キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第2回映画監督 小林政広さん-其の2-やりたいことをやらないまま死…

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魂の仕事人 魂の仕事人 第2回 其の二 photo
何度も諦めようと思った映画監督への道 やりたいことができずに死ぬのはイヤだ 映画を作るなら今が最後のチャンス 覚悟を決めた40歳の夏
 
郵便局を辞めて、あこがれのトリュフォー監督に弟子入りするためにフランスへ渡った28歳の小林青年。しかしそこで待っていたのはまたしても挫折の日々だった。
  映画監督 小林 政広
 
あんなにあこがれていたフランスで いったんはあきらめた映画への夢
 

 28歳のとき、いよいよフランス行きの準備を始めました。まずは郵便局を辞めて、ある人のコネクションで、フランスに一年間滞在できる就労ビザをとったんです。そこまでは完璧。でも、飛行機に乗った途端に不安になってきた。実際行ってどうするか、その日どこに泊まるかさえ決めていなかったんです。

 結局、ホテルにたどりついた途端に熱出して寝込んじゃって。3日目にようやく起き出したんですが、翌日には、もうダメだ、帰ろうと思った。ひとりぼっちだし、はらぺこだし……。

 そんなとき、ふと、旅立つ前に知り合いが「何かあったらここに連絡しろ」と渡してくれたメモのことを思い出したんです。電話してみると日本人のデザイン事務所でした。早速そこに行ってカツ丼をごちそうになったら、それがめちゃくちゃうまくて、途端に元気が出ました。やはり食べ物の力は偉大です。あの味は20年以上経った今でも忘れられません。あの「カツ丼」がなかったら、間違いなく帰国してたでしょうね。

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 フランスへはトリュフォー監督に弟子入りするために行ったのですが、結局会えませんでした。いや、会おうと思えば会えたんです。でもその勇気がなかった。事務所の場所は知っていたので、何度もドアの前まで行ったのですが、どうしてもチャイムを押せなかった。

 トリュフォー監督は、20歳くらいのときに『大人は判ってくれない』を観て以来のあこがれの人だけど、もし実際に会って、イヤな人で拒否されたりしたら、そのとたん幻滅してしまう、もしかしたら嫌いになってしまうかもしれない。そんな恐怖があまりにも強すぎたんです。ボクの中のトリュフォー像を壊したくなかった。それくらい彼の作る映画が好きだったんです。また、言葉の問題もありました。フランスへ渡る前に、学校に通ってフランス語を勉強しましたが、満足にしゃべれるレベルまではいかなかった。気持ちを伝えるためには、言葉を使うしかありませんよね。「言わなくても分かる」は絶対ウソだと思います。そのときの語学レベルでは、トリュフォーに対する思いを伝えられない、それでは意味がないと思ってしまったんですね。

 結局約1年もの間、映画を観たり、ぶらぶら街を歩いたりしてました。帰国の日が決まって、あと数日というときにふらっと入ったカフェに、女優でトリュフォーの奥さんのファニー・アルダンがいたんです。あっ……と思ったんですが、それだけ。そのときは映画監督になることはあきらめようと思ってましたから。フランスに来て、約1年もいたのに何にもならなかったので、自分の中で映画という夢は終わっちゃったなと感じていたんです。

失意のうちに帰国した小林青年は、生活のために小さな新聞社に就職。業界紙の記者として働き始める。しかし映画への夢は捨てきれず、仕事から帰ると、四畳半のアパートでせっせとシナリオを書いてコンクールに応募した。いいシナリオが書けたら監督になれると思っていたからだった。そして転機は訪れた。あるシナリオ賞を受賞したのだ。
 
シナリオコンクール受賞後も続く苦難の日々 あきらめずに書き続けたことで道は開けた
 
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 文章を書くことが好きだったので、記者ならやっていけるかなと思い、求人に応募したら受かっちゃって。繊維業界の日刊紙だったのですが、主な仕事はスーパーとか流通関係の記事の執筆でした。経常利益がどうとか、新規出店がどうのという記事が中心だったので、正直おもしろ味も感じられず、得られたものもあまりなかったですね。ただとても仕事が楽だったんです。おかげでシナリオを書く時間が多く取れて助かりました。それがメリットでした。

 そんな中、シナリオコンクールに応募した作品『名前のない黄色い猿たち』が城戸賞を受賞しました。あのときはうれしかったですね。過去に受賞した人が受賞作を自分で監督してましたから、これで俺も監督になれる! そう思っていました。でもその考えは甘かった。ボクの作品は映画化する話にすらならなかったんです。しかも、期待に反してシナリオの仕事の依頼も全然来なかった。

 

 でもその授賞式で、野村芳太郎監督(※1)が声をかけてくださって、彼と松本清張氏が始めたプロダクション『霧プロ』に出入りするようになりました。ここから本格的なシナリオ修行が始まったんです。でも、書いても書いてもOKがもらえなくて、一本もモノにならなかった。最後は半ばノイローゼ気味になっていました。そして気がつけば30歳。2年があっという間にすぎていました。
(※1 黒澤明の助監督を経て、『鳩』(52)で監督デビュー。代表作にモスクワ国際映画祭・審査員特別賞を受賞した『砂の器』(74)、松本清張原作の『張込み』(58)など。2005年4月8日肺炎のため逝去)

 そんなもんもんとした日々を送る中、ある人の紹介でアニメのシナリオの仕事が来ました。アニメなんてそれまで書いたこともなく、苦手意識もあったので、苦労して書いたのですが、その中の1本をアニメのシナリオライターとしては有名な人が「すごくいい」と褒めてくれたらしくて。それからようやく仕事が来るようになったんです。その後はテレビドラマのシナリオも書くようになりました。

クリエイターは作品がすべて。できたものでしか評価されない。一本でもダメな評価が付いたらしばらく仕事は来ない。そんな「一本一本が勝負」の状況で小林氏は結果を出し、シナリオライターとしてのキャリアを着実に築いていった。しかし、40歳のとき、再び映画監督を目指すことを決意。その裏には「ストレスに殺された」同業者の死があった。
 
テレビへの幻滅、同業者の死で 40歳にして映画撮影を決意
 

 シナリオで食べていけるようになったのは、城戸賞受賞から5〜6年くらいですかね。それから数年は、映画のことはあまり考えませんでした。仕事がハードということもあったし、何より、テレビのシナリオの仕事がおもしろかったんです。

 でも40歳のとき、テレビのシナリオには見切りをつけて、もう一度映画監督を目指そうと思ったんです。一番大きな理由は、同世代のシナリオライターが何人か相次いで亡くなったことです。過労死だということでしたが、ボクはストレスに殺されたと思いました。テレビのシナリオライターは常に大きなプレッシャーにさらされています。役者はそろってる、撮影も迫ってるという状況で「お前のシナリオがつまらなかったらこの企画は飛ぶ」と言われて書くわけですから。大体役者は「脚本を読んでから決める」って言いますし。毎日プレッシャーとの戦いです。

 

 そんな友人の死を目の当たりにして、やりたいことをできないまま死ぬのはイヤだと痛切に思ったんです。もし映画を一本も作れなかったら、死んでも死にきれない。それにボクは20代のころにフォークシンガーの夢をあきらめています。フォークシンガーでもダメ、映画監督にもなれないでは悲しすぎますから。

 もう40歳。人生に残された時間は少ない。だから、映画を撮るなら今しかないと覚悟を決めたんです。

 

40歳にしていよいよ映画を撮る決意をした小林監督。少年時代からあこがれていた夢をついに実現するときがやってきた。しかし、長年の夢を実現するのは、やはり並大抵のことではなかった。だが、監督はここぞとばかりにシナリオライター時代に稼いできたお金と培った人脈をフルに活用して映画監督デビューを果たす。

10年の間に得た金と人脈をフル活用 一週間でデビュー作を製作
 

 デビュー作、『CLOSING TIME』は、シナリオライターをしていた10年間で貯めたお金をすべて吐き出して製作しました。完全な自主映画です。スタッフはピンク映画の脚本を書いていたときの知り合いに集まってもらいました。

 サトウトシキとは、彼が監督、ボクがライターとしてコンビを組んでいたので、彼にラインプロデューサー(註・スタッフを集めたり、予算、スケジュールを管理したりする製作現場の指揮官)のような形で入ってもらいました。

 キャストは、ボクが直接会って口説きました。夏木マリさんや、深水三章さん、中原丈雄さんなど、皆さん、テレビの仕事でご一緒した人たちでした。

 
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 そんなこれまで一緒に仕事をしてきた人たちに協力してもらって、ほぼ一週間で撮りあげました。何しろ初めての監督ですから、慣れないこともあって、毎日徹夜に近い撮影でした。でも作るまでは楽しく、苦労もほとんど感じませんでした。

 今となってはすべてがいい思い出です。中でも特に印象に残っているのが、自分が監督していることが信じられなくて、「監督!」と呼ばれても、側にいたサトウ監督の顔を見たことです。「おい、呼んでるよ」とか言ったりして(笑)。

人生をかけて作ったデビュー作『CLOSING TIME』は、いきなりゆうばり国際ファンタスティック映画祭のグランプリを受賞。日本人として初めてという快挙だった。映画監督としての滑り出しは上々。でも、もうこの一本で終わりだ、と思ったという。
 
デビュー作でいきなりのグランプリ 直後、撮るんじゃなかったと公開
 

 これまでの貯金や思いをすべて出し切ったこともあり、二度と監督をすることはないだろうと思って作った『CLOSING TIME』が、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭でグランプリ受賞したときは、本当にうれしかったですね。このときほど映画を作っててよかったと思ったことはなかった。ボクの人生を決定づけた一作です。

 でもその直後、映画なんか作らなければよかったと後悔しました。映画を作ったとたん、テレビのシナリオの仕事がぱったり来なくなってしまったのです。シナリオの仕事は生活の糧でしたから、きつかったですね。

 肝心の賞を獲った映画の方でも、配給などで苦労しました。どこの配給会社も作品の良さは認めてくれたのですが、宣伝費もロクにない映画はなかなか劇場にかからず、その辺が大変でした。幸いテアトル新宿が、レイトでの公開に踏み切ってくれたので、作品ができてから、一年半後に公開にこぎつけました。

 また、映画業界からのバッシングにもあいました。1000万円足らずの資金で、それも映画会社とは何の関係もない素人が自費で作った映画がグランプリを獲ったのだから、今思えば当然ですね。出る杭は打たれるということです。

 ぐずぐずしてると潰されるか、映画を撮れなくさせられるという危機感を感じていました。だからデビュー作で描きたいことは全部吐き出して、もう何もない状態でしたが、とにかく一日でも早く2作目を作らねばと思い、動き出しました。

 第2作の『海賊版=BOOTLEG FILM』を撮ったときが、経済的には一番苦しかったですね。なにしろさらに有り金はたいて作ってしまったので。予算オーバーで預金が5ケタから4ケタに減って、家賃の支払いにも四苦八苦してました。続く3作目の『歩く、人』も同様です。でもなにも考えずにただ突っ走っているわけではありません。

 

 『歩く、人』は、緒形拳さんがどうしてもやりたいというので、作った映画です。『海賊版=BOOTLEG FILM』は椎名桔平さんでした。ボク以外の誰かが、同じような情熱をもって取り組む時、その映画は間違いなく成立します。いや、成立させなければならないのです。お金の問題で取りやめることはありますが、この2本はお二人の出演が前提だったので、元は取り戻せると踏んだのです。ボクにも読みはあります。

 この作る前の読みが当らなくなったら、破産するわけです。そして、二度と映画が作れなくなる。読み間違いを引き起こすほどにのめりこむ企画が今のところはないのが、幸いしているといえます。しかし、一方で、いつ、そんな企画を思いつくかもしれず、また、それほど没頭できるまでに酔いしれるような企画が湧き出すのを待ち望んでいる自分がいるのもまた事実です。

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つねにギリギリのところで映画を撮り続ける小林監督。2作目の『海賊版=BOOTLEG FILM』はカンヌ映画祭の「ある視点部門」で上映。これがきっかけで第3作『殺し』のオファーが舞い込み、『殺し』を作ったことが、緒形拳主演の第4作『歩く、人』へとつながっていった。そしてこの2作品もカンヌ映画祭で上映。3年連続でカンヌ映画祭に出品できた日本人映画監督は小林監督ただ一人。しかし、4作目を作ったあたりから、体調が本格的に悪化してきた。
 『歩く、人』を撮影しているあたりから、思うように体が動かなくなりました。長年にわたって飲み続けた酒と不規則な生活のせいで、心と体が壊れていったようでした。そして病院に行ったらこのままの生活を続けるとあと2〜3年しか生きられないと告げられたんです。目の前が真っ暗になりましたね。
 
ボロボロになりつつも自主制作にこだわり、映画を撮り続ける小林監督。最終回の次号では、映画を作る上での苦しみとやりがい、そして映画監督という仕事への覚悟について語っていただきます。乞うご期待!
 
 
お知らせ

最新作『愛の予感』

日本人監督として37年ぶりのスイス・ロカルノ国際映画祭「金豹賞」(グランプリ) の受賞を含め、4冠に輝いた小林政広監督・脚本・主演の『愛の予感』が、11月24日からポレポレ東中野ほか全国順次公開されます。審査委員長のイレーヌ.ジャコブ氏が「美学的に力強く、コンペティションに参加した19本の映画の中で最も個性的である」と称した作品をお見逃しなく!
■公式Webサイト:『愛の予感』


2005.8.1 1.安定を取るか 夢を取るか
2005.8.8 2.死ぬ前にやりたいことを
NEW! 2005.8.15 3.映画監督としての覚悟

プロフィール
 

小林 政広
(こばやし・まさひろ)
1954年東京都生まれ。'70年代初め、林ヒロシの名でフォークシンガーとして活動。'82年、『名前のない黄色い猿たち』で城戸賞受賞後、脚本家として数多のテレビドラマを手がける。42歳のときの初監督作品『CLOSING TIME』で、'97年ゆうばり国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞。『海賊版=BOOTLEG FILM』」('98)から3年連続カンヌ国際映画祭出品など、海外での評価が高い。今年も『バッシング』をカンヌ映画祭のコンペティション部門に出品。その他、CMの演出など、幅広く活動中。現在は新作制作に向けて爆走中。★フィルモグラフィーや詳しいプロフィールはこちら→モンキータウンプロダクション

ボクの映画渡世帳
これまでの監督の歩みや作品を作る過程、映画作りに対する熱い思いなどを赤裸々につづるブログ。読んでいるとまるで一遍のロードムービーを観ているかのような錯覚に陥る。とにかくおもしろい!「これから始まるボクの徒然草は、ボク自身を励ます意味も勿論あるが、見知らぬ誰かが、深夜に窓辺に立って、いっそのこと飛び降りようかと不埒な考えに陥ったときの、ボクにとっての、『タルコフスキー日記』であって欲しいという願いからでもある」(第1回より)

 
 
おすすめ!
 
「神楽坂映画通り」(小林政広/KSS出版)
1.『神楽坂映画通り』
小林政広監督の半自伝的小説(KSS出版)。ここに、日本映画史上初の3年連続カンヌ国際映画祭正式出品という快挙を成し遂げた監督の創作の原点がある……というと少々大げさだが、ちょっと突き放したようなたユーモラスなタッチは、監督の映画作品にも通じるもの。でも、「あの監督の自伝」という以上に「青春小説」として読みたい。

「フリック」
2.『フリック』DVD

2004年に公開された6作目。内容を一言でいえば「アル中の妄想ロードムービー」。インタビュー中、「今までのボクの映画の集大成のようなもの」と語った渾身の作品。「現場で撮影しながらシナリオを変えていった」らしく、二転三転していくストーリーは観る者に幻覚作用を引き起こすかも

「CLOSING TIME」
3.『CLOSING TIME』
パンフレット

小林監督のデビュー作のパンフレット。ファンの間ではいまだに根強い人気をもつ作品

「歩く、人」
4.『歩く、人』パンフレット
小林監督の半自伝的映画のパンフレット。緒形拳インタビューや完成台本など読み応え十分
 
 
お知らせ
 
魂の仕事人 書籍化決!2008.7.14発売 河出書房新社 定価1,470円(本体1,400円)

業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
●河出書房新社

 
photo 魂の言葉 挫折だらけの人生でも あきらめなければ夢は続く 挫折だらけの人生でも あきらめなければ夢は続く
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