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ドキュメンタリーの本質は「関係性」を撮ることだと思ってます。取材者と被写体との関係性を。やっぱり人と人とのやりとりですから、撮影中には被写体との感情の行き違いや、いろんな想定外のハプニングで感情的になったりします。時には本音を引き出すために、恣意的にそのような状況を作り出すこともします。被写体を困らせたり、怒らせたり、誘導したり、挑発するってこともやります。そのお互いのやりとり、撮る側の意図と撮られる側の意図の相互作用などの関係性。撮ってて一番おもしろいのはそこなんです。
その関係性を撮るためには取材者、撮影者も当然出さなくてはなりません。作る側の主観、葛藤とか怒りとか困惑とかもおもしろい要素ですからね。繰り返しますが、主観のないドキュメンタリーなんてありえない。結局、表現全般そうですけど、ドキュメンタリーもまた「作為」です。こっちは明らかな「企み」をもって撮ろうとしてるわけなんでね。 |
また、ドキュメンタリーを撮るといっても、僕らは「現実」は絶対に撮れないんですよ。そこにカメラがあれば、被写体はカメラを意識した行動、発言しかしない。それは「純粋な現実」ではないわけです。撮れるのは「カメラが介在した現実」だけ。だからこそ主体=作る側を提示することは重要なんです。
でもテレビに代表されるマスメディアはここ(=作る側)を切っちゃう。記者とかディレクターは顔出しちゃいけません、主観を出しちゃいけませんって。作る側を切っちゃうと、関係性そのものが消えちゃう。カメラが介在した現実が撮れない。だから作るほうもつまらない。観るほうはもっとつまらない。
ではなぜテレビがそうするか。そうした方が分かりやすいからです。被写体だけ出して、事実だけを伝えるほうが格段に分かりやすい。でも撮る側を出して葛藤とか煩悶とかを出したり、事実の背景などを掘り進めようとすると分かりにくくなる。
ドキュメンタリーなんて分かりにくいものの極地ですからね。AさんがBさんを殺しました。目的は保険金詐取です。ニュースだったら30秒ですよ。でもドキュメンタリーは、この事件の背景にはこんなことがありました、借金があって、ほれた女がいて、恨みがあってって。そんなことをいろんな角度から、作り手がもう悩んだり、もんもんとしたりしながら作りますからね。当然明確な答え、単純な結論からは遠ざかる。
テレビでそれやっちゃうと、すぐにチャンネル変えられちゃう。そんなことはどうでもいいからどっちが悪いんだ?って、結論を求めるのが世間ですからね。だからテレビは難しいもの、分かりにくいものはどんどん排除して、四捨五入的な作り方で老若男女すべてに分かりやすいように作る。数字、視聴率がすべてですからね。
でも本来はその切り捨てちゃった部分に大事なものがあったりするわけですよ。短絡的に切っちゃったり、剪定しちゃったりしてるような部分にね。「インテリジェンス」っていう言葉があるじゃないですか。智恵とか理解力とかいう意味の。その頭の「インテル」って行間っていう意味なんですよね。つまりその行間を読む力がインテリジェンスなんですよ。だから、行間っていうか狭間が大事なんだけど、それを表現するのがドキュメンタリーだと思っています。虚構と現実、フィクションとノンフィクションの狭間のグレーゾーンにフォーカスするのがね。 |