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魂の仕事人 魂の仕事人 第11回 其の一 photo
人類とともに歴史を歩み 本能を呼び覚ます道具ナイフ作りに賭ける職人魂
  有史以来、人類にとってなくてはならないものとして使われてきた道具・ナイフ。そのナイフ作りに命を賭ける漢がいる。漢の名は相田義人。海上保安官、山岳救助隊員、自衛隊員、猟師、冒険家など、自然の中で生活、救難活動を行うプロから、一般のアウトドアフリークまで幅広いファンをもつ。海外からも高い評価を受けている一流のナイフ職人に、仕事に賭ける思いを聞いた。  
カスタムナイフメーカー 相田 義人
 
用途のあまりに広さにより
日本語に訳されなかったナイフ
 

 「ナイフは、人間が火の次に手に入れた道具である」。これは僕の師匠であるボブ・ラブレス(注1)の言葉なんですが、ナイフは有史以来、人類が生きていく上でなくてはならない道具として使われてきたわけです。時代によってさまざまな人びとに使われてきたナイフですが、太古の人が使ったものと、現在僕たちが手にしているものとを比べてみても、形状は大して変わってないんですね。今後も人類が存続していく限り、形状は大きく変わらないと思っています。

 ただ鋼材だけは進化し続けてきた。時代時代の最高の素材が使われてきたんです。石器時代の石をスタートに、骨、青銅、鉄と移り変わってきて、現代のステンレスに到達したわけです。

 でも現代の一般の人はあまりナイフを使う場面ってないですよね。でもナイフという道具を使うことによって、本能として人類に刻み込まれている「切る」という行為を呼び覚ますことができるんですよ。

 それだけにナイフに求められるものは厳しい。どういうことかというと、ただ「切る」といってもいろいろです。木を切るのと缶詰のフタを切るのとは違う。実際に「切る」というカテゴリーに入るものをすべて集めたらものすごい数になってしまうので、そんなものを持って移動できないでしょ? でもナイフ1本あれば、たいがいの「切る」ってカテゴリーのことは全部できちゃう。知恵を使えば、やりにくくても全部できちゃう。例えば缶切りは缶切りとしてしか使えない。缶切りで枝は切れないよね。だけどナイフだと開けられるでしょ。

 やりにくいかもしれないけどナイフでできることってものすごく多くて広い。今の世の中、こういう道具ってナイフのほかにはないです。そこがナイフの一番の魅力ですね。特に日本の場合は、刃物が使う目的・用途によってものすごく細分化されていてそれぞれに名前がついてますよね。

 でもナイフが西洋から入ってきたとき、日本語に訳せなかったんだよね。野球は訳せてもナイフは訳せなかった。用途が広すぎるから、訳しようがなかった。未だに訳せてない。

 だからナイフとはなんぞやと問われたときに、得体の知れない漠たるものなんだけど、何か特別なものというイメージをみんな抱くんですよね。鉋(かんな)とか鋏(はさみ)とか日本語にちゃんとなってれば、イメージしやすいでしょ。イメージできると安心できますよね。そこが日本語に訳すことができなかったナイフの不幸な点なんですよね。

注1 ボブ・ラブレス——ロバート・ウォルドーフ・ラブレス(ボブは愛称)。1929年、オハイオ州生れ。カスタムナイフメーカーの世界的巨匠。カスタムナイフというジャンルを生み出した「現代ナイフの神様」と呼ばれている。あの文豪ヘミングウェイもラブレス氏のナイフを愛用していたと言われている

毒にならなきゃ薬にもならない
 

 「ナイフ」っていう日本語にできない漠たるものだから、「ナイフって危ないものですよね?」って不安げに言う人も多い。確かにナイフが人を傷つけたり殺してしまう道具として使われてしまうこともありますよ。それも確かにナイフの一面です。それを隠してわざといいところばっかりを見せる必要はないと思いますよ。短絡的、直情的な人間のためにナイフを含めた刃物が迫害を受けるようなことがあっちゃいけないと思うけど、かといって、刃物は危なくないっていうのはウソだから。それはキチっと言っていくべきだと思いますね。だけど毒にならなきゃ薬にもならないから。そういった意味では毒は毒なんですが、でもそれは加減の問題でしょ? この場合の「加減」っていうのは人間の理性だったり、いろんなことなわけじゃないですか。結局、危ないから使わせないっていう考え方になっちゃうと、それこそ料理のできない大人や鉛筆の削れない子供しかできなくなっちゃう。鉛筆も削れないような手で、他のものが作れるなんて思えないじゃないですか。

 だからこういうことも含めてナイフは刃物の中で一番過酷なところにいるし、使いこなせるかどうかは使う人間の知恵や理性にかかってくる。逆に言えば、人間はナイフに試されるんですね。ナイフを毒にするも薬にするも、使う人間次第。人を殺すのはナイフじゃなくて人なわけだからね。

小さいころから刃物に接していた
 

 そんなナイフを作り始めて今年で30年ですが、元々刃物は身近な存在でした。実家が金属加工会社を経営してたんです。創業は1914年。今は兄貴が社長で4代目なんですよ。

 工場では最初、どうもハサミみたいなものを作ってたらしいんです。ウチの親父はいわゆる技術屋で、親父の代になって安全カミソリ、ジレットみたいなのを作るようになったと。安全カミソリって開けると「OPEN」と書いてある。これは親父の受け売りですけどね、貿易の自由化が始まって最初に入ってきたのが安全カミソリだったらしいんです。そうするとジレットみたいな外資の巨大企業が入ってきたら競争にならないわけですよね。そこで親父が他に何かないかって考えて、爪切りを作るようになった。それから理美容関係ですね。床屋とか美容室で使うものっていうのがメインになっていったんです。

 親父は仕事をよそに発注することを嫌ってました。素材からメッキまで、外注に出すってことが一切なくて、全部自前の工場でやっていたんです。その親父の方針で「将来はおまえが工場長になれ」と。社長は兄で、いわゆる営業ですよね、私は現場の方を工場長という立場でやっていけと。だから工場の中の全部のポジションが分からないとダメだというので、小さいころから仕事の内容を見せられていて、中学2、3年の頃から家業を手伝わされていました。その中で遊びで小刀を削ってたりしてました。仕事は大学生になるころにはひと通りやれてましたね。

「考古学なんかでメシが食えるか!」
 

 でも僕は家業を継ぐのはイヤだったんですよ。だから仕事の手伝いも嫌々やってました。やらされるからしょうがなくやってたという感じで。僕は理工系は向いていないと思っていたから。手先も器用だって思ったことないしね。未だにそう思ってる。自分は別の方向へ行きたいと思っていたんですね。子供の頃から歴史とか地学とかが好きだったので、漠然と考古学をやりたいなって思った。

 そしたら親父が「おまえ、考古学なんかで飯が食えるかよ」って。戦争を経験した人だから、とにかく飯が食えるかって話になっちゃうんだよね。「そんなもので食えるわけねぇだろ」と。もう死んじゃったから言うけど、ウチの親父は「教育は親の権利である」というのがポリシーだったんですよ。だから親が行かせたい学校以外は子供は行く必要はないって言うの。

 当然親は家業を継ぐことが前提だったから、理工系の大学に行かせたがった。僕もまぁ軟弱だったのでね。友達がみんな大学行くって言ってるし、僕自身も行きたくないわけじゃないし。でも困ったことに理数系は全くダメでね。だからみんなに「おまえが理工か」なんて言われましたけどね。でも日大の生産工学ってところを受けたら受かっちゃった。それで行くことにしたの。

 今考えれば、考古学の方へは行かなくて正解だったと思うね。そのころは漠然とそれこそ若い人達がなんとなく「転職」と言っているのと同じくらいの感覚で「考古学」って言っていたんだと思いますよ。だから行ったとしても絶対モノにならなかっただろうし、そう分かったときは工場にも戻れないだろうし。それこそ「どうしましょう」となっていたと思います。

クーパー・ナイフがきっかけでナイフ職人の道へ
 

 大学に入っても引き続き実家の工場を手伝ってました。そのころには実際にラインの中に入って作業してましたね。そのころ、ナイフに関わる仕事もしてました。刃物製作と平行して、兄が西ドイツ(当時)の刃物メーカー、ヘンケルス(注2)の代理店をやっていたので、ヘンケルス製の刃物は子供の頃からよく知ってたんです。現地へ見学に行って、ナイフがどうやってできるか、一通り見たこともありました。

 アメリカには一人でナイフを作るという商売、いわゆる「カスタム・ナイフ・メーカー」という職人がいるってことも大学の頃から知ってはいたんですけど「そんなこと本当にできるわけがないだろ」と思ってた。つまり、小規模でも一応システムの中で育ってますから。小さな工場でしたけど、そのポジション、ポジションにエキスパートがいるわけですよ。いわゆる職人がね。

 そういういろんな職人の手をくぐってひとつの製品ができるわけだから、個人でちゃんとしたナイフなんか作れるわけがないと。現物を見ていないから信用していなかったんだね。ヘンケルス製の方が良いに決まってると思ってた。

 でもネルソン・クーパー(注3)っていうアメリカのカスタムナイフ職人のナイフを最初に手に取ったときに驚いた。ドイツのものに比べて数倍・数段の完成度とオリジナリティだったんです。「あぁすごいな、コレをひとりで作っちゃうのかよ。あの話は本当だったんだ」って驚いたんです。

 でもすごいと思ったんだけど次の瞬間には自分にもできると思ったくらいだから、それほど技術的に水準の高いものではなかったと思います。どうやって作ればいいかは、そのナイフを見た瞬間にわかりましたから。「これくらいならできないことはないかな」と思った。実家には材料もありましたし。それで実際にやってみたら、なんとかできたんです。「これは結構おもしろいや」と思って。

 それで少しずつ作り始めたわけです。25、6歳くらいのころだったかな。まぁ登山で言えば、身近な低山を登り始めたら「登山っておもしろいや」ってなってどんどん登り始める。そうすると、やっているくちにエベレストがあるって話になってくるじゃないですか(笑)。

 そのクーパーのナイフを見るまでは、ナイフなんて作りたいなんて思ったことがなかった。僕のナイフ職人になる最初のキッカケはクーパーと言えるでしょうね。

注2 ヘンケルス——3世紀もの長い歴史と伝統をもつドイツの刃物メーカー。ナイフ、包丁などキッチン用品の世界的ブランドとして多くの人に愛用されている

注3 ネルソン・クーパー——ジョン・ネルソン・クーパー。1906〜1987年ペンシルバニア州生まれ。後にカリフォルニア州に移住。アメリカンカスタムナイフのパイオニア

クーパーのナイフに出会ってナイフ作りの魅力に目覚めた相田さん。ナイフ作りに没頭する日々を送るうちに、より大きな衝撃を受けるナイフに出会う。作ったのはR・W・ラブレス。ナイフ界の神様と呼ばれている巨匠だった。ラブレス・ナイフに出会ったことで、相田さんの運命が大きく変わり始める。

一生関わっていきたい
 

 ラブレスのナイフを見たときの衝撃は言葉では言い表せないほどすごかったですね。世の中にこんなに綺麗なものがあったのかって思った。最初にどういう状況で見たかはもう忘れちゃったんだけど、とにかくラブレス・ナイフの現物を見る機会があったわけです。手にとって。そしたら全然違うわけですよね。クオリティから何から。とにかくデザインが圧倒的に違った。表現のしようがないですよね。これはすごいや、こんなことを考えられちゃうんだって。そこで考え方がガラっと変わっちゃった。売るとか売らないとかはどうでもいい、一生ラブレス・ナイフに関わってもいいかもしれないなと思ったんです。

 ただウチの親父がそれを許さなかった。「技術屋と職人は違う」と言うわけですよ。広い視野で全体を見られるのが技術屋。職人は視野が狭くなって自分のことだけしか見られないから絶対になってはいかんと。職人のいけないところは何でも競ってしまうところだと言うんです。隣同士で仕事をしてても「オレの方が早い」とか「オレの方が綺麗だ」みたいに。とかくそこへ行ってしまう。それはダメだと。「おまえのやっていることは、どうも職人の方だから。趣味で楽しみでやっている分はゴチャゴチャ言わないけれど、それを本職にするのは絶対ダメだ」と。でも僕は段々ナイフ職人の方へ気持ちが引っ張られていった。すると親父にしてみればおもしろくないわけですよね。「とんでもない話だ」って。

 だからナイフ作りは親父に隠れてやってました。そのころ僕が会社の開け閉めをやる係だったんです。会社の鍵は僕が持ってたから、営業時間が終わってからその辺の道具を使ってナイフを作ってた。営業開始は朝8時からで、朝7時半には社員が来るので、7時になると後片付けをするんです。何事もなかったような顔して(笑)。まるで隠れキリシタン状態。でもあの頃が一番おもしろかったですよ。好きなように、熱く作れてたから。

ラブレスに手紙で「教えて」
 

 そんな感じでラブレス・ナイフに出会って3〜4年は、ラブレスに関する資料もいろいろと集めて、ラブレスのナイフを見ながら独学で作ってた。でも少しでもラブレス・ナイフに近付こうとやるんだけど、どうしてもうまくいかない、わからない、納得がいかない。だからラブレスのところへ行って、わからないところを直接聞かないとダメだって思った。月の裏側と同じで本当のところは実際に見てみないことにはわかりませんからね。それでつてを探したんですけど見つからなくて。それでもうしょうがないからラブレスに手紙を書いた。1977年だか1978年くらいだったと思います。31歳くらいのとき。

 いきなり手紙を出すなんてすごいって? しょうがないでしょ、それしか方法がないんだから。むしろそういうことをやろうとしないというのが分からない。例えばやりたい仕事、入りたい会社があるんだけど、募集が出ていないからあきらめるとかね。理解できないね。そこまで分かってるんだったら、募集が出てようが出ていまいが、履歴書を送るなり、人事に電話して採用に関する何らかの情報を得るなりいくらでもやりようはあるでしょ? こういうことをやらないってのは相当にバカだと思うよね。それはね、「できる・できない」じゃなくて「やるか・やらないか」なんだよ。当然のことだよ。

 手紙は貿易をやってて英語が堪能だった兄貴に書いてもらった。僕は英語が全然ダメだったからね。実際にどんなことを書いてもらったかは忘れちゃったけど、「自分はナイフを作っているんだけど、わからないところが多々あるので、話だけでも聞いてくれないか」そんなような内容だったと思うよ。

 そしたらすぐに「いいよ、来いよ」ていう返事が来た。そのころすでにボブさんは大巨匠なんだけどね。それだけにうれしかったね。そのことを親父に「こういうわけで、行きたいんだ」って伝えたら「おまえ、行ったら帰ってこないだろう」って言われて。いや、それは向こう次第だからわからないって答えたら「盆暮れの休み10日間くらいを使って行く分には個人の旅行だからしょうがない。それでいいなら行ってこい」ってなった。だから自分で作ったナイフを1本持ってラブレスのところに行ったんだ。

どうしてもやりたいことがある。だから実現するために何でもやってみる。そんなふうに自分で道を切り開いていった若き日の相田さん。「この手紙を出したことで勝負は決まった」と相田さんは振り返ります。

次回はラブレス氏の下で、どんな修行を積んでいったのか。何を学び、何を得たのかについてアツく語っていただきます。乞うご期待!

 
2006.5.8 リリース 1 クーパーでナイフ作りに目覚め ラブレスで人生が変わった
2006.5.15 リリース 2 職人に大事なのは 責任とプライド
2006.5.22 リリース 3 仕事は客のためにじゃない 自分のためにする
NEW! 2006.5.29 リリース  4 ナイフが作れなくなったら 死ぬしかない

プロフィール

あいだ・よしひと

1948年8月8日・東京都板橋区生まれ・57歳。
世界でもトップクラスのカスタムナイフメーカー。「近代ナイフの父」巨匠・ラブレスのナイフ工法とシステムに熟達。世界で唯一ラブレスと同じ「リバーサイド・ウエスト」の刻印を許された正統かつ唯一の後継者。国内外に多くのファンをもち、ナイフを注文してから手元に届くまで3〜6カ月を要する。昨年ナイフメーカー30周年を記念したモデルを発表した。

★詳しいプロフィールはコチラ

■ 相田さんの工房
マトリックスアイダ/武蔵野金属工業所
〒175-0094東京都板橋区成増2−26−7
TEL:03(3939)0052
FAX:03(3939)0058
Webサイト:リバーサイド・ランド
e-mail  knifemaking@matrix-aida.com
営業日:年末年始以外はほぼ無休(ナイフ関連行事のため臨時休業あり) 営業時間:午前10時より午後6時

 
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魂の言葉 魂の言葉 やりたいことは自分の手でつかむものなんでも体当たりでやってみるべし! やりたいことは自分の手でつかむものなんでも体当たりでやってみるべし!
インタビューその二へ
 
 

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