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魂の仕事人 魂の仕事人 第15回 其の一 photo
一代で世界トップクラスの「町工場」へ NASAやライカが舌を巻く ものづくりの極意とは?
 
あのNASAやライカが一目置く町工場がある。光学機器メーカー・三鷹光器株式会社。創業以来、人工衛星に搭載する観測機器や脳外科手術用の医療機器など、これまでだれも作れなかった精密機器を次々と製作。そのアイデアと高度な技術力で世界から数々の賞賛を浴びてきた。なぜ三鷹の小さな町工場から世界が驚く製品が生み出され続けているのか。三鷹光器の創始者であり会長の中村義一氏に、世界に通用するものづくりの秘訣について語っていただいた。
三鷹光器株式会社会長 中村義一
 

ものづくりの原点は幼い頃のいじめ

 
これまで三鷹光器の製品は数々の賞を受賞。事務所には国、県、各種研究機関からの表彰状や感謝状が壁一面に飾られている

 僕のものづくりの原点は、子供のころにあった「いじめ」。僕ら一家は周りから村八分にされてね、いじめられてたから、家の中で黙々とものづくりをやるしかなかったの。

 なんで村八分にされてたか。元々うちの親父は、昔、麻布の旧ソ連の大使館の隣にあった東京大学天文台(現・国立天文台)で働いてたんです。でも三鷹に移転計画がもちあがったときに、親父もその計画に組み込まれた。天文台の移転を成功させるために、一緒に三鷹に開拓に行けってことだね。

 でも、天文台を作るためにはかなりの広い土地が必要になる。当時の三鷹は一面畑で、その農家の人たちに「天文台を作るから立ち退いてください」って頼んで回るのが親父の役目だったわけ。

 だから成田空港問題と同じだよね。結果的には農地買収で三鷹に天文台を作ることに成功はしたけど、地元の人はみんな僕の親父に追い出されたとしか思ってないわけ。うちの親父は、東京大学に使われてる人間ですよ。だけど地元の人は「中村に追い出された」と。そういうふうに思われたんじゃ、その息子の僕なんて誰も遊んでくれないし、危害を加えられる恐れもあったから、危なくて外で遊べなかった。

 だから家の中で「いたずら」をするしかなかった。小さい頃からいろんな道具を使ってものを作ってました。金属のもので作るわけにいかないから、木の工作だよね。木の箱を作ったり、いろんな車や船を作ってみたり。そういうおもちゃを自分で作ってたの。なんせ周りにおもちゃ屋なんてないからね。自分が遊ぶおもちゃは自分で作るしかない。

 

 あとは、親父が勤めてた天文台がすぐ近くにあったから、山を突っ切っていって研究室でいたずらしてるか、どっちかだったね。研究室でいたずらしてもね、うちの親父たちが開拓やって天文台を作り上げたってことを教授たちは知ってるから、あまり怒られなかった。研究のジャマさえしなければ、研究室の隅っこでいたずらしてたってよかったわけ。いらない部品もいろいろ出てくるし、それがまたおもしろくてね。そういうことができたってことは、いちばんの幸せだろうね。今じゃとても考えられないことだけどね。

 そういう天文台のことは抜きにしても、今、子供が自由にいたずらできる環境が少なくなってるでしょ。そんなことするよりも、幼稚園のころから塾にいって一生懸命勉強、勉強じゃない? それはやっぱり間違ってると思うけどね。僕らの小さい時代には、異常な事件が起きなかったけど、今すごく世の中が乱れてるよね。だからね、勉強なんてほんとはしちゃいけないんですよ。

中学生になると太平洋戦争が激化、中村氏たち中学生も学徒動員で軍事工場などに駆り出されるようになる。しかし小さいころからものづくりに親しんできた中村氏は他の生徒とは一線を画す仕事を与えられる。そしてここでの経験がのちの一流の職人になる中村氏の礎となった。

学徒動員で飛行機つくり
 
75歳にして現役バリバリ。まるで少年のように目を輝かせながら自ら開発した機器について語る中村会長

 13歳から調布飛行場で飛行機の部品作りをやってました。最初は飛行機の羽つくりをやってた。兵隊さんの練習機、「赤とんぼ」っていう飛行機だったんだけど、上翼が木でできてるんですよ。金属貼りじゃなくて、布が貼ってあって。糊づけだったんだよね。だから万が一、糊がはがれたらたいへんなことになっちゃうから、糊がはがれても大丈夫なように、水糸で全部からめていくの。終わったら黄色く塗装してね。

 でもじきに、上官から胴体のほうへ行けって異動を命じられて、胴体作りを始めた。でもまたしばらくしてたらエンジンの方へ行けって言われて。エンジンの方がやってて楽しかったですね。金属が動くほうがおもしろいから。でもさすがに直接はいじらせてもらえなかった。飛行機が完成したら、パイロットに「完成したから実際に動かしてみてください」って頼みに行くわけ。それも僕の役目だった。

 でもだんだん、「おまえも一緒に飛行機に乗って調整をやれ」っていうことになって。しょうがないから道具箱持って飛行機に乗ってね。兵隊さんはパラシュートを持って乗るけど、僕はパラシュートなし(笑)。

 飛行中はキャブレターのニードルバルブの調整をしてました。パイロットがああしろ、こうしろって大声で怒鳴るもんで、たいへんだったよ。やっぱりね、実際に飛んでみないと細かな調整ってできないんだよね。冷たい風を切って、細工を変えてあげなきゃならないでしょ。兵隊がアクセルいっぱいに開けてるところに「もっと開けろ」って言われても、限界がある。それ以上ニードルバルブを開けてガスがもれちゃったらたいへんだからね。火がついたら、木製の飛行機だから燃えちゃう。兵隊はパラシュートで逃げられるけど、こっちは持ってないからね。そりゃ怖かったよ。もし故障して落っこちても僕は逃げられないからね(笑)。

 でもおもしろかったですよ。まあ当時13歳、怖いってことを知らないもんね。死ぬってこともよくわからないんだから。でも、普通の子供なら絶対に乗せてもらえない飛行機に乗せてもらえることがなによりうれしかった。

 そういうことができたのはクラスでも僕ひとりだけだったの。他の生徒たちはみんな飛行場でヘリの防空壕を作ってた。たぶん先生が、僕が小さい頃からものづくりが好きで工作時間とかにいいものを作ってたから、それを見てそちらに回したんじゃないかって思うけどね。ものづくりは小さい頃から毎日やってるんだもん。そりゃ得意だったよね。

 この飛行場で機械いじりというか、ものづくりの楽しさに目覚めたと思う。だから、小さいころ、友達がいなくて孤独だったけど、それが逆によかったのかなって今は思うよね。

16歳で家まで自作
 

 終戦後は15歳まで学校に通って、その後は近所の畑で農業をするようになりました。とにかく食べることに必死な時代だったから朝から晩まで働いたよ。僕は長男だったから、6人兄弟の面倒を見るのは僕の仕事だった。そういう時代だったんだ。

 16歳のときにはひとりで家を建てた。自分で家を建てようと思ったのは、それまで住んでた家が貸家で狭かったのとお金がなかったから。材料なんて、その辺からみんなかっぱらってくりゃあよかった(笑)。だって戦争に負けた後でね、材木が工場に山になってたんだから。処分するのに困ってるんだもん。だから使い放題ですよ。材木のいいのをひっぱりだしてきて、それで作ればよかった。

 設計図なんて書かなかったよ。行き当たりばったり。でも家を建てるまではいろんなハプニングがあってたいへんだった。

 まず届けからつまづいてね。役所に建築許可のお願いに行ったんだけど、認めてくれないんだもん、子供扱いして。それでもうしょうがないから、事務所の看板をみんな外に放り出してきた。廊下のロッカーもぱたぱた倒しちゃってね。どうしてかっていうと、とりあえず来たっていう証拠をつくるため。「僕は確かにお願いに来た」という証拠を作るために悪いことをしたってこと。

 で、帰ってもうしょうがないから家を建て始めた。なんせひとりだったからね。柱一本上げるにもたいへんだった。兄弟はまだ小さかったし、親は仕事があったから全然手伝ってくれないしね。でも滑車やロープなど、頭と道具を使って工夫するとなんとかなるもんなんだよ。

 でも建物の壁を作るための泥は作るわけにはいかないから、親父に小遣いもらって、家から10キロくらい離れたところの農家に行ってね。そこの田んぼの粘土を分けてもらって、リヤカーに積んで帰ってくるわけ。1日かかるんだよ、坂道だしね。壁泥もひとりで塗ってね。篠だけは天文台の山へ行って切って持ってきて、ナタで裂いて細かくして。縄できちんと網にして、それに壁泥を塗っていくわけですよ。

 そうやって作ってたら府中から3人の役人が来て、「おまえは建築届けも出さないで作るのか」って怒られちゃって。「いや、お願いに行ったんだけど全然認めてくれないから看板とロッカーを倒してきた」と説明したら、1人が、「あのときのあれは君がやったのか」って。だから、来たことは間違いないというのはわかってくれたわけです。じゃあもう一回、届けを出してくれないかって。それで建築を中断して、また届けにいった。それでようやくOKと言われて再開。完成に1年かかった。

 でも出来上がってからまたひともんちゃくあった。17坪の家を作ったんだけど、役所は9人家族は12坪までしか認められないと。せっかく作ったのに、壊せって言うんですよ。でも16歳の子供はそんなこと知らないじゃない。なんだ、苦労して作ったのに、壊せなんてひどいんじゃないかって。噛みついたり一生懸命お願いしたら、3人の中の1人が、「ぼうや、はしごをもってこい」と。家にはしごをかけてそこへ乗って、壊せって言われたら首を横に振れと。そしたら俺たち帰るからって言われて。役人としては壊せといったけど僕が聞かなかったという証拠を残しておきたかったんだろうね。

 で、「いくらで作った?」って聞かれたんだけど、値段なんてわからない。全部タダだから。そう言ったら「じゃあいいや、3万円でできたことにしよう」って(笑)。「これを東京電力に持って行きなさい」って言われてもらった書類で東京電力に電気工事をしてもらって、それでようやく生活ができるようになった。今と比べたら役人も人情があったというか、融通が利いたというかね(笑)。

ひとりで家を作ったこともすごいが、家はその後40年以上も壊れることなくもちこたえたことも驚異的だ。この家を作ったことで、またひとつ、ものづくりへの新しい道が開けた。

天文台に就職
 

 僕が家を作るのを見ていた近所の農家の人が、「あんたはものづくりをやったほうがいいよ」って言ってくれて。でもものづくりったって、当時工場なんかどこにもなかったからね。この辺はみんな農家だったから。でも、その人は親父まで説得してくれた。それで親父の口利きで天文台の工作室に入ることになった。

 でも僕は天文には全く興味がなかった。今だって興味ない(笑)。小学校1年生のときに、天文台に東洋一の大きな望遠鏡があったんだけど、親父が、それで星を見るとすごく大きく、野球のボールくらいに見えるんだと。で、それをどうしても見たくなってある夜中、観測中の先生に「星、見せてください」って頼み込んで見せてもらった。でもね、全然大きく見えないんだよ、星。覗いてみたって何も見えない。ただぴかぴか光ってるだけ。

 実際はレンズがよければいいほど星が小さく見えるんです。でも当時はそんなこと知るわけがないからね。親父は嘘つきだ、こんなの大きいなんて何考えてるんだと。それ以来、星を見たってつまらないって思って。もしね、あのとき土星とか木星とかを見せてくれてたら、病みつきになったと思うよ。でもあいにくつまらない星だったから、いまだに星を見るのが嫌いになっちゃった(笑)。

 天文台では、照準室っていうところで時計係の仕事をやってました。最近まで日本の照準時計ってこの天文台だったの。みんなが1千万円とか1億円の腕時計を買ってもね、この天文台に合わせなきゃ意味ないわけ。最近は筑波の電子時計にみんな照準を合わせてるけど。

 で、天文台の振り子時計は何に合わせてたかというと、星の動きに合わせてた。毎日、晴れてれば観測して、時計が進んでたり遅れてたりしてないか、誤差のチェックをやるのが僕の仕事だった。今は、天文台の振り子時計を使って確認する時代が終わってしまったけどね。今は14年とか15年で、0.何秒しか狂わないんだって。だから、いちいち観測なんかやる必要はないけどね。

 あとは時計そのものを作ったりしてた。僕は身体が小さいから、先生に小さいものを作らせてほしいと言って、一番小さかった時計を一生懸命作ってた。

 でも先生は何も教えてくれないんだよね。時計を渡されて、「これと同じものを作れ」というだけ。だから必死に作ったよ。分解して絵を書いたり、にっちもさっちもいかなくなったら街の時計屋さんに教えてもらいにいったりとかさ。今は何をするにしても最初から手取り足取り教えるけど、そういうのは良くないと思うよ。まずは自分で考えることをしないとね。

 天文台での仕事は楽しかったんだけど、6人の兄弟を養うには給料が安すぎた。中学までしか出てないから、この先ここにいても昇給は見込めないし。だから天文台を辞めてニコンの下請けの府中光学っていう会社に入った。天文台はニコンから望遠鏡を買っていたから、その下請け会社なら技術を覚えられるって天文台の教授に言われて。ここで初めて「これからものづくりで生きていこう」と思ったんだ。

 

ニコンの下請け会社に転職した中村氏は、天文台での経験と本来の才能とで、メキメキと頭角を現した。しかしものづくりに没頭できる幸せな日々も長くは続かず退職。そしていよいよ独立を決意する──。

次回は三鷹光器設立までの紆余曲折を通して、中村会長のものづくりへの情熱に迫ります。乞うご期待!

 
2006.10.2 1.ものづくりの原点は 子供時代のいじめだった
2006.10.9 2..35歳でついに独立 スーパー町工場の誕生
2006.10.16 3.誰にも負けない新しいモノを 便利じゃなくて役立つモノを
2006.10.23 4.仕事はただ生きるために 人の役に立てば満足

プロフィール

なかむら・よしかず

1931年東京生まれ、75歳。光学機器メーカー三鷹光器株式会社代表取締役会長

父親が東京天文台(現・国立天文台)に勤めていたことから、幼少時よりものづくりに親しむ。

13歳のとき、学徒出陣で携わった飛行機づくりで本格的にものづくりに目覚める。

16歳で自力で家を作る。

17歳で東京天文台に就職。22歳で府中光学に転職、望遠鏡づくりに没頭。一生ものづくりで生きていこうと覚悟を決める。

28歳で府中光学を退職。1〜2年就職せずにふらふらと過ごす。

30歳で資産家の知り合いに乞われ、三鷹光機製作所を設立。技術部長に。東京大学と組んでロケット関連の機器を製作。

1966年 35歳で独立。三鷹光器設立。南極観測隊の観測機器を製作。観測隊にも参加。

1981年 三鷹光器製の特殊カメラがスペースシャトルに搭載される。

1986年 ライカから業務提携依頼。脳外科手術用のレンズ開発スタート。

1988年 医療業界に本格的に進出。

1994年 画期的な脳外科手術用顕微鏡を全世界に向け販売開始。

1998年
・世界で初めて太陽コロナを高解像度で観測に成功
・非接触三次元測定装置NH-3が中小企業優秀新技術
・新製品賞優秀賞受賞
・火星探査衛生「のぞみ」の4つの観測機を搭載。

2005年 脳外科手術用顕微鏡で「勇気ある経営賞」優秀賞受賞、脳神経外科用バランシングスタンドで「東京都ベンチャー技術大賞」受賞

2006年 産業振興の一環として天皇陛下が三鷹光器をご視察。

テレビ出演、講演多数。現在も、産業、天文、宇宙、医療、環境の分野で新製品の研究・開発に多忙な日々を送る。

 
おすすめ!
 
『お金は宇宙から降ってくる』(中経出版)

なぜいち町工場から世界が驚く新製品が生まれ続けるのか……。中村会長の生き様、ものづくりにかける職人哲学、未来の新技術まで、中村会長と三鷹光器のすべてがつまった一冊(会長自身はタイトルを『宝は空から降ってくる』としたかったらしい)。

 
『社員はこの「型破り」教育で伸ばせ!—なぜ町工場に、世界のライカが一目も二目も置くのか』(三笠書房)

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