し、22歳でいよいよプロへの最終関門・三段リーグに昇格した瀬川氏。タイムリミットの26歳まであと4年。さらにルール改正で生き残り合戦はさらに熾烈を極めることとなる。さらに本来のスタイルとはほど遠い将棋しか指せなかった瀬川氏は次第に追い詰められた。
vol.100
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第26回 プロ棋士 瀬川晶司-その1-夢を追い求めた男の天国と地獄
2005年11月、61年ぶりとなる異色のプロ棋士が誕生した。男の名は瀬川晶司37歳。プロを目指し、研鑽を積んできたが、制度の壁の前にプロへの夢が絶たれた。一度は就職したが、やはり夢捨てきれず、再度の挑戦を決意したが、それは事実上不可能だった。瀬川氏はどうやって不可能を可能にしたのか。
vol.99
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第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その5-「仕事」は人生を楽しむために
繰り返し自らを「小さい人間、たいしたことのない人間」と本気で語る石川氏。しかしこれまでの数々の実績、プロダクションI.Gの経営状態を見れば、石川氏が稀代の名プロデューサーにして、名経営者だということは明白である。シリーズ最終回の今回では、そんな石川氏にとっての「仕事」、そして「夢」を聞いた。
vol.98
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第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その4-経営はあくまで作品中心に
2005年12月、プロダクション I.Gはジャスダックに株式を公開。着実に進化し続けるI.Gだが、指揮を執る石川氏はこれまで経営者に向いていると思ったことは一度もないという。今回は石川氏にとって会社を経営するということ、そして作品をプロデュースするということについて語っていただいた。
vol.97
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第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その3-下請けからの脱皮を決意
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(監督:押井 守)の続編で、下請けから脱皮して業界内で「立ち上がろう」と決意した石川氏。業界内でクライアント側である大企業と競争したり、時には戦ったりしなくてはならないからだ。しかし石川氏は恐れなかった。従来のアニメーションビジネスの枠組みを壊し、変えていくために。
vol.96
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第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その2-悔しさから独立、フリーに
世界放浪を終えた後、タツノコに復帰した石川氏。制作進行からの再スタートだったが、三カ月後には制作デスクに昇進。その後も熱心な仕事への取り組みが評価され、順調にステップアップ、3年後、27歳のときにはプロデューサーに昇進した。しかし石川氏はまたしても辞表を出した。
vol.95
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第25回 株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久-その1-「普通が夢」だった少年時代
『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(監督:押井 守)や初めて日本アニメーション作品としてカンヌ国際映画祭コンペティション部門にノミネートされた『イノセンス』(監督:押井 守)。これら世界が賞賛する作品を生み出すアニメーション製作会社がある。石川光久氏が率いる「プロダクション I.G」だ。
vol.94
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第24回 日本ダルク代表・NPO法人アパリ理事長 近藤恒夫-その5-他人のためでは続かなかった
ダルクは全国各地に展開し、22年に渡り、回復者を確実に増やしている。ダルク創始者である近藤氏はかつて覚せい剤依存症だったが、今では国会に法律制定の参考人として呼ばれたり、東京弁護士会人権賞を受賞するまでになった。近藤氏にとって仕事とは何か、何のために働くのかについて聞いた。
vol.93
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