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魂の仕事人 第39回 其の四
安心して悩める社会のために 宗派を超えて僧侶が集結 自殺対策に取り組む僧侶の会、発足
ビフレンダーズやライフリンクでの活動を通し、自殺したいと思うほど苦しんでいる人や自死遺族の魂の叫びを聞くことによって、自殺問題に取り組むための独自の団体の立ち上げを決意した藤澤氏。まずは身の回りで呼びかけたところ、僧侶が一人またひとりと宗派を超えて藤澤氏の立てた旗の下に集結し始めた。  
「自殺対策に取り組む僧侶の会」代表 安楽寺副住職 藤澤克己
 

3人集まればなんとかなる

 

何か活動をしようとか、団体を立ち上げようとしたときに、3人集まればうまくいくような気がします。あくまで私の経験知ですけどね。1人でも2人でもなく、また、4人や5人でもなく……(笑)。

自殺問題に一緒に取り組む僧侶を集めたいと思っていたところ、2006年の年末にライフリンクに3人目の僧侶が入会しました。私が1人目で、3万人署名の活動を展開している頃に2人目が入会していましたので、これで3人目。それで、これは良いタイミングだと思い、彼らに自殺問題に対する私の思いを伝えて、それを実現するための僧侶のグループを立ち上げたいと伝えたら、ぜひやりたいと賛同を得られました。

まずは仏教界に訴えかける
 

当時、友人の僧侶が超宗派の団体「南無の会」(※1)の「青年部」として活動していました。定期的に仏教の勉強会を開催していたので自殺問題について話をさせてほしいとお願いしたのです。2007年2月1日に「自殺問題と仏教とお坊さん」というテーマで初めて人前でお話をさせてもらいました。自殺問題とは何なのか、仏教ではどうとらえていて、私たち僧侶は何をしたらいいのかなど、私なりに感じていることを話しました。

ほとんどの僧侶は自殺問題を説くときに、不殺生戒という戒律を話します。仏教には五戒(※2)という戒律があって、そのうちのひとつ、生き物を殺してはいけないというのが不殺生戒です。自殺は自分を殺していることだから、五戒を破っている。だから自殺はいけないことだと言ってしまうわけです。

でも、何度もお話していますが、死にたくて自殺する人はいない。自殺をする人は本当は生きていたいのに、生きていくことができないほど追い詰められて、死ぬしかないと思い詰めて、やむを得ず自ら命を絶ってしまう。

それなのに、自殺は罪だとか悪いとか、命は尊いから大切にしなきゃだめだなんてことをお説法として話すことが多いようです。当人は命は大切だなんてこと、本当はよく分かっているんです。それなのに、もしそういう説法しかできなかったとしたら、逆に追い詰めることになり、二次被害を生んでしまう危険性がある。

※1 「南無の会」── 人間として生まれてきたことに感謝し、生かされていることに感動する心を呼び戻そうとして1976年に有志の僧侶により発足。超宗派の任意団体でだれでも自由に参加することができる。広く仏教を学ぶための講習会「南無の会 辻説法」などを開催している。詳しくはこちら

※2 五戒──仏教で在家信者が守るべき基本的な5つの戒め。生き物を殺すことを禁じる「不殺生戒(ふせっしょうかい)」、他人のものを盗むことを禁じる「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」、結婚している相手以外の人と交わることを禁じる「不邪淫戒(ふじゃいんかい)」、嘘をつくことを禁じる「不妄語戒(ふもうごかい)」、飲酒を禁じる「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」の五つ。

遺族はなかなか本音を話せない
 

自死遺族の方に対しても、実は同じようなことが言えると思います。こういったことを大半の僧侶は知らないんだと思います。僧侶の多くは「自死遺族の気持ちはなかなかわからない」とよくいいますが、それは遺族が話せないからなんですよ。お通夜や法要で、自殺で亡くなったと言えば白い目で見られるかもしれないと思って話せない。また、話したところでどうせ「命は尊いから大切にしなきゃいけなかったのに」と言われるのが関の山だから話すだけ無駄だと思ってるかもしれない。両方あって話せない。

また、ご遺族は立場によっても思いが違います。例えば家族をもつ中年の男性が自殺で亡くなった場合、男性の両親が妻に対して、「どうして一緒にいるのに気付いてやれなかったんだ」と責める。奥さん自身も夫を亡くして大きなショックを受けているのに、夫の親や親戚などから冷たい目で見られてしまう。

子どもは子どもでお母さんが発狂するくらい苦しんでるから、これ以上自分が悲しい素振りを見せたらますますお母さんを苦しませちゃうと、おおっぴらに悲しむことすらできない。本当はものすごくつらく、悲しいんだけど、我慢しちゃう。いい子を演じてしまうわけです。それでもっともっと自分の中に重いものを抱えちゃうんですよ。

お葬儀や法事の席には、そういったいろんな立場でいろんな思いを抱えている人がいるわけです。だから本当の気持ちはなかなか誰も言えません。

「無知」と「上から目線」が二次被害を生む
 

僧侶は四十九日法要や一周忌、三回忌など法事で遺族と付き合えるのだから、どういうふうに自死遺族が悲しみと向き合っているのかを聞いてあげて、サポートすることができるはずなのですが、そういった実態を知らないので、ついつい宗教者の立場から「自殺はいけないこと」「命を大切にしましょう」という話をしてしまっているのが現状だと思います。そればかりか、「自殺してしまった方は気の毒ですが、命を粗末にしましたね。あなたは頑張ってくださいね」などと上から目線で遺族に説教しちゃうことがあるようです。

もうこんなことを言っちゃったらたいへんなんですよ。実際にはここまで短絡的なことは言わないかもしれないけど、遺族はそう受け止める可能性はある。実際に、私が僧侶であるということを知らないで、僧侶に対する不満を話してくれる自死遺族の方が多くいるんです。悲しく悔しい思いをさせられた、と。それが二次被害を生む危険性をはらんでいるということです。

そもそも遺族は救ってやろうという態度で接せられたら嫌なんですよ。共感はしてほしいけど、憐れみとか同情はしてもらいたくない。だから上から目線で接してはいけないと思います。

だからまずは宗教者に対して自殺問題の実態を正しく伝えると同時に、自殺念慮者や自死遺族の心情をよく理解せずに、僧侶という資格だけで自殺問題に関わったらたいへんなことになる、といったことを、南無の会で最初に力説したわけです。

本願寺派に働きかける
 

また、私の所属している浄土真宗の本願寺派は、包括宗教団体の中で日本最大の組織なのですが、その中に「教学伝道研究センター」という部署があって、自殺問題に対して、宗派としてどういう取り組みをすればいいのかを検討していました。私が自殺対策に取り組んでいることを伝え聞いてくれて、部会で話をしてもらいたいと声を掛けていただきました。そこで私は自殺の現状を正しく認識すべきだと提言しました。

本願寺派では、いろんなテーマで中高生から作文を募集して、優秀賞の作文をWebサイトに掲載しているんですね。その中に「自殺」に言及した作文も数多くありました。でも、「自殺」に関する作文はすべて「自殺や無差別殺人など、最近命を粗末にしてるような事件が多いけど、私は命を粗末にしてはいけないと思う」というトーンの作文ばっかりなんです。

自殺と殺人事件を一緒に並べちゃうんですよ。知らない子どもたちはそう思っちゃうんでしょうね。命を大切にしようという気持ちから書いてるので悪意はないはずですが、自殺と殺人を一緒にしちゃだめですよね。誰かが、そういう考え方を刷り込んでしまったのだと思いますが、自殺の実態を知らないから、自殺に関して無関心で偏見をもっているから、そういう言葉が出ちゃうわけです。

問題は、浄土真宗本願寺派がそういった「自殺は無差別殺人と同じで、やってはいけないことで、命を粗末にしてる」というトーンの作文ばかりを優秀賞に選んでいるということです。これは、あまりにも実態を知らなさすぎるから起こることで、間違った認識を助長するたいへん危険なことだと思いました。

「教学伝道研究センター」で、本願寺派として自殺問題をどう考えたらいいかと意見を求められたときに、この作文の話を伝えました。

すると、研究員は「そういうことだとは気付きませんでした。ついつい命を大切にしようと言えば良いと思っていたけど、言われてみれば確かに亡くなった方が悪いことをしたとは思えない。藤澤さんの言う通りかもしれない」と言ってくれました。

自殺問題啓発用のリーフレット作成
 

また、ちょうど同時期に、浄土真宗本願寺派の中にある「基幹運動推進本部」という部署が自殺問題の啓発用リーフレットを作ることになっていて、その編集にも関わらせていただきました。

やっぱり編集会議の中で出てきたのは「命は尊いから粗末にしちゃいかん」というトーンの内容だったので、それは違いますという話をしました。

するとここでもやっぱり、僧侶は現場に近いところにいるからすぐにピンときてくれて、間違っていたということをちゃんとわかってくれました。先ほどの作文の件も含め、自殺問題の実態について、これからもっと学ばなきゃいけないと本願寺派も少しずつ変わりつつあると思いました。

でも編集委員は自殺対策に関わってきたわけではないので、どう書いていいかわからない。だから、リーフレットの原稿の執筆を依頼されたので書きました。そうしたら、ほぼそのまま全面採用してくれたんです。

それが以下の文章です。

年間自死(自殺)者数は九年連続(2007年当時)で三万人超、
未遂者はその十倍といわれています。
自死する人は 弱い人なのでしょうか?
いのちを粗末にしていると、そう思いますか?
自死された方の多くは
本当は もっと生きていたかった。
でも、生きていくのが つらくて
生きていくことができなくなって
死ぬことしかないと 思いつめて
亡くなっていったと
これまで 実際にかかわってきた人たちが
そう うけとめています。
自死への偏見をなくし
自分のこととして 考えていきたい。
つらいとき あなたは
そっとしておいてもらいたいですか?
それとも
声をかけてもらいたいですか?
「いま、私にできることは何だろう?」
ということを いっしょに 考えてみませんか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もしかしたら…
自死(自殺)するしかないと 考えている人が
あなたの近くにいるかもしれません。
思いつめている人は
まわりの人を 心配させないように ふるまってしまうとも いわれています。
つらいときや 悲しいとき、何かに 追いつめられたとき、
まわりの人に 助けを求めたくても なかなか気づいてもらえない。
勇気が出なくて、言い出すこともできなくて、
ますます つらくなってしまう…

わたしたちは
どのようにかかわっていけば よいのでしょうか?
相手を ありのままに認めて 気持ちに寄り添うことができたら、
言えなかった悩みを 話せるようになるかも しれませんね。
        ◇◇
「いいんだよ 今のままで」
「いっしょにいることができて うれしい」
          ・
          ・
          ・
あなたの 思いやりのひとことが
わたしを ホッとさせてくれることがあります。

こころの ふれあいを たいせつに 〜自死(自殺)について考える〜(共にあゆむVol.68)』より

これに書かれてあるように、本当はもっと生きていたかった。でも生きていくのがつらくて、生きていくことができなくなって死ぬしかないと思いつめて亡くなっていく。思い詰めている人は本当は周りの人に気付いてもらいたい、助けを求めたいのに、心配をかけちゃいけないと思って本当の気持ちを言えないからますますつらくなっていく。そうすると、本当なら助けを求めなきゃいけないのに助けを求めることもできない、ああ、ダメだなと。もうこんな状態だったら生きていてもしょうがないな、生きる価値がないなと思って自ら命を絶ってしまうわけです。

死にたくて自殺する人はいないんだから、宗教者が「命は粗末にしてはいけない」と上から説教をするのではなくて、「自殺してしまうほど苦しんでいる人が周りにいるかもしれないし、そういう方は自分から言い出せないでいるからそっと声をかけませんか。そういうアプローチが宗教者としては大事なんですよ」というメッセージを第1弾として作ったんです。

同じ宗教者に対して自殺問題の実態と対処の仕方を訴えかけるという活動をきっかけにして、自殺問題をただ考えるだけではなく、一緒に行動する僧侶のネットワークをつくりたいと具体的に考えるようになった。その思いが日本初の仏教者による自殺対策の団体の創設へと繋がっていく。

「自殺対策に取り組む僧侶の会」を設立
 

その後も「僧侶として自殺問題に取り組む活動を行いたい」と、いろんな会合で話したり、自殺対策に興味をもっていそうな知り合いの僧侶に思いを伝えたら、一緒に活動してもいい、あるいは自分もやってみたいという僧侶が少なからずいたんです。

それでまずはそういう人たちに集まってもらってお互いに話し合いませんかと呼びかけたところ、私のお寺の安楽寺に宗派を超えて11人の僧侶が集まってくれたんです。2007年5月31日のことでした。

団体名については慎重に議論を重ね、後に「自殺対策に取り組む僧侶の会」と決めましたが、その日を結成日にしました。任意団体で法人格をもっているわけではありません。第1回の会合では、参加したそれぞれの思いを語ってもらい、会の理念やこれからの活動方針、具体的な活動内容などについて話し合いました。

その後、少しずつメンバーは増えていますが、2009年4月現在では、会員はまだ25人ほど。宗派は浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗、浄土宗、臨済宗、真言宗の6つです。

安心して悩むことができる社会にするために
 

「自殺対策に取り組む僧侶の会」(以下、「僧侶の会」)が掲げる最大の使命は「一人ひとりが生き生きと暮らすために、安心して悩むことのできる社会づくり」です。そのために必要なことは3つあると考えています。

1つは「如実知見」。実態をありのままに見ることが大切で、無関心と偏見をなくすということです。マザー・テレサの「愛の反対は憎しみじゃなくて無関心である」という言葉のように、無関心だからこそみんな自殺の実態を知らないわけでしょう? 無関心な人に向かって「自分はつらいんです」って言っても受け止めてもらえず、拒絶されてるような気がするじゃないですか。まずはその無関心をなくしていくために、実態をつぶさに知り、自殺は他人事ではないと発信していくことが必要です。

2つめは、死にたいと思うほど悩んでいる人や、苦しんでいる遺族の気持ちの届け先をもっとたくさん社会に作ること。ビフレンダーズの電話相談に代表されるような相談の窓口ですね。全国各地にあるお寺がその可能性をもっているので、働きかけていきたいと思っています。

3つめは、一緒に動く人を増やすこと。浄土真宗の言葉では「御同朋」といいますが、要するに仲間ですよ。苦しんでいる人と一緒に考え、ともに歩もうとする姿勢が、自殺対策として必要なことだと私は思っています。

これに関しては、浄土真宗本願寺派の自殺対策のリーフレットに「御同朋として生きるということ」と題してこう書きました。

自死(自殺)に向き合う といっても
答えがすぐに見つかるわけではありません。
すぐに答えが見つかるようであれば、
自らのいのちを終わりにしようとは
考えないからです。
思い悩んでいる人をひとりぼっちにしてしまうと、
ますます自分を追いこんでしまう危険性があります。
その人だけの問題としてしまうのではなく、
「いっしょになって考え、共にあゆもうとする」
そうした姿勢こそ
御同朋として 生きる 私たちの
あるべき姿と いえましょう
御同朋とは、
この時代 この社会に 生きる 私たちが
阿弥陀さまに ひとしく 願われていると
知らされ 気づかされて、
互いに認め合い 支えあっていく 生き方であり、
苦楽をともに生きていく 仲間のつながりです。
ひとりで抱えこんでいる人の気持ちに 寄り添う。
ひとりで抱えこまないで 誰かに聴いてもらう。
そういう かかわり方を していきたい
——そう 思います。

今は死にたいと思ってなくても、死にたいと思う状況にいつ誰がなってもおかしくないんです。今、死にたいと苦しんでいる人は明日の自分かもしれない。決して他人事じゃないんです。私がもし死にたいと思い悩んでしまったら、放っておくのではなく、できれば優しい声をかけてもらいたい、気持ちを受け止めてもらいたい。それと同じように、もし死にたいと思いつめている人がいたら、放っておかないようにしたい。だから、念仏者に限らず、この同じ時代、同じ社会に生きる同世代人として、自分の問題として、同胞として、苦しんでいる人に対して一緒に考えていこう、友として寄り添っていこうよ、ということです。まさにビフレンディングの精神ですよ。

自死の問い・お坊さんとの往復書簡
 

僧侶の会では、「安心して悩むことのできる社会」を実現するために、実際に様々な活動を行っています。

中でもメインの活動は「自死の問い・お坊さんとの往復書簡」(※3)です。2つめの「相談の窓口を増やす」ための活動です。

自殺したいほど苦しんでいる人、大切な人を自殺で亡くした人、自殺未遂をした後、立ち直ろうとしている人、そういった自殺について思い悩んでいる人などを対象に、自殺に関する相談、質問などを手紙で受け付けています。「他人にとっては些細なことでも、あなたにとっては重大な問題です」として、なかなか安心して他の人に相談できないようなことでも、手紙にしたためて送ってもらっているのです。

届いた手紙に対しては、僧侶の会の仲間が3人1組になって返事の文案を考えて、代表のひとりが直筆で返事を書いて送っています。私は最終レビューワーとしてすべての手紙に目を通して、相談者に対する関わり方が適切かどうかをチェックし、場合によってはアドバイスをしたり改訂文案を提示したりしています。

手紙を選んだ理由
 

現在の電話やeメールが全盛の時代、書簡(手紙)という手段は古風な感じがするかもしれません。でもあえて書簡にしたのは、いくつか理由があります。

電話やメールで相談を受け付けるというより、書簡という方が私たち(僧侶)らしさを表現できるというのがまず1点。

そして、手紙に相談内容を書いていただくことで、電話やeメールよりも時間と手間がかかるだけに、自分の気持ちを整理することができ、より真摯に深く向き合うことができると思うのです。だから手紙を書いてもらうだけでも相談するという目的の半分くらいは達成できると思っています。

また、手紙でのやり取りの場合は、電話やメールと違い、タイムラグが発生します。それにより、相談を受ける側にも考える時間を与えてくれるというメリットがあります。

それから、現実問題として手紙じゃないと受け取れなかったという事情もあります。電話相談や面接相談のように拠点を決め、リアルタイムに応じる体制が取れないと思ったからです。「自殺対策に取り組む僧侶の会」という団体にしていますが、拠点となる場所はあるわけではありません。通常、メンバーはそれぞれのお寺にいたり、代表の私はライフリンクを含めビフレンダーズの電話相談などいろんなところで活動していたりと、普段はみんな個別に活動していて、たまにどこかで会合を開いて集まるという形態なんです。だから団体というよりはネットワークに近いものなんです。

相談者からの手紙で胸が熱くなる
 

2008年1月10日から始めてこれまで800通を超える手紙を受け取りました(2009年4月27日現在)。現在は月平均50通ほど届いています。

手紙を受け取って返事を書く、するとまた返信が来る。「いつ返信が来るかと首を長くして待っていたらやっと届きました」「郵便受けに本当に手紙が届いたのを見て涙が止まりませんでした」「封を開けるまでに30分かかりました」などと書かれてある手紙を読んだ時は、そんな思いで開けてくれるのとかと胸が熱くなります。

ほかにも「これまで誰にも自分の気持ちを打ち明けられなかったけど、初めて受け止めてもらえました」「気持ちの届け先を初めて見つけました」「涙が出てきて最後までなかなか読むことができませんでした」「何度も何度も読み返しました」といった返信が届くんですよ。

手紙に「本当にありがとうございました」と書かれてあると、こちらも本当にありがたいなあと思うと同時に、人の役に立っているという実感、手応えを感じます。だからこの活動に参加している僧侶はみんな、参加してよかったと言ってくれます。

ですが、みんながみんな最初からすばらしい手紙が書けたわけではないんです。メンバーの中には相談活動が未経験の僧侶もいます。見よう見まねでやってみると、最初は上から目線になっていたりとか、気持ちをうまく受け止められなかったりするんです。でも、お互いに「こういうときは、こういうふうに応えた方がいいのでは」とアドバイスをし合っていくうちに、徐々に返信の内容の質が上がってきました。そんな感じで一人ひとりがスキルアップしてきたので、最近では口を挟むことも少なくなりました。

※3 「自死の問い・お坊さんとの往復書簡」──詳しくはこちら
●手紙の宛先:〒108-0073 東京都港区三田4-8-20往復書簡事務局

 

「自殺対策に取り組む僧侶の会」を立ち上げ、メンバーの僧侶と共に自殺念慮者や自死遺族の支援に力を尽くしている藤澤氏。しかし現状に甘んじず、今後さらに活動を拡大していく予定なのだという。

最終回の次回では、自殺問題を解決するための壮大なビジョン、そして藤澤氏にとって仕事とは何か、働くとはどういうことかに迫ります。乞う、ご期待。


 
第1回2009.4.6リリース IT企業の敏腕サラリーマンから 自殺対策に取り組む僧侶に転職
第2回2009.4.13リリース 自殺防止の電話相談員として 苦しむ人に寄り添う
第3回2009.4.20リリース 活動を通して得た大きな気付き 「救ってやる」は間違いだった
第4回2009.4.27リリース 安心して悩める社会を目指して「僧侶の会」設立
第5回2009.5.4リリース 仕事は社会の中での役割 生き甲斐とは違う

プロフィール

ふじさわ かつみ

1961年神奈川県出身。安楽寺副住職。
早稲田大学卒業後、IT企業に就職。21年間に及ぶサラリーマン生活を経て、NPO法人自殺対策支援センターライフリンクの活動に従事。また、NPO法人国際ビフレンダーズ東京自殺防止センターの電話相談員としても、自殺したいほどつらい思いを抱える相談者の気持ちに寄り添う活動を行っている。2007年5月、「安心して悩むことのできる社会の実現」を標榜し、「自殺対策に取り組む僧侶の会」を立ち上げ、代表に就任。自死に関する悩みを手紙で受け付ける「自死の問い・お坊さんとの往復書簡」や、自死遺族のための追悼法要などを開催している。浄土真宗本願寺派東京教区自死問題専門委員として仏教界への啓発、提言も積極的に行っている。

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