キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第19回 元プロボクサー 坂本博之 -その四- 突然襲ってきた悲劇

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魂の仕事人 第19回 其の四
突然襲ってきた悲劇 己が壊れそうになるくらいの「命」の重さ それでも心は折れなかった
 
畑山との伝説の一戦、4度目の世界挑戦に敗北した坂本は、本格的な再起戦となったOPBFタイトルマッチにも敗れてしまう。その直後、ボクサーの生命線ともいえる腰の手術を敢行。不屈の執念で2年7カ月という長期間のブランクとリハビリを乗り越え、再起戦のリングに立つも、またもや敗北を喫してしまう。すでに身体はボロボロだった。しかしそれでも坂本はあきらめなかった。このままでは終われない理由があった──。  
元プロボクサー(元東洋太平洋ライト級チャンピオン) 坂本博之
 

腰の手術を決断

 

 OPBFのタイトルマッチで負けても、自分で納得してなかった部分がやっぱりあった。自分の心意気に対して納得がいくまで挑戦したかったんですよね。そのためには腰をなんとかしなきゃならなかった。

 もともと腰痛持ちだったんですよ。それに加えてハードな試合の連続で腰にダメージが蓄積されていったんですね。僕のようなスタイルは一番腰に負担がかかるんです。すでに畑山戦のときからかなり腰に痛みを感じていました。試合の後は腰が痛くてトイレにも行けない状態になっちゃって。畑山戦以後はレーザー手術を受けつつ、座薬を入れてだましだまし練習や試合をしていたという感じでした。もちろんOPBFのタイトルマッチを含めてです。

 だけどこの試合の後、今回は足まで痺れるからちょっと違うかなって思って病院へ行ったら、重度の椎間板ヘルニアだと診断されました。腰はボクシングにおいても選手生命を左右しかねない生命線ですが、それでも引退は考えなかったですね。

神経を直撃していたヘルニア
 

 診察を受けると、ボクシングを続けたいのであればやっぱり手術しなきゃダメだと。それから実際に手術してもらう医師を探すのに4カ月かかりました。再起を賭けていたので、誰でもいいってわけじゃなくて、信頼できる医師にやってほしかった。だから自分の足で探しまくりました。ある人から九州にいい医師がいるというので会いに行ったら、すごく話が合った。この先生に手術をお願いしたいと思って、福岡県の脊髄損傷の専門病院「総合せき損センター」に入院することにしたんです。

 でもこの先生も手術したからといってボクシングができるようになるとは言わなかったですね。可能性は五分五分だと。ボクシングができるかどうかは、ボクシングの神様にしかわからないよって。

 日常生活にも困るくらいのヘルニアでしたからね。だけど、このままではどの道ボクシングはできない。再起するには手術しかないのであれば可能性が低くても賭けるしかない。これまで腰の手術をしてカムバックできたボクサーはいなかったのですが、ならば俺がその最初のボクサーになってやるって気持ちでした。この時点でもまだ世界チャンピオンの夢はあきらめてなかったです。

 それで手術することにしたんですが、医師も検査だけでは実際のところはどこまで神経を圧迫してるかわからない。実際にメスを入れて開いて初めて分かるらしいんです。僕の場合、直撃だったらしいですね。うわあ、ここまで神経にぶち当たってたのかって驚いてました。

 でも、幸い手術は成功しました。そりゃうれしかったですよ。これでまたボクシングができるって。手術は普通の切除だけじゃなく、腰椎にチタン製のボルトを入れて固定したんです。今でも腰椎の5番と6番の間に入ってます。手術したら痛みはなくなりましたが、腰がめちゃめちゃ硬くなりました。前屈も以前に比べて全然曲がらなくなったし。上体は動くのでボクシング自体はできるんですが、若いときと同じ動きは難しくなりました。だからリハビリではそこを柔らかくしようと、重点的にやってました。

 リハビリはつらかったですが、病院には僕なんかよりもっと重篤な患者さんがたくさんいて、その人たちも一生懸命戦ってました。だから、弱音なんて吐けなかったね。そういう人たちの戦う姿を見て、人間の底力を感じたというか、人間って強いなあって思いました。僕自身の励みになってましたね。

 退院後は有名なスポーツトレーナーのケビン・ヤマザキさんのジムでリハビリを開始したんですが、リハビリというかトレーニングでしたね。かなりキツかったです。

退院後、リハビリ、筋力トレーニングなど、復帰に向けての厳しいプログラムに挑戦していた坂本。しかし復帰に向けての練習は苦しくても楽しかった。2003年末、妻の妊娠が発覚したからだ。生まれてくる子供のためにも絶対カムバックしてやる。練習にも熱が入った。しかし、充実した幸せな日々を送っていた2004年6月、坂本を奈落の底に突き落とす悲劇が襲った。

救急隊員からの電話
 

 練習後、携帯電話を見たら留守番メッセージが入ってた。聞いてみると救急隊員からで、奥さんがたいへんだからすぐ来てほしいって。もう何がなんだかわかんなかったけど、とにかく急いでまず自宅に戻ったんです。すると玄関の鍵も閉まってない状態だった。よっぽど緊急を要することが起こったんだなって思いました。

 部屋に入ると、ウチのやつ(奥さん)が書いた「○○病院に行きます」ってメモが置いてありました。もう必死に書いたような字でね。痛かったんだろうね。痛くて痛くて、自分で救急車呼んで、メモを書いて。その後僕もすぐ病院に行ったんだけど、着いたころには手術中だった。

 待ってる間は母体だけは無事でいてくれよって願ってた。1時間くらいたって、主治医の先生が来て、写真を見せながら容態を説明してくれて。「奥さんは子宮破裂で緊急帝王切開しました」と、写真を一枚一枚見せながら説明してくれた。それを聞きながら僕はただ、はい、はいってうなずくしかなかった。そのときはとても言葉ではいい表せない気持ちだった。

 でも母体の命には別状はないって聞いてとりあえずほっとしました。

 で、次に子供はどうなったんですかって聞くと、妊娠8カ月での超早産だったんだけど、今は息をしてて、NICUに入って治療してるって。息はしてるんですね、じゃあよかったと。二人の生存を確認できて、ようやくそこで心からほっとしたんです。

 でも、医師の話では、かなりの早産だから子供には障害が残るだろうと。でも最悪の事態にならなくてよかった。生きてさえいてくれればいいと思いました。

 それから2時間ごとにNICUに入ってた子供を見に行ってね。ウチのやつは帝王切開で動けないから、その代わりに。NICUに入るときは、無菌状態にしないといけないから、入るたびにうがいをして、手を洗って、マスクをして。ほんとは一日に何度も出入りできないんだけど、無理言って2時間ごとに見に入ってた。

 それでウチのやつに容態を報告するわけ。今、こんな感じだよって。手は俺にそっくりだ、口はおまえにそっくりだとかね。そうするとウチのやつも早く見たいって喜んでた。

 翌日、ウチのやつも車椅子に乗れるようになったから、子供を見に行きたいって医師に言ったんだけど、「今、お子さんが不整脈を起こしてますから、ちょっと待ってください」って言われた。

 それで何時間か待ってると、医師に呼ばれました。でもそれは容態が落ち着いたからではなかった……。

 NICUに入ってすぐ、ウチのやつは子供をがーってさ、抱いてさ。でもその腕の中で子供は息を引き取った。

 医師はわかってたのかもしれないね。もう子供の命は消えかかってるから、早く抱かせてあげようって。

 子供も母親を待ってたのかもしれないなって。母親が来るまでは生きていようって、必死で頑張ってたんだなって。そのときはそう思ったね。

出生届と死亡届を同時に出す
 

 葬式とかその後のもろもろの手続きもつらかったね。生まれた翌日に亡くなったので、出生届と死亡届を同時に区役所に出さなきゃいけない。これは決まりだか らしょうがないんだけど、まず出生届を出しに窓口へ行くと担当者に「おめでとうございます」って言われた。でもその直後に死亡届を出すとその担当者は「失礼しました」ってすごく恐縮して。そんなのいいよ、しょうがないよって言ったんだけど、何度も謝ってたね。

実は、坂本夫婦は以前にも子供を亡くしている。そのときは6カ月での死産だった。それだけに今回、妻の胎内に宿った新しい命はふたりの希望そのものだった。しかしその希望はこれからというときに、無残にも奪われてしまった。坂本は絶望のどん底へ落ちていった。

これが神様とケンカしてきた罰なのか
 

 手続きが落ち着いた後は、何もできない状態になった。抜け殻だったね……。やっぱり一番ショックなのはウチのやつだから、彼女が壊れないように支えなきゃい けないっていう気持ちもあったんだけど、でも、俺自身も壊れかけてた。何もする気になれない。メシも全然食う気になれなかった。もちろんボクシングも練習する気になんて到底なれないから、ジムにも行かなかった。ほとんど一日中家にこもってた。子供の仏壇の前に座ってて、気づいたら夜が明けてた、みたいな……。

 そのとき、なんで俺じゃなくてウチのやつや子供なんだよって。神様とケンカしてきた結果がこれかよって何度も考えてた。

 これまでも、いろんなつらいことがあった。生まれてすぐ乳児院に預けられたり、小学生のときはごはんを食べさせてもらえなかったり、虐待を受けたり、児童養護施設に預けられたり。ボクサーになっても、腰が手術しなければならないほど悪くなったり。結婚してからも最初の子供が死産になったり……。

 そういうつらく苦しいことがあるたびに、そんなに神様が俺にケンカ売るんなら上等だよ、神様とだってとことんまでケンカしてやるよって、真剣に思ってたんだよね。

 でも、もうさすがにこのときはそうは思えなかった。ケンカし続けてきた結果がこれなのかよって。俺だけもっていけばいいじゃんって。子供やウチのやつは関係ないじゃんって。それとも、関係ない者を不幸なめにあわせて、俺だけ無事なのが、神様とケンカしてきた罰なのかって。いろいろ、ずーっと、ぐるぐる考えてた。

どん底からは自分で這い上がるしかない
 

 その間、親しい人たちから、いろんな励ましを受けました。俺んちのいとこは生まれて1年くらいで病気になって死んじゃったとか、うちの嫁も病気で生死の境をさ迷って障害が残ってるだとか。だからお前たちの気持ちもわかるけど、負けずに頑張れって。

 僕らを心配してくれてるのというのはすごくよくわかるんだけど、でもね、その励ましがすごく嫌だった。そういうのを聞いても全然勇気がわいてこないんだよね。疎ましくさえあった。

 わかってるんですよ、それに対して腹を立ててはいけないというのは。その人のやさしい気持ちだからそのまま受け止めなきゃいけないって、頭ではわかってるんだけど、全部を受け入れることはできないんだよ。

 ほんとのどん底にいたんだと思う。ほんとのどん底にいたら、耳を塞いじゃうんだよね。人の言うことも全然入ってこない。入ってきたとしても、それは違う慰めなんだなっていうのが自分でわかった。

 やっぱりね、ほんとのどん底からは、自分たちで這い上がるしかないんだよね。

食事ものどを通らないような絶望の日々。初めて神を呪った。しかし5カ月後、角海老宝石ジムに、再起に向けて汗を流す坂本の姿があった。いかにしてそんな絶望的な状態から立ち直ったのか。しかし坂本からは意外な答えが返ってきた。

立ち直ってなどいない
 

 そんな状態からどうやって立ち直ったか? いや、立ち直るっていうもんじゃないんですよ。きっと、それを糧にして前に進んでいるんですよ。

 立ち直るという言い方だと、「吹っ切る」という意味にもなると思うんですが、これは吹っ切るとかそういう問題じゃないんです。月日が経てばこの悲しみも全部チャラになるかっていうとそういうもんでもないし。むしろ受け入れて忘れないようにするんです。

 僕の子供たちのような天国に行ってしまった人たちを2度殺してはいけないと思うようになったんです。1度目の死は物理的に死んでしまったとき、2度目の死は、亡くなってしまった人たちのことを語らなくなったとき。だから子供たちのことを忘れてはいけない。永遠に語り合っていこう、一緒に歩いていこうと、ウチのやつと決めたんです。

 それは常に肝に銘じてて。確かに目には見えないけど、今でも子供の魂はすぐ近くにいると信じています。だから仏壇にも毎日手を合わせて、語りかけてます。お茶を入れたり、納骨堂に行ったり、毎日なにかしらの接点があるんです。

 それをやってるから僕らは生きてると思うんです。吹っ切れたら、きっと生きていけないんじゃないかな。

 子供の存在がずーっと身近にあったから、他の人と普通に話したり、ボクシングができるようになったのかなって思います。

 そうやって、悲しみを受け入れ、毎日手を合わせる、お花をちゃんと供える、そういうことが当たり前にできるようになったときに、ようやく少しずつ前に進めるようになったんです。

ボクシングがあったから受け入れることができた
 

 悲しみや絶望を受け入れるようになるまでが一番苦しいんですよ。死をどうやって受け入れるか、その受容の過程が一番きつい。僕もそれまでは抜け殻でしたからね。何をする気も起きない。メシを食べることすらできなかった。

 受け入れられて初めて前を向ける。そうなったとき、やはり俺はボクシングをやらなきゃならないと思ったんです。

 ウチのやつを支えるためにも、まず日常を取り戻すことが大事だとだんだん思ってきました。そのためには今までずっとやってきたことをこれからもやり続けることが大事だと思った。そして、亡くなった子供のために、もう一度チャンピオンになってやろうと思ったんですね。子供にチャンピオンになった俺を見せたかった。そう思い始めたのが、子供が亡くなって5カ月後くらいでした。

 でもウチのやつは大反対しました。怖いからもうボクシングは辞めてほしいって。ヘルニアの手術もして2年7カ月のブランクもあるし、そうじゃなくても若いころのように体は丈夫じゃない。しかも子供のこともあって、肉体的にも精神的にも弱ってるような状態でボクシングをやるのは危険だと。子供を亡くした上に、俺にまで万が一のことがあったら生きていけないって。

 やっぱり当時はかなりマイナス思考になってたんですよ。子宮破裂が起きるのは2万分の1の確率、その2万人の妊婦のうちの1人になったわけですからね。滅多に起こることじゃない。でも起きてしまった。

 ボクシングでもしものことが起こる確率はそれよりも高いんじゃないの? 死には至らなくても、パンチドランカー、言語障害が残ったり、自分で自分がわからなくなるかもしれないじゃない。自分は子宮破裂のような稀な経験をしてしまったのだから、僕もそうなってしまう可能性が高いんじゃないかって。だから怖いからやめてくれって。

 それから何回も同じことを言われたんだけど、でも俺はその都度、それでも、そうだとしても、俺は、自分と子供のためにボクシングをやらなきゃいけないんだ、そうじゃなきゃ前に進めないんだって言い続けたんです。

 そしたら最後にはウチのやつも肚をくくったよね。俺が倒れても面倒を見られるようにって、ヘルパーの資格を取ったり、心理学を勉強して療育施設で働きだしたんだよね。

 ウチのやつは僕のボクシング人生を13年見てますからね。その13年の間にここまで強くなったんだなって思いますね。

5カ月ぶりにジムに戻りトレーニングを再開した坂本に、もはや迷いはなかった。目標は日本チャンピオン。しかし年齢、体のことを考えると残された時間は少ない。タイトルまでの最短の青写真は、復帰1戦目で日本ランカーと戦って勝ってランク入りし、2戦目で日本タイトルに挑戦、そして勝利だった。しかしスーパーライト級の日本ランカーは坂本の対戦要求を受けてはくれなかった。危険を承知でターゲットを1階級上のウエルター級まで広げると、日本ランカーの対戦相手が見つかった。しかしやはり無謀な挑戦だった。相手に無残なまでに打たれまくり、5回TKO負け。日本タイトルへの夢は打ち砕かれた。周囲もさすがにここで終わるだろうと思っていた。しかしそれでも坂本はあきらめなかった。

こんな恥ずかしい試合で終われるか
 
スパーリングはこなせていたのだが……(写真提供/角海老宝石ボクシングジム)
 

 練習ではハードなスパーリングもできてたんです。でも練習と試合はやっぱり違うんですよね。体が思うように動かなかった。それとやっぱり1階級上げるとこれまでとはすべてが違いましたね。僕のパンチはそれほど効かないし、逆に相手のパンチは重いし。

 この復帰戦で負けて、誰もが今度という今度は辞めるだろうと思ったでしょうね。僕自身も悩み抜きました。辞めるか続けるか。

 周囲からもさすがにもう引退しろって言われてました。そのとき34歳だったんですが、通常ならば引退してもおかしくない歳でしたし。そもそも最初の世界戦で負けたときから引退勧告はありました。これまでたくさん言われているんですよね。結局、ボクサーにとっては世界戦が最終地点で、そこで結果を残せなかったら辞めるというのが通例ですから。だから僕は、負けて這い上がる、この繰り返し。

 今回も、まだ辞められない、こんな恥ずかしい試合して終われるかと思った。最後がこんな試合じゃ、天国に行ってしまった子供に顔向けできない。子供に胸を張れる僕らしい戦いができるまでは辞められない。それは結果じゃなくてね。こんな状態からでも俺はやるんだという心意気や、こんな状態で若いボクサーにどうやって立ち向かったか、そして自分ができることはすべてやった、やり遂げた姿をあの子たちに見てほしいという気持ちが強かったんです。

 もちろんそれだけじゃなく、僕のボクサーとしての魂がまだ続けたいと言ってたからでもあるんだけど、子供たちのことが重要なモチベーションになったことは確かですね。

 だからもう一回新たに走り出そうと思ったわけです。

 

子供たちのためにもう一度──。復活を誓った坂本は、新しい自分になるために未知のトレーニングを取り入れ、肉体までも変えようとする。そして最後のリングで子供たちに──。

最終回の次回は坂本がどん底からいかにして再びリングに立ったのか、そして坂本がこれから伝えていきたいことに迫ります。乞うご期待!

 
2007.2.5 ボクシングは「生き様」
2007.2.12 死をも思った幼少期
2007.2.19 練習で泣いて、試合で笑え
2007.2.26 突然襲った不幸 絶望の日々
2007.3.5 子供たちのために

プロフィール

さかもと・ひろゆき

1970年福岡県生まれ、36歳。日本ライト級チャンピオン、東洋太平洋チャンピオンに輝いた元プロボクサー。2007年1月に現役引退。

幼少時代を過ごした児童養護施設でボクシングのテレビ中継を見て、プロボクサーを目指す。

現役時代のニックネームは「平成のKOキング」。KOの山を築いた強打と打たれても前へ出るファイトスタイルで熱狂的なファンをもつ。4度にわたる世界挑戦の敗退、さらに椎間板ヘルニア手術による2年7カ月のブランクを乗り越え、最後の最後まで現役にこだわる。特に2000年に行われた畑山隆則とのWBC世界ライト級タイトルマッチは伝説の試合としていまだに語り継がれている。

困難や逆境にへこたれず挑戦し続けるその生き様は多くの人々に生きる勇気を与えた。記録よりも記憶に残る不撓不屈のボクサー。

●主な戦績
通算47戦39勝(29KO)7敗1分

1991年12月 デビュー戦をKOで勝利

1992年12月 東日本新人王ライト級チャンピオン(デビュー以来6戦連続KO勝利)

1993年12月 全日本新人王ライト級チャンピオン、日本ライト級チャンピオン

1996年3月 東洋太平洋ライト級チャンピオン

1997〜2000年 4度世界ライト級タイトルマッチに挑戦、敗れる

2002年 腰のヘルニア手術〜リハビリで2年7カ月のブランク

2005年5月 復帰戦に敗れる

2006年1月 3年7カ月ぶりの勝利

2007年1月 現役引退

●詳しいプロフィール、戦績、近況は、
角海老宝石ボクシングジム・オフィシャルWebサイトか、坂本博之さんのブログ:「ラストファイトまで不動心」へ!

●こころの青空基金
坂本氏が2000年7月に設立。各種チャリティイベントなどの募金活動を通じて、全国の養護施設にいる子供たちを支援している。
 
おすすめ!
 
『僕は運命を信じない 不滅のボクサー坂本博之物語』(西日本新聞社)

絶望の中でも夢を追い続け、はい上がってきた坂本の壮絶な半生を通じて、「生きる」という意味を問いかけている一冊。いじめによる自殺、児童虐待などが相次ぐ中、坂本さんは「どんな環境や境遇に生まれようとも、生きてさえいれば人は前に進むことができる」と訴えている(西日本新聞社Webサイトより)。

 
 
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魂の言葉 魂の言葉
本当のどん底からは自分で這い上がるしかない 本当のどん底からは自分で這い上がるしかない
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協力/角海老宝石ボクシングジム
http://www.kadoebi.com/boxing/

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