キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第38回 ゴスペルアーティスト ナナ・ジェントル-その4-絶望のど…

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魂の仕事人 第38回 其の四
新教会設立に貢献するも 恩を仇で返される結果に 絶望のどん底から復活、新境地へ
19歳の冬、うつ病から復活したナナさんは、「FAFA GOSPEL HOUSE」の活動と平行して、米軍基地内の黒人教会に入会。聖歌隊の一員として毎週礼拝で歌うようになった。その縁で新プロジェクトに中心役として参画。目の前のことに全力投球することで、また新たな道が開けてきた。  
NGOゴスペル広場代表・ゴスペルアーティスト ナナ・ジェントル
 

黒人教会の聖歌隊に加入

 

米軍基地の人たちは皆任期があるので頻繁に入れ替わるのですが、ちょうど私が聖歌隊にいた時期は、プロとして活躍しているようなレベルの人が3人もいて、とてもラッキーでした。だから、ソロ、指揮の振り方、指導の仕方、すべてがとても勉強になりました。聖歌隊は20人ほどで、日本人は当時私一人だけでした。

日本国内といってもそこはアメリカ、始めは英語に苦労しました。特に黒人はしゃべり方が早いし、独特のなまりがあります。だからもう、毎週教会に行ったら牧師の話を録音して、家でわからない単語を調べたりして何回も聞き直してということを1年くらいやっていました。ついていきたいという思いで必死でしたね。でもその甲斐あって、後に礼拝の通訳を任されたときには彼らの好きな聖句の引用箇所や、ゴスペルの歌詞に出てくる独特の言い回しなど、普通の英会話では習わないものもしっかり理解できるようになっていました。

黒人教会の牧師の話は、日本人が想像するような堅いお説教とはだいぶ違います。もともと、虐げられてきた歴史を持つ彼らにとって、教会という場所は家族や近所の人たちと励ましあえるコミュニティそのもの。だから、いかに毎日の苦境を乗り越えるか、いかに将来に希望をもって生きるかということを聖書を土台に話すという感じなんですよ。そういう話がゴスペルの歌詞にも反映されているから、きっとクリスチャンではない日本人が歌っても、どこか共感できるところがあるんですよね。


黒人教会のイベントにて、ゴスペル歌手の友だちと(写真提供:ナナさん)
新教会設立に参画
 

黒人教会に通っていた当時は、日本でもゴスペル人気が高まってきていました。私たちの教会には日本人がほとんどおらず、メンバーの皆も日本のことをほとんど知りません。でもひとり、プロのゴスペル歌手としてあちこちのコンサートやゴスペル教室に呼ばれていた黒人女性は、日本のゴスペルブームをよく知っていて今の教会のあり方に疑問を抱いたんです。「日本人はこんなにゴスペルが好きで、ゴスペルを聞きたがってる人がこんなにも多いのに、どうして私たちはこんなアメリカ人だけの狭い教会でゴスペルを歌っているのかしら」と。これが新しいステップの始まりでした。

ゴスペル歌手であった彼女の夫は、牧師の資格を持っていたので、日本人にも開かれたゴスペル教会を立ち上げるために、彼らは一家で独立することを決めました。私はゴスペル教室の通訳として一年ほどその一家を手伝っていたので、既にとても親しくさせてもらっていました。そして彼らからそのビジョンを聞いたとき、とてもうれしかったんですよね。「私が黒人教会と出会って感じた感動を、この新しい教会でなら多くの人に伝えられるかもしれない!」そう思い、ぜひお手伝いをさせてくださいと申し入れました。

最初のイベントから東奔西走
 

でもそこからが大変でした。彼らはゴスペル教会と、ゴスペルワークショップやコンサートを行う団体を同時に作ったのですが、全く日本語がわからない。最初に言い出したことが、「ナナ、3カ月後に500人規模のコンサートをやるよ」。内容は、ゴスペルにはよくあるパターンで、4日間のワークショップ(練習)と最終日にその成果発表としてのコンサート(本番)。通常、ホールでのコンサートを企画した場合、最低でも半年くらいの準備期間が必要じゃないでしょうか。それがたったの3カ月。その中で日本語が話せるのは私一人です。

今考えたらかなり無茶なんですが、私も当時はあまりイベント準備の常識を知らなかったので、「もうやるっきゃない!」みたいな感じで、まずは会場探しから始めました。でも当然ながら500人が入れて、3カ月後の週末に空いてるホールなんてなきに等しい。あちこち走り回った結果、ようやく見つかったのが、ものすごく山奥にある市民会館だったんですよ。しかも平日の金曜日。とにかくこれでどうにか会場は押さえました。今だったら立ち上げ最初のイベントとしては怖くてとてもできませんね。

ゼロからWebサイト&チラシ作りに挑戦
 

次の問題はどうやって参加者を募集するかです。当然告知用のチラシもWebサイトも必要です。パソコン嫌いだった私はパソコンを仕入れるところから始めなければならないから、スタートから本当に苦労しました。そして書店に駆け込んで『ホームページを作るときに開く本2001』という本を買い、付録のCDの中に30日間まで無料で使えるお試し版のWebサイト制作ソフトを頼りに、見よう見真似で30日の期間内でWebサイトを完成させました。

チラシもちゃんとしたものを作らなければと、知人を訪ねてフォトショップとイラストレーターというソフトを教えてもらいました。何とかデータができたら次は印刷。相場も何もわかりません。タウンページ片手に印刷会社に片っ端から電話をかけて、一番安い印刷所にお願いしました。小さな家族経営の会社だったのですが、持って行ったデータの仕上がりレベルや、必死な顔で駆け込んできた私の姿を見て憐れんでくださったのか、家に上げてくれて入稿データの作り方を丁寧に教えてくれました。そのメモは今でも大事に持っていて、時々参考にしています。

宣伝の仕方もすべて手探り。ある夜はチラシを車に積んで牧師と二人でホールの近くの駅まで行き、電柱にチラシを貼り逃げしてまわりました(笑)。もう思いつくことはすべてやったという感じです。

苦労が実り、大成功
 

結果はというと、山奥で開かれる平日の夜のワークショップに、なんと133人もの参加者が集まるという大盛況。ただ、参加者の対応も、ホールとの打ち合わせも、何もかもすべて私ひとりでやらなければならなかったので大忙しです。

更に大変だったのはコンサート当日。何しろスタッフがいません。私はステージでの通訳、ワークショップ参加者の取りまとめ、更に歌や指揮でも何曲か出演、と何役もかけもっており、とても受付に立っていられません。もう、観に来てくれた友人のチケットを切るやいなや、「ごめん! ここで30分チケット切っててくれない!?」と、もぎりまで客にやらせる始末(笑)。

それでも参加者の感想はとても良く、自分の中では大成功のイベントとなりました。牧師一家や私は「ゴスペルを広めたい」という使命感に燃えていて、その一体感が成功につながったんですよね。これが私にとって、ちゃんと形にできた最初のイベントでした。

“日本で通えるアメリカの大学”に入学
 

教会立ち上げと時期を同じくして、大学入学を目指すことにしました。教会の業務で社会人と接する機会が増えるようになってから、敬語の使い方や人との接し方、ビジネス文書の書き方などが全くわかっていない自分の幼さを痛感するようになったからです。そのとき私は20歳。高卒じゃダメだ、というのが私なりの結論でした。

希望条件は「センター入試が不要」、「英語力が磨ける」、「パートタイムで通える」、「休学制度がある」。選んだのは麻布十番にある米国フィラデルフィア州立テンプル大学の日本校でした。

入試にはアメリカの大学に留学するのと全く同じく、TOEFLという英語の試験が必要です。TOEFL専門の予備校に資料請求をしましたが、授業料が高くとても払う気になれない。仕方がないので参考書を何冊も買い込み、独学で取ろうと決めました。思い立ってから試験日まで約3カ月、試験がコンサートの前月だったので、まさに準備の真っ最中ですね。もう意地ですよ。午前勉強、午後から寝るまでゴスペル。この強行作戦で合格スコアを取れたことは、「やればできる」という大きな自信になりました。

この大学は、授業が全部英語で、教授やテキストもアメリカの大学そのものでした。経済学やマーケティングのようなビジネス関連の授業の他に、黒人の文化や歴史といった日本にはない授業も当然充実しており、これが私にとって大変役立ちました

短期間で目標達成
 

教会は数カ月後にはゴスペルスクールも始め、100人規模にまで一気に成長しました。教会も「日本初の本格ゴスペル教会」ということで度々メディアに取り上げてもらえるようになり、目標通りにゴスペル好きの日本人が大勢集う場になりました。

私はとにかく一生懸命動きました。取材対応も、イベント出演のコーディネートも、Webサイトやチラシ制作も、配布物すべての翻訳も、礼拝の同時通訳も、平日の夜に行われた聖書勉強会やゴスペルスクールの通訳も、夢中でこなしました。仕事として雇われていたわけでもないのにほぼフルタイムくらいの時間を費やしていましたね。黒人教会という憧れの世界で、自分も役割をもてたことが喜びだったんですね。

そして一家は私のことを家族の一員として受け入れてくれていました。クリスマスや新年も彼らの家で迎えました。「ナナは私たちにとって、一番信頼できる“日本との架け橋”だ。日本人のことをたくさん教えてくれ」というのが牧師の口癖でした。だからこそ私は、看板に日本語訳が書いてあるだけのような場ではなく、しっかり日本人に受け入れられる教会を作ることを本気で目指していたんです。

大学に通いながらたったひとりで懸命に教会の業務もこなしていたナナさん。設立当初は牧師一家の信頼も厚く、忙しくも充実した日々を送っていたが、それも長くは続かなかった。

価値観の違いで次第に溝が……
 

教会の活動は、日本人メンバーが増えてくるとなかなか一筋縄でいかないところが出てきました。アメリカ人メンバーはほぼ全員、小さい頃から同じようなゴスペル教会で育った人たち。一方の日本人メンバーは、ほとんどがキリスト教会という場所に初めて足を踏み入れたという人たちです。

一口にキリスト教会といっても、教会や宗派によって様々な違いがあります。その中でも彼らの教会はかなり厳格なところだったと思います。タバコもお酒も一切ダメ。教会には必ず毎週通う。もっと言うと、ゴスペル以外の音楽CDをすべて捨てろなんて言われた日もありました。こうなってくると、ただ「生のゴスペルを聴きたい」という気持ちだけではとても通えませんよね。次第に日本人メンバーとアメリカ人リーダー達の間に溝が生じ始めてしまいました。

日本語と英語の両方を一番理解できていたのは私ですから、当然仲介を試みます。牧師への言い方はいろいろ考えましたが、どれも全く通用しません。何しろ牧師はアメリカ人、ディベートには強いんです。それに彼らはアメリカというひとつの国で、ひとつのスタイルの教会の中で育っていますから、そもそも文化の摩擦がどういうものかということが、どう言葉で説明したって理解できないんですね。加えて彼らにとって教会とは「神様のお告げに従ってやっているもの」であり、彼らのような厳格なクリスチャンを増やすことが目的でしたから、私の意見など全く聞く耳を持ってもらえません。「日本人として見たゴスペルの魅力を、もっと日本で伝えたい」という私の気持ちは、始めから彼らの意図と食い違っていたんですね。

あらぬ誤解で反逆者に
傷つき、泣きながらも意地で耐えた
 

陰でそんな平行線の言い争いが続いているうちに、教会を去る日本人メンバーが目立ってきました。それに気付いたリーダーたちがまずしたことは、私を一切の通訳から降ろすことでした。彼らは私が教会の悪口を言って日本人メンバーを去らせたのだと思い込んだんです。日本語ができない彼らは、私が日本人メンバーと話をしていても何を言っているのかわかりません。いくらでも疑うことができます。それ以来、二度と私は前には立たせてもらえませんでした。

そのときから私は「反逆者」というレッテルを貼られてしまいました。毎週のように牧師のオフィスに呼び出され、リーダーたちがずらりと並ぶ前で、牧師から「ナナは以前は従順だったのに、変わってしまった。そんな人間を神様はもう目に留めない」なんてことを平気で言われました。それが何カ月も続きました。人格を否定されるようなひどいこともたくさん言われましたが、私は引きませんでした。辞めようとも思いませんでした。

もちろんかなりのショックでしたよ、あの「ナナを信頼している、日本のことを私たちに教えてくれ」という言葉は何だったのか。彼らの前では決して泣きませんが、家に帰って部屋で嗚咽を漏らすほど泣きじゃくりました。泣くことにも疲れるほど。でも、私という通訳を信頼してくれて通い始めたメンバーがいます。だから簡単には教会を抜けようとは思えませんでした。でも今考えれば、さっさと出ればよかった。当時は狭い世界しか知らないし、その数年間は自分のすべてを教会につぎ込んできたから、自分から出ることが逃げることのように思えたんです。無理に意地を張って通い続けていましたね。

まさかの除名。心身ともにボロボロに
 

それから月日が経つにつれ次第に教会へ行くと震えが止まらなくなり、牧師の顔を見ると自分の感情を殺すようになりました。言い返すどころか、聞く体力すらも既になくなっていました。何を言われてももう何も感じない、そうすることが自分を守る唯一の方法だったんです。衝突が始まってから約1年が経ち、最終的に私は追い出される形で教会から籍を抜くことになりました。このやりとりは、私以外のメンバーは誰も知らないと思います。その後、教会の歴史に私の名前や写真は一切出てきません。

この一件が終わったときには、私は精神的に疲れ果てていました。1年で10年分くらい老けましたよ。鏡を見ても驚くほどおばあさんみたいな表情になっていましたから。人に絶望し、ゴスペルにも疲れきっていた。知らぬ間にうつ病が再発していて、また起き上がれない日々が続きました。もう何も考えたくない。誰とも話したくない。腕に傷をつけたりもしましたね。死ぬ気は全くなかったのでほんの軽くですが、感情のはけ口がどこにもなかったんですよね。ここまで深く傷ついたことは後にも先にもありません。

FAFAと友達のおかげで立ち直る
 

何とか動けるようになった後は、「普通の生活がしたい」って思いました。こんな経験はもう二度とごめんだ、普通に大学に行き、普通に仕事に就きたいんだと。休学していた大学を再開し、ファッション誌を見たりしながら初めて流行のメイクをしたり、ミニスカートやブーツを買って、女子大生の友達を作り始めました。それまで大学にはほとんど友達がいませんでしたから、23歳にして初めて大学生らしい大学生活をしました。人生のやり直しですね。

FAFA GOSPEL HOUSE(※2)の活動も続けていました。ゴスペルを教えることに対する複雑な気持ちもありましたが、当時FAFAは、私にとって唯一心を開ける仲間だったんです。本当にFAFAがあったことが救いでした。

ひどい対人恐怖症に陥っていた私を変えてくれたのは、こうした日本人の友達でした。電話での他愛もない会話に何時間もつきあってくれたり、用もないのに会って一緒に時間を過ごしてくれたり。そんな当たり前のことがすべて新鮮で、感動で、「人」に対する信頼を取り戻させてくれました。ありがたかったですね。

※2 FAFA GOSPEL HOUSE──ナナさんが20歳のときに立ち上げた、現在の活動の基礎となるゴスペルサークル。詳しくはインタビュー其の三を参照

ようやく普通の女子大生の生活を取り戻したナナさんは、さらに夜間のスクールにも通い始めた。そして大学卒業を控え、いよいよ将来のことを考えてひとつの決断をする。

会議通訳者を目指す
 

大学卒業が近づき、就職について考える時期になりました。私が当時目指していたのは、会議通訳者でした。教会を去って以来、せっかく身につけた通訳スキルをもっと伸ばしたいと通訳養成スクールにも通い始めていました。将来的に音楽活動も続けたいという思いがあったので、フリーの通訳になれれば時間的にも経済的にも余裕のある生活ができるだろうと思ったんです。

しかし、もちろん現実はそんなに甘くありません。大学受験でTOEFLを勉強した以来の英語勉強漬けの生活をしましたが、企業に勤めたことが全くない私は、英語力が多少あっても話の中身がわからない。まずは一度企業に就職するしかないと、合同就活フェアなどに足を運ぶようになりました。

その中で気になった大手商社の会社説明会に行きましたが、短大卒の資格では応募すらさせてもらえませんでした。最後まで居残ってその場で一番地位の高そうな人に直訴しましたが、それでもだめ。今までゴスペルのイベント運営やスクールスタッフとしてそれなりに経験を積んできたのに、大卒の資格がないだけで、22歳の何の社会経験もない学生より下に扱われる。どうしても納得がいかずに、他の可能性を探すことにしました。

思いついたのは、インターンシップとしていくつかの企業で働いて経験を積み、中途採用枠を狙うという策でした。そうと決まれば早速、インターネットでインターンシップの情報をかき集めました。

外資系IT企業に就職
 

あれでもないこれでもないと探しながら、数百件目でようやく目に留まったのが「外資金融IT」の文字。理由は、通訳スクールで一番わけがわからなかったのが金融とITだったからなんです。

ビジネス通訳を勉強していたので、今まで新聞すらまともに読んだことのなかった私が英字のビジネス誌を毎週読み、どうにか一番上のクラスまで進級できました。ところが上級クラスともなると周りは皆現役でビジネス通訳や翻訳をやっている人たちばかり。全く歯が立ちませんでした。中でも、どんなに頑張っても理解できなかったのがITと金融の分野で、これはもう、それ系の会社に入って勉強するしかないなと思っていたところでした。まさか二つともくっついているところがあるとは(笑)。

思い切って応募したはいいけれど、面接ではさあどうしよう。金融もITもさっぱりわからない。できることといえば簡単な英語の翻訳と、ゴスペル教会の活動で独学で覚えたWebサイト制作やチラシ制作くらい。だから正直に言いました。「金融もITも全くの初心者ですが、それらを勉強したくて応募しました。私には英語とチラシ作りとWebサイト作りしかできません、それでもよければ何でもやります。金融とITも頑張って勉強していきます」って。

そう熱意を伝えると、驚くことに面接官は、「いやいや、今ちょうどIT関係のスタッフしかいなくて、製品のパンフレットや日本支社のWebサイトを作れる人間がいないところだったんだ、ちょうどいい」と、即マーケティング担当のインターンとして採用してくれて2月から働き始めました。さらに大学を卒業と同時に4月からそのまま正社員になれたんですよ。

卒業式にて。大学には4年間通ったが、黒人教会やFAFAの活動で休学も多く、パートタイムで通っていたので、AAという短大卒相当の単位分で卒業した(写真提供:ナナさん)

後から知った話では、その会社はそれまでインターンどころか新卒すら採ったことがありませんでした。中途採用の応募条件を見ると、なんと「大卒で金融かITを専攻していること」。私は例外中の例外だったわけです。こういうことってあるんですね。道なきところにも頑張れば道は開かれるというか。しかもゴスペルのために覚えたチラシ制作やWeb制作技術が、何一つ無駄になっていない。「神様、まだ私を見離していませんでしたね」と心の中で何度も叫びました。

持ち前のガッツと行動力で、学歴というハンデを乗り越え就職できたナナさん。いよいよ会社員生活がスタートしたが、ほどなくジレンマを抱えるようになる。

くすぶっていたゴスペルへの思い
 

入社した会社はアメリカに本社を置く小さな日本支社で、7〜8人くらいのファミリーみたいな仲のいい職場でした。最初の一年はゼロからのスタートなので、ビジネスマナーからIT、金融について吸収しようと張り切って本を買い込みました。業務もお茶出しからプレゼンの翻訳まで、すべてが新しい経験だから新鮮で、最初のうちは楽しんでやっていました。

でもそれも長くは続きませんでした。就職してからもFAFAの活動を続けるつもりでいましたが、やっぱり正社員となると思うように時間が取れません。フルタイムで働くのってどうしてこんなに時間がなくなるんだろうと、半年を過ぎた頃からジレンマを感じ始めるようになったんです。

さらに、入社2年目になったころには、ある程度まで金融やITのことがわかるようになってきたところでひとつの壁にぶつかりました。先輩の仕事ぶりを見ながら、これ以上を目指すには、よっぽど金融やITが好きという気持ちがないとできないと痛感するようになったんです。難解な金融やITの分野で通訳できるレベルまで成長したいのなら、もっともっと勉強する時間を割かないと現役の通訳の人たちに到底かなわない。でも私にはそこまで没頭できる覚悟ができていなかった。心のどこかで、ゴスペルへの思いがまだくすぶっていたんです。

入社して初めてわかったゴスペルの素晴らしさ
 

それに、会社に勤めたことで、ゴスペルの世界の中にいただけではわからないたくさんのことに気が付きました。ひとつは、ゴスペルの話をするとみんなその宗教性を抜きに「楽しそう」とか「気持ち良さそう」といういい印象を持ってくれていたということ。そして会社で一日中パソコンに向かっていると、大きい声を出す機会など滅多になく、ゴスペルのような大勢で歌える場は心底ストレス発散になるということ。さらに、職場では「神様がどうにかしてくれる」なんて発想は誰ももってないので、つい思いつめてピリピリしまって、教会では当たり前の「神様に任せよう」「大丈夫、もっといい日がくる」という台詞がどれだけ励ましになるかということ。これらは私自身が一会社員として働いていて、すごく感じましたね。「ああ歌いたい」、って(笑)。

背中を押してくれた同僚
 

外資系会社員時代のナナさん。ここで夫となるニュージーランド人、ジェントルさんと出会った(写真提供:ナナさん)

当時の一番の相談相手は、同い年のニュージーランド人・ジェントル(後の夫)でした。社内に同い年が彼しかいなかったので、いつも一緒にランチを食べていました。日本人のような大企業指向のない彼は、たまたま勤めた大手外資証券会社が合わずに、その肩書きを捨ててちっぽけなこの会社に来た人です。

「私、やっぱりゴスペルが好きなんだよね」と言うと、彼はすかさず「じゃあそれをビジネスにして自分の仕事にしたら」と言いました。「ナナならできるよ」と何度も背中を押してくれました。ベンチャー経営の本をたくさん貸してくれて、それを読みながら私の心が新しい方向に動いていきました。

今度もしゴスペルで挑戦するなら、人の和を大事にしたいな。そして、通ってくる一人ひとりの気持ちを尊重したい。歌うみんなが明るくあたたかい気持ちになれるような活動がしたい。

まだプランとも呼べない様々な思いが、次から次へと浮かんできました。私だからこそできるゴスペルの活動がきっとある、そう信じよう、と自分に言い聞かせるようになっていったんです。

 

社会に出ることで改めてゴスペルの素晴らしさを再確認すると同時に、恋人の後押しで次第にゴスペルを仕事にすることを考えるようになった。そしてあるきっかけでついに決断を下す──。

次回は「NGOゴスペル広場」誕生の経緯とパワーアップした国際協力活動について熱く語っていただきます。乞う、ご期待!


 
第1回2009.2.16リリース 新しい国際協力の形を作った ゴスペルの若きカリスマ
第2回2009.2.23リリース 高校生でゴスペル講師に 18歳で念願のアフリカへ
第3回2009.3.2リリース 国際協力への目覚め 運命を変えた黒人教会
第4回2009.3.9リリース 新教会設立に尽力も除名 絶望からの再出発
第5回2009.3.16リリース NGOゴスペル広場設立 サニーサイドゴスペルクラブ開設
第6回2009.3.23リリース 経営者としての重圧 仕事は生き甲斐

プロフィール

ナナ・ジェントル

NGOゴスペル広場代表、ゴスペルスクエア代表、ゴスペルアーティスト及び講師。
1981年10月神奈川県生まれ。10代の頃から歌手を目指し、中学時代からプロの音楽家に師事。15歳でゴスペルと出会い、高校在学中にゴスペル講師としての活動を始める。高校卒業後、アフリカ・トーゴで1ヶ月間のボランティアを体験。帰国後、トーゴ支援のプロジェクトを起こすが、あえなく挫折。19歳のとき米軍基地の黒人教会の聖歌隊に加入し、本場のゴスペルの歌、指揮などの指導を受けると同時に、フリーのゴスペル歌手としても活躍。また翌年には黒人夫妻のもとで日本初の本格的ゴスペル教会の立ち上げに参画。

ゴスペル教会のスタッフ、黒人によるゴスペルスクールの運営、大学生活と平行し、2002年にゴスペルサークル「FAFA GOSPEL HOUSE」を結成。ゴスペルを通じて途上国支援を行う団体として、その会費やイベントで得た収益の中から5年間に渡り200万円以上を国際協力NGOに寄付。2005年には神奈川県の公立高校で日本初のゴスペル授業を行い、好評を得る。

2006年には外資系IT企業のマーケティング部に就職。1年半後に退職し、「ゴスペルで国際協力」を事業として行うためにNGOゴスペル広場を設立。2008年5月に活動第1弾の「チャリティー・ゴスペル・マラソン」を代々木で開催。そのときの収益金80万円でスリランカに職業訓練センターを同年10月にオープンした。

2008年6月にはゴスペル教室「ゴスペルスクエア」を設立。会費、イベント収益金の一部をラオスの子どもたちの奨学金として寄付。2009年2月にはゴスペルスクエアから派生したサークル「サニーサイドゴスペルクラブ」が三重県と横浜にオープン。「ゴスペルで国際協力」の輪はますます広がっている。

【関連リンク】

 
お知らせ
 

第一回GOSPEL FOR PEACE
2009年4月11日(土)開催の誰でも気軽にゴスペルを「聴いて」「歌って」楽しめる3時間のチャリティゴスペルフェスティバル。

 
 
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