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魂の仕事人 魂の仕事人 第6回 其の二 photo
アイデンティティの確立、処女写真集出版、新聞社に就職 二度目のエチオピアが人生を変えた
青年海外協力隊としての任期を終える直前、吉岡さんにとって運命的な出会いがあった。伝説の報道カメラマン、岡村昭彦氏(故人)。彼が放った一言は若き吉岡さんを打ちのめしたばかりか、生き方までも変えてしまう。
新聞記者・ノンフィクション作家・ドキュメンタリー映画監督・写真家 吉岡逸夫
 
「シャッター以前」にガーン!
 

 岡村昭彦さん(注)にね、「キミは報道写真を撮ってはいけない」って言われたんだ。頭ごなしにね。「先にテクニックを覚えてしまってるから」って。ショックだったね。頭をガーンって殴られた感じだった。だって、それじゃオレ、何のために写真の専門学校に行ったかわかんないじゃない。オレの生き方とか存在を全否定された感じがしたよね。

 岡村さんは「報道写真は『撮る以前』が大事。被写体、撮る対象についての知識、見識や自分なりの見方がないと撮ってはいけない」って言うんだよ。その後も何回か会ったんだけど、その都度ボロクソ言われてね。でも一方でなにくそ!って気持ちもあった。「冗談じゃねえ! オレなりのやりかたでもできるはずだ!」って。

 でも一方で尊敬もしたんだよ。岡村さんって人はほんとにすごい人でさ、ベトナム戦争のとき、当時日本人では誰も入らなかった北ベトナムに潜入したんだけど、ベトコンに捕まってカメラを取り上げられた。それでも『ライフ』に記事を発表したんだけど、写真がないからアメリカ人のイラストレーターにイラストを描かせて、それを載っけてたんだよね。この人はカメラマンなのにイラストで発表してる! ってもうびっくりしたよ。あと『世界』っていう雑誌に「フォトドキュメント 北ベトナム再訪」って記事を発表したんだけど、文章だけで一枚も写真がなかった。現地の兵士に写真撮影は禁止って言われて撮れなかったからなんだけど、写真が一枚もないのに「フォトドキュメント」だからね。すごいよね。

 
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 そのとき感じたのは、重要なのはカメラとかイラストとか文章とかではなくて、伝えたいことがあるかどうかだと。それさえあれば手法はなんだっていいんだと。

 そのとき、現地でいろいろ写真を撮ってはいたんだけど、報道写真家になりたいっていう気持ちは正直なかった。そもそも自分が何を表現したいのか、分からなかったから。なにをどう撮っていいのかね。だから、岡村さんのあの一言で報道の世界に入ったようなものだよ。もうほとんど意地だよね(笑)。その後も、じゃあ「どういう撮り方をすればいいのか」ってことをずっと考えながら撮るようになった。でも決して「岡村さんのようになりたい」とは思わなかった。「オレは違うやり方でやる」という意識だった。それで自分の撮り方が固まってきた。だからあの岡村さんの一言は大きかったね。今でもそう思う。

(注1 岡村昭彦)国際報道写真家。部落開放運動、週刊誌「新週刊」編集部を経て1962年PANA通信社に入社。東南アジア、アフリカ、ヨーロッパなど世界各国の紛争地を取材。1963年ベトナム戦争を取材した写真が『LIFE』に9ページにわたって掲載され「第二のキャパ」と呼ばれる。1965年アメリカ海外記者クラブ最優秀報道写真賞受賞。晩年は世界各地の病院を取材し、ホスピス問題に取り組む。著作に『南ベトナム戦争従軍記』(岩波新書)、『これがベトナム戦争だ』『岡村昭彦報道写真集』(講談社)、『定本 ホスピスへの遠い道—現代ホスピスのバックグラウンドを知るために』(春秋社)などがある。1985年3月敗血病のため死去。享年56歳

任期を終えた吉岡さんは現地企業の誘いもあり、そのままエチオピアに残って就職する道も考えたが、お金の問題とカメラマンとして技術的な進歩が見込めないこともあり、帰国を決意。それもまっすぐ帰るのではなく、ヨーロッパ、北米で就職活動をしながらの旅を敢行。しかしあえなく全滅、しかたなく日本に帰る。しかしそこで待っていたのは絶望だった。
日本は故郷じゃない
 
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 2年ぶりに帰った日本はほんとにイヤだった。行く前より一層イヤな感じがしたね。日本は故郷じゃないって本気で思ったよ。

 とりあえず協力隊の宿舎で寝泊りさせてもらってたんだけど、そこも数カ月したら「住むところくらい自分で探せ!」って夜中に追い出されてね。しょうがないから友達のアパートに転がり込んで。それから就職活動したんだけど、職が見つかるまで半年かかったんだよね。協力隊の経験なんてあまり売りにはならなかった。

 就職したのはテレビCMを作ってる制作会社。これがキツかった。最初はアシスタント・ディレクター(AD)から始めるんだけど、ADって奴隷だからね。徹夜なんて当たり前、いったん撮影に入るとメシを食ったりフロに入る時間すらない。プロデューサーやクライアントは神様だからいくら理不尽なことを言われても従うしかない。プライドも粉々にされたね。それでいて給料は食ってくのが精一杯のレベル。そうこうしているうちにストレス性胃炎になっちゃって、もう限界だって思ったところに2度目のエチオピアの話が来たんだよね……。1回目のエチオピアで一緒に仕事をしていた国営テレビ局のプロデューサーで、当時エチオピアの難民救済委員会で広報の仕事をしている人から手紙が届いてさ。広報部のPRアドバイザーとして手伝ってほしいって書かれてあったんだ。

 行こうかどうしようか、すごく悩んだよ。途上国に長くいると日本に帰ってきたとき使い物にならなくなるとよく言われてたから。日本の進歩のスピードが激しいから、のんびりしたところに長くいると使い物にならなくなるって。結果からいうとまぁ、あれウソなんだけどね(笑)。ああやって脅してるだけなんだよ。2年後帰ってきたときに、日本の進歩がそんなにすごいとは思わなかった。何も変わってない気がしたよ。

 それに行くならCM制作会社を辞めなきゃいけない。当時は今みたいに転職が普通じゃなかったから、途中で会社を辞めるっていうのは世間では根性がないみたいに思われるわけ。

 だからCM会社を辞めたときは挫折感はあったよ。最初はやっぱり「オレはCMディレクターになるんだ」って思って入るわけじゃん。でも1年しか続かなかった。情けないと思ったね。10年我慢すればイッパシの一人前のCMディレクターになれると言われて入ったのを辞めたわけだから。でもこんなことをやって、自分の青春を10年潰して、がんばってCMディレクターになったところで、たかが知れてるなと思ったんだ。こんなことで自分の青春を潰したくなかった。商業主義にもイヤ気がさしてたし。かといって、自分が一体何がやりたいのか全く分からないし……。将来の目的がなかった。相変わらず不安だったよね。

 それでも行こうと思ったのは、岡村さんの存在が大きかった。あの人の「報道写真はシャッター以前」っていう言葉がずっと頭に刺さってて。被写体を理解するまでシャッターを押しちゃいけないんだったら頭の悪い俺はいつまでたっても撮れない。そうじゃない撮り方、劣等生ならではの撮り方が必ずあるはずだって。それを確立したかった。だから2度目のエチオピアでは本気で報道写真を撮ろうと思った。岡村さんへの、そして自分への挑戦だよね。

 でも本音の部分では、目的がなかったものだから、仕方ないから何か形に残したかった。だから写真を撮ったんだと思う。何かをつかんでこないと日本に帰ってきて使い物にならなくなるんじゃないか……と思ったわけ。だから2回目も半分逃避といえるかもしれないね。

 
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  2度目のエチオピアで。洪水の取材時のひとコマ
 
 
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  広報活動に対する貢献で、エチオピアの難民救済委員会から表彰される吉岡さん  
再び赴任したエチオピアで吉岡さんは報道写真を撮りまくった。多くの難民、貧困層などの社会的弱者、国家記念式典行事、旱魃(かんばつ)や洪水などの災害など、エチオピアの現実をフィルムに焼き付けた。しかし最大の収穫は別のところにあった。
人生を変えた2度目のエチオピア
 

 半分逃避で行った2回目のエチオピアだけど、意外に収穫あったんだよな。オレの人生変えたね。一番大きかったのは、自分のアイデンティティが確立されたということだね。

 それまでさ、最初のエチオピアから日本に帰ってきてCM会社に勤めてたとき、夜中によくうなされてたの。エチオピア人の声が窓の外から聞こえたりしたんだ。夜中に。

 そういうね、一種のノイローゼに近いような。つまり、「あのエチオピアは何だったんだろう?」っていうのが自分の中にずっとあって。エチオピアでの生活と日本でCMつくりに追われている世界があまりにも違うから、まるでエチオピアに行ったことがなかったことのように思えてたというか。「本当にオレはエチオピアに行ったのだろうか。 あんな優雅な解放された世界が本当にあったんだろうか」みたいな。「現実の自分を見ろ」と。「オレはこんな情けない生活をしてるじゃないか」と。

 それで2回目に行ったときに「あ、あったんだ!」と思うわけだよ。確かにある、そう思うと同時に「自分はエチオピア人にはなれない!」と思った。じゃあ自分は日本人であることから逃れられないのか……。いろいろ考えた結果、そこは日本人であるとかエチオピア人であるとかっていうよりも、「自分は自分である」ということに行き着いたんだよ。同時に「自分はここに在る」ってことをはっきり自覚できた。アイデンティティが確立されたというか。それで精神的に楽になった。すごく楽になったね。

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帰国した吉岡さんは生活するためにアルバイトをこなしつつ、数々の会社へ履歴書を送った。一番やりたかったのはドキュメンタリー映像製作の仕事。そして当時日本屈指のドキュメンタリー番組制作会社の門を叩いた。しかしそこに待ち受けていたのはまたしても絶望だった。
面接でいきなり怒鳴りつけられる
 

 日本に帰ってきたときは報道写真というよりドキュメンタリームービーをやりたかったんだ。学生のころからムービーの方がやってておもしろかったし、エチオピアでやってたこともムービーだった。当時はムービーをやるならCMかドキュメンタリーしかなかったわけ。CMは一回経験してもうこりごりだと思ってたから消去法でドキュメンタリーが残った。

 で、ドキュメンタリーだったら牛山純一(注2)しかないと。オレの知り合いに牛山さんを知ってるディレクターがいたから「口を利いてください」って頼んだの。そしたら「今、通訳だかガイドで募集してるから、試験受けますか?」って言うから「はい」って受けたんだよ。そしたら牛山純一が履歴書を目にして「こいつと会いたい」って呼び出されたわけ。

 わくわくして面接に行ったら、そこで牛山氏に怒鳴りつけられたんだよ。居酒屋でね。「おまえは写真をやりたいんじゃないのか! 仕事をナメるんじゃねえ! おまえの生き方はヒッピーといっしょだ!」って。もうボロボロのメタメタだよ。面接どころじゃないよね。当然不採用。その晩は眠れなかった。怒りと絶望で。オレは牛山さんのところへ行くことしか目的がなかったからね。もう自暴自棄だよ。もうなんだっていいやって。仕事なんて食えればなんだっていいやってなっちゃった。

(注2 牛山純一)映像の世界に「ドキュメンタリー分野」を確立した世界的ドキュメンタリスト。1953年、日本テレビに入社。同社で伝説的なドキュメンタリー番組を制作したのち、1971年に独立、日本映像記録センターを設立。以後67歳でこの世を去るまで1000本以上のドキュメンタリー映像を制作。代表作に、1966年から24年間にわたってテレビで放映された『すばらしい世界旅行』(のちに海外でも放映。全米写真家協会プロフェッショナル最高賞を獲得)、1962年にカンヌ映画祭でドキュメンタリー部門のグランプリを獲得した『老人と鷹』、1969年にサンフランシスコ国際映画祭最高賞を獲得した『東ニューギニア縦断記』などがある。

オリジナル履歴書で毎日面接
 
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 だからその後はいろんな会社に片っ端から履歴書を送ったよ。それも市販の履歴書を使わず、レイアウトから全部手書きで作ったオリジナルのやつをね。どうしてかっていうと、市販のものを買ってきて書こうと思っても、コレじゃ自分が伝わらないって思ったのよ。つまり趣味は何々、特技は何々とかさぁ……職歴とか書くところあるでしょ。オレ写真学校へ行って、青年海外協力隊でエチオピアへ行って、帰ってきてプロダクションにいて……とかさ。なんかそれだけじゃ何をやってきたか全然伝わらないじゃない。エチオピアで何をやってきたかなんて当然湧く疑問だよね。でも書くとこないじゃん、市販の履歴書じゃ。あの履歴書ってのは普通の型通りの人生を進んでいる人が書くものだよね。オレみたいにエチオピア行ったりして普通の道から外れちゃってる人にとっては使えないフォーマットなんだよ。

 就職活動するときに、そんな伝わらないものを書いたって弾かれるだけじゃん。なんだコレは、って。そしたら伝わるように書き変えるだけだよ。どうやったら自分が伝わるか、って書くわけ。だから余計なものは書かない。例えば自宅から職場までの時間とかさ。どうでもいいようなもの、あるでしょ。趣味とか得意な科目とか取っちゃうんだよ。どうでもイイと思うじゃん、そんなものは。新卒ならまだしも、職業を経験している人が得意な学科とかどうでもイイじゃん。

 だから自分がわかりやすいようにレイアウトしたわけだよ。それで一番大きかったのは「自己紹介欄」ていうのを1ページまるまる作って、自己紹介した。そこに自分が何をやってきたか書いたの。エチオピアではこういうことをやった、とかね。そしたらよくわかるじゃない。よくわかるというより、オレが意外だったのは、よく伝えるために書いたのに受け取った方が「なんだ、この履歴書は!」って驚くわけ(笑)。それで全部手作りでしょ。枠から手書きで作ってるからさ。だから見る方はこの人物に会ってみたいと思うんだよね。実際、面接に行く確率は高かったよ。だいたい会いたがる。どういうヤツかって。そもそもは欠点隠しのつもりだったのにね。採用担当者に「コイツに会ってみたい」と思わせることが大事なんだよな。

 確かにそれだけの履歴書を作るのは大変だけど一晩あれば一枚は書ける。で、一回作れば作り方がわかるじゃない。後は同じことをやってればできる。会社によって少しは変えるけど。

吉岡さんの思惑どおり、手作りの履歴書は採用担当者の目を引き、面接に呼ばれまくる。そしてとある出版社に入社。旅行専門誌の編集部で取材、執筆、撮影、広告営業まで幅広い業務をこなす。そんな中、ひとつの転機が訪れる。それは友達からの一本の電話から始まった。
26歳で処女写真集を出版
 

 オレの友達で脇野修平っていうアフリカへ通ってた男がいるんだけど、そいつが「わんぱく一家のアフリカ大冒険2万キロ」っていう本を出したときに、その出版パーティーでオレの撮ったアフリカの写真を飾りたいから貸してくれないかって電話してきたんだよ。快諾して喫茶店で会ったんだけど、そのとき、本の版元の社長もいっしょに連れてきてさ。その社長がジーッとオレの写真を見て「キミ、写真集を出す気ないかね?」って言ったんだ。

 「もちろん出す気はありますけども」って言ったら「これ、出したい」って言ってきたんだ。そりゃうれしかったよ。実はそれまで自分でも写真集を出したくて、いろんな出版社を回ってたんだ。せっかく何かつかまなきゃいけないってことでエチオピアで撮った写真だから形にしたかったから。けど、どこにも相手にされなかった。あきらめてたところにこれだからね。「じゃあお願いします」って、そこからはトントン拍子でいったんだ。それが『わがエチオピア人』っていう写真集。26歳のときだった。この写真集を出したことでオレの人生がさらに変わったんだよ。

独立か新聞社か…悩みに悩んだ選択
 
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 青年海外協力隊の中に就職相談課みたいなところがあってさ。そこに求人情報が寄せられるんだけど、できそうなヤツがいたら教えてくれるわけだ。「キミは報道写真をやりたかったんだよねぇ。中日新聞がカメラマンを募集してるから受けてみれば?」って連絡が入ったんだ。

 もちろん、漠然と報道やりたいなあっていうのはあったんだけど、新聞社なんて頭のいいエリートが行くようところだと思ってたし、オレ、大卒じゃないし、ムリだろうなぁって思ってた。

 そのとき旅行業界誌の編集をしてたんだけど、回りがみんな優秀だったから劣等感を抱いてたんだ。でもその尊敬してた人たちがオレの写真はほめてくれたんだよ。それがすごく自信になってね。書く方よりカメラでいくべきかもしれないって思ってたんだ。

 聞けば中日は大卒の資格がなくてもOKだっていうし、じゃあって受けてみた。そしたらすんなり受かっちゃった。たぶんね、26歳で写真集を出してるヤツなんて受験者の中にいなかったと思うんだ。だから、中日新聞としてはビックリしたと思うよ。で、すぐ来てくれってことになった。うまーく隙間に入り込めたって感じだよね(笑)。

 でもすぐに内定は受諾しなかったんだ。実はそのときもうひとつオファーがあってさ。独立して雑誌を作らないかっていう話がきたんだ。それはオレの写真集を出してくれた出版社の社長がオレの営業力を買ってくれて、いや、自分では営業キライだったんだけど、金は用意するから、新しい旅行雑誌を立ち上げてみないかって。

 ものすごく悩んだよ。27歳のときに「独立して雑誌を出さないか」って言うわけだよ。おまけに「金は用意する」って。「雑誌はキミが責任もって作れ」って言われると、いい話のようにも思えるじゃん。認められたような感じがするじゃない。だから迷ったんだ。ものすごくね。

 でもちょうどそのころ、結婚したいと思ってた女性がいたんだけど、兄貴に反対されててね。だから2つの大きい問題を負わなきゃいけないわけだ。結婚に反対されている問題と、出版を新しくやるというリスク。ちゃんとやれる自信もなかったしね。社長は評価してくれるけど、営業は好きじゃないし。それで2つの問題は抱えられないと思って、独立の方は断って中日新聞へ社員として入ったんだ。

 そのとき初めて、一人前になったなぁ、普通の大人になったなぁ……って思ったんだ。

 

新聞社の写真部に就職した吉岡さんは、新聞カメラマンの慣習や社風に翻弄されながらも、自分のスタイルにこだわりつつ、懸命に仕事に打ち込みました。しかしある「事件」をきっかけにカメラを捨てる決意をします。その事件とは──。

次週は国内から世界の戦場へと活躍のフィールドを広げていく過程と、43歳にしてキャリアチェンジを決意させたある出来事について熱く語っていただきます。

 
2005.12.5リリース 1 放浪の始まりは 青年海外協力隊
2005.12.12リリース 2 人生を変えた 二度目のエチオピア
NEW!2005.12.19リリース 3 カンボジアで記者転向を決意
NEW!2005.12.26リリース 4 サラリーマン・ジャーナリズムを追求

プロフィール
 
よしおか いつお

1952年、愛媛県生まれ。高校卒業後、写真専門学校で写真と映像を2年間勉強。

卒業後、青年海外協力隊に入隊、エチオピアで2年間活動。

帰国後CM制作会社に入社するも1年で退職。再びエチオピアへ。

1年後帰国、さまざまなアルバイトを経験しながら数10社の求人に応募。旅行専門雑誌の編集部員としてある出版社に就職。

青年海外協力隊事務局から紹介された中日新聞のカメラマン募集に応募して内定。報道カメラマンとしてイベント、国内の事故、事件の取材からイラク、アフガン、カンボジアなどの紛争地を駆け回る戦場カメラマンとして活躍。2年連続で日本写真家協会賞を受賞。

43歳で記者に転向。地方記者、芸能記者を経験し、現在は東京新聞社会部記者。首都圏の話題を発掘し、カラーで紹介する東京新聞の「売り物」ページである「TOKYO発」担当。「首都圏の話題を発掘」する企画ページにも関わらずイラク、パナマ、コスタリカなどを取材するなど、その活動はまさにボーダレス。部署、国境を軽々越え、興味の赴くままに動くフットワークの軽さはいまだ健在。

会社員としての仕事以外にも作品多数。支局時代に書いた『漂泊のルワンダ』が開高健奨励賞を受賞。そのほか『人質—イラク人質事件の嘘と実』『いきあたりバッチリ』『厳戒下のカンボジアを行く』『イスラム銭湯記—お風呂から眺めたアフガン、NY、イラク戦争』など10冊の著作に加え、ドキュメンタリー映画『笑うイラク魂』『戦場の夏休み』『人質』なども製作している。

しかし本人は「典型的なサラリーマン」と語る53歳。

 
 
おすすめ!
 

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報道界のバガボンド・吉岡逸夫さんが「書かずに死ねるか!」との思いで書いた半生記。このインタビューでは書ききれず泣く泣くボツにした、吉岡家の壮絶話、世界をまたにかけた就職活動話、コロンビア大学大学院留学時代の話、戦場カメラマン時代の話、そして結婚、離婚、家族の話など、波乱万丈のおもしろエピソード満載の一冊。「落ちこぼれでもここまでできる」、「信念は曲げてもいい」、「強くなくても生きていける」、「『思えばかなう』なんて大ウソだ」など珠玉の名言多数。

 
 
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