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魂の仕事人 魂の仕事人 第8回 其の二 photo
元々目指していたのは教師 プロ野球選手になる気はなかった プロは回り道だったけど それが「今」につながっている
  プロ野球時代、チームリーダーとして常勝・西武ライオンズの黄金時代を支えた石毛氏。スター選手の名をほしいままにしたがしかし、意外にもプロ野球選手になろうと思ったことは一度もないという。四国アイランドリーグ設立までにいたる野球人としての栄光と挫折の日々を聞いた。
四国アイランドリーグ代表 石毛宏典
 
プロになろうと思ったことは
一度もなかった
 

 そもそも僕はプロ野球選手になる気は全然なかったんです。元々は教師になりたかった。大学だって、教師になりたいと思って進学したんです。

 将来は高校の教師をやりながら野球の監督をやりたいと思っていたのですが、大学では野球漬けで授業に出られず教職は断念せざるをえなかった。

 僕をスカウトしてくれた駒沢大学野球部の太田監督の生き方とか、これまでの小学校、中学校、高校の監督さんの生き方を見て、アマチュアの指導者もいいなぁと。でも簡単にそんな職も得られないだろうと。大学や社会人野球部の監督にもそう簡単にはなれないからね。

 大学卒業後、プリンスホテルに入ってもその夢は捨て切れませんでした。じゃあそうなるためにはどうすればいいんだろうかと考えたときに、頑張って全日本に入って、名前を売ることだと思ったんです。それで実際に全日本に入れたのですが、そういう頑張りをプロのスカウトの方々に評価していただいたということでしょうね。

全日本のショートに選ばれた石毛氏。となりには当時から球界のサラブレッドとして注目を浴びていた原辰徳がいた。世界選手権の結果は2位だったが、周囲の声もあり次第にプロへの興味が湧いてきた。そしてドラフトで阪急(当時)と西武から1位指名。このとき当たりくじを引いたのが阪急だったら石毛氏の人生は大きく変わっていた。
もし阪急指名だったら
今頃プリンスホテルの支配人
 

 もし阪急だったらプロにはいかず、そのままプリンスに勤めながら野球をしていたでしょうね。たぶん今頃はどこかのプリンスホテルの支配人をやってるんじゃないですか? 僕はプリンスホテルの一期生なんですが、同期は皆、支配人をやっているんですよ。

 西武だったら同じプリンス系だしいいかと思って入ったんです。何が何でも野球でメシを食いたいという気持ちもなかったですし、そもそもプロになりたいと思ったことはこれまで一度もないですからね。

 僕がやりたかったのはアマチュアの指導者ですから。元々アマチュアに行きたかった人間が、いったんプロへ行っていろんな人生経験を経て、今プロリーグを立ち上げて、若手の育成指導をやっている。僕にとってプロは回り道だったんでしょうけど、でもそれが昔からやりたかったことにつながってる。今、やりたかったことがやれているので結果的にはよかったんでしょうね。

西武ライオンズに入団した石毛氏は、いきなり目覚しい活躍を見せる。入団一年目に首位打者争いに加わり、新人としては長島茂雄以来、23年ぶりの3割打者となる。その後も11回のリーグ優勝、8回の日本一に貢献するなどチームリーダーとして、西武ライオンズの黄金期を支えた。日本シリーズやリーグのMVP、ゴールデングラブ賞など数々の賞を獲得し、94年には2億円プレイヤーにもなった。そんな輝かしい実績を誇るスター選手も、95年にダイエーホークス(当時)に移籍後は屈辱の連続だった。
屈辱のホークス時代
 

 まだ現役にこだわりたかったので、西武の監督要請を断わってダイエーに行きました。ところが、38歳まで14年間、プロの第一線で走ってこれたんですが、ダイエーに行ったらゲームに出られなかったんですね。レギュラーにいた人間がゲームに出れないということは、ある意味屈辱だった。一年間やらせていただいて、ゲームに出られなかったのだから、「もう引退だろう、球団が契約しないだろう」と思っていたんですね。当然給料も2億円という高いものをいただいていましたんでね。僕自身も年齢的に39になったので、そろそろかな、と自分でも幕を引こうと思っていたんです。

 当時、ダイエーの専務だった根本さんと相談して「辞めていいでしょうか」と言ったんです。すると「何で辞めるんだ? 球団としてはもちろん来期もやってほしい」って言われたんですね。「お前も将来指導者になりたいのであれば、いろんな立場で野球を見れるところに身を置くべきだ」「引退してネット裏から野球を見たいというかもしれないけれど、一番近いところ、ベンチに入って、監督とコーチ、選手の動向を見られればこんないいことはないだろう」「勝つことよりも、もう一度、プロ野球人として頑張るべきだ。年齢的なものは頑張ればなんとかなる。頑張って、頑張って、使えなくなったり惨めになったら辞めればいい」と。そういったアドバイスがあって、次のシーズンもやらしてもらったんです。年棒は半分になるという条件だったのですが、それは全く問題ではなかったですね。

転機となった
メジャーコーチ留学
 

 結局もう一年やって現役は引退しました。体力の限界を感じてというわけじゃなかったんだけど、年齢的に40というものが出てきたし、十分にプロ野球をやらしてもらったし、かといってこの年棒でそれほど仕事をしていないんだったら、当然自分の方から身を引くべきだと。

 で、その翌年、アメリカへコーチ留学に行きました。自分の中に、引退したら必ずアメリカに行ってみようというのがあった。短期ではなしに、少し長期で滞在してアメリカの野球を見てみたいというのが自分の人生設計の中に入っていましたんで。冒頭でもお話しましたが、一年間メジャーでのコーチ留学という形で、アメリカのベースボールを見れたというのが、四国アイランドリーグを立ち上げる大きなきっかけになったんですね。

アメリカから帰国した石毛氏はプロ野球解説者や評論家として活躍する傍ら、日本での独立リーグの可能性を調査。そうこうしているうちにオリックスブルーウェーブ(当時)から監督就任の要請があり、これを受諾。しかし成績が奮わぬまま、解任されてしまう。
一番キツかった
オリックス監督時代
 

 監督のオファーが来たとき、そのシーズンは大幅に戦力ダウンになるし、これじゃ勝てないな、というのは分っていました。1年や2年の契約じゃチームの建て直しができないだろうし、それじゃ自分のキャリアにもならないから、せめて3年以上で契約したいなぁと思ってたんです。それを伝えたら3年契約というのをオリックス側が飲んでくれた。3年でウチのチームを立て直してくれと。それで引き受けたんですが、結局立て直しはできずに、成績は振るわずに、一年間最下位に終わりました。

 あのときは一番キツかったですね。オリックスは阪急という昔の球団の伝統があって、その阪急時代を含めて過去最低の勝率だとか、連敗だとか、球団創設以来のワースト記録をつくったということで、各方面からいろんなお叱りを受けました。でも「まあしょうがねえや」と。

 そのときの球団社長に、「戦力は全部フロントでそろえてください。私は与えられた戦力でやります」と言ったんです。監督があれ取れこれ取れというのでは、なかなか夢が叶わないときもあってですね、結局、「石毛の言うことを聞いて戦力を整えたけど勝てなかった」というのが今までの通例だったんですね。そういうことで責任を取らされるのは違うと思っていたので、戦力はすべて球団を整えてくださいと。

 それで球団は「じゃ、石毛、戦力を整えたからどうぞ」と。「分りました。ではこれで頑張ります」と。その若者を育成しなくてはならないということもあって、それなりの厳しい思いで選手に接してきました。けど結果が出なかった、

 結局、結果が出ず、2年目の20試合目くらいで借金4か5になったときに解任されたんですね。まあ、監督の要請を受けたときには、いつクビになってもいつ辞めてもある程度、石毛の責任ではないというものを自分的に計算して作っておいたんですよ。ズルイかもしれませんけど。クビになるというのはよくある話で、それなりに受け止めたんですけどね。だからそんなに悪びれるということはなかったですね。「ふざけんな!」という気持ちもなかったですし、うろたえるとか、ヤケになることってことはまずなかったですよ。

 挫折感? それもなかったですね。ただ、「石毛という監督は本当に監督業をしてきたんだろうか」ということは反省点にのぼりましたよね。確かに与えられた戦力でいいとは言ったけれど、その戦力が、冷静に見たらたいした戦力ではなかったんだろうけれども、だけど、それで自分の監督業をなんかズルしたってわけじゃないけど、そんな逃げ道を自分で作っただけに、どうだったんだろうかという反省は残りましたね。

 でも現場においては、1軍は勝つことが目標なんで、勝つためには何をしなくてはならないのか、何が必要なのか、そういうことを僕は伝えてきた。ある面では野球人として監督として仕事をしている以上、それに向かっていくものは伝えてきた、そういう自負はある。

 多少、そういうものがないと、僕は逆に卑屈になってしまうし、あるいは反省がないとバカかと言われてしまうし。そのへんは微妙なとこですね。

アイランドリーグ設立に向けて始動
 

 監督を辞めて、4月いっぱい、ゴールデンウィークまでは家族サービスをしていたんですけれど、5月の中旬以降くらいには、いろんなところ、高校、大学、社会人のアマチュアの指導者たちに会って、独立リーグ設立に向けての調査をやってました。

 評論家や解説者への道は考えなかったかって? それは全然考えなかったですね。プロ野球の1軍の監督もやった、評論家もやった。そして3年契約のうちの1年4カ月でクビになったわけですから、1年8カ月分の給料はあるわけですね。で、これで何かできないのかと。そっちの方が強かったんです。

 97年にアメリカに行って、98年に日本に帰ってきて、99年から3年くらい評論家やって、2000年くらいに独立リーグやマイナーリーグを見にまたアメリカに行ってきたんですね。ハワイにも行って、そこで独立リーグを立ち上げられないかとも考えました。2001年くらいには北海道や東北の方でチャンスはないだろうかと調査もしてました。東北の方でできそうな雰囲気が出てきたときに、オリックスから監督の要請が来たから受けてしまった。

 2000年、2001年とこういう動きをしていたわけですから、辞めた今、もう一度独立リーグを立ち上げられるか考えてみようと。また、多少のお金はあったわけですから、これで何かできないのかなと考えてましたね。

くすぶり続けていた
指導者への夢
 

 根本的には大学卒業するときにやりたかった「アマチュア野球の指導」「野球選手を育ててみたい」というのが、まだまだ残っていたんでしょうね。プロ野球という回り道をしてしまったためにやれなかったことをやろうと。今ならできると。

 また、日本の野球界を見たときに、今はこういったリーグが絶対必要なんだと思っていましたからね。思い込みが強かったというんでしょうかね(笑)。

 

プロ野球選手時代の輝かしい戦績があれば、解説者、評論家、著述家として第2の人生を楽に生きれたはず。しかし石毛氏は48歳にしてこれまで経験したことのない、「独立リーグの創設、経営」という新しい世界へ身を投じていく。石毛氏は言う。他人はイバラの道というけれど、俺には赤じゅうたんの花道に見えると──。

次週の最終回では、石毛氏にとって仕事とは、働くとは、誰のために、何のために働くかなどについて、語っていただきます。最終回はよりアツいですよ!

 
2006.2.6 リリース 1 大変な仕事だけど つらいと思ったことはない
2006.2.13 リリース 2 プロは回り道だったけど やりたいことにつながった
NEW! 2006.2.20 リリース 3 仕事は自分以外の誰かのため いばらの道も赤じゅうたん

プロフィール
いしげ・ひろみち

1956年9月 千葉県旭市生まれ。少年時代から野球を始め、銚子高校時代は決勝戦で破れあと一歩のところで甲子園を逃す。大学進学は難しいと考えていたところ、駒澤大学野球部の太田監督が両親を説得、駒澤大学に進学。主将を務め、東都大学リーグ1部でチームを5度の優勝へ導く

1979年 
プロは念頭になく、プリンスホテルに入社。80年世界選手権にショートで出場。2位となる。ちなみにこのときのサードは原辰徳

1981年 
ドラフト会議で西武ライオンズと阪急ブレーブス(当時)から1位指名。西武へ入団。23年ぶりの新人3割打者となりパ・リーグ新人王を獲得。以後11回のリーグ優勝、8回の日本一に貢献。西武ライオンズ黄金時代のチームリーダーとして活躍。個人でもリーグや日本シリーズのMVPやゴールデングラブ賞など数々の賞を獲得。94年には球界3人目の2億円プレイヤーとなった。

1995年 
福岡ダイエーホークスに移籍

1996年 
現役引退

1997年 
アメリカメジャーリーグ・ドジャースへコーチ留学

1998年 
福岡ダイエーホークス二軍監督

2002年 
オリックスブルーウェーブ(当時)から要請を受け監督に。翌年シーズン半ばで監督解任

2004年 
四国アイランドリーグの運営会社「株式会社IBLJ(インディペンデント・ベースボールリーグ・オブ・ジャパン)」を設立。代表取締役に就任

2005年4月 
四国アイランドリーグ開幕。10月、全180試合の全日程を終了

2005年12月 
育成ドラフト会議でプロ野球から2名の選手が指名。正式に入団が決定


●通算成績
出場試合数1796
打率 2割8分3厘
本塁打 236本
得点 847

1981年 パ・リーグ新人王
1986年 パ・リーグMVP
1988年 日本シリーズMVP
リーグ優勝 11回
日本一 8回
ベストナイン 8回
ゴールデングラブ賞 10回
オールスター出場 14回


四国アイランドリーグ
従来のプロ野球機構(NPB)とは一線を画した、日本初の独立プロ野球リーグ。アマのプロへの登竜門、プロ野球OBの受け皿として設立。

四国四県、愛媛マンダリンパイレーツ、高知ファイティングドッグス、香川オリーブガイナーズ、徳島インディゴソックスの四チームで年間180試合を戦う。1年目のシーズンは高知ファイティングドッグスが2位に6.5ゲーム差をつけて優勝した。2位以下は徳島→香川→愛媛の順。登録選手は100名。年俸は204万。シーズンオフは仕事の斡旋も行っている。

★公式Webサイトはこちら

 
お知らせ
四国アイランドリーグ選抜
VS
読売ジャイアンツ2軍
交流戦開催決定!

 

3月18、19日、四国アイランドリーグ(4チーム)の選抜チームが読売ジャイアンツの2軍と交流試合を行います。石毛氏が育て上げたアツい若者たちの戦いぶりを見るチャンス。春の四国へ野球観戦に出かけませんか?

【読売ジャイアンツ(2軍) VS
四国アイランドリーグ選抜】

●開催日:3月18日(土)
●試合開始時刻:13時(予定)
●場所:徳島・県営鳴門球場
(徳島県鳴門市撫養町立岩字4枚61番地)
※主催:読売新聞社、報知新聞社

【四国アイランドリーグ選抜 VS
読売ジャイアンツ(2軍)】

●開催日:3月19日(日)
●試合開始時刻:13時(予定)
●場所:愛媛・西条ひうち球場
(愛媛県西条市ひうち1番地2)
※主催:四国アイランドリーグ

※問い合わせ先
●四国アイランドリーグ
TEL 087-825-9760

●読売新聞大阪本社
スポーツ事業部
TEL 06-6366-1833

 
お知らせ
 
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photo 結果が残せなかったことに対しては 反省もあるけど自負もある 結果が残せなかったことに対しては 反省もあるけど自負もある 結果が残せなかったことに対しては 反省もあるけど自負もある
インタビューその三へ
 
 

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