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第23回
山岸一雄氏インタビュー(その4/全4回

山岸一雄氏

最後は手のしびれで引退を決意
満身創痍だが後悔は微塵もない
今後も自分の味を守り続ける

東池袋大勝軒・初代店主山岸 一雄

ラーメンの世界に入って五十数年。まともに歩けなくなっても、最愛の妻を失ってもなおかつ前に進み続けた山岸氏。60を過ぎるころには足だけではなく体中がボロボロになっていたがしかし、その後も70まで厨房に立ち続けた。そこまで山岸氏を駆り立てたものは何だったのか? 今回は山岸氏にとってラーメンを作るということは、そして働くということはどういうことかを語っていただいた。

やまぎし・かずお

1934年長野生まれ。東池袋大勝軒初代店主 1961年に独立して東池袋に「大勝軒」をオープン。以来、ラーメンの味と量、そして山岸氏の人柄を慕う大勢の客で常に行列の絶えない店となる。行列の元祖、「つけ麺(もりそば)」の元祖としてもつとに有名。
下肢静脈瘤、肺気腫などの病気や愛妻の死を乗り越え、40年以上店主として厨房に立ち続けた。2007年3月20日、東池袋の再開発により惜しまれながら閉店。閉店を発表後は連日全国各地から大勢の客が殺到。最終日には数百メートルの行列になるなどの賑わいを見せ、その模様は国内外の新聞、雑誌、テレビなどのメディアで報道された。大勝軒ののれんを分けた店は全国に100店以上ともいわれる。 現在は病気の療養をしつつ、近日開店予定の東池袋大勝軒の準備にも関わっている。

一人前になったと思ったことはない

一人前になったと思ったこと? 17のころからラーメンを作り始めて引退するまで、ついぞ一人前になったと思ったことはなかったね。ラーメンつくりにおいて、「これでいい」なんてのはないんだよ。そういう信念でずっとやってたから。

俺の中に理想のスープ像があるんだよ。味がしっかりしてるんだけど、濁ってなくて透明度があるスープ。おいしくて色があっても澄んでいるってのが理想。だからずーっと自分の味を追求してた。理想のスープに近づけるために、よりおいしいものをつくるにはどうすればいいか、常に試行錯誤してた。自分で食べて満足できない味では嫌なんだよ。でもやっぱり気に入らない部分が出てくるわけ。たえず自分で味を見てるから。だから釜前は絶対離れなかった。結局全部自分でやらなきゃ気が済まなかったんだな。

スープは、基本的には豚ガラ、鶏ガラ、野菜、魚をいかにバランスよく組み合わせるかなんだけど、途中からスープを作るのに豚の挽き肉を入れたりしてたね。味をしっかりさせるにはやっぱり肉系が必要だから。短い時間で最高の味が出るのは挽き肉しかないんだよ。

でも挽き肉は他の素材に比べて高かった。かといってラーメンの値段を上げるわけにもいかないしね。でもウチは子供ができなかったから、学費とか養育費がいらなかった。だからいくら自分の好みのスープを作るためにお金を費やしても苦にならなかったわけ。試せるものはすべて試した。たとえ使えそうもないと思ってもね。

豚も鶏も生き物だからね。すべてそうでしょ? 野菜にしたって肉にしたってガラにしたってみんな生き物だから。我々はそれを使わせてもらって、おいしく食べて生きていられるんだから。一つひとつの素材すべてを徹底的に使いこなせるっていうことが大事なんだ。多少金がかかってもいろんな味のものを使い切ってみせるぞという気持ちが自分にはあったから。

具材や麺にもこだわったよ。チャーシューはひげたの薄口しょうゆできちっと1時間半煮る。そして肉汁の入ったしょうゆに濃い口と薄口を混ぜて、3つのブレンドでひとつのチャーシューを作るわけ。そのしょうゆだけでも肉汁がたっぷり入ってうまい。チャーシューもしょうゆのうまさを吸い込んで、さらに薄口で煮るから肉本来の美しさが出るんだよ。

麺は伸びてもうまいものにしようと考えながら打ってきた。実際、お客さんからは伸びてもうまいってよく言われたね。うまいスープを吸った麺をごはんといっしょに食べるのは応えられないってね(笑)。

味は計算してできるものじゃない

でも俺がラーメンつくりに金をかけすぎることに対して、女房は反対してたんだけどね。今のまま普通に作っててもお客さんがおいしいって喜んでくれるんだから、それ以上のことをしなくてもいいじゃないかとか、こんなんじゃ店をやってけないってよく文句を言われてた。でも俺はいろいろと試してみて味を比べたいんだって強引にやってたんだ。

本当は原価率とかの計算も必要なんだけど、やっぱり味ってのは計算してできるもんじゃないんだよ。あんまり儲けばっかりに走ってたら、どこにでもあるような味しかできあがらないよ。そこに行かなきゃ食えない、そこだけの味ってのは、やっぱりそれなりにお金をかけたり、創意工夫などの作り手の努力があってこそなんだよ。

味・質・量にこだわり、足を痛めても妻を亡くしてもただひたすらに理想のラーメンを追求してきた。しかしその代償は大きかった。山岸氏の体はボロボロになっていた。

満身創痍

40歳のときに静脈瘤の手術をしても、その後いい状態だったのは5年くらいで、それ以降は手術前と同じような状態だった。立ちっぱなしの仕事は変わらないからね。64歳のころ(1998年)には膝まで悪くしちゃってほとんど歩けない状態になっちゃった。

それでも厨房に立ち続けていたんだけど、いよいよ立ってすらいられなくなっちゃって2005年の1月に膝を手術することになった。膝の関節がすり減っちゃって立ったり歩いたりできなくなっちゃったから、膝の関節を金属のものに交換しなくちゃならないってことになってね。

でもそのときの検査で、他にもいろいろ悪いところが見つかった。無呼吸症候群で、呼吸器が悪くなってることが分かった。肺気腫も見つかってね。あとは内臓もかなり痛んでた。医者に「あと10日遅ければ死んでましたよ」って言われたよ。要するに長年、厨房に立ち続けたせいで、体のあちこちがいたんじゃってたってことだね。

写真:膝の手術痕。60針も縫った

そんな状態では膝の手術なんてできないって、入院は中止になってね。そのかわり静脈瘤を徹底的に治療しましょうってことになった。オリーブオイルや薬用石鹸で洗って薬を塗ったりしてたら、30年も悪かったのがわずか1カ月半で治っちゃった。治療がよかったこともあるけど、いかにラーメン屋の仕事が俺の足に悪かったかってこともわかったよね。もちろんラーメン屋をやってるみんながみんな、俺のように足が悪くなるわけじゃないんだけどね。

膝の手術は検査から半年後の7月にようやくできた。そのときも中にはやっぱり危険だからと反対する医者もいたんだけどね。1カ月とちょっと入院したんだけど、退院してからは以前のようには仕事ができなくなっちゃった。

写真:右手の指は長年の麺上げにより第一間接から曲がったまま固まり真っ直ぐに伸ばせない

そのころには手もあまり動かなくなったり、指が麻痺して感覚がなくなってきたりしてきてね。感覚がないからお札も勘定できない。厚みがわからないんだから。たとえば一万円札が6枚あっても2万にしか感じない。だからお札を何枚も払わなきゃならないときには、先に相手にお札を渡して、勘定しておつりを戻してくれってやってたよ(笑)。この手の症状の原因は医者に聞いてもわからないんだよ。

引退を決めた瞬間

引退を決めたのもこの手のせい。退院した2カ月後の2005年の10月ころ、店に出て30〜40回ほど麺上げしたんだけど、手に異常を感じたんだ。お湯が異常に熱く感じたんだよ。麺にも触れないくらい。手の感覚がおかしくなっちゃった。だから気持ちよく上げられないんだよ。

そのとき俺はもう終わったなと思った。これじゃ自分の満足できる仕事はできない、今までのようにラーメンが作れない、それならばもうラーメンからは手を引こうって思ったんだよ。そりゃつらかったさ。つらいけどしょうがない。もう自分でダメだって思ったんだから。

その日はそのまま黙って家に帰ったんだ。その後もずっと店には出なかった。従業員には何も言わなかったよ。未練たらしくっていうのは一切なし。俺がごちゃごちゃ言わなくてもみんなが大勝軒の味を守ってくれればいい。これまで任せてきたんだから。信頼だよ。

いきさつとか理由は後でわかればいいことだから。どちらにしても迷惑はかかることになるんだから、俺が少しでも早く手を引けば弟子はその分だけ早く自立できるわけでしょ。無言の伝授だよね。やって当たり前のことなんだからさ。

山岸氏の事実上の引退から約2年後、店自体も東池袋の再開発で取り壊しが決定。閉店の発表からは連日、全国各地から大勢の客が押し寄せ、長蛇の列を作った。最後の最後まで伝説を作った東池袋大勝軒。それはマスター・山岸氏の命をかけた戦いの日々の終焉でもあった。

自分で選んだ道だから

55年のラーメン人生を振り返ってみれば、よかったのは始めの20年くらいだけで、そこから後は最悪の状態だったね。静脈瘤でまともに厨房に立てなくなったときは、この仕事は自分の体に合わなかったなと思ったよ。女房に死なれたことで老後の唯一の夢がなくなっちゃったし。最近は心臓も悪くなってね。こないだは急に苦しくなって救急車で運ばれたんだよ。

こんなに体をボロボロにするまでやらなくてもよかったんじゃないか? いや、それはもう自分の人生だから。ラーメン屋を選んだのは自分だしね。選んだ以上は一生懸命、体張ってやるのは当然でしょ。どんなにつらくてもこれだけは自分の人生だから。

お客さんあっての仕事だからね。大事なお客さんのためだったら犠牲にもなるよっていう気持ちで仕事をしてたから、少々足を痛めても体を壊しても、簡単に店を休んだり畳んだりといった自分勝手なことはできなかった。

だから確かに体はボロボロだけど後悔なんてしてないよ。むしろ自分の体なんていらないと思うんだよね。死んだらすべて無だから。動物でも人間でも同じ。死んだら土に還るでしょ? 人間も同じだよ。ついこの間まで人間だって土葬だったんだから。土に還ったらいろんな欲もすべていらなくなるわけだよ。俺は小さいころから人間は死んだら土に還って無になるというのを実際に見てたから、理屈ぬきにそう思うのかもしれないけどね。だから生きてる間にできることはやる。それが自然。損だの得だのということは考えない。

ラーメンは人生そのもの

取 俺にとってラーメンは自分の人生を築き上げたもの。ラーメンを作るという仕事は俺の生きるすべてだった。生きがいというよりも、人生そのものずばり。仕事であり遊びであり楽しみ。生活のすべてだった。

写真:取材場所のエアライズタワーにて。山岸氏を支え続ける山岸大勝軒・二代目店主(現南池袋店店長)の飯野敏彦氏と

仕事をしてれば安心で幸せだったから。人ってみんなそうじゃないかな。余計なことを考えるからダメなんだよ。仕事のことだけ考えてればいい。だって自分の仕事だもん。

早朝から深夜までラーメン漬けだったけど全然苦にならなかったから。何かを思いついたら夜中でも起きてやりたいことをやっちゃう。人間3時間寝れば大丈夫だと思ってたからね。

休みの日も朝4時から自転車で上野公園に行って、そこで少し休んで、その後かっぱ橋に行って必要な物を買い込んで自転車で池袋に帰ってた。よく女房にいつ寝ていつ起きるのかわかんないって言われてたよ。

写真:山岸氏がこれまでのラーメン人生で得たものから紡ぎだしたオリジナルの言葉「麺絆 心の味」。色紙を請われた際にはこの言葉をよく書くという

ラーメンつくりで一番大事にしてきたものは、お客さんに喜んでもらおうという気持ちだよ。商売をやってる人は誰でもそうだと思うけどね。自分が作るものには全力をかける。少々金がかかっても女房とケンカしても自分のこだわりをしっかりと通す。それが俺の生き方だったからね。

だから仕事は自分のためにするという意識はあんまりなかったな。これまでそんな気持ちで店を続けてきて、お客さんにも信頼されて。そういう気持ちはちゃんと返ってくるもんなんだよ。そういう出会いとかつながりとか思い出、そういうものを大事にしてきた。俺の人生はそれだけだよ。

最後はもっと静かに騒がれずに終わりたいと思ってたんだけどね。俺はおとなしい人間なんだからああいう騒動は好まないんだよ。でも全部反対になっちゃうんだよな(笑)。

ラーメンを作る仕事を天職だと思うか? それはわかんない。でもね、努力はした。自分の味の確立のために頑張った。でも天職を全うしたとは言い切れないな。まだやり残してる部分があるから。

東池袋大勝軒、復活

これから、東池袋近辺だけど前の店とは別の場所に大勝軒・東池袋本店として店を出す予定です。店長は俺の後継者の飯野(現南池袋店店長)にやってもらうんだけど、俺は後見人として、味をチェックするつもり。お客さんになつかしい味だなって言ってもらえるようにね。これができれば一番いいかなと思ってる。

写真:後継者の飯野氏と

また、ウチから独立した若い衆の店を回って励ましてやりたい。何しろ札幌、新潟、名古屋、大阪、沖縄、ほんとに全国に散らばってるから。ひとりでは動けず、付き添いがいるからたいへんなんだけどね。

写真:沖縄大勝軒を訪問した際の写真。後継者の飯野氏と(写真提供:山岸大勝軒)

去年沖縄の店に行ったら、東京の店の店長に「なんでウチに来ないでいきなり沖縄に行くんですか」って怒られちゃってね。だから近場から回らないと(笑)。それがすごく楽しみなんだ。

ラーメン作りは人生そのもの 生きている間はできることを精一杯やる

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