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魂の仕事人 第29回 其の二
最初の独立は失敗するも 6社目で交通事故鑑定の世界へ 53歳で生きがいの仕事を確立
ようやく30歳にして「これぞ俺の仕事」と思える仕事に出会い、懸命に取り組んだ結果、いくつも革新的な成果を出した。さらに研究結果を論文にまとめ、学会で発表したりもした。会社での評価はうなぎのぼりだったが、しかし、またしても暗雲が立ち込めてきた。なかなか安住の地を見つけられない林氏の人生の奮闘劇はまだまだ続く。  
交通事故鑑定人 林 洋
 

上役の嫉妬を買い退職に追い込まれる

 

 最初は「あいつは便利な奴だ」ということで目をかけてくれていた会社の上司が、逆にいろいろと嫌がらせをしてくるようになったんです。この人と連名で論文を発表しているうちはよかったんだけれど、まず、私が自分ひとりの名前で発表し始めたのがまずかったんですな。結局は、実験部から設計部に異動させられました。設計部に行ったって、私にできる仕事なんかありません。これは一種の座敷牢ですよ。干されたということですな。まだ40前だというのにもう窓際族として幽閉状態になったのですから、そりゃつらかったですよ。大好きな実験の仕事もできなくなったから、もうこの会社にいてもしょうがないなと思いました。

 軽率な人間ですから、本業の合間に技術系出版社に頼まれてアルバイトとしてやっていたカーライターの仕事で何とか食っていけるんじゃないかと判断して、辞表を提出しました。まだ小さい子供が二人いるというのに、無茶な話ですよね。

 このとき38歳でした。その上役は私に活躍の場を盛んに作ってくれた恩人でもあったので、複雑な気持ちでしたね。余談ですが、ずっと後になってこの上役とは偶然再会し、旧交を温めるだけでなく、彼の親戚の交通事故による人生のピンチを鑑定で救ったこともあるんです。

自動車研究所に拾われる
 

 会社を飛び出して一年、いろいろやってみましたが、やはり厳しかった。これまで平身低頭で原稿を依頼してきていた出版社も、フリーになったとたんに足元を見るようになりました。このときほど己の浅はかな状況判断を嘆いたことはありませんよ。

 これからどうしようかと悩んでいた、そんなピンチのときに、ひょんなことから、自動車研究所を立ち上げようとしていた東大のある研究室の助手のJさんが、「ウチに来ませんか」と声をかけてくれたんです。自動車メーカー勤務時代に、盛んに学会に論文を発表していましたから、この東大の研究室の人たちとも顔見知りになっており、私の個性、能力を知ってもらってもいたんですね。

 ちょうどそのころ、自動車の排気ガスによる大気汚染問題が社会問題化し始めていました。その問題はアメリカのロサンゼルス盆地から始まり、日本にも波及してきていたんです。そこで、日本の各自動車メーカーは、それまで共用で使っていた「高速試験所」を、自動車の社会的問題を業界統一的に研究する機関として、同時に産学協同の事業として、「自動車研究所」に改変しようとしていたのです。そのため、大気汚染問題を取り扱えそうな技術者を集めていたんですね。こういった新しい問題に積極的に取り組むには、自動車メーカーの実験屋時代に異なる技術課題について独自な論文を次々に発表していた私は適任と、ボスの教授も認めてくれたのだと思います。組織の中に引きこもらないで、外に対しても積極的にスピークアウトしていくことの大切さを、この時ほど、強く実感したことはありません。

部長に出世。しかし……
 

 自動車研究所に入所した直後は、「触媒」の研究をしました。当時、自動車業界は、エンジンから出る排気ガスの中の有害物質、HC、CO、NO、煤(すす)などを取り除く手段として「触媒」を使おうとしていました。その後、中東紛争、石油ショックが起こったことで、ガソリン代替エンジンの調査的な研究も始まり、こちらの部署へ異動しました。電気自動車、燃料電池、スターリングエンジン、フライホイールエンジン、セラミックエンジンなどのほかに、自動車のエレクトロニクス化、自動車用新材料など、さまざまな分野の研究・開発を行いました。次第に実験屋というより、テクノロジー・アセスメント屋になっていきましたね。

 入社して10年後、私を拾ってくれたJさんが事情があって退職し、その後釜として私がエンジン研究部門の部長になりました。普通なら出世だから喜ばしいことですが、私にとっては運の尽き始めでした。これ以降、研究所の所長や常勤理事とエンジン担当の非常勤理事、東大教授との間に挟まれて、いろいろと煩わしい問題に遭遇することになったのです。

 私のボスだった東大教授は、なかなかユニークで優れた考え方の持ち主でしたが、その分、個性的で我が強くエリート意識がものすごい人でね。私も自分が正しいと思ったことは絶対に曲げないという頑迷な人間だから、次第に衝突するようになったんです。この教授も最初の内は私を高く買ってくれていたと思うんですが、私が部長になってからは次第に許せない心境になってきたんだと思います。

上役にゴマをすらない、自分の頭で正しいと思ったことは強引に貫き通す。そんな一匹狼的、頑固な性格が災いして、次第にエンジン研究部門の中で孤立していった。このままでは前職の二の舞かと思っていた矢先、研究所内の変わり者医師のM先生から、救いの手が差し延べられた。それが図らずも、技術者としての林氏の運命を大きく変えるきっかけになる。

再びはみ出して、いよいよ交通事故の世界へ
 

 結局、部長をクビになり、「調査室」という名の座敷牢に再び入居させられました。仕事なんて何にもなく、またしても窓際族ですよ。段々居心地が悪くなってきたときに、医学博士で安全研究担当理事のM先生が「俺の部署へ来ないか」と声をかけてくれました。見るに見かねたのでしょう。

 運としかいいようがありませんが、なぜか私の場合にはピンチのときに救ってくれる人が現れるんですよね。

 このM先生は、部長会議でのやりとりなどで、私のことを「こいつは乱暴だが、純粋に生きようとしているな、いい奴だな」とある程度理解してくれていたらしいのです。人は目先の欲のためにズル賢い生き方をしてはいかんなとつくづくと感じます。

 安全研究グループに移ってからは、事故調査グループのリーダーを任されて、再び研究現場で活発に活動を始めました。具体的には、交通事故が起こった際、警察と一緒に交通事故現場に赴き、実況見分に立会い、発生した事故の物的証拠を収集しながら、「この事故は、どのようにして起こったのか」と事故の誘因を考察する、いわゆる、調査的研究の仕事です。この考察を土台にして、どういう要素をどうコントロールすれば事故を減らすことができるかということを考えるわけです。

交通事故調査グループのリーダーに
 

 この仕事もすごくおもしろく、すぐにのめり込みました。交通事故現場に出られることも楽しかったし、一種の謎解きのような仕事ですから、私が没頭したくなるテーマです。次第に自動車メーカーの実験屋時代の感覚が戻ってきました。

 交通事故調査グループのリーダーになってからは、事故調査の経験を元に鑑定理論をまとめる作業を始めました。その最初の集大成が1983年に出版した『自動車事故鑑定の方法』(技術書院)です。後にこの分野のテキストブックとして広く読まれ、韓国と中国で翻訳されることにもなりました。このように、知識をわかりやすい形に整理してしまうというのも、私の本能的な特徴ですね。しかし、このように本を出したりして目立ちだすと、またもやヤバイ状況になっていきました。

またしても暗雲が……
 

 実質、自動車研究所は自動車業界の外郭団体ですから、自動車メーカーや監督官庁の人達が重役に相当する理事として天下ってきます。どういう人が来るかというと、会社で役員になれない、関連企業からも声が掛からない、ただ学歴だけはいいといった人がカイシャの権威を後光にして、そり反って赴任してきます。そういう人からみると、私みたいに世間的に目立つ人間は、気に入らなくて仕方がないようです。

 日本社会は多分に嫉妬連体社会ですから、出る釘は必ず打たれます。一度、自動車メーカー勤務時代にも痛いほど経験していたことなのに、目立つ動きがやめられないのが私のサガなんですな。その上に、酔っ払うと「要するにここは業界にとっては、共同人間ゴミ捨て場なんだよなあ」などと言ってしまう(笑)。もちろんいくら私でも理事の目の前では言いませんが、困ったことにわざわざ告げ口する輩がいて、理事の耳に入ることになる。それを聞いた理事は……言うまでもありませんね(笑)。

 一事が万事こんな調子なので、私をいじめたくなる理事諸侯の気持ちもわからなくもないですよ。私ももっと割り切って、そういう連中に対して思い切りゴマをすりペコペコしてみせればいいのですが、性格上、それができないんですよね(笑)。だからたぶんに足を引っ張られるきっかけを自ら作ってるともいえるんですよね。

 そんなこんなで、私を助けてくれたM先生が定年で辞めた後は、嫉妬に狂ったメーカー出身の事務屋、総務担当の理事や京都大学から天下って来た元教授の所長の画策で、役職も交通事故調査の仕事も取り上げられて、またもや窓際に追いやられました。辞めるまでの最後の5年間はまさに座敷牢の状態でしたね。

またしても閑職に追いやられてしまった林氏。しかし、ただ腐るだけではなかった。次々と目標を立て、自分で仕事を作り出して行った。林氏はそれを「第二の人生で役に立つ助走仕事」と呼ぶ。

窓際族・座敷牢の境涯を活かす
 

 窓際族も座敷牢も、考えようによっては一つのチャンスなんですよ。特に現在窓際族のご同輩に声を大にして言いたいことです。時間だけは腐る程あるのだから、自分のやりたいことが遠慮なくやれます。折角会社がつくってくれた学習のチャンスなんだから、これをいい機会に、一匹狼としての自分の腕を磨くことに大いに努めたらいいと思います。

 例えば、当時の私の場合。研究所には、当時の通産省(現・経済産業省)から自動車のさまざまな分野の最新技術を調査して、レポートとしてまとめてほしいといったオファーがきていました。ところが、研究者というのは、一般的にそういう仕事が嫌いです。何かテーマを定めて、そのことをしこしこと執拗に突き回すことが好きなんですからね。理論と実験の整合といった仕事の「形」にもこだわります。しかし、調査などという世俗的な仕事はやる気にならない。専門性で自分を縛るところもあります。しかし、元々放浪者の私はそういうことには全然こだわらない。逆におもしろそうだなと思っちゃう。そもそも暇ですしね。だから、調査室のボスをうまく言いくるめて、自分がやれるように仕向けることに成功しました。

 例えば「自動車用エレクトロニクス技術の現状」といったテーマが与えられると、調査委員会を作って、各自動車メーカーやエレクトロニクスメーカーなどの技術分野のトップクラスの人たちを集めてきて、私が司会をして議論してもらい、その結果をレポートにまとめていました。これを機会に、各分野の最先端の技術者とのパイプも多数できました。

 研究所内で発行していた機関誌では、いろんな企画を提案して、マッチポンプ的に引き受けて、座談会を開いたり、さまざまな技術分野の会社に取材に行って記事を書いたりしていました。

目標をもって仕事に臨む
 

 こういう仕事を自分の楽しみとして実行していましたが、自動的に多様な技術分野の人達とうまく話し合い、それぞれの特徴を引き出すインタビュアーとしての技術と、それをわかりやすく書く技術を磨く機会にもなっていたのだと思います。同時に、こういうコーディネーター的な役割で、さまざまな産業分野のトップクラスの専門家からダイレクトに話を聞くことで、各分野の最新知識を蓄積することができました。これも大きな収穫でしたね。また余談になりますが、後に、カーエレクトロニクスや自動車用新材料を総括的に解説する本を書いているのですが、その元となったのはこの経験です。

 そのうち、逆に取材した人たちの紹介で、雑誌の記事を書く機会や講演に呼ばれる機会が増えました。もちろん、来る依頼はすべて引き受けてどんどんやりました。記事も講演も、読者や聴衆が楽しめるようになるべくおもしろくしようと工夫しました。また、本も積極的に書きました。暇なので今まで吸収した知識をじっくり時間をかけてまとめることができたんです。

 それから、新聞や雑誌や自動車メーカーが主催する論文コンテストに応募しまくりました。1年半で応募した6つの論文コンテストのすべてに入選しました。朝日新聞の懸賞論文では最優秀賞を受賞してヨーロッパ旅行に行けたし、トヨタ自動車の懸賞論文では150万円の賞金を貰いました。

 まさに「窓際族にしてくれてありがとう」です。だから窓際族になったときほど、積極的に組織内の仕事、それも人が嫌がる仕事の中におもしろい、新しい仕事を作り出して、スキルを磨いたり、新しいスキルを身につけたり、これまでやりたくてもできなかったことに没頭すればいいと思います。特に独立を考えている人は、こういうことが独立後の戦いに役立つ重要な武器になるでしょう。

五十三にして立つ
 

 こんな調子で、座敷牢に放り込まれてからも理事たちの期待通りにうつ病になることなく、さらに村会議員の選挙に立候補して当選したりして目立つことをするものだから、彼らの嫉妬の炎はいよいよ燃え盛り、ついには嘱託に格下げされ、給料も大幅に減らされました。53歳のころです。

 ちょうどそんなとき、従業員500人くらいの会社の創業者と知り合いになり、気に入れられて、ウチに来ないかと声をかけられました。このまま研究所にいてもどうにもならないから、その会社に行こうと決意しました。しかし、いざ行ってみると、創業者の会長は気に入ってくれていましたが、社長も専務も、この会社のトップクラスが一斉につむじを曲げていることがすぐにわかりました。肝心の会長の用命も、ちょっと常識外れで、ついていけない感じがしました。

 またしてもピンチですよ。今いる場所がダメだからそっちへ行こうと思ったらそこもダメ。だからその会社も数カ月で辞めて、つくばに帰ってきました。

 そこで、今度はもうこれしかない、一か八かで、交通事故の工学鑑定を行う「林技術事務所」のおんぼろ看板を立ち上げた次第です。だから、実をいうと積極的に独立しようと思って、この仕事を始めたわけではなく、そのときに残っていた逃げ道はこれしかなかったわけです。

 

入社して15年で自動車研究所を辞め、交通事故の工学鑑定を行う「林技術事務所」を立ち上げた。このとき53歳。胸中にあったのは、不安よりも生きがいだった。

次回は独立してからの奮闘に迫ります。乞うご期待!


 
第1回 2008年2月18日リリース 6度の転職を経て天職に 放浪のすすめ
第2回 2008年2月25日リリース 5社目で交通事故鑑定の世界へ 53歳で独立
第3回 2008年3月3日リリース 真相究明が仕事の醍醐味 依頼者のために戦う
第4回 2008年3月10日リリース 交通鑑定人の究極の覚悟 志をもって生きる
第5回 2008年3月17日リリース 趣味や勉強では魂は燃やせない 一生仕事人であり続けたい

プロフィール

はやし・ひろし

1931年、東京生まれ。77歳。交通事故鑑定人。船の機関士、教師、自衛隊、自動車メーカーの技術者など6度の転職を経て、53歳のときに自動車事故の工学鑑定を行う「林技術事務所」を設立。以降、数千件の交通事故鑑定書を作成、交通事故鑑定学の学問体系の確立と実行に努める。77歳の現在も現役の交通事故鑑定人の第一人者として活躍中。「実用・自動車事故鑑定工学」など著書多数。日本技術士会のプロジェクトチーム「科学技術鑑定センター」の名誉会長も務めている。

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