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第23回
山岸一雄氏インタビュー(その3/全4回

山岸一雄氏

最愛の妻の死
絶望と孤独に耐えたつらい日々
再出発の日、無言でも大行列

東池袋大勝軒・初代店主山岸 一雄

足の手術以降も妻のサポートや客の協力もあり、店は常に客で賑わった。しかし退院から12年後、さらなる悲劇が山岸氏を襲う。共に人生を懸けて店の暖簾を守り続けてきた最愛の人の死。今度ばかりは絶望のどん底に叩き落されたが、それでも山岸氏の心は完全に折れることはなかった。

やまぎし・かずお

1934年長野生まれ。東池袋大勝軒初代店主 1961年に独立して東池袋に「大勝軒」をオープン。以来、ラーメンの味と量、そして山岸氏の人柄を慕う大勢の客で常に行列の絶えない店となる。行列の元祖、「つけ麺(もりそば)」の元祖としてもつとに有名。
下肢静脈瘤、肺気腫などの病気や愛妻の死を乗り越え、40年以上店主として厨房に立ち続けた。2007年3月20日、東池袋の再開発により惜しまれながら閉店。閉店を発表後は連日全国各地から大勢の客が殺到。最終日には数百メートルの行列になるなどの賑わいを見せ、その模様は国内外の新聞、雑誌、テレビなどのメディアで報道された。大勝軒ののれんを分けた店は全国に100店以上ともいわれる。 現在は病気の療養をしつつ、近日開店予定の東池袋大勝軒の準備にも関わっている。

原因不明の痛み

昭和61年(1986年)の7月ころ、女房が首が痛いと言い出してね。最初は疲労かと思っていろんな病院に行ったんだけど原因がわからなくて。治療も受けたんだけど一向によくならなかった。そのうちどんどん具合が悪くなっていって。

何軒目かの病院で検査したらその翌日に入院することになってね。そこで治療や検査を受けてたんだけど、2週間くらい経ったときに担当の医者に白血病かも知れないって言われてね。それで血液の権威の先生がいる世田谷の病院を紹介されて転院することになったんだ。

その病院で検査をする際に胃カメラの故障で「今日は検査ができないから明日にしましょう」と医者に言われたとき、女房は「そんなに待てません。今日のうちに(胃カメラを)修理して、今日のうちに検査してください」って言ったんだよ。

医者はびっくりしてね。「普通の人はそんなこと言わない、むしろほっとする。そんな気丈な人はいない」って言ってた。

末期がんと判明

検査結果は胃がんだった。しかも末期。元々は胃の裏、背骨と接するところにがんができてて、それが脊髄に転移してた。最初は小指の先くらいの大きさだったらしいんだけど、転移するのが早くて。それまでにいろいろ病院を回ったときにレントゲンも撮ってるし胃カメラも飲んでるんだけど、発見できなかった。もう発見できたときには手遅れだった。医者にはあと1カ月の命って言われてね。

入院後、女房は毎日痛がってたんだけど、9月28日にものすごく痛がって、もうダメだっていうのがわかった。だから先生がモルヒネをもってきた。それを受け取って女房に飲ませてね。モルヒネって医者じゃなくて家族が飲ませるんだよ。そうしたら痛みはウソのように消えてね。でも女房がおかしいって言い出した。あんなに痛かったのにおかしいと。女房にはがんだと告知してなかったからね。その後1日か2日で耳が聞こえなくなってね。毛も抜けたりして、急変したんだ。

9月30日にこれからたいへんになるだろうからって医者に言われてナースセンターの隣の病室に移ることになった。もう女房は耳も聞こえないし声も出せなくなってたから、話は筆談でやってた。そばにいたんだけど、12時ころに急変したんだ。

医者は心臓マッサージとかいろいろやってくれた。俺は女房の両方の耳の穴に指をずっと入れてた。俺がそばにいることを感覚として少しでもわかってほしいと思ってね。2時半ころまで頑張ったのかな。でも結局しょうがないんだと思って医者に、「もういいです」って言ったんだ。

結局、世田谷の病院に入院してから1カ月ほどで亡くなった。52歳だった。

最期は別れの言葉なんてかけられなかった。でも、そんなのはいらないと思うよ。言葉はなかったけど、女房だってわかってたと思うよ。夫婦なんてそんなもんだと思う。

ずっとつらい闘病生活だったから、女房もようやく楽になったなと思ったね。死んだら無の世界だから。苦痛も何も感じないからね。生きてくことの方がどんなに難しいか……。

最高の女房だった。とにかく笑顔が最高だった。お客さんにも愛されてた。当時の若いお客さんたちはみんな女房に会いに店に来てたからね。女房が死んだときはみんな店に来て泣いてたよ。俺たちの青春だったって。中には香典を5万も包んでくれた人もいたよ。当時の5万って大金だからね。

二人三脚で大勝軒の暖簾を守ってきた妻が亡くなってから、山岸氏の生活は一変した。あれだけ心血を注いできたラーメンすらも作る気になれなかった。絶望だけが山岸氏の心を支配した。

絶望の日々

女房の死はすごくショックだった。でもこうやって口でショックと言っても、そのショックの本質は誰にもわからないだろうね。それは俺にしかわからない。

もう何をする気も起きなかった。ラーメンどころか、何に対しても興味が沸かないんだよ。これまでやる気が失せちゃったことは1回もなかったんだけど、今回ばかりはどうしようもなかった。

女房が死んだことで、たったひとつの夢もなくなっちゃったからね。俺たちには子供ができなかったから、老後は夫婦ふたりで楽しく暮らすことだけを楽しみに、板橋に家を買ってたんだよ。俺は音楽、特にジャズが好きだったから、その家にオーディオルームを作ってね。そこで女房とコーヒーを飲みながらジャズを聞くのが楽しみだったの。

でも女房が死んでからは、その家にも全然行けなくなっちゃった。思い出が詰まった家にいるのがつらくてね。もう十数年行ってない。今は妹の子供たちが住んでるけどね。

音楽も聞きたくなくなっちゃった。聞こうとしてもすぐ途中で止めちゃう。つらくて聞いていられないんだよ。

思い出深い場所にも行けなくなってね。うちは猫を飼ってたから、よく女房と一緒に浅草や上野に行ってたの。アメ横で魚を買って家に帰ってアラをとって猫のエサを作る。それをふたりでやるのがほんとに楽しみだったの。

ひとりで浅草に行ったときはつらかったね。急に動悸が激しくなって胸が苦しくなっちゃった。急いで薬局に飛び込んで薬を買って飲んでね。薬局の人に、帰ったほうがいいですよって言われて帰ったこともあった。そのとき、ああもうだめなんだなと思った。女房との懐かしい思い出がある場所へは行けなくなっちゃった。

だから一日中家の中に引きこもってる日が多かったね。食事も妹が作ってもってきてくれたりしてた。このまま店をたたもうかと思ったこともあったよ。

しばらく絶望のどん底をさまよっていた山岸氏だが、時が経つにつれて傷も癒え再び立ち上がる勇気が沸いてきた。その一助となったのが大勝軒を愛する人びとからのメッセージだった。

7カ月後に復活

女房が入院した8月から、店の戸に「しばらく休業します」って書いた紙を貼って店を閉めてたんだけど、あるとき、その貼り紙にメッセージが書かれているのに気付いた。「大阪から来た」とか「いつ再開するんですか」とか「またおいしいラーメンを食べさせてください」とか、びっしり39個書かれてあってね。

そういうこともあって段々、店を再開する気持ちになってきた。待っててくれる人がいるのに、こんなことしてらんない、いつまでも女房の死にこだわって立ち直れないのはダメだ、52歳であきらめてしまうのは早過ぎると思うようになってきたんだ。

でも一番効いたのはやっぱり時間ですよ。一番苦しいときに何かをしようって無理に急いでやる必要はない。何も考えずに何もしないで、そのときがくれば動けばいい。そういう何もしない時間は必要だね。

店を再開すると決めても大きな問題があった。片腕となって働いてくれていた妻はもういない。そこで以前から弟子入りを志願していた人に連絡すると快諾。再開の日、店の前には驚くべき光景が広がっていた。

告知なしで再び行列

女房が死ぬ前から弟子入り志願者は多かったんだけど、どんなに忙しくてもつらくても、他人を雇えなかった。女房が嫌がったから。他人を雇うと気を遣って、どうしても自分が無理しちゃうからと。

でも今考えれば、そんなことは気にしないで他人を雇ってある程度仕事を任せて、自分たちは休めばよかったかもしれない。そうすれば俺もこんなに足を悪くすることもなかったし、女房だって死なずにすんだかもしれない。でもそのときはできなかったんだよ。

店を再開する準備が整って、事前にいつ再開するとも告知しなかったんだけど、開店前にはまた行列ができちゃった。チャーシューやスープのにおいでみんなわかったんじゃないの?(笑) 最初は体を慣らさなきゃならないからぼちぼちやろうかなと思ってたんだけど、休業前と変わらない状況で始まったわけ。お客さんってのはありがたいね。たいへんでしたねっていうねぎらいの言葉もたくさんいただいてね。そうやって馴染みのお客さんと話をしてくうちにまたいっそうやる気が出てきたんだよ。

店を再開してからも行列は絶えることがなかった。特にマスコミに紹介されるようになると、全国から客が殺到。行列はどんどん長くなっていった。その中には客だけではなく、ラーメンのつくり方を教えてほしいという人も押し寄せた。山岸氏はそんな人たちも邪険に扱わず、レシピをすべて隠さず教えた。そこには山岸氏のある思いがあった。

惜しまず教える

以前からマスコミの取材依頼はあったんだけど、女房が断ってた。これ以上お客さんに来てもらっても困るってね。でも俺はどうしても取材させてくれって言われたら断れないんだよ。それで女房が死んだ後、取材を受けるようになると、やっぱり全国からお客さんが来るようになってますます忙しくなった。でもお客さんだけじゃなくて、ラーメン屋をやりたいからラーメンの作り方を教えてくれっていう人も押し寄せるようになっちゃった。そういう人たちが常時店の中に10人以上並んでラーメンの作り方を見てた時期もあったな。それを見たお客さんで「お客は外に並ばせといて従業員は中かよ」って文句を言う人もいたね。従業員じゃないんだけどね(笑)。

中には電話だけで教えた人もいたよ。ラーメン屋をやりたいっていう青森の人で「テレビで見たんだけどラーメンの作り方を詳しく教えてほしい」って連絡がきてね。夜になると「どうしたらいいですか?」って問い合わせの電話がかかってきてた。教えると喜んでたね。あとは雑誌にもレシピを公開したこともあった(注)けどね。

せっかく苦労して築き上げたラーメン作りのノウハウをただで大勢の人に教えたら損じゃないかって? いやいや。そういう思いはこれっぽっちもなかったね。ウチには企業秘密なんてものはないから。そのときは俺の味を継いでくれる人間がひとりでも多く、全国に散らばってもらえればいいという思いだけ。だからみんなにレシピを全部隠さず教えたわけ。

どうせやるなら、食いにきたお客さんがうまいってうなるようなラーメンを作れよと。おまえらもこのくらいの味は作ってみろという気持ちで教えてたね。

だから今、俺の弟子は全国に100人以上いるんだよ。みんな俺の子供みたいなもんだよ(笑)。

注──平成2年、雑誌『DANCHU』に完全レシピが掲載された。宇都宮の「バカうまラーメン花の季」など、この記事が元で生まれたラーメン店も多い。

体がボロボロになっても、最愛の妻を失ってもなおかつ前に進み続けた山岸氏。 次回はそんな山岸氏が引退を決意した本当の理由、そして山岸氏にとってラーメンとは何か、仕事とは、働くということは─。

俺の味を継いでくれるなら、すべて教えてもまったく惜しくなかった

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