キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第19回 元プロボクサー 坂本博之-その三-このままではダメになる…

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魂の仕事人 第19回 其の二
空腹と虐待で死をも思った幼少期 養護施設で見た夢に向かって 挫折を乗り越え、KOデビュー
 
坂本はデビュー戦以降もKOの山を築き、東日本新人王、全日本新人王、日本王者と順調にタイトルを手にしていった。戦いの中で、見る人の魂を揺さぶるようなボクシングスタイルも確立されていく。しかし順調そうに見えたが、心の内では見えない敵と戦っていた。  
元プロボクサー(元東洋太平洋ライト級チャンピオン) 坂本博之
 

無敗のまま日本チャンピオンに

 
 

 ボクシングを始めてちょうど2年、23歳のときに日本チャンピオンになったんですが、やっぱりうれしかったですね。日本タイトルマッチくらいになると、お客さんの入りもすごいですからね。熱狂的なファンが増えたのも、マスコミに取り上げられ始めたのも、このころだった気がします。

 日本タイトルを獲って、ようやくボクシングだけで生活できるようになりました。デビュー時のファイトマネーが3万円、新人王で10万円、日本タイトルに挑戦するときでも50万円ですからね。だから日本チャンピオンになるまでは焼き鳥屋でバイトしてました。

 よく日本チャンピオンくらいでは食えないっていうボクサーもいるけど、僕はそうは思いません。日本チャンピオンの防衛戦のファイトマネーは100万円ほどだったので、確かにいいマンションに住みたい、いい車に乗りたい、貯金をしたいと思えば足りませんが、そんな贅沢を言わなければ生活できるんですよ。贅沢をしたいからほかに仕事をもてば、それだけ時間と労力が取られます。僕はそれがイヤだったから、日本チャンピオンになった後はバイトも辞めて、ボクシング1本に集中しました。やっぱり自分にとって一番大事なのは何かということですよね。

 ただ、日本チャンピオンでもボクシングだけで生活しようと思えばコンスタントに試合をしなければならないので、2カ月に1回のハイペースで試合をしてました。

坂本は日本タイトルを獲った後もKOで勝ち続けていった。狙うは世界。その裏には想像を絶するトレーニングがあった。

練習で泣いて、試合で笑え
 
「一番大事な」スパーリングに励む坂本(写真提供/角海老宝石ボクシングジム)
 

 練習で泣いて試合で笑えってくらい、練習はとにかくきついですよ。試合の方がラクですから。あの試合をやるために、ボクサーはあの倍は練習してると思って下さい。試合は1ラウンド3分ですが、練習では3分半くらいに、逆にインターバルは短めの30秒にしたりして、徹底的に自分をいじめ抜きます。

 試合が決まると、まずスタミナを鍛えるためにロードワークとか、最初は体力をつける練習をメインにやります。それを数日やって体力がついたなって頃に、実戦練習、スパーリングに入ります。これがボクシングの練習の中では一番大事なんですよ。100ラウンド以上やることもあります。僕はこれができなくなったから、自分の身体がダメかなって、引退を決意したんですよ。

地獄の減量
 
 

 同時に減量もやるんですが、試合が近づくにつれてだんだん厳しくなってきますね。練習してると胃液が出そうになります。胃の中に何も入れてないから。身体から水分がなくなってるから、唾も吐けないし。夜も眠れません。空腹でというのもあるんですが、水分を摂ってないから、顔の皮膚が突っ張っちゃって、目がぱっくり開いちゃうんですよ。そんな状態で夜、歩いてたら、警官に職務質問されたことがありました。顔の皮膚にハリがないし、目がぱっくり開いちゃってギラギラしてるから、シャブ中の人に間違えられちゃった(笑)。

 減量はほんとにきつかったです。死ぬ思いでしたね。僕のボクシングキャリアのメインはライト級だったんですが、ライト級のリミットは61.2キロ。通常時の体重が73キロくらいですから、2〜3カ月で10キロ以上落とさなければならない。

 階級を上げればもちろん減量は少し楽になるんですが、ほんとの限界まではそうしたくなかった。ライト級という階級にこだわりがあったんです。1999年まで、東洋人でライト級で世界チャンピオンになったボクサーってガッツ石松さんだけだったんです。次は絶対俺がなってやるんだって、そういう気持ちでやってました。

 減量は、練習だけでもハードですから、1回の練習で2、3キロ落ちます。失った分の栄養はカロリー計算しながら補給していきます。炭水化物は栄養がありすぎるから、たんぱく質オンリーでいくとか。もちろん量はごくわずかでね。でも水が一番いいんですよね。ノンカロリーだから。僕は日本茶が一番好きだったな。

 でも最後の方になるといよいよ水も飲めなくなります。うがいだけですよね。本来なら練習が終わった後は水分補給して循環させることがいいんだけど、そうもいかなくなるから。最後の500グラムってなかなか落ちないんですよね。サウナに行ってもなかなか汗が出ないし。いよいよとなったらガムをかんで唾液を出すなどして身体から水分を搾り出してました。

 飲まず食わずでよく練習できるって? それができちゃうんですよね、不思議と。試合が近づいてくると、食べたいとか飲みたいとか眠りたいとか、そういう欲がなくなってくるのがまた不思議。テンションも上がってくるしね。

 でも今、ジムの若手の練習を見てて、すげえなと思いますよ。ほとんど飲まず食わずでも動けるんだから。考えられないことやってたなって、僕自身も。

ボクサーはMでナルシスト?
 

 でも練習とか減量がつらくて、ボクシングを辞めたいと思ったことはないですね。もともと身体を酷使するというか、自分で自分をいじめるのが性に合ってるのかもしれないですね。これは僕らのようなボクサーだけじゃなくて、ほかのスポーツ選手もそうなんじゃないですかね。

 あとは、自分をいじめている自分が好き、みたいなのもあると思いますよ。見てるとナルシストというか、自分が好きってやつ、結構多いですよ。鏡を見ながら延々シャドーやってたりとか。僕の友達、みんなそうですから。全部自分が好きなやつばっかりです(笑)。

ゴールがあるから耐えられる
 
 

 でも耐えられる一番大きい理由は、やっぱりゴールが確実にあるからですよ。苦しい減量も際限なくやるわけじゃなくて、決戦のリングに立つまでですからね。ましてや勝ったときのうれしさや達成感に比べれば、減量の苦労なんて屁でもないんですよ。試合後の笑顔のためには、今は苦しいけどこれを一生懸命やんなきゃいけない、結果を出すまでの過程の中に練習や減量がある、そういうことをボクサーはみんな知ってるから我慢できるんです。

 だからボクシングは魂と魂のぶつかり合い。すごく神聖なもの。だから嘘がつけないんですよね、ちゃらんぽらんにできるものではない。

厳しい練習や減量を乗り越え、連勝街道を驀進していた坂本。試合には回を重ねることに熱狂的な観客が増え、試合は興奮に包まれた。しかし、観客は坂本がただ勝ち続けるから熱狂していたのではなかった。

観客の心を打つファイトスタイル
 

 僕はファイタータイプと呼ばれているボクサーで、距離を詰めて自分から相手の懐に飛び込んでいくスタイルなんです。当然相手からも打たれるリスクが高い。でもそれを恐れていたらできないスタイルなんですね。だから勝つためには勇気とタフネスとパンチ力が要求されます。

 でも最初からファイタースタイルで行こうと思ってたんじゃなく、経験を積むことで確立されていったんです。基本を教えてもらって、練習や試合をしていくうちに、元々自分の身体が頑丈にできてるというのがわかったし、パンチ力もあったし、何より自分の性分に合ってると思った。俺に合ってるファイトスタイルはこれなんだなと。

 でもボクシングのセオリーからいうと、ほんとは打たせてはダメなんです。打たせずに打つ、これが基本だから。確かに僕はよく打たれましたが、決してまともに打たれてたわけじゃなく、ほんとに数ミリ単位で急所をずらしてるんです。芯には当てさせてないんですね。逆に打つ方からいうと、急所の芯に当てないと、人間てなかなか倒れないんですよ。

 
 

 でもまぶたとかは鍛えようがないんで、顔には古傷がたくさんあります。顔だけでも100針くらい縫ってると思いますね(笑)。

 そういうファイトスタイルをお客さんは気に入ってくれていたようです。打たれて血だらけになっても前に出て、手を出し続けて最後にKOで勝つという姿に、自分をだぶらせて観てくれた人はたくさんいました。

日本タイトルを返上し、いよいよ海外へ照準を絞ろうとしていた矢先の1995年、坂本は突如スランプに陥る。試合には負けこそしないものの、坂本の代名詞ともいうべきKOがなくなったのだ。それはボクシングを辞めたいと思うほどの、初めての深刻なスランプだった。

拳に魂が宿らない……
 

 ジム内の人間関係のこじれから、周りの人間がすべて信じられなくなっちゃって……。ボクシングを辞めたいと思ったのは、引退する決断をした以外では、初めてのことでしたね。このジムではこの先ボクシングを続けていくのは無理なんじゃないかと。

 ボクシングってとてもメンタルなスポーツだから、精神的な弱さがモロに試合に出ちゃうんですよね。それは僕自身、前々から言ってたことなんですが、どんなにパンチ力があるボクサーでも、心に不安や悩みを抱えていれば、その拳には魂が宿らなくなって、相手を倒すことはできない。それがそのまんま僕に起こった。だから95年はKOが一度もないんですよね。

アメリカでの経験をきっかけに復活
OPBF王者に
 
 

 悶々とした日々を打ち破るきっかけは、世界ランカーと試合をするために行ったアメリカでつかめました。練習のために現地でキャンプを張ったのですが、そのとき地元の選手の練習風景を間近で見てびっくりしたんです。アメリカのボクサーってなんてのびのびと楽しそうにボクシングをやってるんだろうって。僕が所属していたジムでは今まで、笑顔を出しながら練習するっていうことがなかったんですよ。練習中に笑えるという雰囲気ではなかった。でも苦しいときこそ笑うことによって活力が出るんですよね。

 だから、僕もアメリカのボクサーのように、笑いながら、楽しく練習したいなと。だったら環境を変えるしかないと思って、帰国してすぐにジムを移籍(注1)したんです。

 そうしたら不安材料はなくなり、練習にも試合にも集中でき、OPBF(東洋太平洋)のライト級タイトルマッチにもKOで勝ってチャンピオンになれたんです。その後の試合も拳に気合が乗り始めてKOで勝てるようになりました。

 やはりあのとき待ってないですぐに自分から動いて環境を変えてよかったと思います。待ってたら一生そこのジムにいるしかなく、そうなればあのまま僕は終わっていた可能性も高い。だから、思い立ったらすぐ行動することは大事ですよね。

注1──ジムを移籍することはボクシング界ではタブーなので、簡単には移籍できない。しかも坂本は以前一度ジムを移籍している。しかし、「このままではダメになる」という強い意志で、移籍の交渉を他人に任せ、帰国早々に古巣の角海老宝石ジムで練習を開始した。

スランプを脱した坂本は27歳のとき、初めて世界タイトルへ挑戦する。ついに子供の頃にあこがれた夢の舞台へ上ってきたが、チャンピオンベルトは遠かった。

4度の世界タイトルマッチ
 

 27歳のときにライト級の世界タイトルに挑戦したんですが、やっぱり感慨深かったですね。子供のころの夢だったわけですから、ついにここまで来たなって感じで。

 世界タイトルマッチって特別なんですよね。お客さんのボルテージも違うし、自分のテンションも違う。でもリングに立っちゃえば同じなんですよね。今までやってきたものを出そうという意味では一緒。

 僕はこれまで4度世界タイトルに挑戦してるんですが、最初はフルラウンド戦った末の判定負け。翌年、2度目の挑戦も同じく12ラウンド判定負け。3度目の世界挑戦では、1ラウンドに2度ダウンを取ってもう少しでチャンピオンベルトに手が届きそうだったんですが、相手のパンチでまぶたを切られてドクターストップで負けてしまいました。

 もちろん悔しかったですが、そもそも相手に打たせなければ止められることもなかったし、仕留めるべきときに仕留められなかったというのも自分の責任ですからね。

 また、その逆のパターンもありえるわけで。僕がダウンを取られてても、相手にパンチを当てて、試合続行不可能なくらいの傷を負わせて、僕がチャンピオンになる可能性だってあるわけです。何が起こるかわからないからボクシングはおもしろいんですよね。

3度の世界挑戦に失敗し、通常ならとっくに引退していてもおかしくない状況だったが、坂本はあきらめず、4度目の世界タイトルに挑戦する。その試合こそ、今に語り継がれる伝説のタイトルマッチ、畑山隆則とのWBA世界ライト級タイトルマッチだった。

伝説の畑山戦
 
 

 4度目の世界挑戦、畑山とのタイトルマッチは、負けても「すごい試合だった」「感動した」「あんな試合を見せてくれてありがとう」って、いまだに多くの人に言われるので、今はありがたいと思ってますが、当時は全然うれしくなかったですね。

 負けたことが悔しくて悔しくてたまらなかった。試合の途中から記憶がないんですよ。耳から血が出るほど打たれてましたからね。どのラウンドあたりから覚えてないのかすらわかりません。途中からは完全に無意識で戦っていたことになります。最後に食らった右ストレートも、ダウンしたことも覚えてない。KOで負けたこと自体覚えてないんです。後でビデオを観て、ああ、やっぱり負けたんだなと。ものすごいショックでしたね。俺も人間なんだなって思いました。とにかくKO負けしたことでプライドがズタズタになったので、もう徹底的に鍛え直さなきゃダメだと思いました。

 だからあの試合の翌日から走り始めたんです。確認したかったんでしょうね。まだ俺はやれるんだと。実際、ああ、俺はまだ生きてるんだ、大丈夫だなって確認しながら走りました。昨日あれだけの激しい試合を、打たれても打たれても前に出て戦うスタイルを貫いたにもかかわらず、こうやって走れるんだから、まだまだボクシングをやれるんだって。

 

4度の世界戦で敗北した坂本は、本格的な再起戦となったOPBFタイトルマッチにも敗れる。その直後、ボクサーの生命線ともいえる腰の手術を決行。2年7カ月という長期間のブランクを乗り越え、不屈の執念で再起戦のリングに立つも、またもや敗北を喫してしまう。すでに身体はボロボロだった。しかしそれでも坂本はあきらめなかった──。

次回は度重なる困難や敗北を乗り越えて戦い続けた坂本の「終われなかった理由」そして「これから」に迫ります!

 
2007.2.5 ボクシングは「生き様」
2007.2.12 死をも思った幼少期
2007.2.19 練習で泣いて、試合で笑え
2007.2.26 突然襲った不幸 絶望の日々
2007.3.5 子供たちのために

プロフィール

さかもと・ひろゆき

1970年福岡県生まれ、36歳。日本ライト級チャンピオン、東洋太平洋チャンピオンに輝いた元プロボクサー。2007年1月に現役引退。

幼少時代を過ごした児童養護施設でボクシングのテレビ中継を見て、プロボクサーを目指す。

現役時代のニックネームは「平成のKOキング」。KOの山を築いた強打と打たれても前へ出るファイトスタイルで熱狂的なファンをもつ。4度にわたる世界挑戦の敗退、さらに椎間板ヘルニア手術による2年7カ月のブランクを乗り越え、最後の最後まで現役にこだわる。特に2000年に行われた畑山隆則とのWBC世界ライト級タイトルマッチは伝説の試合としていまだに語り継がれている。

困難や逆境にへこたれず挑戦し続けるその生き様は多くの人々に生きる勇気を与えた。記録よりも記憶に残る不撓不屈のボクサー。

●主な戦績
通算47戦39勝(29KO)7敗1分

1991年12月 デビュー戦をKOで勝利

1992年12月 東日本新人王ライト級チャンピオン(デビュー以来6戦連続KO勝利)

1993年12月 全日本新人王ライト級チャンピオン、日本ライト級チャンピオン

1996年3月 東洋太平洋ライト級チャンピオン

1997〜2000年 4度世界ライト級タイトルマッチに挑戦、敗れる

2002年 腰のヘルニア手術〜リハビリで2年7カ月のブランク

2005年5月 復帰戦に敗れる

2006年1月 3年7カ月ぶりの勝利

2007年1月 現役引退

●詳しいプロフィール、戦績、近況は、
角海老宝石ボクシングジム・オフィシャルWebサイトか、坂本博之さんのブログ:「ラストファイトまで不動心」へ!

●こころの青空基金
坂本氏が2000年7月に設立。各種チャリティイベントなどの募金活動を通じて、全国の養護施設にいる子供たちを支援している。
 
おすすめ!
 
『僕は運命を信じない 不滅のボクサー坂本博之物語』(西日本新聞社)

絶望の中でも夢を追い続け、はい上がってきた坂本の壮絶な半生を通じて、「生きる」という意味を問いかけている一冊。いじめによる自殺、児童虐待などが相次ぐ中、坂本さんは「どんな環境や境遇に生まれようとも、生きてさえいれば人は前に進むことができる」と訴えている(西日本新聞社Webサイトより)。

 
 
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協力/角海老宝石ボクシングジム
http://www.kadoebi.com/boxing/

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