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魂の仕事人 魂の仕事人 第2回 其の一 photo
サラリーマンとしての「安定」を取るか 映画監督という「夢」を取るか 死ぬほど悩んだ20代 不安はあったけど夢を追いたかった
 
2005年第58回カンヌ国際映画祭に4作目となる『バッシング』を出品した小林政広監督。しかし映画監督になるまではフォークシンガー、コンピュータ会社の事務員、郵便配達員、業界紙の記者と転職を繰り返してきた。かつての映画少年がいくつもの挫折を乗り越え、夢を実現するまでの過程に迫った。
  映画監督 小林 政広
 
まずはフォークシンガーとしてスタート しかし生活のため、夢をあきらめる
 
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 10代の頃から映画監督になりたいと思っていましたが、実際に初めて映画を撮ったのが42歳のときでした。30年以上もかかってしまったわけですが、その間は挫折に次ぐ挫折で何度映画監督になる夢をあきらめたことか……。

 ボクのキャリアはフォークシンガーから始まりました。文章が好きで中学生くらいのころから毎日詩や小説を書いていたんです。その頃、ラジオの深夜放送で高田渡さん(※1)の歌を聴いて感銘を受け、高校に入ってからは、自分でも歌を作って歌うようになりました。高校三年生のときに、直接渡さんに会いに行ったんです。それがきっかけで、その後ライブの前座に出させてもらって。高校を卒業してから、高田さんと一緒にフォークシンガー「林ヒロシ」として活動するようになりました。

(※1 日本フォーク界の第一人者。2005年4月16日逝去)
 

 歌を歌っていた頃は上昇志向ならぬ、「下降志向」がありました。ウディ・ガスリーの歌や黒人のブルースを聞いたりすると感じる「貧乏しないと歌なんか歌えない」というような思いですね。その対極に、お坊ちゃま大学でボタンダウンのシャツ着てフォーク歌ってる、という流れもあったけど、そっちには行きたくなかった(笑)。生活者の歌を歌わなきゃいけない、と。一発当てて金持ちになってやるなんて野望は一切なし。

 続けていくうちに歌の仕事も増えていきました。日本各地をツアーで回ったり、自主制作アルバムを出したりもしました。でも、20歳くらいになって、歌をやめようと決意しました。当時結婚したい相手がいたので、ちゃんとした生活をしなきゃと考えたんです。ツアーに出てる期間は生活できる収入は得られたのですが、東京にいる間は収入ゼロでしたから。また、本を読んだり、映画が観られないのもつらくて。

フォークシンガーという最初の夢をあきらめた小林青年は、以後、がむしゃらに働いた。朝は牛乳配達、昼は事務の仕事、夜は喫茶店のウエイター。まさに朝から晩まで仕事づけの日々。中でも事務の仕事で、「死にそうになりながら」も、その後の仕事観に重大な影響を及ぼす事件に遭遇する。
 
未経験だったがプログラマーとして派遣 死ぬほどの体験が仕事観を変えた
 

 やはり安定を求めるなら正社員だろうと、コンピュータ会社に就職して事務の仕事をしてました。ところがあるとき、いきなりプログラマーとしてよその会社に派遣されたんです。社長からは「2カ月の試用期間があるから、その間に覚えられる。難しいことじゃない」と言われて。もちろん、それまでパソコンなんてまともに触ったことすらありません。何しろ雑用しかしていなかったから。だからあわてて図書館に行って、コンピュータ言語の本を借りて勉強しようとしたんですが、どうしても暗号にしか見えない。

 社長に相談しても、「大丈夫、大丈夫」で終わり。それに、元の会社でボクが担当していた仕事はもう別の人間がやっていて、戻っても居場所はない。まさに八方ふさがりの状況でした。

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 結局、2カ月かかっても何にも覚えられませんでした。でも「必死に勉強したんですが、ボクには無理です」とは言えませんでしたね。周りの人たちがどんどんプログラムを完成させていくのに、ボクは何もできていなかったんです。そんなある日、アパートに戻ると突然吐き気に襲われて、熱を測ると40度。しばらくして全身が痺れてきて、痙攣が起こって……。救急車で運ばれたのですが、本当に死ぬかと思いました。プレッシャーによるストレスが限界まできて、一種のパニック障害を引き起こしたんでしょうね。結局、その後一週間ぐらい寝込んでしまいました。

 回復してから会社に戻ったんですが、ボクの席はなかった。それでも何日か通ったんですが、いたたまれなくなって辞めてしまいました。仕事を失ったことより、仕事に穴を空けてしまった罪悪感で、しばらくは立ち直れませんでした。

 確かにズブの素人をいきなりプログラマーとして派遣して暴利をむさぼる社長も社長ですが、こうもいえると思うんです。もし本気でプログラミングの仕事で生きていくんだって覚悟を持って勉強していれば、たとえ2カ月でもプログラムを書けるようになっていたんじゃないかって。そのときのボクは、歌とか映画とか、表現したいという気持ちをまだひきずっていたんです。勤めが終わると、映画を見たり小説を書いたり、好きなことだけやっていたから、仕事の方に興味がいかず、中途半端だった。だからやはり、あれは自分の責任です。いろんな人に本当に迷惑をかけて申し訳なかったと今でも思っています。

 
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でもこのときの体験は非常に貴重でした。つらいこともありましたが、どんな仕事でも一生懸命にやればおもしろいじゃないかって。それ以後、ちゃんと働きたいと痛切に思うようになりました。アルバイトではなく、社員としてちゃんと。

 
その後、働くことに目覚めた小林青年は郵便局の集配担当として再就職。働くうちに仕事と職場にのめりこむようになり、いつの間にか「ここに骨をうずめるのも悪くない」とまで思うほどに。それでも5年後、退職を決意。小林青年を突き動かしたのは、やはり映画への情熱だった。
 
安定かつ快適だった郵便局員時代 しかし「夢」を追って単身フランスへ
 

 郵便局でも、最初の数カ月は映画への未練があったので、まだ仕事に100%は身が入らない状態でした。でも、働き始めて2年目くらいで仕事のことしか考えなくなりました。仕事が終わっても残って何かするようになっていた。すると、職場の人たちの対応が変わってきました。「こいつは本腰入れて仕事をしている」と思われたら、心を開いてくれるようになったんです。

 職場には、何かをあきらめた人や、挫折した経験をもつ人も多くて、そういう人たちはみんな人情味があって、優しくて。そんな居心地のいい場所にいると、「野心」や「向上心」といった思いがつまらないものに思えました。そんな職場の人たちと一緒に話したり仕事をすることが生活の80%くらいを占めるようになっていきました。これがとても快適で楽しかったんです。

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 それまでは、自分にとって仕事はお金を稼ぐ手段であって、それ以上のものではなかったんです。でもやっぱりそれだけじゃ仕事なんてつらいだけですよね。だから続かなかった。

これまでいつも「自分はここにいる人間じゃない」と思っていたけれど、ここで初めて「こういう世界で定年まで働くのも悪くないな」と感じました。

 でも5年が経ったころ、20代の後半にさしかかると、また「このままでいいのかな」という思いが頭をもたげてきました。もう20代が終わろうとしているのに、自分はまだ何もなしえていないという焦り。

 ちょうどその頃、自分と同世代の大森一樹さん(※2)が城戸賞(※3)を受賞して、そのシナリオで映画を撮ったんです。そのほかにも若いシナリオライターが活躍しだして、焦りに一層の拍車がかかった。

(※2 '79年に城戸賞受賞作品『オレンジロード急行』で監督デビュー。『ゴジラ対キングギドラ』('91年)、『T.R.Y.』('03年)など作品多数)
(※3 新人脚本家養成のため、社団法人日本映画製作者連盟が毎年開催している映画シナリオコンクール。小林監督も後に受賞)

 でも、仕事を辞めることは、すごくリスキーですよね。それは自分でも分かっていました。せっかく安定した働き口があって、60歳まで勤め上げれば年金ももらえるし、それを捨てていいのか、と。「安定」を取るか「夢」を取るかでかなり悩みました。

 そうすると仕事のほうに意識が向かなくなってきて。これじゃあまたどっちつかずになって、同じことの繰り返しになってしまう。それで、退職を決意して、フランスに渡ったんです。敬愛するフランスの映画監督、フランソワーズ・トリュフォー(※4)の弟子になるために。

(※4 フランスを代表する映画監督。“ヌーヴェル・ヴァーグ”の旗手としても名高い。代表作に『大人は判ってくれない』('59)など)

 
小林青年が、あんなにも居心地のよかった職場を後にしたのは、映画を撮りたい一心からだった。次回は、いよいよ実現した渡仏の理想と現実、そして映画製作に至るまでの道のりについてアツく語っていただきます!
 
 
お知らせ

最新作『愛の予感』

日本人監督として37年ぶりのスイス・ロカルノ国際映画祭「金豹賞」(グランプリ) の受賞を含め、4冠に輝いた小林政広監督・脚本・主演の『愛の予感』が、11月24日からポレポレ東中野ほか全国順次公開されます。審査委員長のイレーヌ.ジャコブ氏が「美学的に力強く、コンペティションに参加した19本の映画の中で最も個性的である」と称した作品をお見逃しなく!
■公式Webサイト:『愛の予感』


2005.8.1 1.安定を取るか 夢を取るか
2005.8.8 2.死ぬ前にやりたいことを
NEW! 2005.8.15 3.映画監督としての覚悟

プロフィール
 

小林 政広
(こばやし・まさひろ)
1954年東京都生まれ。'70年代初め、林ヒロシの名でフォークシンガーとして活動。'82年、『名前のない黄色い猿たち』で城戸賞受賞後、脚本家として数多のテレビドラマを手がける。42歳のときの初監督作品『CLOSING TIME』で、'97年ゆうばり国際ファンタスティック映画祭グランプリを受賞。『海賊版=BOOTLEG FILM』」('98)から3年連続カンヌ国際映画祭出品など、海外での評価が高い。今年も『バッシング』をカンヌ映画祭のコンペティション部門に出品。その他、CMの演出など、幅広く活動中。現在は新作制作に向けて爆走中。★フィルモグラフィーや詳しいプロフィールはこちら→モンキータウンプロダクション

ボクの映画渡世帳
これまでの監督の歩みや作品を作る過程、映画作りに対する熱い思いなどを赤裸々につづるブログ。読んでいるとまるで一遍のロードムービーを観ているかのような錯覚に陥る。とにかくおもしろい!「これから始まるボクの徒然草は、ボク自身を励ます意味も勿論あるが、見知らぬ誰かが、深夜に窓辺に立って、いっそのこと飛び降りようかと不埒な考えに陥ったときの、ボクにとっての、『タルコフスキー日記』であって欲しいという願いからでもある」(第1回より)

 
 
おすすめ!
 
「神楽坂映画通り」(小林政広/KSS出版)
1.『神楽坂映画通り』
小林政広監督の半自伝的小説(KSS出版)。ここに、日本映画史上初の3年連続カンヌ国際映画祭正式出品という快挙を成し遂げた監督の創作の原点がある……というと少々大げさだが、ちょっと突き放したようなたユーモラスなタッチは、監督の映画作品にも通じるもの。でも、「あの監督の自伝」という以上に「青春小説」として読みたい。

「フリック」
2.『フリック』DVD

2004年に公開された6作目。内容を一言でいえば「アル中の妄想ロードムービー」。インタビュー中、「今までのボクの映画の集大成のようなもの」と語った渾身の作品。「現場で撮影しながらシナリオを変えていった」らしく、二転三転していくストーリーは観る者に幻覚作用を引き起こすかも

「CLOSING TIME」
3.『CLOSING TIME』
パンフレット

小林監督のデビュー作のパンフレット。ファンの間ではいまだに根強い人気をもつ作品

「歩く、人」
4.『歩く、人』パンフレット
小林監督の半自伝的映画のパンフレット。緒形拳インタビューや完成台本など読み応え十分
 
 
お知らせ
 
魂の仕事人 書籍化決!2008.7.14発売 河出書房新社 定価1,470円(本体1,400円)

業界の常識を覆し、自分の信念を曲げることなく逆境から這い上がってきた者たち。「どんな苦難も、自らの力に変えることができる」。彼らの猛烈な仕事ぶりが、そのことを教えてくれる。突破口を見つけたい、全ての仕事人必読。
●河出書房新社

 
photo 魂の言葉 お金のためだけにする仕事は長く続かない お金のためだけにする仕事は長く続かない
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