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魂の仕事人 第25回 其の一
「普通が夢」だった少年時代 世界放浪、人形芝居を経て アニメーションの世界へ
日本が世界に誇る産業のひとつ、「アニメーション」。96年には『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(監督:押井 守)がアメリカ「ビルボード」誌のセルビデオ部門で1位を獲得。記憶に新しいところでは、2004年に『イノセンス』(監督:押井 守)が日本アニメーション作品として初めてカンヌ国際映画祭コンペティション部門にノミネートされた。これらを筆頭に、世界が賞賛する作品を生み出し続けているアニメーション製作会社「プロダクション I.G」を率いるのが石川光久48歳。今回は、次々に業界の常識を打ち破り、「アニメーションビジネスを変えた男」と呼ばれる石川氏に、なぜそうすることができたのか、そして「働くということ」について聞いた。  
株式会社プロダクション I.G代表取締役社長 石川光久
 

アニメーションには興味がなかった

 
カンヌ国際映画祭の会場にて。左から石川社長、押井守監督、音楽を担当した川井憲次氏(石川社長がプロデューサーを務めた『イノセンス』が日本アニメとして初めてカンヌ国際映画祭のコンペティション部門にノミネートされた:写真提供:プロダクションI.G)

 今はアニメーション製作会社の社長という立場ですが、子供のころからアニメがすごく好きというわけではありませんでした。周りの子供たちと同じ程度でしたよ。

 テレビ自体、あまり見た記憶がないんですけど、『あしたのジョー』、『巨人の星』はご多分に漏れず観てました。また、『マッハGO!GO!GO!』、『紅三四郎』などの、後に働くことになるタツノコ・プロダクションの作品は好きでした。タツノコの作品は子供向けのものでもどことなく大人びていたし、登場するキャラクターもちょっとませてたんですが、それが好きだった。タツノコに入社してからふっと思い出したんですけどね。そういえば好きだったなって。

「普通」になるのが夢だった
 

 小学生のころの夢は「普通の人間になりたい」でした。当時は学校の成績も悪かったし、何一つ自慢できることなんてなかった。当時は女の子にも嫌われてたし。だからとにかく普通になりたかったんです。

 大人になったら普通のサラリーマンになれればいいと思っていました。実家は農家だったんですが、農家が嫌だったわけではないし、むしろ継げればいいなと思ってました。でも農業は厳しい世界なので、頭のよくない自分では足を引っ張るだけで無理かなと思っていたんです。

 だからどこか自分を雇ってくれる会社があれば、そこで一生懸命働いて普通になりたいと思っていました。それと、家の近くの多摩川の河川敷に野球場があったんですが、どこかの工場の人たちが仕事が終わると集まってきて野球をやってたんです。子供のころから野球が好きだったので「ああ、いいなあ」と思いながらよく見てました。だから自分も大人になったら工場とかに勤めて、6時くらいから野球ができればいいなあなんて思ってましたね。

 でも遊ぶことばかりじゃなく、物心つくころからアルバイトをしていました。小学生のころは新聞配達をしていましたし、野球場ではボールを拾って大人に買ってもらったりしていました。だから子供のころから商売っ気はあったんでしょうね。

 中学、高校でも、「将来就きたい職業」はなかったです。そもそも親から勉強しろと言われた記憶がないんですよね。自分自身、勉強した記憶もないし。だから今思うと、のんびり育てられたのがよかったのかもしれませんね。環境的にはすごくいい育てられ方だったように思います。

「上を見るな、下を見ろ」
 

 お袋によく言われてたのは「上を見るな、下を見ろ」。自分より上ばかりを見てたら「あれがほしい、ああなりたい」と際限なく欲望が出てくる。そうすると人として卑しくなる。

 だから身の丈を知って、下で頑張ってる人を見て、負けずに一生懸命生きろということだったんじゃないかなと思います。それから「人に迷惑をかけるな」、「人前で威張るな」ともよく言われていました。

 そういうお袋の言葉がいまだに効いてると思います。そのおかげで「自分という人間は小さい」、「身の丈で物事を考える」ということが、コアの部分に確立されましたから。それが原点で、これまで見失わなかったから今があるんです。だからお袋の影響ってすごく大きいと思いますね。そういうふうに育ててくれた親にいまだに感謝してます。

原点は「人を喜ばせたい」
 

 もうひとつ僕の根っこのところにあるのが、人を喜ばせたいという気持ちなんですよね。これは幼いころから強かったみたいです。どうしてかはわからないですが。これも親の影響なのかもしれません。

 社員を、クリエイターを、クライアントを、パートナーを、みんなを喜ばせたい。個人的にはこれまで親不孝だったので、親が生きてる間に喜ばせたいと思ってます。親の苦しんでる顔は見たくない。そうすると親の喜ぶ顔を見るためにはどうしたらいいかって考えますよね。でもそれは決して社会的な名声を得ることでも、経済的に裕福になることでもないんです。

アルバイトで生活費と学費を捻出
 

 中学、高校は野球三昧でした。高校を出たら就職しようと思っていたんですよね。でもなかなか就職先がなかった。たまに見つけても、就職後も野球をやることが条件だった。でもそのころは野球への情熱を失っていたから、就職せずに大学に行こうかなと思ったんです。

 だけどそれまで大学進学なんて全く考えていなかったからどうしようかと思っていたところ、たまたま僕と成績が同じレベルと考えていた人の志望校を見たら明星大学って書いてあった。それで「こいつが志望してるんだったら俺も受けてみよう」と思ったんです(笑)。でも先生に相談したら「無理だ」って言われましたけどね。でもとりあえず受けてみるだけ受けてみて、ダメだったら3年くらい浪人して大学に行こうかと思っていたんです。でも、奇跡的に現役で合格しちゃった。1カ月くらいしかまじめに勉強しなかったんですけどね。

 専攻は人文学部経済学科だったんですが、入学後は学校に全然行きませんでした。毎日何をしていたかっていうとアルバイト。もうがむしゃらにしてましたね。平日はバキュームカーの汲み取り作業、土日はゴルフのキャディーをやって、夜は横田基地のピザハウスで働いたり。毎日、朝、昼、晩、5つくらいアルバイトをかけもちしていました。

 バイト代は全額親に渡して、大学の授業料もその中から払ってました。そんな感じで1年の3分の2はバイトでしたね。

親に経済的負担をかけたくないという思いからアルバイトに明け暮れていた学生時代。それ以外のお金と時間は世界放浪に費やした。元々何かを学ぼうと思って出かけたわけではなかったが、この放浪は石川氏を変え、後々まで好影響を及ぼす大きな収穫となった。

海外放浪
 

 よくバイクで日本中を旅したり、海外を放浪していました。海外は中近東、インド、中国、モスクワ、アフリカなどを回りました。

 海外を放浪しようと思ったのは、自分の性格を何とかしたいという思いからでした。僕は元々、集団の中にいるとき、自己主張をして表に出るというよりは、誰かの意見に従って集団の中に溶け込もうっていう性格だったんです。例えば旅行に行くときも自分から「どこそこへ行こう」とか「こうしよう」とかは全然言わなかった。今では考えられないですが(笑)。

 そういう自己主張は他人に迷惑をかけることだと思っていて、極力避けてたような気がするんです。自分よりも相手の気持ちを優先しようとしていたから、他人とぶつかりそうになったら、必ず引くとか。そんな自分が嫌で、変えたかったんです。ひとりで海外へ行くと、言葉も通じないような国でひとりで決断し、行動しないとならないでしょう? 自分の弱さは自分を知らない世界へ放り投げないと克服できないと思ったんですよね。だからいざ海外放浪しようと思ったときも、恐さは全くなかったです。

 それに加えて、一生のうちでこんなに自由な時間を過ごせるのは学生時代しかないんじゃないかって思ったんです。社会人になったらこんな自由な時間はないから、これをいかに有意義に使おうかと。最大の財産って思っていたわけじゃないけど、そのときにやれることをやりたいという気持ちがあったのかもしれない。でも海外へ行って何かを学ぼうという気持ちは全くなかったですね。

出鼻のインドで赤痢に
 

 最初に行った国はインドでした。3カ月ほど滞在したんですが、刺激的でしたね。列車の屋根の上にみんな群がって乗ったり、路上にはたくさんの物乞いがいたり、そういう日本じゃ考えられない光景にショックを受けました。

 僕自身もお金がなかったから、よくスラム街に寝泊りしたり、野宿したりしたんですが、いろいろ感じることがあったんです。インドって貧しくて汚いけど、すごくエネルギッシュだなって。人びとの生きるエネルギーとか熱気みたいなものをすごく感じました。でもそこで赤痢になったんですよね(笑)。

 でも赤痢になっても恐いと思わなかったし、逆によかったと思いました。インドで体の調子が悪くなってバンコクに飛んでサムイ島とか小さい島にいって療養しようと思ったんですが、そこでも全然良くならなくて、しょうがなく帰国したんです。そしたら成田空港の検疫でつかまって検査されて。その日はそのまま帰されたんですが、その後赤痢だと判明して強制入院となったんです。でも隔離された病院の中が一番生活が充実してましたね。食べ物もおいしいし、本もたくさん読めるし、こんないい暮らしはないなと。退院したくなかったです。できれば1カ月くらい暮らしたかった。それほど快適でしたね。

自分の小ささを自覚できたのが一番の収穫
 

 海外放浪で何かを学んだっていう記憶はあまりないですね。元々何かを学ぶために行ったわけじゃないですから。そもそも海外放浪することで何かを得よう、求めようとしても意味はないと思います。得るものなんてないんですよ。これは強く言いたい。そんなものは経験じゃないと思った方がいい。海外放浪したから社会に出てうまくいくとか、会社を経営して成功するなんてものじゃ絶対にないから。そんなのを期待するのはとんでもないことで。

 はっきり言って海外に1年や2年行ってぶらぶらしてきた人間なんて、9割方は使いものにならないと思います。だらけちゃって仕事なんてできなくなりますよ。海外に長く行ってたって言えば、みんな冒険してたんだって思うけど、冒険なんて1年も続きませんって。僕なんて3カ月が限界ですよ。だから海外放浪をしてたときは同じ国に1カ月以上いないようにしていました。

 ただ僕の場合は海外で病気になったりパスポートをなくしたり、いろんな事故やトラブルに遭遇しときに、自分で早く決断して行動するということが自然にできるようになったのが収穫でしたね。

 でも一番大きかったのは、自分がいかに小さい人間かってことがわかったってこと。非日常の世界へ自分を放り投げることによって、それが身に染みてわかるんですよね。例えば海外留学した人もホームシックになったりということを、一度は経験すると思うんですよ。そういう自分の小ささや愚かさというものを感じられたことがよかったんじゃないかと。この感覚は今の自分の基盤になってますね。

アルバイトと海外放浪に明け暮れていた石川氏は、大学4年生になっても将来の目標が定まっていなかった。しかしある日、たまたま観に行った「文楽」で大きく運命は変わっていく。

 別に古典芸能に興味があったわけじゃないんですが、たまたま見た文楽のポスターになんとなく引かれて見に行ったんです。そしたら涙が出るほど感動して。家に帰ってそのことを話したら、兄貴の奥さんが「八王子にも車人形という人形芝居がある」って言うんで、その足で八王子車人形の師匠の家に行って、弟子にしてくださいってお願いしたんです。そしたらいきなりだったんだけど弟子入りを許可してくれて。すごくうれしかったですね。

 車人形の黒子としての修行はおもしろくて、それ以来放浪はしなくなりました。一座の地方巡業に動向して、太鼓を叩いたり、師匠がもつ人形の足をもったりするのは楽しかったですね。あまりにハマったので、大学卒業後も就職はしないでこのまま車人形をやりながらアルバイトで生活して行こうと思ってました。実家だったから月3万円あれば十分ですからね。

このまま車人形の世界で生きていくのも悪くない──そう思っていた石川氏だったが、あるとき、「八王子車人形」一座が海外で公演することになった。この一件がそれまで考えたことすらなかったアニメーションの世界へ入るきっかけとなった。

アニメーションの世界へ迷い込む
 

 「八王子車人形」一座の海外公演が決定したときに、僕はまだ新人だったから一緒に連れて行ってもらえなかったんです。だから留守番している間にアルバイトをしようと思って「アルバイトニュース」を見てたときに、ある求人に目が留まりました。それが「タツノコ・プロダクション」だったんです。

 最初はアニメーション、しかも僕が子供のころ見てたアニメ番組を作ってた会社だなんて全く知らなかった。社名に「プロダクション」とついてるから演劇関係だろうなんて勝手に思って応募したんです。だからアニメ業界には「迷い込んだ」って感じなんですよね。

 応募したら「制作進行」として採用されました。アニメーションは完成するまでに作画、撮影、現像、編集などのいくつもの工程に分かれているんですが、それぞれのフェーズでそれぞれの担当者に締め切りまでに仕事を上げてもらって、最終的に作品を納期に間に合わせるように全体を管理する仕事でした。

 制作進行はアニメ業界の中でも末端の仕事で、各方面から板ばさみにあってたいへんな仕事だって言われていますが、僕はそれをたいへんだとかイヤだとかはあまり思いませんでした。逆にそこを何とかして、現場の人たちに気持ちよく仕事をしてもらうことにやりがいやおもしろみを感じていました。

アニメの制作会社とは知らずにアルバイトとして入社した石川氏だったが、制作進行という仕事にハマったことで車人形から足が遠のき、ついには一座を破門されてしまう。これでいよいよアニメの道一本でいくのかと思いきや、アニメシリーズが1本終わったところで退職、またしても海外放浪へと旅立ってしまう。

再びの海外放浪の後、
偶然の出会いでタツノコへ復帰
 

 制作進行の仕事がイヤになって辞めたわけではもちろんなくて、ただ今しかできないことをやろうと思っただけです。それが海外放浪だった。学生時代の放浪では、まだ納得できていない部分があったのかもしれないですね。

 10カ月かけてパキスタン、アフリカ、ソ連、ギリシャ、イスラエル、エジプト、中国などを回りました。帰国してからもタツノコに戻るつもりは全然なかったんですが、ある日、国分寺の駅前をぶらぶらしていたらタツノコ時代にお世話になった監督を見かけたので懐かしくなって声をかけたんです。そしたら向こうもびっくりしたんですが、「これからまたテレビアニメシリーズを作ることになったから、手伝ってくれ」って言われたんです。元々嫌いで辞めたわけじゃなかったし、この先の仕事も決めてなかったので了承しました。もしこのとき監督に偶然会っていなかったら、アニメ業界へは戻らなかったでしょうね。

 

監督の誘いを受けた石川氏は今度は正社員としてタツノコに復帰。制作進行からの再スタートとなったが、3カ月後には制作デスク、3年後にはプロデューサーと順調に昇進した。しかし石川氏はまたしてもタツノコを辞める決意をする。今度はアニメーション業界から完全に去るつもりだった──。

次回はタツノコに辞表を出した理由、そしてプロダクションI.G誕生秘話を語っていただきます! 乞うご期待!


 
2007.8.20リリース 1.普通が夢だった少年時代
2007.8.27リリース 2.悔しさから独立 世界のI.Gが産声を上げた
2007.9.3リリース 3.下請けからの脱皮を決意 アニメビジネスを変えた
2007.9.10リリース 4.経営者、プロデューサーとしての仕事の醍醐味
2007.9.17リリース 5.夢は他人のため 目標は自分のため

プロフィール

いしかわ・みつひさ

1958年東京都生まれ。アニメーション制作会社「タツノコ・プロダクション」で制作進行、プロデューサーを経て、1987年、フリープロデューサーとして独立。同年末、アニメーション制作会社・有限会社「アイジー・タツノコ」を設立、代表取締役社長に就任。2007年の今年で創立20周年を迎える。

『機動警察パトレイバー』シリーズなどで着実に業界内外での足場を固めつつ、1993年社名を「プロダクション・アイジー」に変更。

以降、いち制作プロダクションとしては異例の作品への出資や、ファイナンス会社の設立、海外法人の設立、ハリウッドのメジャー映画会社との直接交渉など、業界の常識を打ち破る方策を次々と実施。下請けから元請、出資者側へとステップアップを果たすだけではなく、アニメーションビジネスのスキームそのものを変える。

制作会社としても『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』や『イノセンス』などハイクオリティな作品を次々とリリース、世界中から高い評価を得、世界的認知度が高い企業に成長させた。

2004年には「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー」の日本代表に選出されるほか、東京大学の特任教授に就任。2005年にはジャスダックに上場を果たす。

2008年には押井守監督最新作『スカイ・クロラ』の公開が予定されている

【関係リンク】

■プロダクションI.G
■石川社長メッセージ
■石川光久の「だから、なんなんだ!? ええじゃないか!!」
■『スカイ・クロラ』

 
押井守監督の最新作『スカイ・クロラThe Sky Crawlers』2008年公開決定!
 
『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』
クリックで拡大

プロダクションI.Gの石川社長が「新生I.G元年の作品」と位置付け、世界の押井守監督が「今を生きる若い人たちに向けて、伝えたいことがある」という真摯な思いから製作スタートした作品。2008年公開予定。お見逃しなく!

『スカイ・クロラ
The Sky Crawlers』公式サイト

日本テレビ、プロダクション I.G 提携作品
2008年公開決定
原作:森 博嗣「スカイ・クロラ」シリーズ (中央公論新社刊)
監督:押井 守
脚本:伊藤ちひろ
音楽:川井憲次
制作:プロダクション I.G
配給:ワーナー・ブラザース映画
森 博嗣/「スカイ・クロラ」製作委員会

 
 
おすすめ!
 
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日経BPのWebサイト上で「アニメビジネスを変えた男」と題して連載されていた石川社長インタビューシリーズに大幅加筆されて出版された一冊。石川氏本人に加え押井守監督や周辺人物の取材により、石川氏の人となりが多方面から丹念に描かれている。

 
 
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