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第23回
山岸一雄氏インタビュー(その2/全4回

山岸一雄氏

27歳で独立、初の行列店に
しかし激痛に悩まされる日々
それでも厨房に立ち続けた

東池袋大勝軒・初代店主山岸 一雄

つけ麺の元祖、新メニューのもりそばもヒットし、山岸氏が店長を務める大勝軒・中野店は繁盛した。そしてついに店長になって7年目の昭和36年(1961年)、27歳で独立、自分の店を東池袋に出す。前年に結婚した妻と山岸氏の妹の3人、身内だけでスタートした。それが伝説のラーメン屋・東池袋大勝軒の始まりだった。

やまぎし・かずお

1934年長野生まれ。東池袋大勝軒初代店主 1961年に独立して東池袋に「大勝軒」をオープン。以来、ラーメンの味と量、そして山岸氏の人柄を慕う大勢の客で常に行列の絶えない店となる。行列の元祖、「つけ麺(もりそば)」の元祖としてもつとに有名。
下肢静脈瘤、肺気腫などの病気や愛妻の死を乗り越え、40年以上店主として厨房に立ち続けた。2007年3月20日、東池袋の再開発により惜しまれながら閉店。閉店を発表後は連日全国各地から大勢の客が殺到。最終日には数百メートルの行列になるなどの賑わいを見せ、その模様は国内外の新聞、雑誌、テレビなどのメディアで報道された。大勝軒ののれんを分けた店は全国に100店以上ともいわれる。 現在は病気の療養をしつつ、近日開店予定の東池袋大勝軒の準備にも関わっている。

伝説の始まり

当時の東池袋にはもちろんサンシャインもないし、ビル群もないし、首都高も走ってないし、ほんとに何にもないさびしい場所だったんだよ。

写真:昭和36年当時の東池袋本店 ほとんど高い建物がない(写真提供:山岸大勝軒)

だから周囲の人はなにもそんなさびしい場所に店を開かなくてもって反対したんだけど、でも物件を見て気に入っちゃったんだよ。新築だったり、池袋駅と住宅街を結ぶ通り道上にあったり、いろいろ理由はあるんだけど、番地が4−28−3でね。俺の誕生日が4月28日だから縁があるのかななんて思ってね(笑)。

独立に関しては不安もあったけど、なんとかなるって思ってたね。中野の店長時代を通してある程度自信はついてたからね。

独立してからもスープの味には徹底的にこだわったね。兄貴から教えてもらった味を忠実に守ろうとしてた。その味は、鶏がらや魚や野菜などの素材をよく煮込んでダシやうまみをしっかりとった、濃くてこってりした味。それを基本にして、さらに自分なりに工夫してね。それと手打ちで作った自家製の太麺、これにこだわった。この味を受け継いでずーっと守り通したのは俺だけなんだよ。

写真:創業当時の東池袋大勝軒と山岸氏(写真提供:山岸大勝軒)

兄貴自身ですらこの味を守れなかった。兄貴が店を出した代々木上原は高級住宅街で、あの辺に住んでた人は上品な味が好きだったから、スープがどぎついとか濃いって言われて受け入れられなかった。だから薄くあっさりした味に変えなきゃならなかったんだよ。兄貴はすごく残念がってたけどね。自分の味がうけなかったわけだからね。

味のほかにもこだわりがった。それは量。今も昔も大勝軒といえば量の多さで有名で、普通盛りの麺の量は260gもある。ちなみに一般的な店では160g程度。普通盛りの値段で大盛りの量。そこには山岸氏のこだわりと優しさがあった。

量も味のうち

そもそも俺自身がたくさん食うからね(笑)。お客さんにも俺の食う量を基準にして出してたってわけ。

写真:店頭にて。左から山岸氏、妹さん、奥様、妹さん(写真提供:山岸大勝軒)

「量も味のうち」っていうのが、俺のこだわりでもあってね。やっぱり自分が小さいころ貧しくてあまり満足にご飯が食べられなかったから、お客さんには安い値段で腹いっぱい食わせてあげたいという気持ちが強かったんだよな。特に地方から出てきてる若い人はみんな貧しかったからね。

あまりにもお金がないような人にはよくお代を負けたり、タダで食べさせてたよ。あのころは毎晩10人くらいはタダメシ食ってたな(笑)。正月の寒いときに、お金が全然ないから何か恵んでくれって来た人には少しだけどお金をあげたりしたこともあった。中にはウチのまかない料理を狙いに来るのもいてさ(笑)。まかないの時間を知ってて、その時間になると店に来るんだよ。女房はそういう人たちのために毎日多めにおかずを作って、気前よくあげてたね。

あと突然店に来た人を泊めたこともあったよ。常連客じゃなくて全然知らない女の人だったんだけど、なんか事件に巻き込まれたみたいでね。お金がないし家に帰れないっていうから店に寝床を作って泊めてあげたんだよ。起きたら店の鍵のことはいいから、好きなときに帰っていいって言ってね。すごく感謝されたね。長いことやってたらいろんなことがありますよ(笑)。

やっぱり俺も女房も貧しかったから、お金のないたいへんさはよくわかるからね。だからこそ自分たちは大きい気持ちでゆったりと人生を過ごしたい、お金なんてあってもなくてもいいという主義だった。ラーメンで金を儲けようなんて気はさらさらなかったからね。

写真:独立したてのころの大勝軒のメニュー。当時はラーメンのほかにもご飯ものなど多彩な品目があった

麺も自家製にこだわったのは、自分の手で納得のいく麺を作りたいっていう思いのほかに、少しでもラーメン代を安くしてあげたいという気持ちからでもあったんだよ。自分で製麺すればその分安くできるからね。

当時の常連客の中には、経団連会長の御手洗さん(注1)もいてね。当時はよく来てくれてて、店が暇なときは話をしたり腕相撲をやったりしてたんだよ。キヤノンの社長になって、すごく忙しくなってもたまにウチに寄ってラーメンを食べてくれたこともあったりね。そのときはもう御手洗さんも偉くなってたんだけど、久しぶりに会ってみると同級生みたいな感じだったね。年も1つ違いだしね。

写真:開店当初から雪の日でも大勝軒には行列ができていた

注1 御手洗さん──現キヤノン会長であり第2代日本経済団体連合会会長の御手洗冨士夫氏。山岸氏の著作『東池袋・大勝軒のオヤジさんが書いたこれが俺の味』の帯に推薦文を寄せている。

出店してまもなく、そのうまさと量の多さは口コミで広まり早くも行列ができるようになる。大勝軒といえば行列で有名だが、これが2007年の3月20日まで続いた行列の始まりであり、行列のできるラーメン屋の元祖である。しかしいいことばかりではなかった。年月とともにラーメンにすべてを懸けてきたツケが表面化してきたのだ。それはあまりにも大きい代償だった。

両足に痛み

独立したての27、8歳ころから両足に痛みを感じ始めてたんだけど、スープや麺上げは俺がやらないといけなかったから釜前を離れられなくてね。お客さんもどんどん増えてくるし、痛みをこらえながら仕事をし続けていたら、昼の1時くらいには立っていられないほどひどくなってきた。

そのうち2階までの階段すら上れなくなっちゃって。その当時は店の2階に寝床があったんだけど、営業が終わっても2階に上がれないから、1階で椅子を並べてその上に板とふとんを敷いて寝てたんだよ。

そりゃあ毎日痛かったよ。両足は長靴が入らないほどパンパンに腫れて、どす黒く変色してた。血がたまってたんだろうね、ぐじゅぐじゅになってた。周りの人は休んだ方がいいとか早く病院に行った方がいいとか言うんだけど、休んだらお客さんに迷惑がかかるし、自分の仕事だからとことんまでやらなきゃいけないと思ってしばらく頑張ってたんだ。手で体を支えないと動けなかったから、手の腹が足の裏のように硬くなってね。今でもそうだけど(笑)。

重度の静脈瘤

でもいよいよ40歳ころになると、痛みが限界に来て少しも立っていられなくなっちゃったから病院に行ったんだけど、原因がなかなかわからなかった。

何軒目かの病院でようやく下肢静脈瘤(注2)だって言われてね。潰瘍ができててひどい状態だから即入院となった。

まず手術前の検査がつらかった。造影剤を注射するために足の親指の先から針を入れるんだけど、注射の中でこれが一番痛いんだから。もう痛いなんてもんじゃなかった。思わず絶叫しちゃう。3人がかりで抑えないとできないくらい。中には失神する人がいるくらい痛いんだから。

しかも両足いっぺんには注射できなくて、片方ずつやらなきゃならない。やっとの思いで痛みに耐えたら、「もう片方をやりますから来週きてください」なんて言われて。このとんでもない痛みを、また来週味わわなきゃいけないのかよってがっくりしてね。俺は痛さには強かったから大丈夫だろうと思ってたけど、これだけはつらかったね。

手術も大手術でね。両足で13カ所切った。両足の静脈の弁が壊れて使い物にならなくなってから、踵からそけい部(足の付け根)までの血管を1本ずつ抜いてね。うどんみたいなのが出てきたらしいよ(笑)。

手術後のリハビリも大変だったよ。1歩前に歩けても、その1歩を戻すことができない。5メートル歩くのもたいへんだった。普通に歩けるようになるまで3カ月くらいかかったかな。

注2 静脈瘤──足は「第二の心臓」と言われているように、下方の血液を上方へ流すポンプの役目をしている。その際、逆流を防いでいるのが静脈の弁で、これが壊れることにより血が逆流し、下方に老廃物を含んだ汚れた血液が溜まる。その結果、静脈にこぶのような膨らみや、潰瘍ができたりする。主に立ち仕事に従事する人に多い病気。

東池袋大勝軒には暗黙のルールがあった。食べ終わった食器は自分で下げる・勘定の自己申告・飲み物の運搬などだ。そのルールは山岸氏が決めたものではない。お客が自主的に決めたルールだ。そもそもの発端は山岸氏のこの病気にあった。

お客がお客を教育する

退院後もまともに歩けないから、それまでやってた出前はやめた。でも交番のおまわりさんとか近所の会社の人などの常連客は「オヤジさんが出前できなくなったんなら俺たちが運ぶから」って取りに来てくれるようになったんだ。その後修行生も入れたんだけど、人が入ったんだから出前をやってくれなんていうお客さんはひとりもいなかったね。

大勝軒・東池袋本店を支えてきた常連によるファンクラブ「大勝軒友の会」のメンバー(写真提供:山岸大勝軒)

また、タクシーの運転手さんとか独立したころからいつも来てくれてた人たちが、俺の負担を少しでも減らそうと食べた食器を下げたり、飲み物を自分で運んでくれたり、勘定を自己申告でしてくれたりし始めたんだ。

さらに新しいお客さんに、オヤジさんは手術して大変なんだからって、みんな同じように自分でしろって教育しちゃった。そのうちそういうルールができ上がっちゃったから、教育係がいなくても初めて来た人も見よう見真似でやってくれるようになった。

ほんとにありがたいよね。ウチのお客さんはほんとにみんないい人ばっかり。勘定もみんな正直にお金を払ってくれたけど、中にはうっかり払わずに帰っちゃって、後で送り返してきた人もけっこういたよ。

妻がサポート

俺が足を悪くしてからは女房がかなり手伝ってくれてね。それまでは裏で仕込みを中心にやってもらってたんだけど、私も手伝うって言ってくれて。麺上げなんかを頑張って覚えて、立派にラーメンが作れるようになった。麺上げひとつとってもコツがあるからね。すぐにはできるもんじゃない。それを女房は頑張ってできるようになったからかなり助かったよ。

独立する前の年に結婚した女房とは、母親同士が姉妹のいとこでね。同い年で誕生日も1カ月しか違わなかった。俺が先に生まれて一雄って命名されたんだけど、その後に生まれた女房は一雄の「一」の次だから二三(ふみ)子って名前をつけられたんだよ(笑)。 そのくらい親同士が仲が良かった。

だから小さいころからよく遊んでたんだよ。そのころから大きくなったら一緒になるんだって騒いでたんだけど、それがそのまま大きくなったって感じなんだよ。だから結婚するのも自然なことだったんだよな

中野店の店長時代から一緒に働いてたんだけど、よく働くいい女房だった。でもよくケンカもしてたんだよ。俺が原価を無視してラーメンつくりに金をかけたりしてたら、そこまでやんなくてもいいでしょって、よく文句を言ってたよ。でも店の中ではお客さんがいるし、女がガーガー言ってたらみっともないから言うなと。気に入らなかったら、お客さんの見えないところで水をかけろといったら、本当に水をかけられたことがあったよ。どんぶりで前掛けのところにジャーってね(笑)。そのくらい気丈な女房だった。

その女房が急に首が痛いって言い出してね。昭和61年(1986年)の7月の半ばころだった……。

足の手術以降も妻の献身的なサポートもあり、ますます店は繁盛した。しかしさらなる悲劇が山岸氏を襲う。今度という今度はもうダメかと思った──。

ラーメンでカネを設けようなんて気はさらさらなかった

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