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魂の仕事人 魂の仕事人 第17回 其の二 photo
すべてゼロからのスタート 水中撮影のため職も転々 苦難を乗り越えプロカメラマンに
 
ハタチのとき、ついに自分のすべてを懸けられるものに出会った中村氏。潜水、カメラ、撮影、すべてゼロからのスタート、しかもすべて自己流だから実戦あるのみ。生活のすべてが水中撮影を中心にして回り始めた。  
水中写真家 中村征夫
 

真っ白な写真

 

 なけなしの貯金をはたいて水中撮影を始めたはいいけど、撮っても撮ってもなーんにも写ってないわけ。僕が撮った白黒フィルムを現像してもらうとね、全部露出不足で真っ白なんだよ。写真屋のオヤジに「お客さん、光が足らないよ」って言われて、僕は「なんだ、こんなに明るく写ってるじゃないか」って答えてた(笑)。「いや、お客さん、露出がちゃんとあるとき、光があるときは、ネガフィルムって黒くなるんだよ」って説明されるんだけど、それが全く理解できない(笑)。なんせネガとポジの違いとか、絞りとシャッタースピードの関係とか、カメラの仕組みとか何一つわからないまま始めちゃったからね。

 どうして真っ白い写真ばっかりになっていたかというと、その当時、僕は素潜りがヘタだった。というより、まず潜り方が全然わかってなかった。せっかく買ったシュノーケルも潜るときは外してたからね(笑)。あまり深くまでは潜れなかったから、水面近くから下ばっかり撮ってた。水中は、深いところほど太陽の光が届かないから暗い、つまり露出が足らない。だからネガフィルムでは真っ白い写真ばかりになってたというわけ。

 でもあるとき、思い切り深く潜ってね、岩にしがみついて真上を見たとき、びっくりした。水面が明るくて、魚が僕より上を泳いでるんだわ。シルエットになってさ。そのとき「あれ?」と思って。「オレ魚より深く潜ってるぞ」と思ったらなんだかうれしくなっちゃって。それで下からあおって撮ったら、そのときはちゃんと写ってたんだわ。ああそうか、光が足らないというのはこういうことかと。明るいからちゃんと写ってるんだと。それでようやく、光と影というのがわかってきたんだ。

 こんな感じで、最初は写真のことは何にもわからなかったけど、実際に撮ることで覚えていったよね。もちろん本を読んだりして基本的なことは勉強したけど、やっぱり、ちゃんとできるようになるには失敗を繰り返さないとダメなんだよ。

撮影のために職も変える
 

 とにかくひまさえあれば海で写真を撮ってたんだけど、酒屋で働き始めて2年くらい経ったころ、ご主人から店を譲るって言われたんだよ。でもそのときは写真に夢中だったから、「ごめんなさい。僕、まだやってみたいことがあるんで、新しい若い人を探してくれませんか」って頭を下げて、見つかると同時に店を辞めたんだ。

 でも当然生活費や写真のフィルム代を稼がなきゃいけないから、また新聞の求人欄を見て仕事を探してね。建設会社の社長の運転手をやってた時期もあったよ。高級車に乗ってみたくてね。最初はアルバイトだったんだけど、社長にスカウトされてさ、「君、このままウチでずっと運転手をやらないかね」って言われて。どっかで間違ってたら、今でも帽子をかぶって白い手袋をはめて運転手をやってたかもしれないな(笑)。

 その後は自分で商売を始めたんだ。おつまみの卸し売り。ピーナッツとか柿の種のようなおつまみを御徒町で大量に買ってきて、だるまの秤で量って小さなビニール袋に詰めて、映画館や酒屋さんや駄菓子屋さんに卸すという仕事。

 そこで酒屋時代の経験が生きた。卸し先は全部飛び込みで開拓したんだけど、酒屋で働いてたとき、御用聞きとかでしょっちゅう新規開拓をしてたから、お手の物だったね。そうやってお得意様を増やしてってさ。もちろん、酒屋同士の縄張りってのがあるから、それは犯さないようにしてたけどね。

 この商売はそれほど儲けることはできなかったけど、そこそこの収入にはなったんだ。家賃や生活費、撮影費も賄えて、なおかつ少しだけど蓄えもできた。バイクもスーパーカブから自動二輪のオートバイに変えたりもできたし。中古だったけどね。なにより好きなときに海に行けるし、辞めようと思えばいつでも辞めることはできるから、そういう自由さがよかった。それはやっぱり、何か自分で商売をやらない限りはできないからね。

ダイビングを覚え、本格的に撮影開始
 

 1年くらい素潜りで撮影してたんだけど、やっぱり素潜りじゃ撮れる写真に限界があるし、もっと海の中を撮ってみたいと思うようになった。この世界に入るきっかけを与えてくれたあのダイバーのようにね。

 それで早速、神田にスキューバダイビングの講習をやってるプールを見つけて入門したんだ。そしたらインストラクターから「あんた素潜り歴が長いから、覚えるの早いね」なんて言われて、あっという間にスキューバを覚えた。それから当時の家の近所にダイビングショップがあったから、そこに通うようになってね。しょっちゅう彼らに真鶴のダイビングポイントに連れてってもらって、みんなでタンクを背負って潜るようになった。そこからだよね、本格的に水中写真を撮るようになったのは。

 そのころ昭和42年、23歳ころだったんだけど、当時はまだダイビングをやる人なんてほんの一握りだったから、僕らはかなり目立ってたな。普通の海水浴やドライブに来てる人たちが不思議な目で見るんだよね。もう見世物だったよ(笑)。

初めての掲載 本屋の片隅で泣く
 

 そのころになっても写真の学校に通ったり、だれか師匠について教えてもらうなんてことはせずに、我流で、とにかく潜っては撮るということを繰り返してた。たまに自分なりにいい写真が撮れたなと思ったときだけ写真雑誌に送ったりしてね。やっぱり、我流だから自分の写真がこれで本当にいいのか、他の人に比べてどうかっていうのがわかんなくてね。それで『海の世界』っていう雑誌で写真のコンテストをやってたから、何度か応募したことがあったんだ。

 あるとき、本屋でコンテストの発表のページを立ち読みしてたとき、「あれ? 僕と同じような写真を撮ってる人がいるな」と思った写真があって。でもよく見てみたら写真の下に自分の名前が書いてあってさ。もううれしくてうれしくてね。本屋の片隅で泣いたよ。我流で撮ってきたものが初めて人に認められたわけだからね。最初の頃は撮っても撮っても何も写ってなくてさ。あのころは本当につらかった。今考えるとあのときよく辞めなかったなと思うよ。

 なぜ辞めずに頑張れたか? それはやっぱり目標があったからだろうね。当時数少ない写真雑誌でハンス・ハスっていうオーストリアの一流水中カメラマンの撮った作品とかを見て、こんな世界があるのかって思ったりしてね。むさぼるように読んでた。いつか必ず僕もこんな世界を見てみたい、こんな写真を撮ってみたいって思ってたから。

 余談だけど、その何十年後か、沖縄海洋博でね、ハンス・ハスに会うわけよ。階段ですれ違いざまに、目と目が合ったわけだけど、ハンス・ハスに間違いないと思ったときは感動したよね。憧れの人だったから。

1969年、日本の水中撮影の草分け的存在である水中撮影プロダクションから日本初のダイビング雑誌が創刊。これを機に中村氏は同社に入社。ついにプロカメラマンとして新たなステージに上がる。ようやく好きな写真でメシが食えると思ったがしかし、ここからがつらく長く苦しい道のりの始まりだった。

プロカメラマンとしてスタート
つらかった7年間
 

 やっと好きな写真1本でメシが食えると思ったんだけど、現実はそんなに甘くなかった。入社して2号目からは僕の撮った写真も掲載されたんだけど、仕事は撮影だけじゃなくて、営業も含めていろんなことをやることになった。

 雑誌は創刊してしばらくは実績がないから取り次ぎ会社が受け付けてくれなくてね。雑誌もなかなか売れなかったから、ライトバンにめいっぱい雑誌を積んで全国のダイビングショップを回ってたんだよ。しばらく経つとまた、四国一周、九州一周、東北一周って、一週間くらいの予定で車をとばして、集金を兼ねながら新しい号の雑誌を置いてくる。その繰り返しでね。真夜中や明け方に着いちゃったときは、モーテルとか車の中に泊まったりしてた。

 でも届け先の人はみんないい人でね。よく自分の家に泊まってけって泊めてくれたり、食事をご馳走になったり、すごく親切にしてくれたんだ。そのときによく「おまえなんで会社を辞めないんだよ」「応援するから早く辞めて独立しろよ」っていつも言われてた。そのときにお世話になった人がいまもまだ付き合ってくれてるわけだけど、それが一番の財産だよね。

 会社時代に一番つらかったのは、人間関係。オーナーには最後まで、自分の気持ちを理解してもらえなかったね。それも7年間も……。スタッフを信じる人ではなかった。よく7年間も我慢できたって? 確かに当時はなんでこういう運命なんだろうって思ってたけど、小さいときから里子に出され、実の父親からいじめられてきたとか、そういういろんな経験をしてきたから、なんとか持ちこたえられたんだと思うよ。そうじゃなかったらとても耐えられなかったと思う。

我慢と葛藤の7年間を過ごした中村氏だったが、ついに独立のきっかけとなる事件が起きる。1976年に起きた「奥多摩湖一家6人行方不明事件」。これを機に、中村氏の運命は大きく変わることとなる。

朝日新聞からの突然の電話
 

 会社に入って7年目のある日、朝日新聞の写真部から電話がかかってきた。ある一家が大菩薩峠にドライブに出かけたまま行方不明になってたんだけど、その車がどうやら奥多摩湖に沈んでいるらしいと。その沈んでいる車の写真を撮りたいから協力してほしいという依頼だった。

 そのとき、他に行ける人がいなかったから僕が行くしかなかった。会社を代表して行くわけだから、失敗は絶対に許されない。もしうまく撮れなかったら会社に恥をかかせやがって!って必要以上に言われるのは目に見えてたからね。すごいプレッシャーだった。

 最初は、朝日新聞からもHさんていうカメラマンは行くし、僕はあくまでも雇われた身だから、水中でサポートだけしようと思ってた。そしたら彼は海で潜った経験がなくて、山中湖を一回しか潜ったことないって言うんだよ。

 それは困ったと。だから、露出やシャッタースピードを僕が全部決めてからHさんにカメラを渡すから、そこでシャッター切ってよって。Hさんは、それでいいの?って言ったんだけど、僕は雇われてきたんだから、それでいいんだよって言って。

 そう決めて一緒に奥多摩湖に潜ったんだけど、水中はヘドロで真っ暗闇で何も見えなかった。それでも車を探して水中を移動してたら肩に何かがガーンと当たったんだ。探してた車のようだったから、やっと見つけた! と思ってHさんを探したんだけど、どこにもいない。途中ではぐれちゃってたんだ。それから必死に探して見つけることはできたんだけど、彼のマスクを覗き込んだら、もうパニックのようでね。二重事故になったら大変と判断し、いったんエキジットして、もう一回命綱をつけて潜ることにしたんだ。

 でも、二度目は見つけられなかった。これ以上探しても、事故を起こす可能性が高いからやめようって、その時点で断念したんだよ。そのうちヘリコプターは飛んでくるわ、いろんな人たちが潜り始めるわで、現場は騒然としちゃって。僕はその様子を夕方までじっと見てた。でも、もし、他社のカメラマンが車を見つけて撮っちゃったら、水中撮影のプロとしてこんな情けない話はない、これで辞めるしかないかもしれないなと思ったら、いてもたってもいられなくなってね。イチかバチかで、最後の望みをかけて潜ろうと決断したんだ。でも初心者がいたら足手まといだから、僕一人にしてくれって、一人でもう一回潜った。遺体が沈んでる暗い湖の中、一人で潜るのは正直怖かったけど、水中のプロとしてのプライドでやるしかなかった。

三度目の正直、命がけで撮影成功
 

 そしてもう一回エントリーして一気に潜行したんだけど、水深18メートル付近でズトンと足が何か堅いものに当たったんだ。もしやと思って、真っ暗な中、手探りでその物体をまさぐるとバンパーらしきものに手が触れた。なんと偶然、沈んだ車の真上に降りられたんだ。今思えばこれも運命的なものだと思う。で、とにかくナンバープレートを確認しなきゃと思って手でつかんで見たら、多摩の「多」の字が真っ暗な水の中から浮かんで来るように見えてきた。しかも逆さまで。車はひっくり返った状態で沈んでたんだ。ナンバーをすべて確認したらやはり行方不明になってた車に間違いなかった。

 興奮しながら撮り終えて、浮上しようと思ったんだけど、上がれないんだよ。体が全然動かない。そうなったら普通はパニックになると思うんだけども、落ち着けーって自分自身に言い聞かせて。なんで上がれないのか考えろって。落ち着いてよく周りの状況を見てみたら、自分の体が胸の辺りまでヘドロの中にずぶずぶずぶーって、沈んでたんだ。それがわかって、真っ暗な中、片足ずつ足を抜いてなんとか車の上にたどりついたんだ。

 それから命綱を懸命に探した。でも手が綱に触れた途端、急浮上をしてしまった。恐くて仕方なかったんだね。18メートルから10メートルくらいは一気に上がったと思う。怖くて、ぴゅーっと。エアエンボ(注1)。ギリギリだった。肺がぶわーっと膨らんだんだ。「やばい! このままじゃ肺が破裂する」と思って、それから後はゆっくりゆっくり上がって。ほんと、死ぬ思いだったよ。

注1 エアエンボ──エア・エンボリズム=空気栓塞症 (くうきせんそくしょう)。水中では水圧がかかるため、深く潜行するにしたがって肺の中の空気も圧縮され、浮上するにしたがって、空気は膨張する。よって息を止めたまま急浮上すると逃げ場を失った空気によって肺胞が破裂、破壊された細血管から空気が血液中に流れ込み、血流を止める傷害。パニックになって急浮上するダイバーが起こしてしまう事故で、死にいたる場合もある。

スクープのはずが……
 

 でも写真はバッチリ撮れてたし、スクープにもなった。当時の朝日新聞に僕が撮ったナンバープレートの写真が載ったのを見たときはやっぱりぐっときたよね。朝日としてもスクープだし、会社や僕の名前が何回も出たわけだから、会社としては、これでなんとかメンツが立っただろうと。僕もやるだけのことはやったと思ったね。

 ところが1カ月くらい経っても、オーナーは心から喜んではくれなかった。自分の売名行為に過ぎないと思ってたんだろうね。あんな命がけでやったのにね。でも撮れなかったらもっと言われるでしょ。ウチを代表しながらなにやってんだ、恥かかせやがって、なんてね。撮っても撮れなくても同じ。もうこれ以上この会社にはいたくはない。7年間も我慢したんだからもういいだろって、辞める決意をしたんだ。

 

ついに堪忍袋の緒が切れて退職、独立した中村氏だったが、そこからが苦難の連続だった──。

次回は独立後の苦しい時期、それを乗り越えて写真家として認められるまでの過程に迫ります。乞う、ご期待!

 
2006.12.4 1 やりたいことがわからず 身もだえしていた10代
2006.12.11 2 命がけのスクープで 運命が変わった
2006.12.18 3 31歳、裸一貫で独立
2006.12.25 4 仕事は生かされている証

プロフィール

なかむら・いくお

1945年秋田県生まれ、61歳。日本を代表する水中写真家。撮影プロダクション株式会社スコール.代表。

高校卒業後、上京。大型家電量販店の販売員、酒屋の店員、お抱え運転手、お菓子の卸売り業など、職を転々としながら独学で水中写真を学ぶ。24歳のときに水中カメラマンとして水中撮影プロダクションに入社。

7年間勤務した後独立。以後水中写真家として新聞、雑誌、テレビなどの各種媒体に水中写真、映像を提供。自身の出演、講演も多数。写真集、著作、DVDなど受賞作品も多い。

2006年8〜9月には水中写真家としては初めて東京都立美術館で単独で企画展海中2万7000時間の旅を開催。大反響を呼び、ほぼ口コミで4万人の観客を集める。
(2007年1月4日(木)〜2月21日(水)10:00〜18:00 秋田市立千秋美術館でも開催されます)

●公式ブログ:水中写真家・中村征夫のぷかぷかブログ

●主な受賞歴・作品
1988 第13回木村伊兵衛写真賞受賞(『全・東京湾』『海中顔面博覧会』)
1994 第9回文化庁芸術作品賞。(NHKラジオドキュメンタリー『鎮魂奥尻・水中写真家中村征夫の証言』)
1996  第12回東川写真賞特別賞。(『カムイの海』)
日本産業文化映像祭第1位。(ハイビジョンソフト『カムイの海』)
1997 第28回講談社出版文化賞写真賞。(『海のなかへ』)
1998 年鑑日本の広告写真’98優秀賞。

詳しいプロフィール・受賞歴・作品はこちら

 
おすすめ!
 
 
『海中奇面組』(KKベストセラーズ)

『読売新聞』の人気連載が、カラー写真満載のフォトエッセイとして新登場!“半漁人”中村征夫が、長き水中の旅を通して撮ってきた作品の中から77点を選び出し、だれも知らない撮影秘話を交えたエッセイで紹介。今回は、特に魚の“面白い顔”に焦点をあてたスペシャル・エディション。

 
『海中2万7000時間の旅』(講談社)

東京都写真美術館での写真展に合わせて作られたDVD付き写真集。写真219点を収録。DVDは、オホーツク、小笠原、南オーストラリアなど7つの海の特別映像、約30分。

 
 
ラジオのパーソナリティも!
 
 
「中村征夫の世界の国から」
ニッポン放送(毎週水曜日放送)20:30〜20:50

2006年10月4日(水)〜半年間
さまざまな国を旅してきた中村氏が、それぞれの国での体験談や現地の様子をおもしろおかしく伝える。ニッポン放送のアナウンサーと一緒に、初めてのパーソナリティを務めている
 
 
お知らせ
 
魂の仕事人 書籍化決!2008.7.14発売 河出書房新社 定価1,470円(本体1,400円)

業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
●河出書房新社

 
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