キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第38回 ゴスペルアーティスト ナナ・ジェントル-その3-アフリカ…

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魂の仕事人 第38回 其の三
アフリカでの生活で芽生えた 国際協力活動への興味 挫折を乗り越え目標を達成
18歳の夏、西アフリカ・トーゴの村に約1カ月滞在したナナさん。長年憧れていたアフリカの文化や生活を思う存分堪能でき、満足感に浸りつつ帰国した。その一方、実際に現地の状況を目の当たりにすることによって、新たな問題意識が芽生えてきた。現在のナナさんのもうひとつの活動の柱「国際協力」への目覚めの瞬間だった。  
NGOゴスペル広場代表・ゴスペルアーティスト ナナ・ジェントル
 

国際協力への目覚め

 

そもそものアフリカ行きの動機は、アフリカの人びとと交流して生活や文化を知りたいというのがメインで、当時は国際協力や開発にあまり興味はなかったのですが、実際に行ってみてその必要性を実感しました。訪れた村は、電気、ガス、水道などの生活のインフラが全く整っていないし、井戸すらないので現地の人は沼の泥水を飲んでましたからね。

それに、ショッキングだったのは都市部ですら生活の糧を得るための仕事そのものがないという話でした。友達になったトーゴ人が言うには、まずアルバイトがない。日本の場合はいくら不景気だとかフリーターは問題だとか言われても、時給800円の求人すら全く見つからないなんてことはないですよね。未経験OKのアルバイトもたくさんあるじゃないですか。そういう求人を出しているのは大企業が大半ですが、アフリカのトーゴのような途上国は、これといった自国の産業が発展しておらず、外資系企業もあまり入ってきていないので、お金が必要でも簡単に手の届く仕事がないんです。

その友人の父親は公務員だったのですが、独裁政権のために公務員の給料が全部ストップしてしまい、一家の収入が全く途絶えてしまったと話していました。日本では考えられませんが、これはアフリカの国にはよくあることです。学校教師の給与も支払われていないから、先生が学校へ来ない、だから学校が機能しない。そのため、その友人はもう20歳なのにまだ高校すら卒業できていませんでした。中卒で就ける仕事もなく、自動車整備などの専門学校に通うお金もなく、親戚中を頼って食いつなぐか、隣のガーナとの物価の差を利用して衣服などを国境をまたいで売り歩くとか、その場しのぎの金稼ぎしかできない、と。

そういう話を聞いたときに、なんてこの世界は不公平なんだろうと思ったんですよ。彼らにとっては例えば1万円を稼ぐのはものすごく大変なことなんですよね。一方で日本で平均的に大学を卒業して就職している人にとっては、今お財布から一万円が消えたところで、すぐに食うに困るということはないはずです。日本人として普通に生活しているということだけで、一人ひとりが「あってもなくても困らない程度のお金」を出し合えば、なにも大きな犠牲を払わなくたって大きな助けになれる。そう感じたことが今の私の活動の原点ですね。

目の前の友人と自分がこれだけ境遇が違う、それも本人は何も悪くないのにただ生まれた場所が違うというだけで。その現実を目の当たりにしたときに、「何か自分のできることをしなければ」という気持ちになったんです。

最初のボランティア活動は挫折
 

帰国後、トーゴで知り合ったNGO団体と相談し合い、奨学金プロジェクトを作ることになりました。ワープロで原稿を打ち写真を切り貼りしたチラシを作って、一口1万円でトーゴの子どもたちのために寄付してくださいといろんな人に頼んで回りました。でも結果は全然ダメ。友だちは義理で出してくれたりしましたが、赤の他人には全く振り向いてもらえません。今考えたら当たり前ですよね。19歳の小娘が思いつきでやったって、実績もない、ノウハウもない、バックアップもない。そんなもの誰も信用してくれるわけがないんです。結局2万円くらいしか集まらず、申し訳ないと思いながら送金しましたよ。でも当時は、「この人たちはお金を持ってるくせにどうして少しでも出してくれないんだろう」って怒りすら感じましたね。

もうひとつ、チャリティーコンサート企画も手がけた時期がありました。学生有志の11名からなる実行委員を率いて、何の予備知識もなく1000人規模のホールを押さえてしまったのですが、一向に企画がまとまらず、宣伝もうまくできずにチケットが売れない。実行委員たちの気持ちもどんどん冷めていきました。明らかにリーダーである私の力不足だったんです。ちょうどそのとき9.11の同時テロが起き、出演を頼んでいた横田基地の黒人歌手が基地から全く出られなくなってしまいました。これを理由にして、土壇場でコンサート自体の中止を決断。既にチケットを買ってくれた方々に謝罪し、ホールに頭を下げに行きました。気持ちだけが先走ってしまい、結局何もできていない。自分の無力さを痛感しましたね。

ボランティア活動の一方で、高校在学中に始めた社会人相手のゴスペル講師の仕事も帰国した翌月の9月から再開。そこで、ナナさんの人生そのものを大きく変える転機が訪れた。

ゴスペル講師の仕事、CDデビュー決定
でも声が出ない
 

何度かゴスペルイベントを手伝った横浜の牧師夫妻が、9月からゴスペルグループというかたちで定期的な練習会を開くことになり、私が講師を務めることになりました。金曜の午前と夜、そして土曜の午後という3クラス。片道2時間の場所だったので毎週泊り込みでした。メンバーは当時約40名、中学生から80代のご婦人まで様々な人たちが集まり、家族のような和気あいあいのグループになりました。私のことを実の娘のように思って接してくれた夫妻には、本当にお世話になりました。このグループではイベント出演の機会も頻繁にありました。その度に皆で一致団結し、普通の人たちが力を合わせてステージで歌って輝く。ゴスペルを教えることの楽しさは、ここで教わりましたね。

ところがその頃、商売道具である肝心な私の声が次第にかれていくという事態が起きたんです。声を出しても喉に引っかかったようなしゃがれた声しか出ない。いくら休めても、喉に良いと言われることをしても、一向に治らない。教えていてもメンバーの方がよっぽどいい声でうまく歌えていました。

そしてその時期はちょうど、歌手の夢への第一歩であったインディーズデビューが決まって念願のレコーディングを進めている真っ只中でもありました。でもこれが何度録音し直しても声がかれてしまい「また次回」と延び延びに。声がかれていちゃ練習もできません。プロデューサーに呆れられてしまうのではないか、CDデビューの話がなくなってしまうのではないか、ゴスペルの先生のくせにメンバーから歌が下手だと思われているのではないか……焦りと不安の気持ちだけが大きくなっていく毎日でした。

黒人教会の聖歌隊に加入
 

冬が近づくにつれイベントの本格的なリハーサルが始まり、そこである黒人女性ゴスペル歌手と知り合いました。彼女は東京にある米軍基地の中に住んでいて、黒人教会のメンバーであるということでした。ゴスペルの本場といえば、アメリカの黒人教会の聖歌隊。そんな場所が日本にもあるということを初めて知りました。「日本人でも入れるのだろうか」「聖歌隊の練習を見学したいと頼んでも怒られないだろうか」と考えながら彼女のことを見つめていると、彼女も何かを感じたのか、リハーサル後に私のところへ来てこう言ったんです。「ナナ、あなたは来月から私の教会の聖歌隊で歌うことになっているわ」と。なんて唐突なオファー。これが神様からのインスピレーションだったのか、彼女のご好意だったのかはわかりませんが、いずれにしてもこの導きが私の後の運命を変えることになりました。


黒人教会の聖歌隊の仲間たちと(写真提供:ナナさん)

黒人一家に連れられて、緊張しながら本場のゴスペル教会に足を踏み入れました。今までCDや映画でしか知らなかった世界です。でも実際のゴスペルは、CDのような「見せ物」としての音楽ではありませんでした。そこに集まった100人くらいの老若男女の人たちが、今か今かと礼拝が始まるのを待っている。時間になると一人が前に立ち何か言ったかと思えば勢いよくドラム、ベース、キーボードが鳴り始め、一斉に100人が歌い始める。心が震えましたね。みんな、誰も隣の人に見られているとか、自分の声がどう聞こえているとかなんて全く気にせずに、全身全霊で歌っていました。「神様ありがとう」「苦しみの後には祝福が待っている」「今日という日は神様がくれた新しい始まり」——周りを見渡すと、誰しもがそれぞれの意味を込めて歌詞の一語一語を噛み締め、まるで自分の内から出た台詞のように天に向かって堂々と大声で歌っているんです。正に魂の歌ですよね。歌のうまい・へたや声の良し悪しは関係なく、自分がその歌を歌うことで「神との対話」をする。手を挙げたり、踊ったり、涙を流したりしながら。そこでまた次の一週間へのエネルギーを得て、家へ帰っていく。彼らの生活にとってこの時間は生活の一部なんですね。

牧師の話とゴスペル歌手の歌声で
生まれ変わった
 

私が黒人教会に初めて連れられていった日、ちょうどアメリカから来ていたゲストスピーカーの牧師が話をしました。題材は、聖書に出てくる「ハンナ」という女性の話。ハンナは長いこと子供が身ごもれなかったために、周りの人々から蔑まれていました。思いつめてある日神殿へ行き、「神様、私はこんな者ですが、もしあなたが子供を授けてくださったら、それは私のものではなくあなたがくださったものですから、その子の一生をあなたに捧げます」という悲痛な祈りをしたそうです。その後ハンナは身ごもり、男の子を産みました。そして約束どおり、生まれた息子を神殿に預け、その息子は有名な聖職者として活躍していくという話です。牧師はこの話を元にしてこう呼びかけました。「皆さん、本来は自分のものではないのに、自分のもののように思っているものはありませんか。あなたの中に、ハンナのように神様に帰するべきものはありませんか」──。

そしてこの礼拝の中で、聖歌隊のリーダーの女性がソロを歌う場面がありました。「神様、木が育つように、鳥が鳴くように、嵐が轟くように、私はこのひと息ひと息と、人生の一歩一歩をもって、あなたを賛美する楽器になりたい」という内容の歌でした。全身から湧き出るような力強い声で、美しく浪々とこの言葉を歌い上げる姿。喉の調子が悪く思うように歌えない日々が続いていた私は、その歌声を聴きながら泣き崩れてしまいました。

その瞬間、「私は何より歌うことが好きだ」という思いが込み上げてきたんです。先ほどの牧師の話、私にとってそれは「声」だったんですよね。歌手になって有名になり周りからちやほやされたいというような不純な動機で、自分の声を使ってきたのではないか、と自分に問いました。それに加えて自分の声が細いとか、もっとうまく歌いたいのにへただとか、不満ばかりを抱いていたんです。でも一度喉の調子を崩したことで、声が自分のものではなく、神様からいただいた授かり物なんだというこということにようやく気付きました。だってどんなに頑張っても、自分の力で治せなかったんですからね。

歌える声がある、ということがどんなにありがたいことか。それに比べたら、歌手デビューをするとか、大きいコンサートホールで歌うとか、そんなことはもうどうでもいいと。私は周りに目もくれずに泣きじゃくりながら、心の中で必死にこう祈ったんです。「神様、私は歌いたい。私にもう一度歌うための声をくださったら、それはもう自分のものではないと思って、あなたのためにゴスペルを歌っていきます」と。

その数日後、本当に治ったんですよ、声が。この話を他の人が信じるかどうかわかりませんが、私にとっては神様がしてくださったまさに神業でした。それから8年経った今でも「声は授かり物」という思いは決して忘れていません。毎朝毎晩、感謝の気持ちで祈ります。神様ありがとうございます。今、歌っていられること、こういう活動をさせてもらえていることをありがとうございますと。だからゴスペル以外の仕事、例えばナイトクラブで場を盛り上げるために歌うとか、そういう依頼は一切受けないんですよ。ゴスペルという歌を通じて人を励ましたり力づけたりすることが、神様が私にくださったライフワークなんだと思っています。

でも、その一旦捨てたと思った夢が、いつの間にか別の形で現実になっていますよね。大きいステージで、大勢の観客の前でゴスペルを歌っていますから。それもひとりぼっちじゃなく、大勢の仲間と一緒に。私の指揮やソロに応えて何十人、ときには100人を超える仲間がそれぞれに気持ちをぶつけて満面の笑みで歌ってくれる。それを真剣に聴き、涙まで流してくれる観衆がいる。ほんとに最高ですね。神様は私の夢を別の形で叶えてくださったんだなとすごく思いますね。

黒人教会との出会いという転機を経て、横浜でのゴスペルグループ指導にも一層熱が入るようになった。しかしプレッシャーは予想以上に大きく、力尽きてしまったばかりか、戻る場所も失ってしまう。しかしこの挫折が新たな道を開かせた。

講師の仕事は燃え尽きて倒れる
 

高校生時代から講師を務めていた横浜のゴスペルグループには、年末は多くのコンサート依頼が舞い込み、月に何度もステージに上がります。生徒は半数以上が年上。客席にももちろん大人の方々の顔が並びます。きっちりこなそうと頑張っていたのが過度のプレッシャーを自分に与えてしまっていたようで、日に日に身体がだるくなっていきました。所詮私は高校を出たばかりの19歳。それまで社会人とまともに話をしたことすらないんです。最初の指導から約1年という間、気付かないうちに相当の無理が溜まっていたんですよね。段々と、起きることすらつらくなっていきました。それでも無理して身体を動かし、笑顔を振りまいてステージに立ちました。そしてとうとう12月23日、黒人ゲストも呼んでいる一番大事なクリスマスコンサートの前日に、身体に全く力が入らなくなってベッドから起き上がれなくなってしまいました。医師の診断は、うつ病。一種の燃え尽き症候群のような状態です。当然本番も出られず、ゴスペルグループの皆さんには非常に迷惑をかけてしまいました。

それからはほぼ寝たきり状態です。しかし母は優しく受け止めてくれ、自分のことはそっちのけで看病してくれました。その甲斐あって、幸い長引かずに済み数カ月後には外に出られるようにまで回復しました。

ひとり国際協力、開始
 

数カ月後、ある程度体力が戻ってきたので横浜のゴスペルグループへ戻ろうと電話をかけると、牧師夫妻は「ここにはもう戻ってこなくていいよ。ナナちゃんには大きな可能性があるから、自分の足で新しい道へ行ってみたら?」とおっしゃいました。このときには「どうして戻れないの?」という気持ちも正直ありましたが、今は夫妻のこのご判断に本当に感謝しています。

戻る場所がなくなったことで、この先のことについていろいろと考えました。中途半端になったままのトーゴへの奨学金プロジェクト、ただの募金ではちっとも集まらない、どうすればいいのか。そしてゴスペルに関しては、もともと曲をアレンジしたり作曲したりすることは高校生のときから大好きだったので、いつか自分の音楽表現を存分にできる自分の活動を持ちたいという思いもありました。考えているうちに、「ゴスペルワークショップを開いて受講費をいただき、それをトーゴの奨学金として使えばいいんじゃないか」というひとつのアイディアを思いつきました。現在の活動はここから始まったんです。早速、近所の公民館へ行き2回分の予約を入れ、手書きのチラシを作りました。思い立ったら即行動、という性格はうつ病後もまだ健在だったんですね(笑)。

そうしたらタイミングがいいことに、たまたま地元のカルチャーセンターでゴスペル講座を持っていた知人が、私がワークショップをやろうとしている月に講座をやめるというので、そこの生徒をたくさん紹介してくれたんです。最初はとりあえず2回だけやってみる、というつもりが、人が集まったお陰でその後も続けられることに決まりました。1回参加した人が友だちを連れてきてくれたりして、順調に常連の参加者が増えていきました。

受講費は2時間1000円としたので、10人集まれば1万円、20人で2万円。初めて「情け」ではなくいただけたお金です。うれしかったですね。3万円くらいになったところで、トーゴのNGOへ送金しました。

現在の活動の基礎「FAFA GOSPEL HOUSE」誕生
 

半年が経ち参加者もお互い打ち解けてきたところで、単発のワークショップではなくゴスペルグループとして活動しようという話になって、「FAFA GOSPEL HOUSE」(ファファ・ゴスペル・ハウス)と命名しました。「FAFA」はトーゴの部族の言葉で「平和」という意味です。世界に平和を、そしてゴスペルを歌うことで一人ひとりの心に平和を、この場所がゴスペルを歌うための「家」のような存在になれたらいい、という思いを込めてつけました。ちなみに現在の活動の「サニーサイド・ゴスペル・クラブ」に心得という四か条(※1)がありますが、これはもともと「FAFA GOSPEL HOUSEの家訓」だったんです。

※1 心得という四か条──一、過ぎたことは忘れるべし。一、明日のことは神に任せるべし。一、我を忘れてゴスペルを歌うべし。一、明るい気持ちで家に帰るべし

FAFA の活動はどんどん大きくなり、40人ほどのグループになりました。メンバーの中心は20〜30代で、職業は学生、会社員、主婦、看護師、保育士、美容師など様々です。週1回の練習で月会費は3500円。会費は国際協力に使うと同時に、活動資金としても積み立てて、そこからCDを自主制作したり、ホールを借りてコンサートを開いたりしました。

依頼を受けて歌いに行く機会も多く、行く先は音楽コンサート、地域のお祭り、国際交流イベント、病院、老人ホーム、障害者福祉施設、学校など多岐にわたりました。行く度に違う感動が待っている、それが楽しかったですね。こっちもみんな普通の人ですから、まず自分たちの歌を聴いて喜んでくれる人がいる、というだけでうれしい。さらに感想のメールが来るとか、違うイベントにも呼んでもらえるとか、CDが1枚でも売れるとか、ちょっとしたことがうれしくてみんなではしゃぐんです。歌うことを純粋な気持で楽しめる仲間ですよね。

中にはつらい出来事をきっかけにして参加したメンバーもいます。例えば仕事がなくなったとか、離婚をしたとか。気を紛らわせようと出会ったのがFAFAのゴスペルだったと。そしてゴスペルを通して前向きになれたよ、一歩踏み出す勇気をもらえたよ、と言ってもらえることが最大のやりがいでしたね。


2007年、FAFA5周年記念ライブにて。指揮を執っているのがナナさん。前列右から3人目の女性は、現在NGOゴスペル広場でナナさんの右腕として働くスタッフの望月寛子さん(写真提供:ナナさん)

思い出深いイベントもたくさんありますよ。例えばFAFAのメンバーの中に看護師がいましたが、彼女の勤める病院で、ロビーに出てこられない入院患者のためにクリスマスイブに全病棟を回るというコンサートをしました。イブだというのに多くのメンバーが参加してくれました。階段を下りてエレベーターホールに整列すると寝たきりの患者さんがベッドのまま運ばれて観に来てくれる。歌い終わって次のフロアへ降りると今度は点滴をつないだおばあちゃんたちがたくさん集まってくる、次は精神科、次はリハビリ科。私たちもつい涙がこらえきれなくなり、考えさせられることの多いコンサートになりました。後日看護師のメンバーから、あのコンサートの後でもう何日も言葉を発していなかった患者さんが隣の人とコンサートがよかったねと話をしていたとか、ほとんどごはんを食べなくなっていた患者さんが元気が出て食べるようになったという様々なドラマがあったことを聞きました。胸が熱くなりましたね。

国際協力の方針転換で
さらに推進力アップ
 

国際協力の方は、ゴスペルの活動に夢中になってくると手が回らなくなり、途中から方針を変えました。当初のトーゴ奨学金プロジェクトでは、トーゴの都市部にある提携NGOのスタッフが直接農村部の村まで奨学金や学用品を届けるのですが、それはNGOスタッフにとってもかなりの負担なわけです。彼自身だって貧しい。だからなかなか動いてくれないんですよ。1回目はどうにか報告書を出すまでこぎつけたのですが、それ以上プロジェクトを進めるノウハウや時間が私にはなく、そこで終わりにしました。

代わりに、日本国内に拠点を置く他の国際協力団体へ寄付をするということを始めました。何も国際協力のプロジェクトの実務まで自分で全部抱えまなくてもいいんじゃないかと思い直したんです。既に素晴らしい活動をしている団体は日本にいくらでもある。そうした団体だってプロジェクトの遂行には資金が必要です。じゃあ私はゴスペルを教えて資金を集めることを自分の役割として、そこから先は他の団体に任せようと。

それ以来、ゴスペルと国際協力の両輪がうまく噛みあって無理なく前に進むようになりました。月々の会費から日本民際交流センターを通じてラオスに奨学金を送ったり、プランジャパンを通じてトーゴにフォスターチャイルドを持ったり。また自主制作CDの収益金の12万円は日本紛争予防センターを通じて地雷撤去活動に。活動6年目には、ネパールの孤児院が自立運営ができるよう牛舎と乳製品加工設備を購入するという、150万円規模のプロジェクトにまるまる資金提供できるまでになりました。FAFA GOSPEL HOUSEは本当に私にとって、音楽的にも国際協力面でもやりたいことに思いっきり挑戦できる夢実現機構のような場になりましたね。この活動は私が19歳から25歳までの間、ゴスペルスクエアが始まる直前まで続きました。


2007年、FAFA5周年記念ライブにて(写真提供:ナナさん)
 

ナナさんは19歳の冬、うつ病から復活した後、「FAFA GOSPEL HOUSE」の活動と平行して、米軍基地内の黒人教会で聖歌隊の一員として毎週礼拝で歌うようになった。その縁で参画したあるプロジェクトを成功に導くも、逆に人格を全否定されてしまうような仕打ちを受けてしまう──。

次回は22歳で味わった人間不信になるほどの絶望とどん底からの復活劇を語っていただきます。乞う、ご期待!


 
第1回2009.2.16リリース 新しい国際協力の形を作った ゴスペルの若きカリスマ
第2回2009.2.23リリース 高校生でゴスペル講師に 18歳で念願のアフリカへ
第3回2009.3.2リリース 国際協力への目覚め 運命を変えた黒人教会
第4回2009.3.9リリース 新教会設立に尽力も除名 残された唯一の希望FAFA
第5回2009.3.16リリース NGOゴスペル広場設立 サニーサイドゴスペルクラブ開設
第6回2009.3.23リリース 経営者としての重圧 仕事は生き甲斐

プロフィール

ナナ・ジェントル

NGOゴスペル広場代表、ゴスペルスクエア代表、ゴスペルアーティスト及び講師。
1981年10月神奈川県生まれ。10代の頃から歌手を目指し、中学時代からプロの音楽家に師事。15歳でゴスペルと出会い、高校在学中にゴスペル講師としての活動を始める。高校卒業後、アフリカ・トーゴで1ヶ月間のボランティアを体験。帰国後、トーゴ支援のプロジェクトを起こすが、あえなく挫折。19歳のとき米軍基地の黒人教会の聖歌隊に加入し、本場のゴスペルの歌、指揮などの指導を受けると同時に、フリーのゴスペル歌手としても活躍。また翌年には黒人夫妻のもとで日本初の本格的ゴスペル教会の立ち上げに参画。

ゴスペル教会のスタッフ、黒人によるゴスペルスクールの運営、大学生活と平行し、2002年にゴスペルサークル「FAFA GOSPEL HOUSE」を結成。ゴスペルを通じて途上国支援を行う団体として、その会費やイベントで得た収益の中から5年間に渡り200万円以上を国際協力NGOに寄付。2005年には神奈川県の公立高校で日本初のゴスペル授業を行い、好評を得る。

2006年には外資系IT企業のマーケティング部に就職。1年半後に退職し、「ゴスペルで国際協力」を事業として行うためにNGOゴスペル広場を設立。2008年5月に活動第1弾の「チャリティー・ゴスペル・マラソン」を代々木で開催。そのときの収益金80万円でスリランカに職業訓練センターを同年10月にオープンした。

2008年6月にはゴスペル教室「ゴスペルスクエア」を設立。会費、イベント収益金の一部をラオスの子どもたちの奨学金として寄付。2009年2月にはゴスペルスクエアから派生したサークル「サニーサイドゴスペルクラブ」が三重県と横浜にオープン。「ゴスペルで国際協力」の輪はますます広がっている。

【関連リンク】

 
お知らせ
 

第一回GOSPEL FOR PEACE
2009年4月11日(土)開催の誰でも気軽にゴスペルを「聴いて」「歌って」楽しめる3時間のチャリティゴスペルフェスティバル。

 
 
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