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魂の仕事人 魂の仕事人 第5回 其の三 photo
「分かりやすさ」がすべてではない 切り捨てたものの中にこそ 大事なものがある
1998年に公開されたオウム真理教のドキュメンタリー映画『A』は、ベルリン、香港などの国際映画祭に招待されたほか、各国のメディアで高い評価を得た。田舎に帰ろうと思っていた森さんは一躍気鋭のドキュメンタリー監督として世界デビューを果たす。2年後には続編の『A2』も発表。今度こそ国内ヒット間違いなしだと思っていたのだが……。
ドキュメンタリー作家 森達也
 
国内より海外で高評価だった『A』
 
 『A』については、オウムを擁護する作品とかオウムのPR映画などとみなす人は、少なからずいたと思います。まあ覚悟はしていたけれどね。でもそんな噂を口にする人のほとんどは、実際には映画を観ていなかった。まあ、そんなものかな。それとマスメディアの扱いも、純粋な映画作品というよりも、やっぱり世間の反応を気にした戸惑いのようなニュアンスが強かったような気がします。試写などに来てくれた個々の記者は絶賛してくれるのだけど、記事はなかなか出ないし、出たとしてもとても歯切れが悪い記事が多かった。テレビからはほとんど黙殺されました。だいたいテレビの人って、ほとんど観に来ないしね。
 
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 つらかったですね。批判に対しては対応できるけれど、無視されたらどうしようもないですから。特に海外ではかなり関心を寄せられたから、どうして肝心の日本のメディアは黙殺するんだって思いは強かった。今も覚えているけれど、国内の興行が一通り終わってからベルリン映画祭に招待されて、その観客動員だけで国内の動員数を抜いちゃって。
やっぱりつらかったし悔しかった。海外でも、「なんで日本人はこれを観ないのか?」ってよく聞かれました。「宗教とテロは、今のこの世界にとってとても重要なテーマだ。それなのに当事国であるはずの日本で、ほとんど上映されないことが不思議だ」って。でも僕に聞かれてもわかんないですよね。僕も不思議だったから。こんなに面白い映画なのにって思っていましたから。たかが映画なんです。でも「たかが映画」としては受容してくれなかった。

『A2』のショックは未だに引きずっている
 

 だから続編の『A2』(注1)も自主制作だけど、このときはヒットを意識しました。つまりそういう編集をしたんです。『A』は確かに観客を置いてけぼりにしてしまう要素があったから。だから試写の段階では、メディアも『A』よりははるかに大勢来た。試写室に入りきらないんです。プロデューサーの安岡や劇場のスタッフたちも、今回こそはヒットだってニコニコ顔でした。

(注1)2001年に発表。信者と地域住民との報道されざる関係性を中心に描いた作品。国内ではBOX東中野(現在閉館)などで上映。山形国際ドキュメンタリー映画祭ではインターナショナル・コンペティション部門で特別賞を受賞。海外でもプサン、ダマスカス、ベイルート国際映画祭、02年香港国際映画祭に正式招待された

 同時に、公開直前の9月11日には、アメリカで同時多発テロが起きました。信仰を理由とするテロは今後も続くと思っていたし、実際にそんな発言をしたりしていたけれど、これほど大規模な惨事が起こるとはさすがに思っていなかった。そういう意味では、衝撃はもちろんあったけれど、これで『A2』はヒットするとの高揚も、正直なところありましたね。不謹慎ですね。でも結局ふたを開ければ、客はやっぱり入らなかった。

 僕の勘違いです。『A』を作ったときよりも、『A2』をつくったときの方が、オウムに対しての社会の憎悪が増大していたんです。一旦は棄却されたはずの破防法が団体規制法に名称を変えて世論を背景にあっさり成立したことや、99年の小渕内閣で有事ガイドラインなど数々の法案が成立したことが象徴的だけど、オウムへの嫌悪や憎悪が増大して、それと並行して日本社会の危機意識が過剰に肥大し始めたのも『A2』のころ。要するに公開のタイミングが悪かった。タイムラグがあったんですね。殴られた直後は痛みを感じないけど、翌朝起きたらうずくみたいな感じかな。数年の間をおいて、社会がじわじわと変わってきたっていうか。忌避になってしまったんです。日本は明らかにオウムによって変わりつつあったのに。

 もうひとつは、テレビをはじめメディアであまりにもオウムが消費されたんで、もうオウムはうんざりだとの思いもあったでしょうね。

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 お客さんが入らなかったというショックは大きかったですね。未だにそのショックは引きずっているかもしれない。ほんとにつらかった。東中野の映画館で『A2』の公開が始まって、毎朝、劇場にのぞきにいくんだけど、お客、入ってなくてね。上映が終わって新宿あたりに行くと、いっぱい人歩いてんのにね。人ごみを眺めながら、なんでおまえら観に来ないんだって、爆弾仕掛けてやろうかってくらい、くやしかったね(笑)。そこから130円払って東中野に来てくれれば、とても大切な映画が上映されているのに、おまえら何楽しそうにスパゲッティ食ってんだ、ばかやろうって(笑)。

森さんは『A』以降、テレビドキュメンタリーの世界でも頭角を現し始める。超能力者を素材とした『職業欄はエスパー』、動物実験をテーマにした『1999年のよだかの星』、差別問題をテーマにした『放送禁止歌』など、数々の話題作を世に送り出し、大きな反響と高い評価を得た。その裏には『A』の制作過程で得た重大な発見があった。
『A』でドキュメンタリーの真髄に触れた
 

 赤字にはなりましたが、『A』は僕にとって非常に大きな転機になりました。このとき、初めて自分でカメラを持って撮影したんですが、そこで大きな発見があった。

 ドキュメンタリーの主体は自分なんだと。

 それまで僕が関わってきたドキュメンタリーや報道の世界では、公正、中立、客観が錦の御旗のように掲げられていて、作り手は主観を絶対出すなって言われてきたんです。フリーになりたてで、報道番組の特集やドキュメンタリー番組のディレクターをやっている頃、客観性が足りないとか中立を守れとかよく言われました。はいはいって編集で直しながら、なんかやっぱ違うよなーって思ってたんですよね。

 でも、それが自分でカメラを回すことによって、公正、中立、客観は人間が作る以上、絶対不可能だということがはっきり分かった。自分で撮影するということは、自分でいろんなものを選択するということなんですね。そもそも何を撮るのかとの判断がすでに主観なんです。引き(ロング)を撮るのか寄り(アップ)を撮るのか、アングルや撮影の位置など、カメラワークって要するに主観なんです。

 自分で撮ることによって、ドキュメンタリーの主体は自分なんだってことに気づいたんです。客観はありえない。つくづく実感できた。だったら思いっきり、主観全開で作ろうって。ドキュメンタリーは、作り手の意思が見えないとダメだし、むしろ個人的な主観や世界観を作品に出すことが最優先だと悟ったんです。だから『A』以降の僕の作品では、作品を撮る過程で問題にぶつかり、悩んだり葛藤したりしている自分自身を露出しました。別に実際に画面に映るとかそのレベルじゃなくて。僕自身を投射しました。

 誤解を受けるけれど、映像はそもそもが主観なんです。でもテレビの場合は、その主観が依拠する主体が、局や会社、世間の良識などの抽象名詞になってしまう。だからつまらない。だから『A』以降、やっとドキュメンタリーをつくることがおもしろくなった。

ドキュメンタリーとは「関係性」を撮ること
 
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 ドキュメンタリーの本質は「関係性」を撮ることだと思ってます。取材者と被写体との関係性を。やっぱり人と人とのやりとりですから、撮影中には被写体との感情の行き違いや、いろんな想定外のハプニングで感情的になったりします。時には本音を引き出すために、恣意的にそのような状況を作り出すこともします。被写体を困らせたり、怒らせたり、誘導したり、挑発するってこともやります。そのお互いのやりとり、撮る側の意図と撮られる側の意図の相互作用などの関係性。撮ってて一番おもしろいのはそこなんです。

 その関係性を撮るためには取材者、撮影者も当然出さなくてはなりません。作る側の主観、葛藤とか怒りとか困惑とかもおもしろい要素ですからね。繰り返しますが、主観のないドキュメンタリーなんてありえない。結局、表現全般そうですけど、ドキュメンタリーもまた「作為」です。こっちは明らかな「企み」をもって撮ろうとしてるわけなんでね。

 また、ドキュメンタリーを撮るといっても、僕らは「現実」は絶対に撮れないんですよ。そこにカメラがあれば、被写体はカメラを意識した行動、発言しかしない。それは「純粋な現実」ではないわけです。撮れるのは「カメラが介在した現実」だけ。だからこそ主体=作る側を提示することは重要なんです。

 でもテレビに代表されるマスメディアはここ(=作る側)を切っちゃう。記者とかディレクターは顔出しちゃいけません、主観を出しちゃいけませんって。作る側を切っちゃうと、関係性そのものが消えちゃう。カメラが介在した現実が撮れない。だから作るほうもつまらない。観るほうはもっとつまらない。

 ではなぜテレビがそうするか。そうした方が分かりやすいからです。被写体だけ出して、事実だけを伝えるほうが格段に分かりやすい。でも撮る側を出して葛藤とか煩悶とかを出したり、事実の背景などを掘り進めようとすると分かりにくくなる。

 ドキュメンタリーなんて分かりにくいものの極地ですからね。AさんがBさんを殺しました。目的は保険金詐取です。ニュースだったら30秒ですよ。でもドキュメンタリーは、この事件の背景にはこんなことがありました、借金があって、ほれた女がいて、恨みがあってって。そんなことをいろんな角度から、作り手がもう悩んだり、もんもんとしたりしながら作りますからね。当然明確な答え、単純な結論からは遠ざかる。

 テレビでそれやっちゃうと、すぐにチャンネル変えられちゃう。そんなことはどうでもいいからどっちが悪いんだ?って、結論を求めるのが世間ですからね。だからテレビは難しいもの、分かりにくいものはどんどん排除して、四捨五入的な作り方で老若男女すべてに分かりやすいように作る。数字、視聴率がすべてですからね。

 でも本来はその切り捨てちゃった部分に大事なものがあったりするわけですよ。短絡的に切っちゃったり、剪定しちゃったりしてるような部分にね。「インテリジェンス」っていう言葉があるじゃないですか。智恵とか理解力とかいう意味の。その頭の「インテル」って行間っていう意味なんですよね。つまりその行間を読む力がインテリジェンスなんですよ。だから、行間っていうか狭間が大事なんだけど、それを表現するのがドキュメンタリーだと思っています。虚構と現実、フィクションとノンフィクションの狭間のグレーゾーンにフォーカスするのがね。

ドキュメンタリーは毒である
 
森さんのドキュメンタリー作品は観ていて心が痛くなることが多い。『A』では多くの信者の修行風景やインタビューなど、すべてモザイク等の映像的加工をせずに公開。『1999年のよだかの星』では、筋ジストロフィーで寝たきりになった患者にマイクを向け、迫り来る死を前にした今の心境を聞いたり、病気の息子をもつ親に、治療薬研究のために多くの動物が犠牲になっていることについて問いただしたりしている。森さんはドキュメンタリーは毒であると言い切る。
 

 「ドキュメンタリーを撮る」という行為は、必ず誰かを傷つけます。明らかな加害行為ですよ。まともな人間のすることじゃない。我ながら鬼畜の所業だと思うこともあります。

 こんなことを聞くと、相手を深く傷つけてしまうかもしれない、でも聞かないと納得の行く作品が撮れないと思うとやはりここは聞かなくちゃダメかとか。踏み込む度合いはテーマや被写体によって違います。まさにケースバイケース。明確なルールなんてない。どこまで相手を傷つけるか、どれだけ自分が傷つくか。その都度煩悶しながら決めています。相手を傷つけたら、当然自分にも返ってきますから。ドキュメンタリーの毒は作り手本人にも回ります。人を傷つけたくない人、人を傷つける覚悟がない人にはドキュメンタリーなんか撮れないし、撮るべきではない。

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 撮影が終わって、編集の段階でもぐちぐち悩んだりします。このシーンは出すべきかどうかって。それは非効率的なんでしょうけど、でもそうでないと作る意味がないと思ってます。

 人や自分を傷つけてまでどうしてドキュメンタリーを撮るのかって? それはもう僕自身のエゴ以外のなにものでもないですね。「表現したい」というエゴ。ドキュメンタリーは表現行為そのものですから。作家が小説を書きたい、写真家が写真を撮りたい、音楽家が曲を作りたいというのと同じです。ただ、僕の表現行為は人を傷つけることなしには成り立たない。それを常に自覚しながら作ることによって自分自身も苦しみ続ける。ある意味「業」のようなものだと思っています。

 だけど加害性については、ドキュメンタリーに限らず、マスメディアが発信するものすべてにおいて言えるんですよね。バラエティ番組のコントや料理番組でだって、傷つく人がいるかもしれない。そういう意味ではメディアそのものが毒なんです。特にテレビなんかは、毎日何百万人、何千万人の人が視聴するわけだから強力な毒ですよ。でも今のメディアに携わる人は自分が毒であることを自覚していない。「自分は加害行為をしている」という意識がかなり希薄になっている。視聴者が百万、千万単位になると、もう実感できないんでしょう。本当は毎日頭を抱えながら、メソメソ泣きながらやる仕事だと僕は思います。

 こういう、答えがない問題なんだけど、考え、悩み続けることが大事なんだと思います。譲れない点に関しては上司ととことんケンカするべきじゃないかな。負けて居酒屋でグチをこぼしたっていい。妥協して、麻痺して、思考停止になっちゃったらそこで終わりですから。

 でもこんな偉そうなことを言ってても、これまでやってきた映像を作ったり本を書いたりしてきたことは、本当の意味での「仕事」ではないような気がするんです……。

 
他人を傷つけ、自らも傷つけながら、観る者の心を揺さぶる作品を作り続ける森さん。でも「本当の意味での仕事とは思わない」とはどういうことなのか……?
最終回の次回はそんな森さんの仕事観、人生観に迫ります。
 
2005.11.7リリース フリーターからの出発
2005.11.14リリース 『A』後は田舎に帰るつもりだった
NEW!2005.11.21リリース ドキュメンタリーは毒である
2005.11.28リリース 僕は「仕事」はしていない

プロフィール
 
森達也(もり・たつや)

1956年生まれ。広島県出身。立教大学卒業後演劇の世界へ。その後広告代理店、不動産会社、商社を経て、1989年テレビ番組制作会社へ転職。ドキュメンタリー番組制作に携わる。以降、フリーランス、契約ディレクターとして、『ミゼットプロレス伝説〜小さな巨人たち〜(1992年放送)』、『職業欄はエスパー』(1998年2月24日放送)、『1999年のよだかの星』(1999年10月2日放送)、『放送禁止歌〜歌っているのは誰?規制しているのは誰?〜』(1999年11月6日放送)などを制作。大きな反響を呼ぶ。

1998年にはオウム真理教のドキュメンタリー映画『A』を公開、ベルリン・プサン・香港・バンクーバーなど各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。

最近は主に著述家として活動。『ご臨終メディア—質問しないマスコミと一人で考えない日本人』(集英社新書)、『ドキュメンタリーは嘘をつく』(草思社)、『下山ケース』(新潮社)など、著作多数。

講演会やトークイベントにも精力的に出演しているほか、、大学講師としても活躍中。

映像、書籍ともに、現代社会が抱える問題に真摯に迫り続ける、日本を代表するドキュメンタリスト。詳しくは「森達也公式ウェブサイト」を参照。

 
 
おすすめ!
 

『ドキュメンタリーは嘘をつく 』(草思社)
『ドキュメンタリーは
嘘をつく 』

(草思社)

ドキュメンタリーを撮るということ、マスメディアが抱える問題、現代日本の病理など、森達也流ドキュメンタリー論が炸裂する一冊。


『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい 』(昌文社)
『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい 』
(昌文社)

小学校時代のつらい思い出、ドキュメンタリーを志した動機など、森さんの原点が分かるノンフィクション・エッセイ。


『いのちの食べ方』(理論社)
『いのちの食べ方』
(理論社)

「肉が食卓に並ぶまで」と、と場で働く人びとのことの描写を通じて、いかに差別がばかげたことか、生きるとはどういうことかを小・中学生でもわかるように優しく書かれた一冊。すべての子供、大人に読んでほしい。

 
 
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