キャリア&転職研究室|魂の仕事人|第38回 ゴスペルアーティスト ナナ・ジェントル-その2-高校生で…

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魂の仕事人 第38回 其の二
高校生でゴスペル講師に 18歳で念願のアフリカへ 10代で現在の基礎を築く
中学3年生のときに観た映画の影響で、高校では合唱部でゴスペルを存分に楽しんだナナさん。その一方でアフリカに強い興味をもち、その大地に立つことを夢見た。後の国際協力活動の原点がそこにあった。  
NGOゴスペル広場代表・ゴスペルアーティスト ナナ・ジェントル
 

高1でアフリカにハマる

 

高校生のときに、ゴスペルと同じくらいものすごく魅了されたものがありました。それはアフリカです。きっかけは高1の夏休みにたまたま行った図書館でした。それまでほとんど読書をしたことがなかったのですが、夏休みは図書館で宿題、という単純なイメージから、私もちょっと行ってみようかなと地元の図書館に初めて足を運んでみたんです。そうしたら、当たり前ですが、あまりの本の種類の多さに、本って小説だけじゃないんだと驚きました(笑)。だから夏休みの宿題はひとまず忘れて、いろいろと書棚を見て回りました。その中でたまたまバックパッカーによるアフリカ旅行記が目に付いて、何となく手にとって読んでみたらすごくおもしろかったんですよ。アフリカのローカルな部族の集団に入っていった話などがわかりやすい言葉で書かれてあって、一気に読んでしまいました。

それまでは日本の社会しか知らなくて、子どもは6歳から18歳まで一日中、学校という建物に閉じ込められるのが当たり前、という認識があったので、本に書かれていたアフリカの世界観はとても新鮮でした。ひとつの村で子どもが生まれると、そのコミュニティの人間関係の中で必要な教えを受けて育ち、家族のために労働をして、やがてそのコミュニティの中で死んでいく。そういった素朴な一生に、今まで自分が知らなかった人間の原点や、人間らしさを感じたというのが大きいと思うんですよね。

それ以来アフリカと名の付く本を読み漁り、アフリカの歴史や文化を勉強するようになりました。高3のときには社会科の先生に、1コマあげるからアフリカに関して講義してくれと言われ、プリントを作って90分生徒の前で講義したんですよ。アフリカの古代史から話したのですが、先生も聞きにきてくれました。アフリカにもアフリカ人が作ってきた文化・文明があるのですが、植民地化される前のアフリカって先生もきっと学ぶ機会がなかったのではないでしょうか。

「アフリカに行きたい」という思いが、初めて本を読んだ高1のときから込み上げてきて、毎日のように親に言い続けていました。でも私は一人娘でまともに家を離れたことがなかったので、母も心配して「まだ早いんじゃない」と。だからまずは少しずつ旅の経験を重ねようと、青春18きっぷで北は北海道から西は広島くらいまでいろいろ友達と回りました。高3になりたての春には海外への一人旅をしようと、まず一番安全そうなオーストラリアに2週間行きました。ホームステイの語学留学プログラムに申し込んだのですが、それだけじゃつまらない、旅人の視点からもオーストラリアを見てみたいと思ってユースホステルにも泊まりました。アフリカ行きへのいい予行練習になりましたね。

高2で壁にぶつかる
 

入りたかった高校に入学でき、ゴスペルやアフリカに熱中していましたが、精神的には非常に落ち込んだ時期もあったんです。そもそも私は勝気で我が強く、「周りなんて関係ない。我が道を行く」的な性格だったんですね。子どもの頃から将来歌手になるという夢もあるし、成績も良かったので、天狗になってた部分もあって。その簡単に人を見下してしまうような性格のせいで、中学時代にいじめを受けたこともありました。だけど中学ってクラスや班で行動するので多少性格悪くても友達はできるんですよね。

だから何とか友達との人間関係も築けていたのですが、うちの高校はクラス制ではなくて大学のような単位制なので、自由がきく分にはいいのですが、反面、自分から積極的に人と一緒にいようと思わないと、全く人と接することなく一日が終わってしまうんです。

朝は本を読みながら教室へ向かい、授業の合間も本を読みながら次の教室へ移り、授業が終わればさっと学校を出て家で歌の練習か英語の勉強。朝学校へ行って、夜帰宅するまで誰ともひとことも言葉を交わしてないという日も珍しくありませんでした。親に「もっと遊んだら」と注意されるくらいですから、相当ですよね(笑)

そんな風に、中学時代のようなテスト勉強に追われる生活ではなく好きに時間を使えるという環境が、最初のうちは楽しくてたまりませんでした。ところが、時が経つにつれ徐々に精神的におかしくなっていきました。歌っても楽しくない。本を開いても集中できない。一言で言えば、虚しいというか。いつの間にか、「毎日が憂鬱」「常にむしゃくしゃする」という危険な状態に陥っていきました。ピークは高2の冬頃です。

そして、環境を変えればすべてうまくいくという幼稚な発想から、まずアフリカ留学を目指しました。留学情報を必死で探し、唯一南アフリカの交換留学制度を見つけたので即申し込んで、合格。有頂天になって周りに「私は南アフリカに留学するの!」って言いまくってた矢先に、その話がなくなってしまいました。理由を聞くと、南アフリカから日本に留学を希望する人がいなくて交換留学にならないから実現不可だと。もうすごいショックで。でも既にその気になってしまっていたから、もうアメリカでもいいから留学したいと、今度はアメリカへの留学準備を進めました。ところがこちらもいろいろ問題が生じて結局留学は実現しませんでした。

世紀の大発見で世界が変わった
 

そのときにすごく考えましたね。もうここにいるしかない。人生のうちで高校生活はあと1年しかないのに、まだちっとも「女子高生」を楽しめていない。私はどうすればいいのか、と。考えて考えて、ようやく大事なことに気がついたんです。私はアフリカの「人と人との強いつながり」という文化に憧れているくせに、自分は身近にいる人たちに対して全然心を開いていない、人とつながりを築く努力をしていない、と。留学したいとか、この高校が単位制だから友達ができないんだという気持ちが、「逃げ」だったということを、自分で認めました。

ある日友達に「ナナちゃんの口から出る言葉って、この社会のあり方とか近代化の行方とかそんな硬い話ばっかりだけど、よくそんなことばっかり考えてられるね。あたしなんか友達に何を言われたとか、彼氏とどこ行こうとか、そんなことで頭がいっぱいだよ」と言われました。本当にその通りでした。私の心の中には誰もいなかった。誰かを思う、という当然の感情を全く忘れてしまっていたんです。そのことが私にとっては、世紀の大発見だったんですよ! 「あ、これだ! このままじゃいけない!」と。それを発見したらもうやるしかないと思って、一応仲良し友達は何人もいたので、早速そういう友達を放課後寄り道に誘い、「今日、これこれこういうわけでこういうことに気付きましたから、今後とも一層よろしくお願いします」って頭を下げて回ったんです(笑)。

そうやって、周りの友達に心を開いて自分から接するようにし始めてから、見える世界ががらっと変わりました。親友もでき、後輩にも慕われて、高3の一年間は思い切りエンジョイできました。まさしく高校生活に花が咲いたという感じでしたね。

この経験から、ひとつ悟りましたね。自分が変われば、同じ環境でもこんなに世界が変わるんだと。それは私にとってはすごい学びでしたね。

転機は聖書との出会い
 

そういう経緯で「やっぱり人生とは愛だな」なんてしみじみ思ってた矢先に、たまたま日本人のクリスチャンに出会い教会に行ったんです。高校に上がってからは忙しくなってぱったり行かなくなってたのですが、元々中学のときに日曜学校に通っていて、聖書の話もある程度知ってたので、教会に行くことには抵抗はありませんでした。

その教会は聖書のスタディの内容もすごく充実していたので、初めて真剣に聖書を勉強してみようという気になって読んでみました。すると、聖書に書かれている、弱き者に対して親切にしましょうとか、常日頃からへりくだって感謝を示しましょうとか、隣人を自分のように愛しましょうといった言葉の根源にあるものが、ちょうどそのときの自分の心境と重なり、すんなり自分の心に染み入りました。それから毎週教会通いを始め、高3の冬にクリスチャンの洗礼を受けたんです。

振り返れば、このときの聖書との出会いが新たな人生のスタートだったような気がします。今の自分の考え方、スタンス、生き方、国際協力という活動はゴスペルに支えられているというか、ゴスペルによって私自身が生かされていると感じていますが、そのゴスペルのバックボーンにあるのが聖書。他人に宗教の信仰を押し付ける気は毛頭ありませんが、聖書は教養の書としても世界中に読まれている書物ですし、誰にでも学べるところがたくさんあるのではと思います。「神様がついていてくれる」「試練も困難も必ずプラスになるように取り計らってくださる」、この気持ちをなくして、今の自分の歩みはありえませんね。

アフリカに熱中しつつ、ゴスペルの方も、練習、ライブ開催等、精力的に活動していた。高校生活最後のライブで、人生を変える運命的な出会いがあった。

高校生でゴスペル講師に
 

高3のときに開催した合唱部のクリスマスゴスペルライブには、大勢の生徒や父兄が見に来てくださいました。その前で指揮をしたりソロで歌ったりして、ライブは大成功でした。


荒川牧師夫妻(中央:ご主人・右端:奥様)の元、18歳でゴスペル講師デビューした頃のナナさん(左端)(写真提供:ナナさん。以下インタビューカットはすべて同)

そのライブ終了後、横浜で教会を運営している荒川さんという牧師夫妻が声をかけてくださいました。1月に黒人のゴスペル歌手をゲストに招いてコンサートを開催する予定なのだけど、ただ黒人歌手の歌を聞くだけじゃなくて、日本人の参加者も募集して、一緒にステージで歌わせたいと。そのためには参加者にゴスペルを教えないといけないのだけど、そこで講師役をやってもらえないかという依頼をいただいたんです。もちろん引き受けました。それで高校卒業直前の18歳で初めて社会人にゴスペルを教えることになったんです。これが私のゴスペル講師デビューです。

大学に行く気は全くなかった
 

受験勉強は大丈夫だったのか? いや、その頃……というか、高校入学以来、大学受験は全く頭にありませんでした。だから大学受験に必要な科目はほとんど取っておらず、英語も数学も国語もⅠまでしか取ってなかったので、センター試験なんて最初から受けられなかったんですよね。

せっかく特殊な高校に入ったのだから、受験用の勉強よりもその高校ならではの特殊な授業を満喫したいという思いが強かった。だからフランス語、演劇、ダンス、民俗学、言語学といった変わった授業ばかりを選択していました。

校風自体が「レールに乗るなんてかっこ悪い」といった感じだったので、あまり大学受験を意識させられたことがないんですよ。いかに人と違った個性的な生き方をするかが大事、みたいな(笑)。当然周りの友達も個性的で、普通に大学受験した人はあまりいないんですよ。演劇や音楽、留学などみんなそれぞれの道に進みました。私なんて友達の個性に押されて陰が薄い方だったと思っています(笑)。だから「とりあえず大学に行っとかないと」という発想はまずありませんでした。それで不安もありませんでしたね。

親も私の決断に反対しませんでした。「大学なんて今行かなくても、行きたくなったら行けばいいしね」なんて言ってくれましたし(笑)。

徳島のユースホステルへ
 

ただ、進路についてはすごく悩みました。歌が好きだから歌手を目指すか、アフリカが好きだから国際協力NGOに就職してアフリカに派遣されるか。悩んだといっても、その二つを行ったり来たり。10代の頃なんて、そんな単純な構図しか浮かばない。でも決心のつかないうちに、荒川牧師夫妻にゴスペルを教えるという仕事をもらえたことで、最終的には道は自然と開けていきましたけどね。

卒業式間近の3月。荒川夫妻のゴスペルクラスまで数カ月あったので、夢のアフリカ行きの予行練習として、今度は東京から遠く離れた自然の豊かな場所で暮らしてみようと思いました。ユースホステル新聞の求人欄を開き、東京から最も遠いユースホステルから順番に雇ってくださいと電話をかけたところ、徳島県のユースホステルに採用が決まりました。すぐ行きますって返事して卒業から2週間後には徳島へ。海と山に囲まれたユースホステルで、1カ月の住み込み生活が始まりました。

そのユースホステルは、午前中だけベッドメイキングや洗濯などの仕事を終わらせたら、その後は泊まっている旅人と話しててもいいし、どこかへ出かけてもいいという自由なところでした。そのおかげで世界中から集まってくるいろんなバックパッカーたちと話ができて視野を広げることができたので、すごく有意義でした。

それまでそれほど長期間家を離れたことはなく、実家でぬくぬくと暮らしていたんですが、ユースでは自分の身の回りの世話はもちろん宿泊客の分まで掃除、洗濯、ベッドメイキングなどをやらなければなりません。それを1カ月もやれば自分もひとりで海外に行く自信がつくし、親も認めてくれるだろうと。

5月になって家に戻り、親に「そろそろアフリカに行ってもいいかな?」と聞いたら、ようやくOKがでたんです。それはうれしかったですよ。3年越しの夢が叶ってアフリカに行けることになったんですから。国内旅行から海外留学、長期滞在と着々と実績を積み重ねてきた甲斐がありました(笑)。


ユースホステル時代のナナさん。ユースホステルの目の前に海が広がっており、空き時間にシーカヤック等を楽しめた
18歳の夏に念願のアフリカへ
 

アフリカ行きのそもそもの目的は、ボランティアや国際協力ではありませんでした。私が好きなのはあくまでアフリカの文化だったので、むしろ、それを壊すような近代化のための開発やボランティアは好きじゃなかった。だから日本人グループで井戸を掘りに行くとかいったものではなくて、とにかくアフリカの村に滞在してアフリカの文化や生活を直に味わえるプログラムがいいなと思っていました。

そんな感じで探して参加したのは、現地のNGOが主催するインターナショナルワークキャンプというものです。日本ではNICEというNPO法人が窓口になっています。様々な国から集まった参加者と現地の若者が、2〜3週間生活を共にしながらボランティアワークをするというプログラム。私は、西アフリカのトーゴの村に3週間滞在する植林プログラムを選択し、2000年の7月にトーゴに向けて出発しました。

日本ではなくトーゴのNGOが企画してるプログラムなので現地集合なんですよ(笑)。直行便がないので2日かけて現地にたどり着きました。ワークキャンプのメンバーは計15人いました。内訳は、トーゴ人が10人、フランス人2人、アメリカ人、ドイツ人が1人ずつに、私。唯一のアジア人です。18歳から参加できるプログラムなので当然私が最年少でした。この、大多数がトーゴ人だったことがよかったですね。その方がよりアフリカを理解できますから。言葉の問題は、高校時代にアフリカに行きたいがためにフランス語と英語の授業を取っていたので、何とかなりました。


トーゴのボランティア・ワークキャンプの参加メンバーたちと(前列左から3人目がナナさん)(クリックで拡大)

とうとう念願のアフリカの大地に降り立ったナナさん。この地での3週間の経験が後の国際協力活動の原点となった。

すべてが感動だったアフリカ
 

滞在したトーゴの村(クリックで拡大)

街の事務所で集合し、マイクロバスで移動して夜に村へ到着。翌朝初めて村の光景を目にした瞬間、言葉にならない感動が身体に走りました。ずっと本で読んできて、部屋中に写真を貼って毎日眺めていたその光景が、今目の前に広がっているんですから!

滞在した村は日本では考えられないくらいの田舎でした。赤土の上に、小さな小屋のような家が8つほど集まった小さな集落。トイレは穴が掘っているだけ。決して衛生的とはいえませんが。

トイレの穴は草むらの中の細い道の先に掘ってあって、木に足を乗っけてするんです。もちろんドアなんてないので、してる最中に人が来たら見られちゃう。幸い、私がしてるときは別の人は来ませんでしたが、その逆はありましたよ。行ってみたら、「あ、ごめん!」って(笑)かなりスリリングなトイレでした。


穴を掘っただけのトイレ(クリックで拡大)

お風呂は、村の真ん中に木や枝で囲われた半径1メートルくらいのスペースがあるだけなんです。もちろんドアもなく、入り口の間隔が1メートルくらいなので、バスタオルを掛けておかないと丸見えなんですよね。掛けてても見えるんですが(笑)。

水道はもちろん井戸さえもない村だったので、近くの沼から汲んできたバケツ1杯分の水と1枚のタオルで全身を洗わなければなりません。タオルの一方の端だけ濡らして泡立てて洗って、すすぎは別の端でやって、乾いた部分で拭いて。髪もどうにか洗いました。創意工夫しましたね(笑)。


木の枝で囲ってあるだけのお風呂(クリックで拡大)

カルチャーショックというかむしろ「アフリカに来た!」という感じで、そういう生活は全然大丈夫でした。でも私は所詮3週間しかその場所に滞在しない人間なので興味本位で楽しめますが、ここで一生を暮らす人の水事情、食糧事情、教育事情は本当にひどいものでした。あまりの水の汚さに耐えられなくなって途中で帰ってしまったドイツ人メンバーもいたほどです。しかし、その過酷さを肌で感じることができた貴重な体験でもありました。


現地にて(クリックで拡大)
アフリカでの毎日
 

毎日の生活は、午前中に村の裏の空き地、荒地を耕して苗を植えたら、午後は自由時間でした。仲間と隣村に遊びに行ったり、文化や宗教について議論したりしていました。


サトウキビ畑にて(クリックで拡大)

食事は全部自炊でした。10人のトーゴ人が中心になってメニューを決めて、みんなで協力して作って食べました。スパイシーなシチューなどがおいしかったですね。

食後は歌と踊りの時間が始まります。みんな疲れてても、トーゴ人が叩く太鼓のリズムに合わせて、1〜2時間くらい延々と大声で歌ったり、踊ったりしてました。

村で一番心に残っているのは子供たちと遊んだことですかね。とにかく子供たちがとってもかわいくて。メンバー同士のフランス語の会話についていけない分、私が一番子供たちと仲良くなって、ココナッツでサッカーしたりして遊んでいました。お風呂のときも、身体を洗ってる最中に、入口にかけてあった目隠し用のバスタオルが風で飛んでっちゃうことがよくあったのですが、子供たちが大はしゃぎしながら追っかけて持ってきてくれたり(笑)。

それから、同世代のアフリカ人メンバーたちと友達になれたこともよい経験でした。彼らは本当によく歌い、踊り、しゃべり、賑やかで優しい人たちでした。最終日、私は朝から涙が止まらなくて、食事の時間も歌の時間も泣きっぱなし。「どこか痛いの?」「どうしたの? 大丈夫?」とみんな気遣ってくれましたが、「別れるのが悲しいんだよ」と言うと、「そんなことで簡単に泣いちゃダメだ。」と言われました。彼らは厳しい生活環境の中で、親族や知人との死別も決して珍しいことではない、その「泣いちゃダメ」という言葉に、彼らの苦労や強さも垣間見た気がしました。



子供たちと(クリックで拡大)
 

3年越しの夢を叶え、アフリカを満喫し、帰国の途についたナナさん。同時に現地の状況を肌で感じたことにより、彼女の中で何かが変わっていった──。

次回は国際協力への目覚め、そして人生を大きく変えた事件を語っていただきます。乞う、ご期待!


 
第1回2009.2.16リリース 新しい国際協力の形を作った ゴスペルの若きカリスマ
第2回2009.2.23リリース 高校生でゴスペル講師に 18歳で念願のアフリカへ
第3回2009.3.2リリース 国際協力への目覚め 運命を変えた黒人教会
第4回2009.3.9リリース 新教会設立に尽力も除名 残された唯一の希望FAFA
第5回2009.3.16リリース NGOゴスペル広場設立 サニーサイドゴスペルクラブ開設
第6回2009.3.23リリース 経営者としての重圧 仕事は生き甲斐

プロフィール

ナナ・ジェントル

NGOゴスペル広場代表、ゴスペルスクエア代表、ゴスペルアーティスト及び講師。
1981年10月神奈川県生まれ。10代の頃から歌手を目指し、中学時代からプロの音楽家に師事。15歳でゴスペルと出会い、高校在学中にゴスペル講師としての活動を始める。高校卒業後、アフリカ・トーゴで1ヶ月間のボランティアを体験。帰国後、トーゴ支援のプロジェクトを起こすが、あえなく挫折。19歳のとき米軍基地の黒人教会の聖歌隊に加入し、本場のゴスペルの歌、指揮などの指導を受けると同時に、フリーのゴスペル歌手としても活躍。また翌年には黒人夫妻のもとで日本初の本格的ゴスペル教会の立ち上げに参画。

ゴスペル教会のスタッフ、黒人によるゴスペルスクールの運営、大学生活と平行し、2002年にゴスペルサークル「FAFA GOSPEL HOUSE」を結成。ゴスペルを通じて途上国支援を行う団体として、その会費やイベントで得た収益の中から5年間に渡り200万円以上を国際協力NGOに寄付。2005年には神奈川県の公立高校で日本初のゴスペル授業を行い、好評を得る。

2006年には外資系IT企業のマーケティング部に就職。1年半後に退職し、「ゴスペルで国際協力」を事業として行うためにNGOゴスペル広場を設立。2008年5月に活動第1弾の「チャリティー・ゴスペル・マラソン」を代々木で開催。そのときの収益金80万円でスリランカに職業訓練センターを同年10月にオープンした。

2008年6月にはゴスペル教室「ゴスペルスクエア」を設立。会費、イベント収益金の一部をラオスの子どもたちの奨学金として寄付。2009年2月にはゴスペルスクエアから派生したサークル「サニーサイドゴスペルクラブ」が三重県と横浜にオープン。「ゴスペルで国際協力」の輪はますます広がっている。

【関連リンク】

 
お知らせ
 

第一回GOSPEL FOR PEACE
2009年4月11日(土)開催の誰でも気軽にゴスペルを「聴いて」「歌って」楽しめる3時間のチャリティゴスペルフェスティバル。

 
 
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魂の言葉 魂の言葉 心を開いたとたん、見える世界が変わった 心を開いたとたん、見える世界が変わった
 
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